佐波神社(さわじんじゃ)は 巨船を造り崇神天皇に献上したとされる゛鴨ケ池(かまがき)゛と呼ばれる池の辺り〈現在の゛鴨ヶ池遺跡゛仁科港の一部(船溜まり)〉に鎮座していましたが 明応7年(1498)に発生した゛明応東海地震の津波゛に流され 御神体が現在の鎮座地に漂着したと伝わります 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
佐波神社(Sawa shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県賀茂郡西伊豆町仁科1870
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)
廣幡八幡大神(ひろはたはちまんのおおかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
佐波神社(さわじんじゃ)(延喜式内・郷社)
所在 西伊豆町仁科一八七〇番地
祭神 積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)
廣幡八幡大神(ひろはたはちまんのおおかみ)概要
本殿神明造り、境内一三一六坪。
境内には、西南の役、日清戦争等の戦没者慰霊碑と招魂社が建立されている。
「子孫繁昌・息災延命・諸願成就……」等々、この地域に住む人達の守護神としての信仰と歴史と文化を偲ぶことができる。縁起
「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」としての「神明帳」に登録されて年代も古く由緒ある神社であり、伊豆神明帳に佐波神社従四位上「志での明神」「にいの明神」二座、佐波は地名であり澤である。八幡宮については「神宮皇后三韓を征し給う時、初めてこの地に祀る。仁科の荘、総社八幡旧那賀郡十七ケ村の総鎮守也、五百年前迄は海辺にありしに、海溢(津波)にて今の地に止まる。依て三島明神と祠を並べて立つ」とあり、一方三島明神は地主神(じぬししん)であり古老の口碑(こうひ)、社伝として「一蜘子葦ノ葉ニ乗リ、鴨ケ池ヲ渡ヲ診テ始メテ船ヲ此ノ地に造ル。人皇十一代崇神天皇ノ御座船(ござぶね)ヲ鴨ケ池ノ辺リニ造ルト、天皇ヨリ三島神ノ神体ヲ賜リ其造船ノ地ニ祀祭(しさい)ス、是レヲ佐波神社トス」と記載されている。
三島宮・八幡宮はそれぞれ別殿に鎮座されていて、二社が鴨ケ池より現社地に奉遷し造営されたのは棟札(むなふだ)「奉祈造立一字八幡大菩薩」「奉祈造立一字三島大明神」から見ると慶長十四年(一六〇九)である。
また。いつ一社に合祀(ごうし)されたのかを棟札から見ると文政六年(一八二三)三月である。祭礼・行事
例祭日 十一月二日・三日
人形三番叟の奉納
(昭和四十七年三月 県指定 無形民俗文化財)社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
佐波神社
昔、この辺りを「佐波」といい、神社があったところが澤田であったために、佐波神社と称したという。
大昔、この辺りは鴨ケ池(かまがき)と呼ばれる池だった。一匹のクモが葉に乗り池に浮かべて風にのって彼岸に漂着するのを見て、初めて船を造ることを覚えた里人は、巨船を造り崇神天皇に献上したといわれている。
また、この付近には鍛冶屋浜(かんじゃばま)願誓山・乗浜 (祈浜)の地名があり、船工らが造船の成功を祈った所である。船の無事と田や畑の作物の豊作を祈って行われる、神社のお祭りは毎年11月2日、3日。境内では、2〜3日前から縄をなったり、獅子を出して、準備が行われる。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 22座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 佐波神社二座
[ふ り が な ](さはの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Saha no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
