実践和學 Cultural Japan heritage

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琉球の゛歴代の王統゛と゛琉球八社゛について

琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ)は 琉球王国(琉球國)゛歴代の王統゛「琉球八社(官社)の制」として 王府から特別の扱いを受けた八つの神社を云い〈「熊野権現」七社(・波上宮天久宮沖宮末吉宮識名宮普天間宮金武宮「八幡神」る一安里八幡宮から構成されます

1.琉球八社のご紹介(Introduction)

 琉球八社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

拝みの文化が 色濃く残る沖縄に伝わる琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ)

1.波上宮(なみのうえぐう)
2.沖宮(おきぐう)
3.識名宮(しきなぐう)
4.普天満宮(ふてんまぐう)
5.末吉宮(すえよしぐう)
6.安里八幡宮(あさとまちまんぐう)
7.天久宮(あめくぐう)
8.金武宮(きんぐう)

琉球の゛歴代の王統゛と゛琉球八社について

琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ)は 琉球王国(琉球國)において「琉球八社(官社)の制」として 王府から特別の扱いを受けた八つの神社ですが
琉球王国とともに どのように誕生したのでしょうか

琉球の社会 (10世紀頃)平安時代頃までは 長い間 豊かな島国として狩猟採集の生活が続いていたとされます
12世紀に農耕社会となり 14世紀から15世紀初頭には 三山時代山北(さんほく)中山(ちゅうざん)山南(さんなん)三つの勢力が互いに張り合って対立した時代がありました
三勢力であった三山は 15世紀に入ると 尚 思紹王(しょう ししょうおう)が 中山の察度王統(さっとおうとう)を倒し中山王とな
その王子 尚 巴志 王(しょう はしおう)が 北山・南山を倒し三山統一゛がなされます これが沖縄本島を初めて統一し琉球王国゛の誕生とされます

尚 巴志 王(しょう はしおう)は 王都を浦添グスクから首里城に遷都し 併せて貿易拠点を那覇に移します
王都の遷都に伴い交易の拠点となった那覇港によって 日本や中国 東南アジアとの交易拠点となっ琉球王国は 海洋国家として発展を遂げていきます

琉球八社゛を創建の伝承が古い順に並べる

沖宮(おきぐう)

創建 2説あり

舜天王統・初代 舜天王(しゅんてんおう)の父とされる源為朝(みなもと の ためとも)の時代〈1139~1170年〉に造られたと社伝

または 第一尚氏王統・第5代 尚金福王の時代14501453年〉「那覇港の海の中から不思議と光輝く霊木があり 宮社建て 熊野権現の霊木として祀ったという説

・沖宮(那覇市奥武山町)

一緒に読む
沖宮(那覇市奥武山町)

沖宮(おきのぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つで 創建の伝承は〈詳らかではないが〉2説あり 1つは舜天王統・初代 舜天王の父とされる源為朝の時代〈1139~1170年〉とするもの 2つは 第一尚氏王統・第5代 尚金福王の時代〈1450~1453年〉「那覇港の海の中から不思議と光輝く霊木があり 宮社を建て 熊野権現の霊木として祀った」という説です

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波上宮(なみのうえぐう)

創建 1368年と社伝

・波上宮(那覇市若狭)

一緒に読む
波上宮(那覇市)

波上宮(なみのうえぐう)は 古来琉球の信仰として 海神の国(ニライカナイ)の神々に祈りを捧げる 御嶽拝所(聖地・拝所)がある崖の上の場所に鎮座しています 琉球王朝(琉球國)時代には「琉球王国の無事安泰を祈願」する守り神として 王朝から特別の待遇を受け信仰された「琉球八社(官社)の制」の首座を占めた格式を持つのが「波上宮(naminoe gu)」です

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普天満宮(ふてんまぐう)

創建 往昔 普天満宮の洞窟(普天満宮洞穴)に琉球古神道を祀ったことに始まり 第一尚氏王統1406~1469年・第5代国王 尚金福王(しょう きんぷくおう) 在位〈1450~1453年〉~・第6代国王 尚泰久王(しょう たいきゅうおう) 在位〈1454~1460年〉の時代(15世紀中半)に熊野権現を合祀したと伝

