霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央に位置する役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
霜神社(Shimo shrine)
[通称名(Common name)]
・霜ノ宮(しものみや)
・霜ノ神(しものかみ)
【鎮座地 (Location) 】
熊本県阿蘇市役犬原9
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天神七柱(あまつかみななはしら)or〈天の七星=北斗七星〉
霜神である とも 鬼八天であるともされます
神楽殿の掲示には
神殿に二躰の神像あり
《主》大御中主命(あめのみなかぬしのみこと)(宇宙根元の神)
高皇産霊命(たかみむすびのみこと)(宇宙創造根元の神)
《配》国狭槌命(くにさづちのみこと) 山の神
岡象女命(みずはのめのみこと) 水の神
軻遇突智命(かぐつちのみこと) 火の神
旬旬逎馳命(くぐのちのみこと) 木の神
金山彦命(かなやまひこのみこと) 金山の神
速秋津日命(はやあきつひめのみこと) 水分の神
垣山姫命(かきやまひめのみこと) 山の神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・阿蘇神社の境外摂社
【創 建 (Beginning of history)】
霜宮(しもみや)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)によって切り落とされた「鬼八」の首を暖めるために行われる「火焚神事」が有名。地域から10才前後の「火焚き乙女」が選ばれ、59日間「火焚き所」にこもって火を焚き続ける。
この神事は阿蘇の農耕祭事の中の一つで、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。火焚き所のそばにある御手洗神社
霜宮から歩いてしばらくした所に御手洗社(みたらいしゃ)がある。お宮の脇に水が湧いていたのでそこに火焚き所が作られた。
御手洗社は目の神様で、そばの湧き水で目を洗うと目の病が治ると言われており、昔から有名なお宮である。
鬼八(きはち)と火焚(ひた)き神事(しんじ)
むかしむかし、阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわたつのみこと)という神様が家来の鬼八(きはち)法師を連れて的石に向かって弓の練習をしていた。放った矢を鬼八が取りに行くのだが、99本目まで命に捧げた鬼八は疲れ果て100本目の矢を足で投げ返した。怒った命は鬼八の首を切り落としてしまった。天に昇った鬼八は、以後阿蘇に霜の害をもたらすようになったので、命は鬼八の霊を鎮める為に役犬原に霜宮をつくったという。
平成20年度ASO田園空間博物館サテライト支援事業
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
阿蘇の中心地 大字役犬原の地に、元の村社で 阿蘇神社の摂社である霜神社の御いわれは、遠く紀元前2500数年前 御本社 阿蘇神社の御祭神である、たけいわたつのみことがお始めになり、国土経営の大業成りて、民人に生活の道を教え五穀をうえしめられる。
ここに於いて土地開け民人育つ。されど寒霜早く降りて五穀みのらず大神これをうれえて霜の神をまつり、火たきの神事を起こして祈誓をなし、たまひしに霊感忽ちいたりて、風・雨・霜・雪よろしきを得、五穀ゆたかにみのり、民人の生活安定するにいたれり。
これ霜の宮の起源にして2500有余年の間大神のおきてを守りて今日に至る。
今や終戦後の人心混乱も次第におちつき百事反省の期に入り、民族宗教であり、祖先教である日本国の敬神崇祖の道こそは 又 民主主義生活の生命である。真心こそは凡てをつらぬく永久不滅の真理であり、子孫繁昌の本である。農は国の本なり大神のおきてに従い全国でただ一つの火たき神事に氏子の真心を結集し、五穀の豊穣と民生の安定を祈願致します。
◎8月13日しめ卸し行事~火焚神事の始まりとして御本尊以下火焚殿、神楽等しめを張り清祓をする。
◎8月19日乙女入神事~御本社に鎮まります御祭神を御神輿に移して火焚殿に御遷座の上、火打石にて鑽出したる斎火を以て60日間夜昼たやしなく燃やし続ける。又五穀豊穣を祈念して随時、臨時の祭典も行われる。
◎9月15日ぬくめ綿入れの祭~此の日、神職以下奉仕者は潔斎して、精選せる真綿を捧げ、御神体に覆いてあたため、時候温暖にして五穀の豊穣を祈る。
◎10月16日乙女揚神事~60日間焚続けし火をおさめ、御神体は御本殿に御還幸となる。乙女も此の日自宅に帰る神事。
◎10月18日夜度祭~終夜阿蘇古代神楽を神楽殿に於いて奏し神恩報謝と五穀豊穣、無病息災を祈願する。
◎10月19日例祭~年1度の例大祭で宮司以下神職斎戒の上奉仕する。神恩に感謝し天下泰平、氏子の安泰を祈る。