明応7年8月25日(1498/9/11)に発生した゛明応東海地震の津波゛以前の佐波神社 旧鎮座地゛鴨ケ池(かまがき)゛について
佐波神社旧鎮座地について
『西伊豆町誌 資料第一集神社・寺院並びに棟札編』〈西伊豆町教育委員会 (1994)〉[同書の当該箇所には 明治二十八年古社寺調査控から引用と記載]
に記される記録には
「四百年前ハ鴨ケ池ノ傍ラ二在リシカ海嘯ノ為メニ今ノ池二流レ寄リシヲ以テ即チ其地ニ遷ス」
意訳〈400年前の佐波神社は 鴨ケ池の傍らにあったが 津波のために現在地に漂着 そこに再建された〉とあります
『南豆風土誌』〈元賀茂郡役所 (1914)•長倉(1973)復刻発行〉には
「佐波神社の西方數丁にあり」(1丁は約109 m)と記され
『西伊豆町誌 資料第四集 通史編』〈西伊豆町教育委員会(2000)〉には
「船溜まりのこと」と記される 同資料では この船溜まりは 昭和8〜10年の工事によって造成された・その位置は現在の佐波神社から西に約200〜300 m (二〜三丁)の位置と記されます
神社の案内板に 社伝として
〈五百年前迄は海辺にありしに、海溢(津波)にて今の地に止まる〉それ以前は〈人皇十一代崇神天皇ノ御座船(ござぶね)ヲ鴨ケ池ノ辺リニ造ルト、天皇ヨリ三島神ノ神体ヲ賜リ其造船ノ地ニ祀祭(しさい)ス、是レヲ佐波神社トス〉とあり
500年前の津波以前は゛鴨ケ池゛の辺り 造船ノ地に祀祭されていたと伝
この伝承は 現在の゛鴨ヶ池遺跡゛とされます 場所は 現在の仁科港の一部(船溜まり)にあたります
鴨ヶ池遺跡は 昭和8年(1933)もともとの湿地帯(鴨ヶ池)を船溜まりにする造成工事中に発見された遺跡で
地元では゛古代の造船の場所としての伝承゛があった場所で 造成工事中に排土の中から弥生土器片や石器が採集されています
延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の論社について
佐波神社(西伊豆町仁科)に祀られている゛三島宮゛゛八幡宮゛を二座とする説
山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)を 佐波神社二座の内一座とする説があります
・佐波神社(西伊豆町仁科)
佐波神社(さわじんじゃ)は 巨船を造り崇神天皇に献上したとされる゛鴨ケ池(かまがき)゛と呼ばれる池の辺り〈現在の゛鴨ヶ池遺跡゛仁科港の一部(船溜まり)〉に鎮座していましたが 明応7年(1498)に発生した゛明応東海地震の津波゛に流され 御神体が現在の鎮座地に漂着したと伝わります 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の論社です
佐波神社(西伊豆町仁科)
・山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)
山神社〈山王神社〉(やまじんじゃ)は 創建年代などは不祥です かつて゛子ノ神を宇波明神゛゛山王を山神゛と称していたらしく 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の内一座とする説があります 又同じく式内社の瓺玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)の論社ともされています
山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西伊豆の有名な観光地 堂ヶ島公園から南に約1km 仁科の漁港からは゛龍宮島゛が見えます
神社は 仁科漁港の方向に 東南を向いています
佐波神社(西伊豆町仁科)に参着
一の鳥居をくぐり 参道を進むと手水舎があり 清めます
二の鳥居は 木製の両部鳥居 一礼をして境内へと
拝殿にすすみます
拝殿内には 二枚の扁額゛三島宮゛゛八幡宮゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内には石祠が多数祀られていました
一礼をして 参道を戻ると 氏子役員の方だろうか 御神職だろうか 社殿の扉を開けて中に入っていかれました ちょっと 戻って色々お話を伺う