・普天満宮(宜野湾市普天間)

一緒に読む
普天満宮(宜野湾市普天間)

普天満宮(ふてんまぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つで 創建の伝承によれば 往昔 普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり 第一尚氏王統・第5代国王 尚金福王から第6代国王 尚泰久王の頃(1450~1460年)熊野権現を合祀したと伝わります

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末吉宮(すえよしぐう)

創建 第一尚氏王統1406~1469年・第6代国王 尚泰久王(しょう たいきゅうおう) 在位〈1454~1460年〉の時代  天界寺の前住職であった鶴翁和尚が熊野権現を祀り創建と伝

・末吉宮(那覇市首里末吉町)

一緒に読む
末吉宮(那覇市首里末吉町)

末吉宮(すえよしぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つで 社壇(しゃだん)とも呼ばれ 現在その跡は「末吉宮跡」として国の「史跡」に指定されています 『琉球神道記』などには 第一尚氏王統・6代.尚泰久王の在位年間〈1454~1460年〉に 鶴翁和尚(かくおうおしょう)が 首里城北方の小高い岩礁の霊地に 熊野三所権現を斎祀ったのが発祥とされます

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安里八幡宮(あさとまちまんぐう)

創建 第一尚氏王統1406~1469年)・第7代〈1461~1469年〉尚德王(しょうとくおう)〈八幡の按司(あじ)と呼ばれた〉が 文正元年(1466)喜界島遠征を行った際 鬼界島を平定し凱旋 八幡大菩薩の御加護に感謝し 誓願に従い 矢を立てた地に安里八幡宮を建立し さらに高明山神徳寺を併設して梵鐘を掛けさせたのが安里八幡宮の始と

・安里八幡宮(那覇市安里)

一緒に読む
安里八幡宮(那覇市安里)

安里八幡宮(あさとはちまんぐう)は 第一尚氏王統(1406~1469年)第7代〈1461~1469年〉尚德王(しょうとくおう)〈八幡の按司(あじ)と呼ばれた〉が 文正元年(1466)喜界島遠征を行った際 鬼界島を平定し凱旋 八幡大菩薩の御加護に感謝し 誓願に従い 矢を立てた地に安里八幡宮を建立し さらに高明山神徳寺を併設して梵鐘を掛けさせたのが安里八幡宮の始と伝わります

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天久宮(あめくぐう)

創建 第一尚氏王統・7代.尚徳王(しょう とくおう)在位年間1461~1469年〉~第二尚氏王統・第3代.尚 真(しょうしんおう)在位〈1477~1527年〉の時代
明代の正化年間(1465~1487)と伝

・天久宮(那覇市泊)

一緒に読む
天久宮(那覇市泊)

天久宮(あめくぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つです 社伝によれば 創建は成化年間 (1465〜 1487年)とされ 銘刈子(メカルシー)と呼ぶ農夫が 天女と縁を結んだ所として 伝承を残しています

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金武宮(きんぐう)

創建 第二尚氏王統(1469~1879年)・第4代国王 尚清王(しょうせいおう)在位〈1527~1555年〉の時代
補陀落山を求めて渡来した日秀上人が 尚清王の御代の明代の嘉靖年間1522~1566年に琉球王国内を行脚 この地にあった洞窟を霊跡として宮を建て 自身が彫った三尊を熊野権現正体として崇め奉ったと伝

・金武宮(金武町金武)

一緒に読む
金武宮(金武町金武)

金武宮(きんぐう)は 永正年間(1504~1521)補陀落渡海僧゛日秀上人(にっしゅうしょうにん)゛が 漂着した金武に補陀落浄土を観じて この土地にお寺を建て・観音菩薩・薬師如来・阿弥陀如来を彫り〈金武観音寺(きんかんのんじ)〉奉安し 同じ頃 鍾乳洞内に熊野三所権現〈金武宮(きんぐう)〉を勧請したと伝わります

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識名宮(しきなぐう)

