大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大穴持像石神社(Onamochikataishi Shrine)
(おおなもちかたいしじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
石川県羽咋市寺家町ケ1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大穴持神(Ohonamuchi no kami)
相殿 少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大穴持像石神社 おおなもちかたいしじんじゃ 寺家町
大国主神の別名である大穴持神を祭神とし平安中期編纂『延喜式』において小社に列せられ国幣を与えられた社格をもつ。
創立年代は明らかでないが、古来気多神社の摂社とされ、中世には畠山家、近世には前田家の尊崇を受けた。
明治に入り村社、後に県社に列せられ、集落の産土神として信奉され今日に至っている。
境内入口横にある大石は、地震おさえの霊石といわれ、江戸末期 文久年間、その霊験を軽んじた藩役人がこの石を穢したところ、またたくまに異変が生じ、その夜の内に亡くなったとの記録が残る。この地とつながりの深い民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士は、論文集『古代研究』を出版するにあたり、昭和3年、当地出身の弟子・藤井春洋とともにこの社を訪れ、折口民俗学の象徴ともされるタブノキの大樹に覆われた社叢
写真を撮り、口絵に使っている。
境内案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
貞観2年(860)宿那彦神像石神社と共に官社に列し、延喜式内の社である。往昔より寺家部落の産土神として信奉されている。明治16年県社に列した。境内の入口右側に地震石があり、古来、この石のためにこの地には地震がないと伝えている。
石川県神社庁HPより https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0004/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・地震石(ジシンイシ)
神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に 現われた自然石とされ一種の神像に代わる霊石があります
この像石が 神社の鳥居横に鎮座する「地震石」です
「不潔のことあれば 禍(マガ)を得る者が往々ありて 威霊を現したまい」とあり
藩士の一人が 石の霊験の噂を聞きつけ 試しにと小便をかけた ところがたちまち顔が土気色となって具合を悪くすると その夜の内に亡くなってしまったという
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
当神社は 気多大社(羽咋市)能登国一之宮の摂社です
・気多大社(羽咋市)
氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大穴持像石神社
[ふ り が な ](おほあなもちのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoanamochinokataishi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
氣多大社の神幸祭 平国祭〈ヘイコクサイ〉(おいで祭り)について
平国祭(おいでまつり)は 気多大社の大国主神が 少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事とされ 現在は 神馬を先頭に50余名で2市3町(羽咋市 七尾市 志賀町 宝達志水町 中能登町)300キロメートルの行程を 5泊6日かけて巡幸します
能登国を平定した 2柱の大神を「像石(カタイシ)」として祀る神社が 能登国にはあります
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります
①大穴持像石神社(羽咋市)
大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています
大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります
➁身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました
身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
➂八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります
八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
④天神神社(羽咋郡志賀町)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります
天神神社(羽咋郡志賀町穴口)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります
①・宿那彦神像石神社(中能登町)
宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します
宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う
➁・宿那彦神像石神社(七尾市)
宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります
宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります
➂・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます
宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります
④・阿良加志比古神社(七尾市)
阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります
阿良加志比古神社(七尾市)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
羽咋駅から R249号を北上 約4km 車10分程度
参道の入口には社号標「縣社 大穴持像石神社」大正10年4月建立とあります
羽咋川が流れる羽咋町の平地と日本海を見下ろすような高台に位置しています
直ぐ西隣には 能登一之宮の氣多大社が鎮座しています
民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士が 論文集『古代研究』口絵に使っているタブノキの大樹に覆われた社叢が現れます
大穴持像石神社(Onamochikataishi Shrine)に参着
新しい玉垣と鳥居が建ち 老古木の鎮守の杜とマッチングしています
一礼をして 鳥居をくぐると すぐ左には手水舎 右手には「地震石(ジシンイシ)」が鎮座しています 詣りをします
参道正面の社殿にすすみます
拝殿の前には狛犬が構え 拝殿扁額には「大穴持像石神社」とあり 神紋もあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
振り返ると鳥居の先に南方向から参道が一直線に伸びています
鳥居をくぐり 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士が愛したタブノキの大樹に覆われた社叢に 振り返り一礼をします
この神社を愛した博士の墓も参道入り口近くにあります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
官社に列したと記されています
【意訳】
貞観2年(860)6月9日 戊子の条
能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)
宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条について 考察されています
【意訳】
大穴持像石(オホアナモチノカタイシノ)神社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す〇信友 按〈考えるに〉
能登郡に 宿那彦神像石神社(スクナヒコカタイシノカミノヤシロ)とある例えにて
大穴持神像石---神の字がない
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
所在について 不明だと記されています
【意訳】
大穴持像石神社
大穴持像石は 於保奈牟知加多伊志(オホナムチカタイシ)と訓ずべし
〇祭神 明らかなり
〇在所詳らかならず官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
寺家の当社「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
他の論社は 10年程の間に改称などをしていて疑わしいと記しています
【意訳】
大穴持像石神社
祭神 大巳貴命
相殿 少彦名命官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す祭日 4月1日 9月30日
社格 村社 明細帳 縣社とあり(縣社)
所在 一宮寺家村 (羽咋郡一ノ宮村大字 一宮寺家)今 按〈考えるに〉
氣多神社 明応8年(1499)神社目録に30荷 在一宮 大穴持前犬か田と号
寄進と載ているのは この社地の辺なる田畑なりと云い
又
往古以来 氣多神社の摂社にて 氣多の旧神官より 宮司に補せらるる例えなり云い
今尚 神像石は 社前の道辺に存在し 方5尺許にて 偶不潔のことあれば 禍(マガ)を得る者が往々ありて 威霊を現したまい
又 この社を俗に オナヂの宮と称するも その由あれば この地なること疑いなし旧来 同郡 町村と梨谷小山の両社を像石神社として 互いに争論ありしかど
寛延2年(1749)社号帳に町村は 住吉大明神 小山村は三代大明神と記していたのを
寶暦10年(1760)の帳には 町村を大穴持社 天明後は 同所を八千鉾社とし 小山村を大穴持身代社と記せるなど 甚だ疑わしければとらず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
寺家の当社「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
【意訳】
石川県能登国羽咋郡一ノ宮村 大字一宮 寺家(ジカ)
縣社 大穴持像石(オホアナモチカタイシノ)神社
祭神 大穴牟遅(オホナムチノ)命
相殿 少彦名(スクナヒコナノ)命本社は 神名帳に大穴持像石神社とある神社にして 同考証に「清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す」と見え
又 三代実録にも 右の由を記せり
同神は即ち 大巳貴神のことにして 何故に当所に創立せられしか その所以を明らかにせず能登国名勝志に 当社は一ノ宮の山頂にありと 即ち 一ノ宮は国幣中社 氣多神社の事にして 今も尚 当社は その摂社として その地に鎮座し 土民の崇敬極めて隆なり
始め当国の領主 畠山義元 明応8年12月24日 田地2910刈 畑4か所等を寄進し 且つ 本殿及び大門通路に至る営繕あり
その後 又 領主 前田家に於いて代々 氣多神社と同様 社殿 鳥居等の営繕ありし事 当社記録 及び明細帳に記せり而して 当社は 往古より 氣多神社 摂社にして大穴持像石神社と称し来たりが 明治6年 石川県に於いて 頂社と改称し 明治10年3月21日内務省より更に氣多神社摂社と確定せられ 社号も又 旧に復せり
建物は 社殿 拝殿 幣殿 神饌所あり
境内393坪を有し 参詣人 常に絶える事なし
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
大穴持像石神社(Onamochikataishi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について