因みに 本殿のすぐ背後〈東側〉の切り立った岩山に 津波の際に御神体が流れ着いた辺りとのこと
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『伊豆国神階帳(izunokuni shinkaicho)』康永2年(1343年)に記される内容
式内社 佐波神社二座が ゛従四位上 志ての明神゛゛従四位上 にゐ乃明神゛として記されていると云われます
【抜粋意訳】
那賀郡 弐拾四所
・・・
・・・従四位上 志ての明神
従四位上 にゐ乃明神
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 佐波神社二座について 一座ごとに説明しています
一座は 濱村沢田〈海岸〉であったが500年前の津波で現在地〈現 佐波神社(西伊豆町仁科)〉に遷つたと記し
もう一座は 大沢里(オオサワリ)の白川に坐す山王と子ノ神〈現 山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)〉と記しています
【抜粋意訳】
佐波(サハ)神社二座
古事記 日子坐王之子 沙本毘古者 日下部連 甲斐国造之祖
姓氏録 作澤道彦
和 抄 田方郡佐婆志一座は 當郡 濱村沢田にあり 神功皇后 韓国を征し玉ふとき 始て此に祀ると云
大永七年の棟札に仁科庄本郷 総社八幡とあり 今に仁科五村の総鎮守なり 五百年前までは海岸にありしを津波にて 今の地に止る
一座は 當郡 大沢里(オオサワリ)の白川に坐す山王と子ノ神之 寛政二年 文明六年 大永元年の棟札に 子ノ神を宇波明神 山王を山神とあり 上古 高見山野の段と云処にありしと云ふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 佐波神社二座について 一座ごとに説明しています
一座は 大沢里(オオサワリ)の白川に坐す山王と子ノ神〈現 山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)〉と記し
もう一座は 濱村沢田〈海岸〉であったが500年前の津波で現在地〈現 佐波神社(西伊豆町仁科)〉に遷つたと記しています
【抜粋意訳】
佐波神社二座
佐波は假字也、和名鈔、郷名部 田方郡佐婆
〇祭神 詳ならず
〇二座各々に在す、一座は大澤村に在す、一座は濱村に在す
伊豆志に、
一座 大澤里(オホサワリ)の白川に坐す、山王と子ノ神なり、寛政二年、文明六年、大永元年の棟札に、子ノ神を宇波明神、山王を山神とあり、上古 高見山野の段と云處にありしと云ふ」
一座 濱村の澤田にあり、神功皇后 韓国を征し玉ふ時、始て此に祀ると云ふ、大永七年の棟札に、仁科庄本郷 総社八幡とあり、今に仁科五村の総鎮守なり、五百年前までは海岸にありしを、津波にて今の地に止る、と云り
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 佐波神社二座について 一座ごとに説明しています
一座は 濱村沢田〈海岸〉 もう一座は 合祀の三島神社〈現 佐波神社(西伊豆町仁科)〉と記しています
【抜粋意訳】
佐波(サハ)神社二座
其の一は 今 仁科濱村の澤田にあり、総社八幡といふ、仁科五村の総社也、
一は 同地に坐 地主神 三島明神 是也凡祭 八月十五日、十一月中酉日を用ふ、豆州志 足柄縣式社取調帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 佐波神社二座について 一座ごとに説明しています
一座は 濱村沢田〈海岸〉 もう一座は 合祀の三島神社〈現 佐波神社(西伊豆町仁科)〉と記しています
豆州志にある説として もう一座は 大沢里(オオサワリ)の白川に坐す山王と子ノ神〈現 山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)〉は誤りであろうとも記しています
式内社 甕玉命神社について 所在は 八木澤村鎮座 神明社〈現 神明神社(伊豆市八木沢)〉
更に別の説として・八木澤村の三島明神・伊濱村 三島明神とも記しています
【抜粋意訳】