創建 第二尚氏王統(1469~1879年)・第5代国王 尚元王(しょうげんおう)在位〈1556~1572年〉長男の病気回復に霊験があったので創建と伝

・識名宮(那覇市繁多川)

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識名宮(那覇市繁多川)

識名宮(しきなぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つで その創建の伝承では 識名村に夜々光輝することがあり 大阿母志良礼(おほあもしられ)といふ神職を努めてゐる女が検分をして 賓頭盧の霊光を確認すると 願いが叶えられた これを聞き及んだ 尚元王(1556~72年在位)の長子 尚康伯が 病気回復に霊験を得て 寺と宮を建てたと伝えられます

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琉球王国誕生と歴史について

琉球の゛歴代の王統゛は 神話の世界に遡ります

(神話の時代)天孫氏王統〈25代17802年間〉
11871259年)舜天王統〈3代72年間
1260~1349年英祖王統5代89年間
1350~1405年)三山時代〈55年間
(14061469年)第一尚氏王統7代63年間
(1469~1879年)第二尚氏王統〈19代410年間〉

 (1609年薩摩による琉球侵攻
 (1872年)琉球藩王 明治5年

(1879年)〈琉球処分〉沖縄県設置を布告 明治12年4月4日
(1945年)〈米軍軍政下〉太平洋戦争゛沖縄戦後゛昭和20年~
(1972年)〈沖縄返還〉昭和47年 日本に施政権が返還され沖縄県が復活

琉球最初の王統天孫氏(てんそんし)王統゛〈25代17802年間〉(神話の時代)

琉球最初の王統は 天孫氏(てんそんし)王統(天孫王統)であったと伝えられ
天帝の使として下界に降った女神アマミキヨか 三男二女をなし 長子及びその子孫が歴代の国王になったと云う〈天帝の子孫にあたることから天孫氏と呼ぶ〉

神話・伝説によれば 天孫氏は25代17802年にわたって続いたとされます

最後の王〈天孫氏 25代目〉思次良金or思金松兼王は 臣下の利勇に殺害され 王位を奪われたと云う
※『中山世鑑』によれば 毒を盛った酒を薬と偽って献上し飲まされ 吐血して亡くなられたと云う

琉球の開闢(かいびゃく)神話の時代

最も有名な伝説として
「アマミキヨという神(琉球開闢の祖)が ニライカナイ(神の世界〈遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方〉)から降り立って国づくりを始めた」と云う
アマミキヨは琉球の島々を造り 一組の男女を住まわせ 三男二女の子が生まれました

沖縄本島の聖地 ゛大石林山(だいせきりんざん)

沖縄の島を建てた神 アマミキヨが 最初に降り立ったとされる 沖縄本島の聖地・大石林山(だいせきりんざん)の敷地内には 40カ所以上の拝所があります

神話の舞台 県南部に位置する ゛久高島(くだかじま)゛

アマミキヨは ここに七つの御嶽(うたき)〈神が訪れる聖地 先祖神を祀る聖地〉を作ったと伝わる
久高島の西側の中央には 久高島第一の聖域と云う゛クボー御嶽゛
久高島の東側の中央には イシキ浜(伊敷浜)があり 伝説では 五穀の入った壷が流れ着き それから久高島 沖縄本島へ穀物が広まったと云う
イシキ浜(伊敷浜)は 今もニライカナイ(神の世界〈遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方〉)に面する聖地となっていて 祈りを捧げる祭祀の場

久高島以外にも 神が降臨したと云う場所 ゛浜比嘉島〈バマヒジャシマ〉(はまひがしま)゛

県内には久高島以外にも 神が降臨したと云う場所がありますその一つが うるま市の浜比嘉島〈バマヒジャシマ〉(はまひがしま)です
「ニライカナイ(神の世界〈遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方〉)から アマミキヨとシネリキヨという男女神が降りてきた」と云う
このアマミキヨとシネリキヨは 『古事記』のイザナギノミコトとイザナミノミコトに該当するとも云われ 二神は子を授かり その子孫が人間として繁栄したとされます その洞窟が゛シルミチュー霊場゛として祀られています

