西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば 第15代 応神天皇の勅命により 応神天皇9年(278)4月 西寒多山(本宮山)に 祠を建立したと伝わり その後 応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代に守護大名 大友親世公により現在地に遷座されました 豊後国一之宮として信仰されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
西寒多神社(Sasamuta Shrine)
(ささむたじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
大分県大分市寒田1644
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
本殿
《主》西寒多大神(Sasamuta no ohokami)
〈天照大御神 月読尊 天忍穂耳命の総称〉
相殿
《配》応神天皇(おうじんてんのう)
《配》神功皇后(じんぐうこうごう)
《配》武内宿祢(たけのうちのすくね)
殿内所在諸神
《配》伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)(縁結びの神)
《配》大直日大神(おおなおびのおおかみ)神直日大神(かんなおびのおおかみ)(厄除、交通安全の神)
《配》天思兼大神(あめのおもいかねのおおかみ)(知恵の神、学問の神)
《配》大歳大神(おおとしのおおかみ)倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)(農業、食物の神)
《配》軻遇突智大神(かぐつちのおおかみ)(火の神、荒神さま)
《配》天兒屋根命(あめのこやねまみこと)(祭祀の神、国土鎮護の神)
《配》経津主神(ふつぬしのかみ)(必勝、合格の神)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全の守り神
・婚姻の守り神
・学業の守り神
・農業の守り神
・食物の守り神
・厄除の守り神
・交通安全の守り神
・消防の守り神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(大社)
・ 豊後国一之宮(Bungo no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
旧国幣中社
豊後一ノ宮西寒多(ささむた)神社 略記
一、鎮座地 大分市寒田1644番地二、御祭神
月読大神(つきよみのみこと)(心の神、精神安定の神)
本殿 西寒多大神(ささむたのおおかみ)(天照大御神)
天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)相殿 応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
武内宿祢(たけのうちのすくね)殿内所在諸神
伊弉諾大神(いざなぎのおおかみ)伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)(縁結びの神)
大直日大神(おおなおびのおおかみ)神直日大神(かんなおびのおおかみ)(厄除、交通安全の神)
天思兼大神(あめのおもいかねのおおかみ)(知恵の神、学問の神)
大歳大神(おおとしのおおかみ)倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)(農業、食物の神)
軻遇突智大神(かぐつちのおおかみ)(火の神、荒神さま)
天兒屋根命(あめのこやねまみこと)(祭祀の神、国土鎮護の神)
経津主神(ふつぬしのかみ)(必勝、合格の神)三、由緒
創祀は遠く応神天皇9年(278)4月に武内宿禰勅命を奉じて 西寒多山(本宮山)山上に宮殿を建立すとあり 延喜式内の大社として国司をはじめ武将の信仰あつく、特に大友能直公、宗麟公をはじめ代々の尊崇厚く 応永15年(1408年)3月、大友親世公 社殿を現在地に遷し、家内安全、婚姻、学業、農業、食物、厄除、交通安全、消防の守り神として国民の崇敬いよいよ深く、明治4年5月14日、国幣中社に列格、豊後の国の一の宮として皇室及び国家の優遇をうけ宝物として宗麟愛用の印章四個、大友能直、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の古文書を有し、現在 別表神社として尊崇をあつめている。四、主なる祭典
元旦祭一月一日 元始祭一月二日
厄除星祭 二月一・二・三日
祈年祭 三月十五日
本宮春祭 三月二十日
例大祭 四月十五日
ふじまつり 五月三日より五月五日まで
神殿祭 五月三日
育木祭 五月三日
慰霊祭 五月四日
水神祭 五月五日
勧学祭 五月五日
大祓 六月三十日
夏越祭 七月最後の日曜日
本宮秋祭 十月二十三日
新嘗祭十一月二十三日
大祓・除夜祭・古札焼納祭 十二月三十一日
月次祭 毎月一日
御神幸祭 三年目毎
御神衣祭(特殊神事)三十三年目毎に御祭神の神衣を新調する式年大祭
御祈願 初宮詣、厄除、交通安全、入学祈願など毎日受付境内案内板より
【由 緒 (History)】
御由緒
旧国幣中社、豊後一ノ宮として広く知られる西寒多神社の由緒は、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の山々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。その後、人々はそれを敬ってその地に端垣を結び、聖地として崇めるようになり、やがて応神天皇の御代にこの地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神九年、豊後国に下向して宮殿の建立に当たった。