佐波(サハノ)神社二座
祭神
祭日 九月十五日
社格 郷社所在 濱村(明細帳になし)(賀茂郡仁科村大字濱)
今按〈今考えるに〉
式社攷證に 仁科濱村 鎮座
豆志に一座在に濱村澤田 神功皇后 韓国を征し玉ふ時、始て此に祀ると云ふ、大永七年の棟札に曰、仁科ノ庄本郷 総社八幡とあり、今に仁科五村の総鎮守なり、五百年前までは海岸にありしを、津波にて今の地に止る、就て三島明神と祠並べ立つと云 又 三島明神 同村 是地主神也と云う云々とある此の二座也
此は古く同殿に坐し事は賀茂郡 賀毛神社二座 竹麻神社三座 等と同例にて 佐波神社二座と有を以て明に知らるるを 中頃各々別所に分け祀りたると見えて 神階帳に従四位上 シテの明神〈シテは神田にて澤田 舊称なるべし〉従四位 ニイの明神〈今称の仁科は此 ニイより起れると聞こえたり〉と有にて 炳馬抑 此濱村は仁科郷中の本村にして郷中の諸社 往昔は皆 此地に在し由なるは云までもなく 社邊を今に澤田と云ふを思ふに佐波神社二座なる事論無し
然るを豆志に佐波神社一座 在に濱田澤田云々 一坐在に大澤里白川 山王 子ノ神を祀る云々とあれど協はず 其は此 白川と云處は 濱村よりは三里許を隔たる山中にして 固より有べき處に非る事 土地を實検して知べく 又 二座三座と有は 皆 同地鎮座の神にして遠く隔れる社を然唱ふべきに非ず 亦 澤田の地より遷したると云傳も無れば 佐波神社の一座なりと云説の謬なる事を知るべしと云るは當れる説なり 故 今附て攷に備ふ
【原文参照】
『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承
式内社 佐波神社二座について 一座ごとに説明しています
一座は 濱村沢田〈海岸〉 もう一座は 合祀の三島神社〈現 佐波神社(西伊豆町仁科)〉と記しています
ある説として もう一座は 大沢里(オオサワリ)の白川に坐す山王と子ノ神〈現 山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)〉があるが 付会であろうと記しています
【抜粋意訳】
佐波(さはの)神社二座
那賀郡 仁科濱村(にしなはまむら)鎮座
志ての明神 神階帳 舊称 三島神社二座 一座は八幡神社と称す
蓋 一座は神階帳の にゐの明神に當とぬべくや 舊説に一座を大澤里村 白川山王に當てたれど 固より據なき附會の説にて取るに足らず
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
佐波神社(西伊豆町仁科)について 三島明神を地主神也と記し、八幡を神功皇后三韓征伐當時の創立と記しています
【抜粋意訳】
〇静岡縣 伊豆國賀茂郡 仁科村大字濱田字澁川
郷社 佐波(サハノ)神社
祭神 積羽八重事代主(ツミハヤヘコトシロヌシノ)命
相殿 八幡官 祭神不詳
一に三島明神と稱す、創立年代詳ならず、
但式社考證は、三島明神を地主神也と記し、八幡を神功皇后三韓征伐當時の創立とす、
延喜の制並に小社に列せられ、式に佐波神杜二座と見えたり、佐波は地名にして、今 社地付近を澤田と稱す云々、
當国神階帳に従四位上 しての明神、從四位上 にゐの明神と見えたるは当社にして、しては神田にして、社地の舊称、にゐは荘名仁科に起因せるものなるべしといふ、
口碑に云く、垂仁天皇の御宇 御座船を鴨ケ池の邊に製造す、時に三島明神の神像を賜はり、是より三島明神と稱すと、元より傳説に過ぎざるべしといへども、近く迄 古神像 及 本地智勝佛の像ありしといふ、大永二年及天正十七年の棟札を蔵す、並に地頭の建立たり、八幡宮大永七年の棟札に、「仁科荘本郷総社八幡」と見えて、當時 仁科一郷の總社たりしが如し、近世 仁科五村の総鎮守たり、五百年前は海涯に在りしが、海溢の為め當社に鎮祭せられしといふ、明治六年八月郷社に列す。社殿は本殿、拝殿、庁屋を具備し、境内は八百十二坪(官有地第一種)あり。
境内神社
姫宮社 稲荷社 粟島社 天神社
鹽竈社 白山社 若宮社 山神社
地神社 諏訪社 塞神社
【原文参照】
佐波神社(西伊豆町仁科)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について