◎10月29日満願日~霜延祈願の満願の日で神職、乙女、氏子代表者一同拝殿に進みて御祭りを奉仕、祈願を解く、いわゆる満願の日である。
此の年間の行事は自来子々孫々に至る今日まで怠る事なく続けられて来た事は、歴史上明かな処であります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・火炊殿(ひたきでん)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
霜神社は 阿蘇神社の境外摂社です
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)
阿蘇神社(あそじんじゃ)は 社伝によれば 第7代 孝霊天皇九年(西暦前280年)健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)〈初代 阿蘇国造〉が 阿蘇宮を創建と傳う 神職家の阿蘇大宮司家は連綿として九十一代現宮司に至る日本屈指の名家です
阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
神社の伝承による 火焚き神事の始まり
創建は 今から2500年程前と伝わります
健磐龍命(たけいわたつのみこと)〈初代 神武天皇の孫〉によって切り落とされた「鬼八(きはち)」の首の祟り〈農作物に霜を降らせる〉を鎮める為に 阿蘇の中央に位置する役犬原(やくいんばる)に 霜宮を創建し その霊を祀り 御神体を綿に包んだのが 霜神社の始まりで
その御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
鬼八(きはち)は 健磐龍命(たけいわたつのみこと)に追われた時 高森〈阿蘇郡高森町〉に逃げ到ると岩を穿ち 天へ昇ったともされています
阿蘇とは少し違う 高千穂に伝わる 鬼八(きはち)の伝承
その高森の東南方向には 宮崎県高千穂がありますが
宮崎県高千穂町の高千穂神社には 鬼八伝説に由来する「霜よけの神事”猪々掛祭(ししかけまつり)”」が今でも続けられています
・高千穂神社(高千穂町三田井字神殿)
高千穂神社(たかちほじんじゃ)は 垂仁天皇の御世 創建と伝わり 高智保皇神(たかちほのすめかみ)として 六国史『続日本後記』『三代実録』に記述がある国史見在社ともされます 天慶年問(938~947年)豊後国の豪族 大神惟基の子・政次が 高知尾(高千穂)氏を興し 十社大明神を高千穂18郷(高千穂八十八社)の総社として崇め 広く郷民の信仰を集めたといいます
高千穂神社(高千穂町三田井字神殿)
鬼八伝説に由来する 高千穂神社「霜よけの神事”猪々掛祭(ししかけまつり)”」
鬼八を退治するのは 初代神武天皇の皇兄 三毛入野命(みけいりののみこと)です
高千穂 鬼八(きはち)の伝承 は 次のようなものです
昔 神様たちが住まわれていた頃
高千穂の二神山の巌谷(いわや)に 鬼八(きはち)という悪い鬼が棲んでいた
里を荒らして 里人は苦しんでいた 山を下りて 鬼ヶ岩に住み付いて 鵜目姫(うのめひめ)を無理矢理に妻にしていた
鬼八が乱暴にしていた高千穂に 三毛入野命(みけいりののみこと)が戻って来た
ある日 三毛入野命が五ヶ瀬川の辺を歩いていると 水面(みなも)に憂いた鵜目姫(うのめひめ)の姿が写っていた
「どうなされた」と尋ねると「鬼八というものに無理矢理に連れられてと 悲しんでおります」と泣いておられた
「それはおつらいですね」
三毛入野命は 鬼八を成敗しようと 数多の家来を連れて攻めると 鬼八の足は速く 山を谷を越えて逃げたが 二神山の巌谷(いわや)に戻ろうとして 遂に倒されたしかし 鬼八は強い霊力があり 亡骸を埋めても 一夜で蘇(よみがえ)った
そこで 三毛入野命は 鬼八の身体を三つに切り分けて 別々に亡骸を埋めたところ 鬼八は蘇(よみがえ)らなかったその場所は「首塚」「胴塚」「手足塚」と云う 今も高千穂にある
しかし その後 里には早霜(はやしも)が降り 作物が育たない
里人は「鬼八の祟り」と恐れ 慰霊祭りをすると 霜が降りるのが 遅くなり作物は良く育つようになった
これが高千穂神社の猪々掛祭(ししかけまつり)となった三毛入野命(みけいりののみこと)に助けられた 鵜目姫(うのめひめ)は 命の妃となり 8柱の御子が生まれた
これが 高千穂の十社大明神〈三毛入野命(みけぬのみこと)と妃神 鵜目姫(うのめひめ)命と八柱の御子神〉です
八柱の御子神は〈・御子太郎(みこたろう)命、二郎(じろう)命、三郎(さぶろう)命、畝見(うねみ)命、照野(てるの)命、大戸(おおと)命、霊社(れいしゃ)命、浅良部(あさらべ)命)〉
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
吉備津神社(岡山市北区吉備津)〈備中國一之宮〉鬼が唸る鳴釜神事について
吉備津神社〈備中國一之宮〉には 阿蘇にまつわる鬼の伝承があります
・吉備津神社(岡山市北区吉備津)