さらに7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観10年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で式内大社とされた。
以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した。
江戸時代には、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび神殿の改修修繕が行われ、藩士による燈篭などの寄進もあった。
明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、今日に至っている。
公式HPよりhttps://sasamuta.com/history
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・合併社〈・御星社・保食社・龍王社・貴船社・歳神社・愛宕社・高尾社・金刀比羅社・天満社・竹内社・九一郎社〉
・厳島神社
・精霊殿
・繰生社
・菅原社《主》菅原道真公
・大分社《主》豊門別命
大分社(祭神豊門別命)
大分の地名の元となった古代の豪族大分の君を祀る
立札より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・本宮山登山口〈奥宮登拝道入口〉
・本宮神社〈本宮山 山頂〉
《主》西寒多大神《配》月読大神
・本宮神社(大分市上判田)〈西寒多神社 奥宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊後国 6座(大1座・小5座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大分郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 西寒多神社(延・大)
[ふ り が な ](ささむたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sasamuta no kamino yashiro)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
豊後国(ブンゴノクニ)の一之宮について
豊後国の一之宮は 当初は延喜式内大社の「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」でした
その後 宇佐八幡宮から分祀され別宮となった「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」は 豊後国府に近くにあって 歴代の領主の崇敬を受けて勢力を増し 中世以降に 一之宮を称し始めました
①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します
この2社間で互いに 当代の豊後国 一之宮を主張する 論争が 近世までありました
別の理由としては
西寒多神社は『延喜式神名帳927 AD.』に豊後国 大分〈大野〉郡 西寒多神社 と記載され 豊後国 唯一の大社に列し 豊後国一之宮として崇敬されていた
平安時代後期以降衰退し 西寒多神社は中世に廃絶した あるいは大きく衰えていたらしい
『橘三喜 諸国一宮巡詣記』(1675年~1697年)にも次のような記載
「由原山(ゆすはらさん)〈柞原八幡宮〉へまかりて、西寒多の社〈西寒多神社〉を尋ねけれども、社人社僧いづれも知らざるよしを告げぬ 」
つまり 橘三喜が巡歴した江戸時代前期には由原山〈柞原八幡宮〉で 西寒多神社の所在をたずねても 社僧は誰も知らず 西寒多神社は所在すら不明になっていたと伝えています
また
『豊後国志(ぶんごこくし)』〈享和3年(1803)〉には 大野郡寒田神社を西寒多神社とし 応永十五年(1408)大友親世が大分郡植田に移し寒田と名づけた。とあり、今(1803)は一茅宇になつてゐる」とあります
このため 平安時代~中世までは西寒多神社が栄え やがて西寒多神社は衰えて 中世以降~江戸時代までは 柞原八幡宮は栄えていた 中世には実質的に 柞原八幡宮が一之宮として機能していたのだとも云われます
①「西寒多神社(ささむたじんじゃ)」
➁「柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)」それぞれの論社をご紹介します
①式内社「豊後國 大分郡 西寒多神社(延・大)」 の論社
・西寒多神社(大分市寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば 第15代 応神天皇の勅命により 応神天皇9年(278)4月 西寒多山(本宮山)に 祠を建立したと伝わり その後 応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代に守護大名 大友親世公により現在地に遷座されました 豊後国一之宮として信仰されています
西寒多神社(大分市寒田)
・本宮神社(大分市上判田)〈西寒多神社 奥宮〉
・西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』・『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地〈西寒多神社(大分市寒田)〉に遷座したと伝えています
西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
・西寒多神社(豊後大野市犬飼町西寒田)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊後國 大野郡一座大 西寒多神社であり 文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮 西寒田神社」の社号をうけていると伝えています 式内社の論社でもあり 豊後国一之宮の論社でもあります
西寒多神社(豊後大野市犬飼町)
➁柞原八幡宮
・柞原八幡宮(大分市)
柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)は 天長四年(827)延暦寺の名僧・金亀和尚が宇佐神宮の参篭にて神告を蒙り 柞原山に勧請したのを 当宮の創設起源とします その後も 国司の厚い崇敬を受け 一方 皇室も厚く尊崇せられた豊後国一之宮とされます
柞原八幡宮(大分市上八幡三組)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大分駅からR210号経由 南下約9.5km 車30分程度
R10号から 寒田川沿いの道を上流へと向かうと 直ぐに一の鳥居があります
暫く道なりに進むと社号標「豊後國 一ノ宮 國幣中社 西寒多神社」とあり 祈願者専用駐車場のある社頭になります
陶磁器で出来た珍しい案内板がありま
西寒多(ささむた)神社の文化財 大分市寒田1644
Culturai Assets of Sasamuta Shrine県指定有形文化財 万年橋
指定 昭和55年4月8日
軽快で美しい弧線を描く、太鼓橋とも呼ばれる石造単アーチ橋です。全長22m、幅3m。 11mの径間に対してアーチの高さが3.9mと低く、アーチと路面の間も狭いのが特徴です。
江戸時代末1862年(文久2年)、延岡藩寒田村の庄屋佐藤氏らが発起し、大野郡柴北村の石工後藤氏らによって同年完成しました。
市指定有形文化財 神庫
指定 昭和49年1月9日
本殿の西に位置する校倉造りを特徴とした入母屋造り桟瓦葺き、高床式の建物です。校木(あぜき)を井型に組み合わせた井篭組みという形式の校倉造りで、県下では余り例がありません。1886年(明治19年)6月に改築したもので、桁行5.73m、梁間4.8m、床高0.98mです。
市指定天然記念物 フジ
指定 昭和49年1月9日
各地の山野に自生するつる性の落葉低木で、他物に右巻きに巻き付きます。4月下旬頃、紫色の蝶形花が、多数総状花序(穂状)をつくり、長さ20~90cmにも垂れ下がった情景は見事です。大分県内では、このようなフジの大木は珍しく、学問的にも貴重です。
大分市教育委員会社頭の陶磁器の案内板より
案内にある万年橋の前に立ちます
西寒多神社(Sasamuta Shrine)に参着
一礼をして 万年橋を渡り 境内へと降りていくと すぐ右手には手水舎 左手に社務所があります
石畳みの参道に鳥居が建ち その先に神楽殿と社殿が建っています
一礼をして鳥居をくぐり 拝殿にすすみます
拝殿の手前には 狛犬が構えています 扁額には「鎮國一宮」とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって右手には 市指定有形文化財 神庫
神庫 明治19年(1886年)6月奉建
入母屋 校倉造(あぜくらづく)り(高床式建物床下吹放し)
校倉造りは古代建築様式の一つ。
横木を積み重ね角を組み合わせて造る。
柱を用いないで、断面が台形や三角形の木材を井桁に積み上げて壁体にしたもの。
その材質と形が外部の気温や乾湿に対して自律作用するので宝物などの保存に適する様になっている。案内立札より
本宮山の山頂には 奥宮が鎮座しています 奥宮までの登拝路(6km 片道約2時間)
応永15年(1408)3月 南北朝~室町時代の守護大名 大友親世公により 奥宮から現在地に遷座されたと伝わります
参道を戻り 万年橋を越えて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
西寒多神(ササムタノカミ)に神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観11年(869)3月22日(酉条)の条
進に
筑後国(チクゴノクニ)
正2位 高良玉垂命(コウラタマタレノミコト)の神階を加(クワウル)に 従1位を授(サズク)に
従4位上 豊比咩神(トヨヒメノカミ)に 正4位下
但馬国(タジマノクニ)従5位上 養父神(ヤフノカミ)
石見国(イワミノクニ)従5位上 物部神(モノノヘノカミ)
並(ナラビ)に 正5位下
豊後国(ブンゴノクニ)
无位(ムイ)西寒多神(ササムタノカミ)に 従5位下令(レイ) 下総国(シモオサノクニ)検非違使(ケンビイシ)〈律令制下の令外官の役職〉 帯る 劔(ツルギ)を 把笏(ハシャク)を
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
延喜式内社の論社として 臼杵の西寒田神社は府会であるとしています
又 一之宮の論争にも言及していて 由原(ユスハラ)八幡を社僧など一之宮と称しているが 元々 西寒田神を由原(ユスハラ)としていたとする説を挙げています
大友氏の実録から 中世の様子を再現して 記しています
【意訳】
西寒多(ササムタノ)神社
