乙咩神社(おとめじんじゃ)は 昔 八幡大神が 辛島の酒井泉社から この地に移られました この時 辛島勝乙目(からしまのすぐりおとめ)が 浜辺で泉を掘って 八幡大神の洗浴に関する奉仕をされました その泉水を「乙咩水(おとめのみず)」と呼び 現在も境内入口の南側に御霊水の井戸が 八幡大神の御霊幸の跡として残っています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
乙咩神社(otome shrine)
(おとめじんじゃ)
【鎮座地 (location) 】
大分県宇佐市大字下乙女1343
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》仲哀天皇(chuai tenno)(第14代天皇)
神功皇后(jingu kogo)
應神天皇(ojin tenno)(第15代天皇)
比売大神(hime okami)(三女神)
仁徳天皇(nintoku tenno)(第16代天皇)
日本武尊(yamato takeru no mikoto)
天児屋根命(ameno koyane no mikoto)
別雷命(wakeikazuchi no mikoto)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・宇佐神宮行幸会 境外8摂社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝では 和銅3年(710)創建
【由 緒 (history)】
御祭神
仲哀天皇(第十四代) 神功皇后
應神天皇(第十五代) 比売大神(三女神)
仁徳天皇(第十六代) 日本武尊
天児屋根命 別雷命御由来
當社は
今年より1290年前 人皇第43代 元明天皇 和銅三年 現位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬を設けて 仲哀天皇 神功皇后 應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが 御創建と言ふことになつております又 比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合せまつられた神々であります
本社は 乙比咩社 乙咩八幡宮 乙咩社などと となえられておりましたが 明治4年 乙咩神社と号することになりました
往昔 この地は 八幡大神の御神霊 御霊幸の霊地として 宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ 又朝廷より奉幣使等の御参向もあつた程のまことに御由緒の深い神社であります尚 宮下の南にある乙女水(誓水)は 八幡大神 御霊幸の際 最もゆかりの深い御霊水と伝えられております
御祭日
二月二十五日 祈年祭 五穀の豊作を祈願
四月三日 例祭 當神社に最もゆかりのある祭日
十二月十四日 新嘗祭 新米を献じ神恩に感謝平成十一年四月 謹書 境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・秋葉神社《主》軻遇突知命
・乙咩水(otome no mizu)「御霊水」
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「行幸会(gyokoe)」の行幸順は 次のように伝わります
宇佐八幡→①田笛社→②鷹居社→③郡瀬社→④泉社→⑤乙咩社→⑥大根川社→(薦神社)→⑦妻垣社→⑧小山田社→宇佐八幡
かつては 宇佐八幡の境外8摂社とされていました
詳しくは「宇佐八幡 行幸会(gyokoe)」について の記事をご覧ください
行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
豊前善光寺駅から 県道529経由 約2.0km 車 5分程度
レンガ塀に囲まれた古墳(5世紀頃の方形周溝墓)の上に鎮座します
乙咩神社(otome shrine)に到着
一礼して鳥居をくぐり抜けます 扁額には「八幡大神」とあります
参道は レンガ塀に挟まれた石段を上ります
すると 玉に足を掛けた狛犬が構えていて 正面に神楽殿が建ち その奥に拝殿が見えます
拝殿前の神楽殿の扁額には「乙咩神社」とあります
神楽殿の奥に建つ
拝殿にすすみます
鳥居から拝殿までは すべて東向きに建てられています
扁額には「乙咩神社」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内には多くの石祠の境内社が祀られています
本殿は白塀で囲われています
境内を後にして 鳥居をくぐり振り返り一礼します
鳥居の正面には金比羅宮があります その入口にある祠にお詣りをします
境内入口の南側にある御霊水の井戸へ向かいます
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『八幡宇佐宮御託宣集(hachiman usanomiya gotakusenshu)』に記される
「乙咩濱(otome no hama)」の伝承
八幡大神が 御修行の昔 北方の荒潮の海の浜辺(乙咩濱)に移られたとき 辛島勝乙目(karashimano suguri otome)が 海辺に泉水を掘り出し 洗浴の奉仕をされた伝わります
【原文】
自利其至流乙咩濱 云々
豐前國宇佐郡菱形山北方荒潮邊移坐 尓時辛嶋乙目參向大御神之許 畏跪而俟 其御命之時 大御神宣 洗浴世牟者
爰乙目請御命 潮邊掘出泉水 奉令洗浴 即號乙咩水矣
古老傳云 乙目奉蕎麦掻餠 今御行幸会之時 奉備餺飥之是也
「意訳」
「 それより 乙咩濱(おとめのはま)に至ります うんぬん
八幡大神が御修行の昔 豊前国宇佐郡の菱形山の北方へ 荒潮(あらしほ)の邊(ほとり)に移りなされたしかる時に 辛嶋乙目(からしまのおとめ)が 八幡大神の許(もと)にやってきて 畏(かしこ)み跪(ひざまづ)きて 御命を待つと 八幡大神は仰せになられました 「洗浴(みづあみ)をせむ」
ここに辛嶋乙目(からしまのおとめ)は 御命(みこと)を請けて 海辺の砂浜に泉水を掘り出し 洗浴の奉仕をされたといいます
すなはち この泉を「乙咩水」と云うなり古老の傳(つた)へ云ふには
辛嶋乙目(からしまのおとめ)が 蕎麦掻餠(そばがきもち)を奉(たてまつ)る 今 御行幸会(ぎょうこうえ)の時 ホウトウを供え 奉(まつ)るは これなり 」
「乙咩水(otome no mizu)」の伝承について
その泉水を「乙咩水(otome no mizu)」と呼び 現在も境内入口の南側に御霊水の井戸が 八幡大神の御霊幸の跡として残っています 案内板より
御霊水
別名「乙咩水」「ゼミノクチ」などとも呼ばれています
鎌倉時代に記された「八幡宇佐宮御託宣集」によると,奈良時代に八幡神が辛島の酒井泉社からこの地に移った時,辛島勝乙目が泉を掘って,八幡神の洗浴に関する奉仕をしたとされています。神社名 地名はこの乙目に由来します平成元年9月1日 乙咩神社 氏子一同 宇佐の文化財を守る会
案内板より
八幡大神の御霊幸の跡
乙咩神社(otome shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
宇佐神宮の記事もご覧ください
宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています
「宇佐八幡(Usahachiman) 行幸会(gyokoe)」について