吉備津神社(きびつじんじゃ)は 社伝によれば 第十六代 仁徳天皇が吉備国に行幸された時 ゛大吉備津彦命〈第七代 孝霊天皇の皇子〉゛(第十代 崇神天皇の御代に吉備国に下られ 鬼の温羅(うら)を平らげた)を祭神として御創建になられたと云う 後に延喜式では 名神大社に列し やがて最高位の一品の位になり 一品吉備津宮ともいう
吉備津神社(岡山市北区吉備津)〈備中国一之宮〉
吉備津神社の祭神は 吉備津彦命(きびつひこのみこと)です
『日本書紀』崇神天皇十年九月の条に 四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)として 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けら派遣された四将軍のうちの1人として 西道〈山陽道〉へ派遣されたとされます
吉備津神社の伝承では
吉備津彦命は 西道〈山陽道〉の吉備国で 異国から住み着いたとされる鬼神の「温羅(うら)」を退治しました「温羅(うら)」の首を埋めたが 温羅の首から うなり声がやむことがなかった
これを鎮めた神事として 鳴釜神事という特殊神事があります
この神事の起源はご祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社の御竈殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。
命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、
『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの竈殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん』
とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり、現在も随時ご奉仕しております。
御竈殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。“鬼の城”の麓に阿曽の郷があり、代々この阿曽の郷の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、御竈殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました。
この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます。
吉備津神社HPより
https://www.kibitujinja.com/about/narukama.php
つまり 吉備津彦命の夢に温羅(うら)が現れて 妻の阿曽媛(阿曽郷の祝の娘)に釜殿の神饌を炊かせなさい 幸あれば釜が鳴り 災いある時は鳴らないと告げた 以後 御釜殿に奉仕する巫女は 阿曽郷の女性が選ばれて 阿曽女と呼ばれるようになったと伝えています
鬼の鎮まる御釜殿に奉仕する巫女は 阿曽郷の女性が選ばれていることは 阿蘇の鬼「鬼八」との関連はあるのでしょうか 気になっています
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR豊肥本線 いこいの村駅から 北へ約2.2km 車で5分程
鎮座地の阿蘇市 役犬原(やくいんばる)は 阿蘇谷〈阿蘇の平野部〉の中央に位置して 太古 阿蘇の中心地です 南に阿蘇山を一望できます
火焚き神事 霜宮神社の案内板が立ちます
奥に細長い境内の奥に 社殿は東北を向き鎮座します
霜神社(阿蘇市役犬原)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
鳥居の扁額には「霜神社」と刻まれています
真っ直ぐな参道の両脇に玉垣が廻され 正面に拝殿が建ちます
参道の脇の標柱には 国指定重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」霜神社(霜宮)と記されています
参拝日が8月11日でしたので 火焚神事(ひたきしんじ)準備だと思います 境内やお社を清掃されている方々があり 落葉などを焼いておられたので 境内は 枯れ葉 雑草の一つもありません
拝殿にすすみます
拝殿には
阿蘇開拓の源流となる 火焚き神事の霜神社 と記されています
ちょうど 清掃をされていた時でしたので 拝殿が開いていたのかもしれませんが 幣殿に神輿が置かれて居るのがわかりました
おそらく 火焚き神事の時に 御神体を火焚殿に遷す神輿であろうと思われます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿〈中に神輿〉その奥に本殿が鎮座します
社殿向かって左手は 南側であり 阿蘇山が聳えています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
律令時代 役犬原(やくいんばる)に郡衙(ぐんが)(郡役所)があったと伝えられますが 役犬原(やくいんばる)と云う地名の由来が知りたい
