酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
酒井神社(Sakai shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市郡山町1759
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)
保食命(うけもちのみこと)
《明治41年 村社横道下神社、同八柱神社、同八幡神社 外に無格社二十八社を合祀》
大山祇命,品陀和気命,伊弉冊命,火産霊命,木花開耶姫命,宇賀魂命,菅原道真,武雷命,天兒屋根命,斎主命,姫大神,天忍穂耳命,活津彦根命,市寸島姫命,天津彦根命,熊野奇毘命,多岐都命,天菩日命,多紀理姫命,櫛磐間戸神,豊磐間戸神,金山彦神,八衢彦神,八衢姫神,千千比売命,稚産霊命,鳴雷命,大山祇命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧郷杜〈明治八年十一月に列せられる〉
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈服織神社御旧跡〉
【創 建 (Beginning of history)】
御祭神 豊宇賀能賣命 保食命
当社の建立は飛鳥時代 天智天皇治下十年(西暦 六七一年)伊勢国造安芸県主大伴倉麻呂祭之とあり 同年秋9月 直神原以南 清水に酒の泉湧出たり、日増しに多く湧き遠く東に流れ小川となりその水を神社供え里人 之を呼んで酒井川ときめ この社を酒井神社というに至れり、
又当社は古文書多く保延五年(西暦 一一三九年)神田寄進の古文書等もあり昭和五十六年文化財の指定を受けた
「獅子舞の由来」
郡山の獅子の由来は古く 平安時代 高倉天皇(平安時代後期)の承安四年(西暦 一一七一年)正月後獅子三口を安鎮せりとある、その目的は 悪鬼邪神を払ひ 五穀成就 家内安全等の祈祷にあり、毎三年に式年大祭が行われ二月より初まり四月三日に終了するものであり その舞方は勇壮にして荒々しく、しかも華麗と謂われ 乱調、田楽、乱舞、獅子起、扇の舞、劔の舞、花の舞、四方舞、以上あり
昭和五十九年十一月吉日 酒井神社宮司 前田義方 謹書
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
社名の由来は神社の北方を流れる中ノ川(酒井川)によるといわれる。この鎮座地周辺は奄芸郡家の所在地とされ、付近には古墳群が多く、古代から中世に至る大集落跡も発見されている。社伝は天智天皇10年(671年)の創祀という。一説には近くの秋永にいたという信任の長者が伊奈冨神社を信仰し、住居近くに新宮を営んだという伝承から稲生新宮、郡山新宮さらに郡山大明神ともよばれてきた。延喜式内社で西の宮、中の宮、東の宮の3社から成っていた。当社には数多くの古文書が残されており、最も古いものは保延5年(1139年)のもので、白子から津にわたる栗真庄の田三反を当社に寄進したとある。明治40年付近の15社を合祀、次いで 翌41年には18社を合祀、更に大正5年に境内の2社を合祀した。
酒井神社公式HPより
https://sakaijinja.wixsite.com/home
酒井神社文書(もんじょ)
昭和五十六年三月三十日指定 酒井神社
酒井神社は、郡山大明神とも呼ばれ、伊奈富神社との関係も深く、稲生新社と言われたこともある。この文書は、平安末期の保延(ほうえん)五年(一一三九)を最古とし、室町時代に及ぶ20通が指定されている。内容は、社領や神事に関するもの、在地豪族の動静を知り得るものもある。
左の写真は、保延5年の栗真庄の田寄進の下文で、この社も稲生社と同じく三社に分かれていて、酒井神社三社それぞれに田が寄進されたこどを示している。県内中世文書として貴重な資料である。平成十四年三月 鈴鹿市教育委員会
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・弊殿
・拝殿
・八王子古宮・三大神御旧跡〈大正5年合祀 酒井神社境内 三大神〉
・冨士明神・西ノ宮御旧跡・天満宮・天神宮・稲生神・山神 等
・服織神社御旧跡〈大正5年 酒井神社に合祀 境内 服織神社〉
〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡ともされます〉
郡山大明神の縁起には
゛稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人があって 洪水でお参りに行けなかったときに 神託があり 郡山に稻生新宮を造立した これが郡山大明神である この出来事は延喜式より以前の事で 此の新宮を酒井神社として 式内社に列したものであろう゛と載せています
゛羽止利跡(はとりあと)゛を式内社とする説があり