舜天王統(しゅんてんおうとう)〈3代72年間〉 11871259年)

舜天(しゅんてん)王統は 源為朝の落胤とも伝えられ 伝説上の人物とされる゛舜天(しゅんてん)〈1166~1237年〉゛が 天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち 22歳で琉球国中山王に即位して 立てた王統が舜天(しゅんてん)王統
琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などには 12世紀 源為朝(みなもと の ためとも)〈鎮西八郎が 現在の沖縄県の地に逃れ その子が舜天になったと伝わっている

歴代王

1.舜天(しゅんてん)在位51年間1187~1237年
2.舜馬順煕(しゅんばじゅんき)在位11年間〈1238~1248年〉
3.義本(ぎほん)在位11年間〈1249~1259年〉

※義本王の摂政であった〈天孫氏〉英祖(えいそ)が 義本王から王位を禅譲され 舜天王統は終る

舜天王統の舜天王と源爲朝公を祀る 沖縄神社

大正11(1922)県社 沖縄神社 創立の議が起
御祭神に舜天王〈舜天(しゅんてん)王統の始祖〉・尚圓王〈第二尚氏の始祖〉・尚敬王〈13代 琉球国司から琉球国王の王号に復した〉・尚泰王〈最後の琉球国王〉を主神 源爲朝公を配祀とすることで内務省より沖縄神社創立許可を受けた
昭和20年(1945)戦火とともに沖縄神社社殿は焼失し 戦後再建される

・沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)

一緒に読む
沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)

沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)は 1879年 琉球併合(りゅうきゅうへいごう)によって 沖縄県が新設され 大正期に入り 沖縄県民は近代社格制度に基づく「県社」の建立を希望し 首里城跡に 源為朝公と歴代国王が祀られる 沖縄神社が創建されたのが始まりです 戦後 弁ヶ嶽の隣に再建されて現在に至ります

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英祖王統(えいそおうとう5代89年間〉 (1260~1349年

舜天王統の3代 義本王の摂政であった〈天孫氏〉英祖(えいそ)が 王位を禅譲されて誕生したのが英祖王統
英祖(えいそ)は 最初に王朝を築いた神の子の王統〈天孫氏〉の最後の王 思金松兼王(25代目)の四男・西原王子(思次良金)の世子である伊祖城の恵祖世主(浦添按司)の子とされる

歴代王

1.英祖(えいそ)在位40年間1260~1299年
2.大成(たいせい)在位9年間1300~1308年〉〔英祖の世子
3.英慈(えいじ)在位6年間1308~1313年〉〔大成の次男〕
4.玉城(たまぐすく)在位24年間1313~1336年〉〔英慈の三男〕
5.西威(せいい)在位13年間1337~1349年〉〔玉城の長男〕

三山時代(1350~1405年

山北(さんほく)〈今帰仁村を中心とする〉
中山(ちゅうざん)〈浦添→首里を中心とする〉
山南(さんなん)〈旧高嶺間切(現在糸満市の一部)の大里を中心とする〉
この三つの勢力が互いに張り合って対立した時代

第一尚氏(だいいちしょうし)王統7代63年間(14061469年)

1406年 佐敷(さしき)の按司(あじ)尚巴志(しょう はし) 中山王武寧(ぶねい)を攻め滅ぼし 父・尚思紹(しょう ししょう)を中山王位に即け これが第一尚氏(だいいちしょうし)の王統始まり
第一尚氏は 1416年 尚思紹在位中に北山王国を 2代尚巴志(しょう はし)即位後の1429年に南山王国を滅ぼし三山統一゛がなされます これが沖縄本島を初めて統一し琉球王国゛の誕生とされます

滅亡までに先島諸島を除く沖縄諸島や奄美群島を制圧し 5代尚金福王の時代に首里と那覇を結ぶ長虹堤を築造 6代尚泰久王の時代に護佐丸・阿麻和利の乱が起き 7代尚徳王の死後に金丸(後の尚円王)の即位により王朝は滅亡した