自然湧水の里 役犬原とあり 道路脇から噴水のように湧水が出ていました 豊かな土地であることは一目瞭然
阿蘇谷の真ん中にお祀りしますと鬼八(きはち)に誓った霜宮の由来の通り 役犬原(やくいんばる)は 阿蘇の平野の真ん中にあります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
火焚神事(ひたきしんじ)にある 鬼八(きはち)の伝承
火焚神事(ひたきしんじ)(阿蘇の農耕祭事)
国指定重要無形民俗文化財 昭和57年1月14日指定
火焚神事(ひたきしんじ)は、8月19日から10月16日まで、霜神社(しもじんじゃ)の火焚殿(ひてきでん)で農作物に霜の害がでないよう、火焚乙女(ひたきおとめ)が火を燃やし続ける神事です。上役犬原(かみやくいんばる)・下役犬原(しもやくいんばる)・竹原(たかわら)地区の氏子による輪番制(りんばんせい)で代々受け継がれています。
火焚神事には、次のような神話が伝えられています。
「阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、毎日のように弓の稽古をしていました。家来の鬼八(きはち)は九十九本までは命(みこと)に矢を拾い届けましたが、百本目の矢は疲れて蹴り返しました。これに命は腹を立て、逃げる鬼八の首を切ると、その首は天に昇りました。
鬼八は首の傷が痛むため、早霜(はやじも)を降らせて人々を困らせました。命は、鬼八の恨みをしずめるため、霜神社を建てて鬼八を祀り、火焚きの行事を始めました。」
火焚神事の日程
期 日 名 称
8月13日 注連卸(しめおろ)し
8月19日 乙女入(おとめい)れ
9月15日 温(ぬく)め綿(わた)入(い)れ
10月16日 乙女揚(おとめあ)げ
10月18日 夜渡(よど)
10月19日 霜神社秋季例祭
10月29日 満願日(まんがんび)
平成18年3月阿蘇市教育委員会現地案内板より
『[新版]日本の民話 27 肥後の民話〈2015荒木 精之 (編集)〉』鬼八の首 に記される伝承
鬼八(きはち)の伝承について さらに詳しく記されています
【抜粋意訳】
鬼八の首
ある日、タケイワタツノミコトは鬼八を連れて、往生岳から的石というところへ向けて矢を射ておられた。鬼八はその弓を拾いに行く役をしていたが、九十九回まで行ったところで疲れて面倒になり、拾った矢を往生岳へ向けて蹴返した。
するとミコトは怒って、鬼八を追いかけた。矢部というところまで行って捕まえ、殺そうとして押さえつけたのだが、すると鬼八は屁をひった。
その屁に面食らってミコトの手が緩んだ隙に、鬼八は逃げる。高千穂方面まで行って、五ヶ瀬川を挟んで大岩を投げたり、投げ返したりして、大立ち回りとなった。
だが、やがてミコトが鬼八を生け捕りにし、その首を斬った。ところが、首がすぐに元のところに継がる。手や足を斬れば、それもまた継がる。結局、手足をバラバラに斬り離して、いちいちを離れた場所へお埋めになった。鬼八の胴体を埋めた場所が高千穂の鬼八墓だそうで、手足はあちこちに埋めたのだが、それらは鬼塚と呼ばれるのだという。
ところが、鬼八の首はミコトから刎ねられた後、天に舞い上がった。
鬼八の怨霊はずっと祟り、夏の暑いさなかにも天から霜を降らせるのであった。霜は耕地の作物をみんな枯らせてしまい、阿蘇の人びとの多くが食う物もなくなった。
これでは困るので、ミコトは、「鬼八の霊よ、阿蘇谷のまん中におまつりするから下りてきてくれ」と申された。
「そこで鬼八の霊が天から下りてきて、いまの霜宮にまつられたといいます
霜神社(阿蘇市役犬原)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
霜神社は 阿蘇神社の境外摂社です
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)
阿蘇神社(あそじんじゃ)は 社伝によれば 第7代 孝霊天皇九年(西暦前280年)健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)〈初代 阿蘇国造〉が 阿蘇宮を創建と傳う 神職家の阿蘇大宮司家は連綿として九十一代現宮司に至る日本屈指の名家です
阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)
・〈阿蘇神社の奥宮〉阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)は 阿蘇神社の奥宮〈奥の院〉とされ 古くから阿蘇火山を鎮める神社として朝廷の崇拝を受けてきました 社記には「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り社家の内笠忠基をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う」と伝わります
阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)