この説によれば 服織神社が 境内社のように見えますが
〈後に式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社となる〉服織神社が 元々はこの地に鎮座していて 稻生新宮を服織神社の境内に造立した〈延喜式以前〉と云い
やがて中世頃より 服織神社の勢力が次第に弱まり 酒井神社との地位が転倒し ゛羽止利跡(はとりあと)゛と呼ばれる祠となり 明治6年の神社改めの際 誤まって酒井神社が主座となり やがて大正時代に合祀されたと云う
酒井神社(鈴鹿市郡山町)の公式HPには゛延喜式内社で西の宮、中の宮、東の宮の3社から成っていた。゛と記されています
もしかすると・酒井神社・羽止利神社・三大神社なのでしょうか
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
①本社②服織神社御旧跡の二か所が 式内社の論社となっています
①本社 酒井神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 酒井神社
[ふ り が な ](さかゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sakai no kamino yashiro)
②服織神社御旧跡
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ]服織神社
[ふ り が な ](はとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatori no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社について
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
・酒井神社(鈴鹿市徳居町)
酒井神社(さかいじんじゃ)は ゛社伝によれば 当社の瑞籬の麓の井戸を眞井(まない)と称し 古来より旱魃の時 当社へ祈請し雨を乞うときは 神応著しく忽ち霊験を賜う゛とあります 明治36年(1903)以前は「宇気比神社」と呼称されていて それ以後 酒井神社と称しています 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です
酒井神社(鈴鹿市徳居町)
・夜夫多神社(鈴鹿市甲斐町)
夜夫多神社(やぶたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載の式内社 伊勢國(いせのくに)河曲郡(かわのこおり)夜夫多神社(やふたの かみのやしろ)とされます 祈年祭(御鍬)~田打ち(馬の砂かけ)は 境内に約2トンの砂を運び入れ そこを水田に見立てて 昔ながらの田起こしから田植えまでを再現されます
夜夫多神社(鈴鹿市甲斐町)
延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社について
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢鉄道 徳田駅と中瀬古駅の中間辺り 中ノ川の南岸に鎮座します
神社の南面に駐車場があります
南向きの社頭には 鳥居が建ち 社号石碑には゛式内 酒井神社゛と刻字
酒井神社(鈴鹿市郡山町)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 参道を進みます
木々に覆われた参道を進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 酒井神社について
祭神は不祥 所在は郡山村に在す、酒井川と云あり〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)〉としています
式内社 服織神社について
所在は郡山村に在す〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉と記しています
【抜粋意訳】
酒井神社
酒井は佐加為と読り
○祭神詳ならず
○郡山村に在す、酒井川と云あり、俚諺連胤云、考証の説從ひがたし、按るに、越前國坂井郡 坂名井神社 同称にて、福井神を祭るにはあらぬか、猶考ふべし、
【抜粋意訳】
服織神社
服織は八止利と訓べし、和名鈔、郷名部、服織、假字上の如し
○祭神 織姫、俚諺
○郡山村に在す、同上
○日本紀、雄略天皇十四年正月丙寅朔戊寅、身狭村主 青等共、呉國使、將呉所献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、中略 漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫之先也、類社