歴代王

1.尚思紹王(しょう ししょうおう)在位年間1406~1421年
2.尚巴志王(しょう はしおう)在位年間1422~1439年
3.尚忠王(しょう ちゅうおう)在位年間1440~1444年
4.尚思達王(しょう したつおう)在位年間1445~1449年
5.尚金福王(しょう きんぷくおう)在位年間1450~1453年
6.尚泰久王(しょう たいきゅうおう)在位年間1454~1460年
7.尚徳王(しょう とくおう)在位年間1461~1469年

第一尚氏(だいいちしょうし)歴代王が合祀される ゛月代宮

※ 佐敷上グスク゛〈南城市指定の史跡内に屋蔵大主鮫川大主を含む 第一尚氏(だいいちしょうし)歴代王が合祀され「月代宮」が鎮座します

・月代宮(南城市佐敷)

一緒に読む
月代宮(南城市佐敷)

月代宮(つきしろのみや)は 三山統一を果たし その後450年もの間続く 琉球王朝を打ち立てた英傑゛尚巴志(しょう はし)゛の築いた第一尚氏(だいいちしょうし)王統〈7代63年間〉(1406~1469年)の始祖と7代王を祭神として 1938年に第一尚氏の氏子組織「つきしろ奉賛会」によって建立されたものです ゛月しろ゛とは 初代王の尚思紹の庭にあった霊石で守護神とも伝わります

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第二尚氏(だいしょうし)王統〈19代410年間〉(1469~1879年)

第二尚氏(だいにしょうし)の始祖 尚円(しょう えん)は 即位以前の名を金丸(かなまる)と云い 伊是名島の百姓の出身とも伝わるが この伝承は後世の作り話との説もあり 出自の詳細は不明

第一尚氏(だいいちしょうし)7代 尚徳王 が 29歳で薨去(1469)4月の時 法司(三司官)は その世子を即位させようと 重臣たちを招集して会議を開いた しかし国王としての資質を問われ その席で金丸を次期王に推すことが決定された〈クーデターにより世子は殺害〉金丸は 隠遁先から首里に迎えられ即位し 尚円(しょう えん)と名り ここから第二尚氏(だいしょうし)王統が始まりました
伝承によれば この場〈クーデター〉では 泊村の老人 安里大親(あさと うふや)が 神がかりして「物呉(ものく)ゆすど我御主(わがうすう)内間御鎖(うちまうざし)ど我御主」(財貨を与えてくれる者こそ我が主であり それは内間金丸さまである)と世謡(ユーウテー)を謡いだし それを聞いた一同は「ヲーサーレー(その通り)」と唱和し 金丸を王に推戴したと云う

以後 尚円王を始祖とした第二尚氏(だいしょうし)王統は 尚円王即位の1469年(成化6年)から1879年(光緒5年)までの410年間 最後の尚泰王まで19代にわたって沖縄の琉球王国を統治した 琉球最後の王朝となりました

尚圓王〈第二尚氏の始祖〉・尚敬王〈13代 琉球国司から琉球国王の王号に復した〉・尚泰王〈最後の琉球国王〉を祀る 沖繩神社

大正11(1922)県社 沖縄神社 創立の議が起
御祭神に舜天王〈舜天(しゅんてん)王統の始祖〉・尚圓王〈第二尚氏の始祖〉・尚敬王〈13代 琉球国司から琉球国王の王号に復した〉・尚泰王〈最後の琉球国王〉を主神 源爲朝公を配祀とすることで内務省より沖縄神社創立許可を受けた
昭和20年(1945)戦火とともに沖縄神社社殿は焼失し 戦後再建される

・沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)

一緒に読む
沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)

沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)は 1879年 琉球併合(りゅうきゅうへいごう)によって 沖縄県が新設され 大正期に入り 沖縄県民は近代社格制度に基づく「県社」の建立を希望し 首里城跡に 源為朝公と歴代国王が祀られる 沖縄神社が創建されたのが始まりです 戦後 弁ヶ嶽の隣に再建されて現在に至ります

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琉球八社(りゅうきゅうはっしゃ) (hai)」(90度のお辞儀)

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