実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

神明神社(京都市下京区神明町)

神明神社は かつての大木があったので 榎神明(えのきしんめい)と呼称されたそうです 『平家物語』で有名な「鵺」の話の舞台で 源頼政卿(ぬえ)退治関わる神社です 社伝には 平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)〉の時 源頼政(ミナモトノヨリマサ)卿が (ぬえ)退治に向う時 この神明宮で祈願します この時 使われた弓矢の「じり」2を奉納したと伝わります 現在でも 宝物として現存 祭礼で飾られています

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2014/01/17に参拝

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神明神社Shimmei Shrine)
(しんめいじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

榎神明(えのきしんめい)

【鎮座地 (Location) 

京都府京都市下京区綾小路通高倉西入ル神明町

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天照皇大神(Amaterasu sume okami)
》文子天満宮
豊園(ほうえん)小学校内鎮座1945年以降合祀

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

厄除けの神
・火除けの神

【格  (Rules of dignity)

洛中神明社21社の内の1社

【創  (Beginning of history)】

創建年代は不詳
平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)には鎮座しています〉

【由  (History)】

神明神社(しんめいじんじゃ)

当地は平安時代末期,近衛(このえ)天皇(在位11411155)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(ただみち)(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で,「四条(しじょう)内裏(だいり)」または「四条(しじょう)東洞(ひがしのとう)院内裡(いんだいり)」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で,天照大神(あまてらすおおかみ)を祭神とし,創建年代は明らかでないが,平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。

 社伝によると,近衛天皇の時代,頭は猿,尾は蛇,手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜,空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源(みなもとの)頼政(よりまさ)は退治の命を受け,神明神社に祈願をこめた後,見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており,今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。

 その後,天台宗の護国山(ごこくざん)立願寺(りつがんじ)円光院(えんこういん)という寺によって管理されていたが,明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され,それ以来,神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎(えのき)神明(しんめい)」とも言われた。
また,当社には豊園(ほうえん)小学校内(現在の洛央(らくおう)小学校)に祀られていた文子(あやこ)天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。
 祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。

京都市

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

5社合殿
北野天満宮石清水八幡宮伏見稲荷大社春日大社日本武尊

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『平家物語』で有名な「鵺」〈源頼政卿(ぬえ)退治〉の舞台関わる神社です

平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)〉の時 源頼政(ミナモトノヨリマサ)卿が (ぬえ)退治に向う時 この神明宮〈現 神明神社(京都市下京区神明町)で祈願します
 見事に鵺を退治し (ぬえ)を射た矢じりを鵺池で〈現 鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(京都市上京区主税町)
 その後 この時 使われた弓矢の「じり」二本を この神明宮に奉納します 現在でも 宝物として伝わっており祭礼で飾られています

社殿に飾られている 宝物のじり二本」の写真

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(ぬえ)退治して 射た矢じりを洗ったとされる
鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(京都市上京区主税町)

鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(京都市上京区主税町)

鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(ぬえだいみょうじん たまひめだいみょうじん あさひだいみょうじん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 宮中神 神紙官西院坐御巫の八神殿の一座「大宮賣神」の名跡 大宮姫命稲荷神社があります この地は その更なる古跡とされています 又『平家物語』で 有名な「鵺」の話の舞台で 平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)〉の御代 源頼政卿が鵺を退治して ここの池で 鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗ったと伝えられます

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鵺(ぬえ)について

恠鳥夜鳥奴延鳥(ぬえ)は 日本で伝承される妖怪です

夜中に「ヒィー、ヒィー」「ヒョー、ヒョー」〈鳥〉の声で鳴くので 〈鳥〉の名前が付いた妖怪となったようです

〈鳥〉は 元来は 鵺(や)と呼ばれるキジに似た鳥ではないかとされますが 正確には判っていません 現在では トラツグミの声であろうとされています

『平家物語』の妖怪は「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」とされていて 名前はついていませんでしたが
「世阿弥」作の謡曲「鵺」で「鵺」の名を冠した妖怪の亡霊として登場し 今では鵺と呼ばれてしまっています

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鵺 ヌエ

正体のはっきりしない、とらえどころのない人のことをヌエ的人物と呼ぶことがある。
陰の権力者、黒幕、巨魁に近い。昭和の時代には何人か思い当たる人物はいたが、最近は絶滅したかのようだ。

▼話は平安時代後期にさかのぼる。「平家物語」によると、近衛天皇は夜な夜な御所に現れる妖怪に悩まされていた。
剛の者が紫宸殿の屋根から射落としたところ、頭は猿、体はタヌキ、手足は虎、尾は蛇という奇怪な姿で、鳴き声は鵺に似ていた。

▼鵺は広く夜に鳴く鳥のことを指し、今では鵺の正体はトラツグミとするのが定説になっている。
体はハトほど、名前の通り黒と黄色の虎のような模様がある。夜、不気味な笛か口笛のように「ヒィー、ヒョー」と寂しげにさえずる。
怪物には名前がなく、いつしかこの鳥が汚名を背負わされた。

▼近衛天皇は2歳で即位したが、生まれつき病弱で、16歳で亡くなる。時あたかも、貴族社会から武家の世に転換し始めていた。

▼世情は末法思想に覆われて不穏だった。孤独で不遇な天皇は暗い御所で怪物と風音におびえていたのだろう。

▼トラツグミは900年近い時空を超え、今も京都御苑に生息をする。
春の終わりには涼しい山間部に移動してしまうため、名残を惜しむ野鳥愛好家たちがカメラを手に姿を追い求めている。

境内に貼られていた 産経新聞 凡語より

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

四条駅から 綾小路通りを東へ180m 徒歩2分程度
神明町の氏子の方々に守られて鎮座しています

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神明神社Shimmei Shrine)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐると 小さいながらも整備されて 丁寧にお祀りをされています
拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿の向かって 右手前には境内社が祀られています
合わせて お詣りをさせて頂き 一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『平家物語(Heike Monogatari)』〈鎌倉時代(1185~1333)に成立〉に記される伝承

源頼政卿が 鵺退治に向う時 この神明宮で祈願し 見事に鵺を退治し (ぬえ)を射た矢じりを鵺池で洗った後 この時使われた弓矢の「じり」二本を奉納します 現在でも 宝物として伝わっており祭礼で飾られています

平家物語には 頼政卿の鵺退治の話が記されています

【意訳】

第4巻 鵺(ヌエ)の条

そもそも 源三位入道と申す者は 摂津守 頼光から5代目 三河守 頼綱の孫で 兵庫頭仲政の子です 保元の合戦の時 後白河天皇の味方として 先鋒として戦ったが それほどの恩賞にも与らなかった また 平治の反乱にも 観類(である源氏)を捨てて参戦したが 恩賞は少なかった 大内裏の守護をして長年経ったが 昇殿を許されない 年を取り 高齢となって 述懐の和歌を一首詠んで 昇殿を許され
誰にも知れず大内山の山守は 木陰から月を見るのだなあ

この歌によっ 昇殿を許され 4位下としてしぱらくいたが 三位を希望して
 上るための手段もない我が身は 木の下で椎の実を拾って世を過しているのだなあ
(この歌を詠み)そのようにして 3位にはなれた 間もなく出家して 源三位入道として 今年は75になられた

この人の一世一代の功名とすること
仁平の頃(1151-1154年近衛院が天皇であられた時に 天皇が夜毎に怯え恐れたことがありました
有験の高僧 貴僧に命じて大法・秘法が修せられましたが 効果はありませんでした

 近衛天皇の発作 丑の刻(午前2時)に限ってのことでした 東三条殿の角振隼(つのふりはやぶさ)両社の森の方角から 黒雲の一群が起こって 御殿の上を覆うと 必ず苦しまれた そのため 公卿詮議がございました
 去る寛治の頃 堀河院が天皇であった時 天皇が 同じように苦しみ 気絶されたことがございました その時将軍 源義家朝臣 南殿である「紫宸殿」の広縁に待機して 御難の時間になると 弓の弦を3度 引いて鳴らし「先の陸奥国守 源義家」と声高に口上しました 身の毛がよだつほどの大音声でしたが 堀河天皇の御病気も和らぎました

 公卿たちは そのような先例があるので 武士に近衛天皇を警護させようと詮議しました 源平両家から兵を探し出し この頼政が選ばれました

 その時はまだ兵庫頭でしたが 頼政が言いました
「昔から 朝廷に武士を置くのは 逆賊の者を退け 勅命に逆らう輩を滅ぼすためです 目にも見えない変化の物を退治しろと命じられても いまだったことがございません

しかし 頼政は 勅宣なので お召しに応じて 参内しました

 源頼政は 信頼していた家臣遠江国の住人・猪早太(いのはやた)に 鷲の両翼の下に連なる羽の中で風切りという羽ではいだ矢を背負わせ 猪早太一人だけを供しました

 自分は 二重の狩衣に 山鳥の尾の毛ではいだ 先のするどくどがった矢を2筋 滋藤の弓といっしょに持ち 南殿の大床に行きました

 頼政が 矢を2筋持っていたのは 公卿補佐の源雅頼が その時 雅頼はまだ左少弁でしたが「変化の物を退治できる吾人は頼政だ」といい頼政が選ばれたからでした
頼政は 一の矢で変化の物を射損じたら 二の矢では「雅頼めの首の骨を射てやる」ということでした

 案の定 いつも人々が言ってごとく 御難の時間になると 東三条の森の方から 一群の黒雲が立ち起こり 御殿の上を覆いました

 頼政が きいと見上げると 雲の中に怪しい物の姿があり これ 射損じたら生きてはおられないと思いました しかしながら 矢を取って弓につがい 「南無八幡大菩薩と心の中で祈願し よつと引いて ひようと放った 手ごたえがあり はたと矢が当たりました
頼政は「得たりや おう」と矢を射たときに叫ぶ詞「矢叫び」をあげました