大和國 城下郡 服部神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 酒井神社について
所在は郡山村に在り〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)〉と記しています
式内社 服織神社について
所在は御園村八幡山にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒井(サカヰノ)神社
今 郡山村に在り、郡山明神と云、蓋是也、式内社検録、
傳云ふ 稲生三社明神を移し奉る、故に名て稲生新宮とす、稲生明神縁起【抜粋意訳】
服織(ハトリノ)神社
今 御園村八幡山にあり、舊村内一宮森 舊名 波止利森 にありしを、後 今地に遷す、本社所蔵 大永八年記文、三重縣神社調、
栲幡千々姫命を祭る、大永八年記文 凡毎年八月十五日祭を行ふ、三重縣神社調、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 酒井神社について 所在は郡山村 郡山大明神〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)〉と記しています
甲斐村〈現 夜夫多神社(鈴鹿市甲斐町)〉
德居村〈現 酒井神社(鈴鹿市徳居町)〉 という説もあるが 證據が無いとも記しています
又 併せて 郡山大明神の縁起を記していて 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人があって 洪水でお参りに行けなかったときに 神託があり 郡山に稻生新宮を造立した これが郡山大明神である この出来事は延喜式より以前の事で 此の新宮を酒井神社として 式内社に列したものであろうと載せています
【抜粋意訳】
酒井神社 稱 郡山大明神
祭神
祭日 丑辰未戍四年毎に一度三月朔日至三日
社格 村社 (明治三十五年郷社昇格)所在 郡山村 (河藝郡榮村大字郡山 )
今按るに傍注には甲斐村とし 考証は德居村とす 共に無証の憶断信じがたし 再考に郡山村に酒井川在といへるに依て始て案内記に郡山村に在と決定す
其以後の諸書從て 郡山大明神に配し 舊藩よりも酒井神社の石標を社前に建つ 酒井河は郡山村の南にある小流にて 其水源に酒井と云ふあり 酒香ありなと云へり
其 郡山大明神社は 稻生神社縁起云 郡山大明神 御神體 稻生三社大明神也 昔秋永村に信任長者と云人有 発大信力而 稻生大明神 仁 日参其道程二十町餘間仁 川有 或時 大洪水而不能詣 当社長者大に悲む云云 其夜大明神 夢告曰 自今以後 郡山仁新宮建立而可念云云 從爾 此社造営 則額正一位稻生新宮とある社にして神殿三宇の造制より祭日に至るまて都て稻生の本社に准す 然して 信任長者の造立 延喜の以前にして 其新宮を酒井と稲して神名帳に列せしにや 其證跡を見されば 不審少からねと社地の體裁千古の風あれは姑く古説に從ふものなり
【原文参照】
式内社 服織神社について 所在は三ヶ所あると詳細を記しています
①其一は 御園村にあり〈現 服織神社(鈴鹿市御薗町)〉
゛式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす゛
②其一は 久知野村にあり〈現 服織神社(河芸町久知野)〉
゛是亦 式社には判定しがたし゛
③其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ
〈現 酒井神社(鈴鹿市郡山町)に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
゛本社服織に確證なし未定とす゛
三ヶ所の何れも 証拠に確証がなく 決めがたいと記しています
【抜粋意訳】
服織神社
祭日
社格
所在今按この社所在の村三所あり
其一は御園村にありて 本村日吉神社修覆の時 古書一通を得たり 其文に波止里(ハトリノ)神社 千々姫ノ命 服部ノ御園神明田米三石麻五斤両太神宮御衣献之森・東西二百間余有之盜人殺人ヲ,故産神八幡宮古席え移ス神明ヲ也道、自西十間木森残志餘は切拂ヒ畠に成すー之宮之森は日吉八王子之命也、大永八戊子年正月清成山春性寺樂藏主書 北川平七ドノへとあるを以て證とすれと紙墨新くして大永のものに非す 其社頭を檢るに從古在來れる八幡社正中にあり 其左に神明の小祠あるを本社服織に塡つる也 殿内の棟札を一覧するに永仁三年三月田三所 寄進の記あり剝落して讀むベからねど仁王講田 毎月十五日云云 放生會田云云など見ゆれば 八幡社の記文なる事著也 延寶五年に其古札の写札あり端書の所を削て服部神社と改書し紀州大納言樣より社頭 波止里神明に寄附の八字を加筆し 又爲 服部禅社修覆令寄附候畢の十二字をも挽入す 又 永和四年十一月の札に伊勢國清成名八幡宮爲一新改め永録七年十二月の札に奉再興勢州安藝郡御園清成村八幡古廟事とある八幡の上へ入墨して服織と改め 元和八年の札に八幡大菩薩とある上へ入墨して服織大菩薩に易へたるなと拙劣の所爲 一目撃して真偽を辨せらるるを固執して 式社たらむ事を願ふは盲味の造意論するに及はす