〇写本 大とあり
三代実録 貞観11年(869)3月22日(酉条)の条・・従5位下〇サウブと云う
〇相模国 寒田神社続日本後紀 大宰府言 云々 豊後国大分郡云々 寒川石上獲 白亀一枚 云々
〇国人云う 大分郡 早田(セラタ)村にあり 今 寒田(サムダ)八幡と云う 当社 今 延岡領に属する故 惑う人あり
又 臼杵は大野郡にあり因りて 臼杵に この神社 坐す由云えれど 付会の説なり
(延喜式)に大野郡とあるのは大分郡を誤りるなりさて
又 今世 由原(ユスハラ)八幡を社僧など一之宮と称し 祈祷などにも しか書けりりも 寒田神を八幡と云い伝うるも 甚だ近き事にはあらず
文亀3年(1503)吉田御本 町兼の御記にも 西寒田神名 柞原大明神 筥崎同体なりと載せられたり信友 按
(弘安図田帳)に 由原宮 御神領246町とあるは これなるべし
(大友記)一名(九州治記記)大友家末世に書たる実録あり
曰く
豊後国の鎮守 由須原八幡宮の御神事は 毎年8月14日よりあくる15日まで放生会御祭とて 上古より取り行う
今年も この年号しれず忠議の代の事 恒例なればとて 8月14日午の刻にゆすはらより出し いくしのは またしたにの湊へ御幸をなし奉る
供奉の人々には
先一番に 随兵の先陣にて 高崎 上野 牧橘 如来 宗像 以上6騎声花によろい その勢300余人めしくしてに行につらなり先行す
二番に ちんとうとて鬼の面をかけ その様 鬼形のことと出立てつがひたり
三番に 供僧衆120人御これの前後に供奉す
四番に 宮司 小宮司ぎだいぐうしさいしょなんどと云もの 我も われもと金銀をちりばめて打つつく 大行司は狭間30騎ばかりにて折々りけり いくしの濱の御警固には 田北紹鉄山下和泉守 色々の糸毛のよろひ着 太く逞しき馬にあつふさかくて乗りけり 相随うもの3000余騎てり かがやく 計に甲冑をたいし 濱の平をかためらるる見物の貴賤 巷に充満してゆゆしき壮観かなとささめきあえる処に 恐怖なりし事こそあれ
又 御輿 載に重くならせくまつ事 大磐石のことくにして 御輿たてまちに土埃に落たまう 貴賤きもをけし 供僧 玉輿りあけ奉らんとしけるとも 敢えてうごき 玉はず 如何せんとあきれたる所に 老僧一人 御輿の前に畏まり 三度首をかたむけ みくじをとりて御神事を ユスハラへ還幸せをなし奉りしはただごとならぬありさまなり」
宗麟(ソウリン)かねて 吉利支丹(キリシタン)を信じたりければ 大いに怒り 国中の寺社を残らず焼きはら 以下欠
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神は不詳として 一宮は柞原八幡宮ではなく 西寒多神社であるとする説を記しています
【意訳】
西寒多神社 大
西寒多は 佐佐牟太と訓ずべし
〇祭神 詳らかならず
〇西寒多村に在す 社家注進
〇当国一之宮なり 一宮記
按るに
一宮記に 大分郡 号に 大分宮 筥崎同体 又の名に 柞原八幡
頭注に 名 柞原大明神 筥崎同体 但し 大野郡とすと云えり
啓蒙 本紀等 皆この説に従えり
抑この社は 大分郡 由原村に在って いと古くより 西寒多神社なりと云えど 叙位の事あるを思えば 然るべからず 祝や郡縣も違へるをや 故に今は社家の注進を証とす 依りて式外の部に 柞原八幡宮を載せたり 併せ考ふべし神位
三代実録 貞観11年(869)3月22日(酉条)の条・・従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
西寒多神社は 一度 廃絶していて その論社は 色々とあり 本来は良く考慮して 比定すべきである しかし 國幣中社に列格しており 社伝に従うと記しています
【意訳】
大野郡一座 大 西寒多神社
祭神 不詳
神位
清和天皇 貞観11年(869)3月22日(酉条)の条・・従5位下祭日 11月中卯日
社格 國幣中社所在(大分郡東植田村大字寒田)
今 按〈考えるに〉
一宮記に 西寒多神社 大分郡 号に 大分宮 筥崎同体 又の名に 柞原八幡
豊後大分郡神名帳頭注に 豊後大野郡 西寒多 名 柞原大明神 筥崎同体なりとあり
神社啓蒙などの書も 亦之に従へり されど この柞原八幡は大分郡由原村にありて 郡名も違へれば信じがたし
明細帳に大野郡寒田村 西寒田神社は豊後国一之宮なりしが 朝廷の祭奠(サイテン)中絶せし後 大友親世 應永15年 同神を大分郡に勧請しつるに合わせて 当社は国守の祭奠(サイテン)も絶へて 今は僅かに一村の氏神となるとあるは正しき伝説ときこゆさるは
豊州志に 大野郡 西寒多神 祠在(アル)は野津庄 寒田村 延喜神祇式 曰く 豊後国大野郡一座 西寒多神社これなり云々 今 既に荒廃 僅かに存一芽宇
相伝云う 應永15年3月 大友親世 移祠 於いて大分郡植田為 その分祠所 祭 豊門別命者なり
延喜神祇式 曰く 西寒多神社一座 在 大野郡 今廃祠 仮在干三重郷 寒田村 貝原氏 曰く 大野尚 大分誤りなり 為 そ木如仮社 在干 大野郡故なりとあるにて 著しければなり 猶よく考ふべし 既に國幣中社に定められたれば 今姑くこれに従う
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
西寒多神社(Sasamuta Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
豊後国 式内社 6座(大1座・小5座)について に戻る
豊後国(ぶんごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 豊後国 6座(大1座・小5座)の神社です
豊後国 式内社 6座(大1座・小5座)について