 猪早太が さっと近寄り 落ちてきたところを取り押さえ 柄も拳も貫通せよとばかりに 続けざまに9回 刀で刺しました

御所の人々は 手に手にたいまつを持ち 上から下から照らすと

頭は 
体は たぬき
尾は 
手足は 

のようで 鳴く声は、鵺(ぬえ)に似ている 恐ろしい等と言葉で言い尽くせない

 近衛天皇は 感心して 獅子王という御剣を頼政に下された

宇治の左大臣・藤原頼長が御剣を受け取り 源頼政に与えようと 御前の階段を半分ほど降りた時 時候は卯月(4月)10日ばかりのころでしたので 雲の間に 郭公(ほととぎす)が2声3声鳴いて通りました

左大臣 藤原頼長
 郭公(ほととぎす)名をも雲井にあぐるかな
と詠みました

頼政はひざをつき 左の袖を広げ 月を少しわき目に眺めつつ
 弓はり月のいるにまかせて(月の入るままに射たにすぎません)
と下の句を続け 剣を受け取り 退出しました
人々は 頼政は武芸だけでなく歌道にも優れていると感心しました

かの変化の怪物は 空舟に入れて流されたといいます

 去る應保の頃(1161-1163年)二条院が天皇であった時 鵺という化鳥が禁中で鳴き しばしば天皇を悩ませたことがありました その時も 先例に習い 頼政が召されました

 時季は 5月20日あまり まだ宵の時間に一声鳴いただけで 2声目はありませんでした 目当てにする物もない程の闇で 姿形も見えない 矢の狙いを定めることができません

 頼政は まず大きな鏑矢を取ってつがえ 鵺の声がした内裏の上へ射上げました すると 鵺は 鏑矢の音に驚き 虚空の中で「ひひ」と声をたてて鳴きました

 二の矢に小さな鏑矢をつがえ 矢を放ちました 放たれた矢は「ひいふつ」と飛んでいき やがて 矢と鵺が落ちてきました

宮中はどよめきあい 二条天皇のおぼえも良く 頼政に御衣を授けられました

 大炊御門(おおひのみかど)・右大臣の藤原公能が受け取り 頼政の肩に掛ける時「昔 矢の名人である養由は 雲のの雁を射て  頼政は 雨の中の鵺を射たのだなあ」と感心しました

藤原公能
 五月(さつき)闇名をあらわせる今宵かな
と詠みました

頼政は
 たそがれ時の過ぎぬと思うに
と続け 御衣を肩にかけて退出しました

頼政は その後 伊豆の国を賜りました 子の源仲綱を国司にして 自分は3位となり 丹波の五箇の荘園と若狭の東宮河を所領としていました

そのような人が 由なき謀反を起こし 以仁親王をもお失い申し わが身も子孫も滅ぼしてしまったことは 遺憾なことであった

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『平家物語』鎌倉時代に成立 出版 刊本 万治02年  [旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000042961&ID=M2014052621274461233&TYPE=&NO=

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能 謡曲「鵺」と神明神社の伝承

能 謡曲「鵺」では 神社が 鵺退治の舞台になった屋敷跡とされています

能に出てくる鵺は 頭は猿 手足は虎 尻尾は蛇(平家物語では胴体が狸)という妖怪で 鳴く声がに似ていたとされます

演目の「鵺」は 鵺という妖怪の亡霊が主人公なり 勇者・源頼政に退治され淀川暗い水底に流されたと 我が身の救いのない運命を切々と語り 旅の僧に回向を頼みます そして 山の端にかかる月のように我が身を照らし救い給えと願いながら 月とともに闇へと沈んでいく演目です

謡曲「鵺(ぬえ)」と神明神社

謡曲「鵺」は古典「平家物語」から取材した曲鵺とは頭が猿、尾が蛇、手足が虎、鳴く声は鵺に似た怪獣だったといわれます。
 芦屋の里で一夜を明かす僧の前に、うつほ舟(丸木舟)が着く舟人に尋ねると近衛天皇の時代、源頼政に討ち取られた鵺の亡霊と名乗り、姿を消す僧が供養していると鵺の姿となった亡霊が再び現れ、供養に感謝し、勝者・頼政の栄光と、うつほ舟で冥土に流されてゆく自分の有様を語るのです。
 この神明神社は鵺が退治された屋敷跡とされ、神社にはそのとき頼政から奉納された「やじり」2本が宝物として伝わっています。 謡曲史跡保存会

現地案内板より

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『都名所図会(Miyako meisho zue)』〈1780年(安永9年)〉に記される伝承

所在について 京都らしく 現在と同じ地名表現で 高倉(たかくら)の西にあり と記しています

【意訳】

神明(しんめい)宮 は

綾小路(あやのこうじ)高倉(たかくら)の西にあり まつる所 伊勢内外太神宮なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『都名所図会』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 11冊 [書誌事項]刊本 ,安永09年 ~  刊本 ,天明07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003149&ID=M2018050216122327942&TYPE=&NO=

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神明神社Shimmei Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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