其一は 久知野村にありと云て 社殿もなきを新地に急に造立し 明治七年十月廃社地へ記杭を建むとして地を堀しに土中より表に式内 羽織社 大日孁貴 裏に服部郷久知野と彫れる石を堀得たりと云ふを證とすれと 其字體 新しくて百年にも満たさるへき程のものなり 又舊くより別当福德寺に在りたりと云ふ神像は 所謂 両實童子の佛師作の彩色形なり 俗に天照大神の御影と 謂ふを以て 石に大日孁貴と彫れるに符合すべく 巧める狡意の所作なり 又煽畷扇神等を以て 本社の拜所とすれど 扇は奄藝の音便読にて 奄藝郡奄藝郷の考証には 備ふべし服織社に開係する事に非ず 是亦 式社には判定しがたし
其一は 郡山村にあり郡山神社の境内の西にある祠を云ふ さるは其四五町郷南に 羽止利跡と云 貮畝步斗りの舊址あり 其所より遷せリと云ふ 傍を衣織谷と云ふあり 又 郡山 中瀬古 秋永の三村を染野三郷と字するも服部に由あり 又 社蔵の文書に一栗眞莊内 郡山大明神 羽止里神社 於ニ 右二社 者夫役用途事以ニ別儀可被閣候恐々謹言九月十五日氏光「花押」豊川法橋殿とあるを稱とすれど 今在る文書は後人書換へて本書を隠埋せしかとも 享保に写したる本書の文には 栗眞庄内土御前稲生大明神 郡山大明神於三社者夫役用途事以別儀可被閣候とあれば 羽止理神社の證文とはなし難し 又 羽止利跡といふ地も里俗は富士権現と呼へは 垢離かきて富士を遥拝せし遺跡なり 又 衣織谷の字あり 衣手山の古歌ありなど證すれど 都て服織に附會せるのみ慥なる事なし 又 染野三郷の字をも證とすれど 假字書にシメノとあり されは標野(シメノ)の假借にて本社の證には備ふへからす 況や郡山大明神の西宮は稲生神社の勧請にて 西宮地主姫神たる事 瞭然たれは 本社服織に確證なし未定とす
其余 考診に福徳村案内記に白子服得天王久居藩明細帳に鈴鹿郡安知本村等にも配せれど 何れも明徴ある事なし 猶他に覓むべきにや
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
酒井神社(鈴鹿市郡山町)について 式内社 酒井神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇三重縣 伊勢國 河藝郡榮村大字郡山
郷社 酒井(サカヰノ)神社
祭神 豊宇賀能賣(トヨウカノメノ)命 保食(ウケモチノ)命
合殿
天兒屋根命 菅原道眞 武雷命 金山彦命
五男三女神 品陀和氣命 大山祇命 豊磐間戸命
大日霊命 八街彦命 八街姫神 須佐之男命創建年代詳ならすと雖も、
神名帳考証に、「酒井神(サカヰノ)社、今云甲斐村此乎、大和國 狭井大神荒魂神社、傳云、岡部忠澄領、岡部大神部之訛乎」と見え、
神名帳考証再考に云く、「社號文字の如く酒を醸するに用ゆる井なり、神祇官に所祀福井(サクヰ)、祈年祭の祝詞の榮井(サクヰ)、共に假字なり、酒は大古より重ずる者なれば、其井も崇め尊ぶべし、祀神水霊なり、社地末考、郡山と云ふ所に酒井川の字ありといふ、」
神社覈録に云く、「酒井は佐加爲と読り、祭神詳ならす、郡山村に在す、酒井川と云ふあり 連胤云く、考証の説從ひがたし、按ずるに、越前國 坂井郡 坂名井神社同称にて、福井神を祭るにはあらぬか、尚考ふべし」と附記せり、
神祇志料に云く、「酒井神社、今郡山村に在り、郡山明神と云ふ、蓋是也、伝へ云ふ、稲生三社明神を移し奉る、故に名づけて稻生新宮とす」と云へり、
共に奄芸郡(明治二十九年奄藝河曲の二郡を合せ河藝郡とす)十三座の一に列し式の小社たり、社傳によれば、往古当社鎮座の砌 社南の小谷より醇酒湧出でしかば、当時は神酒にも供へ諸人にも給ふ、此水 東に流れて遠く海に入る、酒井川と稱し、此川に棲息する魚類を食するに酒の香を帯ぶと云ふ、酒井川今榮川(サカエ)と云ひ、
五鈴遺響に云く、衣手山は郡山の丘にて榮川の邊なりとあり、顕仲が「ころもての山のふもとに立つ鹿のうらさびしきはあけぼのの聾」(夫木集)と詠みたる是なり、
又参宮圖會に「酒井神社は延喜式、奄藝郡に列す、今榮川の傍に在り、郡山明神と称す、相傳ふ、稻生神を移し奉ると、故に稻生新宮とも言ふ」と見ゆ、此外別に称ふべきなし、尚後の考定を挨つ、
明治八年十一月郷杜に列せられ、同四十一年村社横道下神社、同八柱神社、同八幡神社外に無格社二十八社を合祀すと云ふ。社殿は本殿、拝殿、参籠殿等あり、境内坪数3971坪(官有地第一種)を有す、
【原文参照】
酒井神社(鈴鹿市郡山町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について