実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大隅国 式内社 5座(大1座・小4座)について

大隅国(おほすみのくに)の式内社は 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 大隅国の5座(大1座・小4座)の神社のことです 最南端の式内社として 益救神社(屋久島町宮之浦)もあります

大隅國(オホスミノクニ)について

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大隅國の位置

律令制下の 西海道(サイカイドウ) 九州の一国です
・薩摩(サツマ)・日向(ヒュウガ)・大隅(オオスミ)とともに 奥三州とよばれました

現在の鹿児島県の東部にあたる大隅半島を中心として
内陸部と沿海部と 種子島(タネガシマ)屋久島(ヤクシマ)などの島嶼(トウショ)部とからなります

国立公文書館デジタルアーカイブ 大隅国(元禄)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/viewer/viewerArchives/0000000230

大隅國の成立について

太古の「襲国(ソノクニ)」にあたります 熊襲(クマソ)隼人(ハヤト)の本拠地とされています

和銅6年(713)日向国・肝坏(キモツキ)・囎唹(ソヲ)・大隅(オオスミ)・姶(アイラ) の4郡を割いて 大隅国が創設されます

統治は 大宝律令により 南九州の地に公地公民による班田収受の法(日本国の土地 住民は国の所有物であり 耕地を配分し 税金を課す)を実行するために国府を置きました 国府は 桑原郡(現 霧島市国分府中)にあったとされています

その後 囎唹(ソヲ)郡より 桑原郡を分出し
天平勝宝7年(755)には 菱刈(ヒシカリ)郡が その北に新設されます

天長1年(824)には 多褹島(タネノシマ) を廃し 大隅国に合併し 熊毛(クマゲ) 馭謨(コム) の2郡が置れます

大隅國 隼人の反乱

大和朝廷は 国府を制定しましたが 先住民〈隼人族〉の支持を得られませんでした
翌年(714)には 国府の機能を生かすことを目的として 隼人の教化政策を打ち出します
それは 現在の福岡県や大分県から 住200戸 民約5000人を移住させました これらの移住者の多くは 朝鮮半島からの渡来人で 高い技術と知識を持つ集団で 律令制を推し進めます
しかし 律令制が 稲作を中心に据えた制度であり 九州南部のシラス土壌は 稲作に適さず 重い課税が課せられたことにも 反発して 先住民〈隼人族〉は 養老4年(720)に国府を襲い 大隅国守の陽候史麻呂(ヤコノ フヒト マロ)を殺害しました

これが 養老4年(720)の「大隅隼人の反乱」とされます

大和朝廷は 大伴旅人(オオトモノタビト)を征隼人大将軍として 一万人の兵を南九州へ送り込みます
豊前の宇佐八幡宮からは 八幡神を神輿(ミコシ)に乗せて 旗印の神として 鎮定に赴きます 約3ヶ年に渡り抵抗した隼人を平定し 養老7年(723)に都に帰還したと伝わります

この反乱によって 班田収授法の適用は延期されることになります 戦乱から80年近く経過した延暦19年(800)になってようやく適用されています

「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について

反乱の情勢の中で それまで国の中心となっていた神社「鹿児島神宮」に豊前の宇佐八幡宮から 八幡神を勧請して 宇佐八幡宮五所別宮となる正八幡宮が成立します

一緒に読む
「宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)」(九州 五所別宮(kyushu gosho betsugu)について

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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大隅國の式内社〈5座〉(大1座・小4座)の 現在の論社は 6神社です

大隅國の郡は 3つに別れています 

桑原郡 1座(大)
曽於郡 3座(並小)
馭謨郡 1座(小)
計    5座

桑原(クハハラノ)郡 1座(大)

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本より

鹿児島神社(大)(かこしまの かみのやしろ)(だい)

・鹿児島神社の旧鎮座地 元宮とされる 石體神社

元宮
石體神社(鹿児島神宮の元宮)

石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます 

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・鹿児島神宮(霧島市隼人町)

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鹿児島神宮(霧島市隼人町)

鹿児島神宮(かごしまじんぐう)は 社伝によると 創始は 遠く神代とも「神武天皇の御代に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮」ともされます 和銅元年(708)現在地に遷座されて 高千穂宮跡の旧鎮座社地には 現在は 摂社 石体宮(石體神社)が鎮座しています

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囎唹(ソヲノ)郡 3座(並小)

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本より

大穴持神社おほなもちの かみのやしろ)

・大穴持神社(霧島市国分広瀬)

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大穴持神社(霧島市国分広瀬)

大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は 天平宝字8年(764)噴火によって3島が出現した時 噴火で島を造った神の名は「大穴持神」とされ 宝亀9年(778)官社となりました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載社〈式内社〉です 大己貴命がマムシに咬まれ忌み嫌ったので この地区にはマムシがおらず まむし除けの信仰の社としても有名です

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宮浦神社(貞)みやうら かみのやしろ)

・宮浦宮(霧島市福山町)

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宮浦宮(霧島市福山町)

宮浦宮(みやうらぐう)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社で大隅五社の一つです 境内の夫婦銀杏は 樹齢千年を越えており 初代 神武天皇が東征前の仮の宮居であったことを記念して お手植えになったものに後世植え継いだとされています

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韓国宇豆峯神社(貞)からくにの うずみねの かみのやしろ)

・韓國宇豆峯神社(霧島市国分上井)

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韓国宇豆峯神社(霧島市国分上井)

韓國宇豆峯神社(からくにうづみねじんじゃ)は 隼人の乱(720)に関わる創建の歴史を持つ式内社となります 律令体制の支配強化のため九州南部に大隅国設置(713)した大和朝廷は 豊前國から200戸(約5000人)の民を隼人を教導するため移住させた 彼らが奉斎する韓国神も遷座して建立したものと伝えています その後に自治を求める隼人族の大規模な反乱が起こります

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馭謨(コムノ)郡 1座(小)

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本より

益救神社すくひの かみのやしろ)

・益救神社(屋久島町宮之浦)

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益救神社(屋久島町宮之浦)

益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861社」の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています

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・益救神社(屋久島町原)〈参考〉 

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益救神社(屋久島町原)

原益救神社(はるおやくじんじゃ)は 往古は旧県社 益救神社の末社であったとも 益救神社(やくじんじゃ)そのものであったとも伝わります 益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます

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大隅國の式内社〈5座〉 (hai)」(90度のお辞儀)

西海道に鎮座する 107座『延喜式神名帳』の所載一覧 に戻る

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西海道に鎮座する 107座『延喜式神名帳』の所載一覧

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています 

このページは
「西海道」に鎮座する(107座…大38・小69)神社の一覧表です

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています