実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大國主西神社(西宮市社家町)〈西宮神社 境内社〉

大國主西神社(おおくにぬしにしじんじゃ  延喜式神名帳927 AD.所載大國主西神社(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の説があり 明治7年11月に県社となります 西宮神社では 元は境内の仏堂であった阿彌陀堂享保20年(1735)国土経営に尽力した二柱 大己貴命・少彦名命を勧請し神社と伝えていて  戦後は西宮神社の境内社となっています

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 1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

 【神社名(Shrine name

大國主西神社(Okuninushinishi shrine

 通称名(Common name)

 【鎮座地 (Location) 

兵庫県西宮市社家町1-17〈西宮神社 境内社〉

  (Google Map)

 【御祭神 (God's name to pray)】

 《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
   少彦名命(すくなひこなりみこと)

 【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

縁結びの神

 【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

 6.大国主西神社と西宮神社

  大国様を祀る大国主西神社(図 6)が西宮神社の境内にあるが、平安時代中期にあった大国主西神社という説がある。現在の西宮神社は明治時代までは西宮えびす神社という名称であったが、明治時代に入ると 2 ヶ月間だけ大国主西神社と改称されたことがある。

えびすさまの神社が大国様の神社になったということ。明治時代に官社制度ができ、江戸時代までは廣田神社と西宮神社は同じ神主で一体となって運営されて来た。明治時代になり別の神社として分離され、廣田神社はその由緒から官幣大社になり、西宮神社は県社となった。えびすという名前が仏教的な意味合いがあるとの誤解から、えびすを名前として付けられないということになった。そこで式内社「大国主西神社」として名前を変え 2ヶ月続いたが、西宮神社と大国主西神社は明らかに別々の社ということで元の西宮神社に戻った。

平安時代「延喜式神名帳」に大国主西神社が載せられているが、鎌倉時代以降は全くその神社名は挙がらなくなった。代わりに平安時代後期から登場するのがえびす神社である。

えびす神社は大国主西神社から「西」を取って「西のお宮さん」西宮神社といわれるようになり、現在の西宮神社は大国主西神社ではないかという説もある。このようなこともあり、明治時代に一時大国主西神社に名前を変えることになった。

えびす宮総本社たる西宮神社が、明治維新後の混乱の中、わずかな期間ではあるが大国様の神名を冠した神社名を名乗ったことは、たいへん興味深いことであるが、庶民のえびすさまへの信仰はそのような変遷に影響されることなく続いている。

西宮神社のえびすさまと大国さま西宮神社宮司 吉 井 良 昭より 抜粋

 【由  (History)】

 大國主西神社

 大己貴命 少彦名命  五月十五日

  「大國主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。
 明治七年十一月、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があり、西宮神社の境内に同じ県社の大国主西神社が存する関係であったが、社務社入を司る祠掌は西宮神社に在り、戦後は当然の如く大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。

西宮神社公式HPより
https://nishinomiya-ebisu.com/guide/guide01.html

 神社の境内 (Precincts of the shrine)】

大國主西神社(西宮市社家町)は 西宮神社境内社です

 ・西宮神社(西宮市社家町)

一緒に読む
西宮神社(西宮市社家町)〈えべっさん〉

西宮神社(にしのみやじんじゃ)は 全国の゛ゑびす様゛の総本社で 海上守護神 商賣繁盛の神として崇敬されています 平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝が著しく社勢は極めて盛大でした 延喜式内社 摂津國 莵原郡 大國主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社でもあります

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 神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

 『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

 延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)莵原郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 主西神社(鍬靫)
[ふ り が な ](おほくにぬしのにしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohokuninushino nishino no kamino yashiro)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

 【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

 延喜式内社 主西神社に関する論争について

江戸時代には 延喜式内社 主西神社 所在不明となっていました
江戸時代中期 地理学者・並河誠所が 社名に西が含まれること 御祭神の一柱として 大國主命が祀られている事などから 西宮神社を主西神社比定しました

 この並河誠所の説に従い 西宮神社は 明治七年四月この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出て 受理され゛大国主西神社と社名を変更し県社に列せられました

 しかし 政治的な配慮などがあり現在は 西宮神社の境内社 大国主西神社が式内社と比定され・大名持命少彦名命を祀鎮座しています

 詳しくは下記〈西宮神社公式HPより〉を参照

 廣田西宮分離、及び大国主西神社の件

 明治五年三月、官幣大社廣田神社と分離した戎社には、代々廣田西宮両社の神主を勤めてきた吉井家の傍流吉井西家から、「西宮神社」祠掌として吉井良幹が任ぜられ、六年六月には西宮戎社を大国主西神社と改称し、祠掌に吉井良秀を補任している。

明治七年四月、この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出、大国主西神社として県社に列せられた(明治七年六月三十日)。

ところが、同年八月二十八日付を以て先の大国主西神社の社格を取り消し、西宮神社ともども廣田神社の摂社と定める旨、教部省から達しがある。この時点で教部省は、「西宮戎神社」と「大国主西神社」を別の神社と見ており、「西宮戎神社」を「大国主西神社」と改称し県社への昇格を願い出た西宮神社側との認識の違いが混乱の一因となっている。

氏子総代が異議申立てをした処、十一月七日に摂社の儀はそのまま、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があった。ここに云う「大国主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。

氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教部省は苦心、考証の結果、明治八年四月二十八日付で、「今更廣田神社 摂社の名称の取消しは出来ない、大国主西神社の由来に付いては確定出来ないので両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務・社入も別途とするも差し支えなし」と、一応の決着を見た。

大東亜戦終戦後は当然の如く、廣田西宮両神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。

(平成22年7月11日 「吉井良尚選集」より纏めた)

西宮神社公式HPより
https://nishinomiya-ebisu.com/history/history03.html

 延喜式内社 摂津國 莵原郡 主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社について

大國主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)

・西宮神社(西宮市社家町)

一緒に読む
西宮神社(西宮市社家町)〈えべっさん〉

西宮神社(にしのみやじんじゃ)は 全国の゛ゑびす様゛の総本社で 海上守護神 商賣繁盛の神として崇敬されています 平安時代末期には既に高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族神祇伯の参拝が著しく社勢は極めて盛大でした 延喜式内社 摂津國 莵原郡 大國主西神社(鍬靫)(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社でもあります

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・大國主西神社〈西宮神社 境内社〉(西宮市社家町)

一緒に読む
大國主西神社(西宮市社家町)〈西宮神社 境内社〉

大國主西神社(おおくにぬしにしじんじゃ)は  『延喜式神名帳927 AD.』所載の大國主西神社(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)との説があり 明治7年11月に県社となります 西宮神社では 元は境内の仏堂であった阿彌陀堂に享保20年(1735)国土経営に尽力した二柱 大己貴命・少彦名命を勧請した神社と伝えていて  戦後は西宮神社の境内社となっています

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・越木岩神社(西宮市甑岩町)

一緒に読む
越木岩神社(西宮市甑岩町)

越木岩神社(こしきいわじんじゃ)は 古代の磐座信仰の霊石として゛甑岩(コシキイワ)゛をご神体として 神社の創始は 600~700年頃と推定される古社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津国 菟原郡 大國主西神社(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)は当社の地主神である大地主大神(おおとこぬしのおほかみ)として末社「土社」にお祀りされていると伝えます

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甑岩〈越木岩神社の御神体〉&末社「土社」大國主西神社〉

一緒に読む
甑岩〈越木岩神社の御神体〉&末社「土社」〈大國主西神社〉

甑岩(こしきいわ)は 越木岩神社の御神体霊岩〈周囲約40m・高さ10m〉〈酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ているので「甑岩」と名づく〉 末社゛土社゛は 大地を司る〈地震の神様〉大地主大神を祀り 推古天皇の時代(599)飛鳥京の東西南北に地震の神を祀った内の西社であろうと推定され 式内社 大國主西神社(おほくにぬしのにしの かみのやしろ)の論社です

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

 阪神本線 香櫨園駅から東へ700m程で 西宮神社の表大門(赤門)に至ります

 西宮神社の南面には 西宮成田山円満寺があります

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 西宮神社の練塀が続きます

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 その50mほど先に 西宮神社の表大門(赤門)があります

西宮神社に参着

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 一礼をして 表大門(赤門)をくぐると すぐに沖恵美酒神社があり お参りをします

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 沖恵美酒神社(おきのえびすじんじゃ)

 祭神 沖恵美酒大神(おきのえびすおおかみ)

祭日 七月十日

 「あらえびすさま」と崇められ室町時代の文書にたびたび西宮荒夷社鳴動と記され、ている霊験あらたかな神さまてす。もと荒戎町に鎮座されていたのを明治五年ここに移されました

現地立札より

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 注連縄柱をくぐりぬけ参道を進みます

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 ちょうど 境内社と境内案内図があり 大國主西神社を確認すると 本社の向かって左側にあることがわかりました

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参道が大きく左に折れて 西宮神社の社殿が見えてきます

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 拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿から 本殿は三殿となっています

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 本殿の向かって 左手には境内社が三つ 本殿に近い方から
・火産霊神社・百太夫神社・六甲山神社 お参りをします

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 その左手に

大國主西神社〈 境内社〉(西宮市社家町)が鎮座します

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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 大國主西神社から振り返ると 西宮神社の社殿があり 拝殿の前には 国の登録有形文化財゛瑞寶橋(すいほうばし)゛があります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

 『摂津名所図會(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承

 延喜式に載る大國主西神社〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉でありと記しています

 【抜粋意訳】

西宮の沖 沖荒夷の図

大國主西神社(おおくにぬしにしのじんじゃ)

 西宮市夷町にあり 西宮太神宮と称す 延喜式曰 鍬靫 莵原郡に載る
・・・・
・・・・

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮村の西ノ宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記し
西宮とは「廣田社の西にたせれば西宮と称なる」と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)

 〇今在 西宮村
〇廣田社の西にたせれば西宮と称なるへし 今 西ノ宮と云、
神司 高橋村成説
〔古事記〕

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

 『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西神社(鍬靫)

 大國主西は 淤保久爾奴志乃邇志と訓べし
〇祭神 蛭兒尊

〇今武庫郡戸田荘西宮村に在す、今西宮と称す

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

 『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は西宮村の西宮〈現 西宮神社(西宮市社家町)〉又 夷宮・戎三郎宮とも呼ぶ と記しています

【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシノニシノ)神社(鍬靫)

 又、夷宮と云ひ、戎三郎宮と云、即 廣田の末社也、
今 武庫郡 西宮村に在り、廣田社の西なるを以て、又之を西宮と云、

 醍醐天皇 延喜の制、祈年祭鍬靫を加奉りき、延喜式
後鳥羽天皇 建久五年七月甲戌、夷宮鳴動の怪あるを以て、幣を廣田社に奉り、
土御門天皇 元久元年八月甲辰、神社を改造て、遷宮を行ふ、
毎年正月十日斎居祭を修む、
凡斎敬て響音を停る事尤厳也、摂津志

奥の夷宮 舊村西濱南に在り、故に南宮と云ひ、沖荒夷と云、
今本社域内に在り、
合せて戎三郎両社と云、

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

 式内社の大國主西神社(鍬靫)について 所在と名称は 西宮町縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社と記しています

 【抜粋意訳】

大國主西(オホクニヌシニシノ)神社(鍬靫)

祭神
祭日

 社格 懸社(明細帳に縣社西宮神社境内 大國主西神社 縣社とあり

 所在 西宮町属武庫郡(武庫郡西宮町縣社西宮神社境内)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

 『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

 西宮神社(西宮市社家町)について 西ノ宮蛭子として有名であり 本社が式内社の大國主西神社(鍬靫)である と記しています

 【抜粋意訳】

〇兵庫縣 摂津國武庫郡西宮町

 縣社 西宮(ニシノミヤノ)神社

 祭神
西宮大神(ニシノミヤシオホカミ)天照皇大神(アマテラススメオホカミ)
大國主神(オホクニヌシノカミ) 須佐男之命(スサノヲノミコト)

 創立年代詳ならず、
延喜の制、式内小社に列せらる、即ち延喜式に、播磨国菟原郡小大国主西神社(鍬靫)と見ゆる神社是なり、
本社は廣田社の西に鎮座するが故に西宮と称せりと(神名帳考証)
 土俗 夷宮と称し、中世以降 福徳の神として一般の崇敬盛なり、殊に商家の尊崇厚し、
慶長年、豊臣秀頼社殿を再興し、寛文年、徳川家綱再建す、
明治十一月縣社に列す、
和漢三才播磨名所巡覧絵図に云く、正月十日、村民自九日朝、至夜開戸不出入、謂之居寵、亦一異也、」と
社殿は本殿、拝殿、神饌所、宝蔵、絵馬所、権殿、神輿舎、神馬含、神饌所、及詰所を備へ、境内地は9114坪(官有地第一種)あり、本社は西ノ宮蛭子とて其名高く、賽者常に絶えずして、二月初子の如きは、京坂其他の地より群集参詣雑踏踏を極む。

 境内神社
大國主西神(オホクニヌシニシノ)神社
百大夫神(ヒャクタフノ)神社
六甲山(ロクカフサン)神社
松尾(マツノヲノ)神社
・・・・
・・・・

 【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

 神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編に記される伝承

 西宮神社 にしのみやじんじゃ

 兵庫県西宮市社家町。
旧県社(現、別表神社)。
西宮大神(にしのみやのおおかみ)(蛭子命)を主神に天照大神・大国主大神・須佐之男大神を祀る。当社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また『伊呂波字類抄』を徴しても明らかである。
高倉上皇の奉幣、後奈良天皇の御寄進があるほか、広田神社との神縁により神祇官の長官白川伯王家との関係が深く、常にその参詣を得ていたことは伯家文書にも詳しく記されている。
 中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足・海上安全・商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、現に人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。
 江戸時代に入り、徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造七六平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得たことは著名であり、現在も全国に配布されている。
例祭は九月二二日に行われ、神幸祭が毎年斎行されているが、最も盛大な祭典は一月一〇日の十日戎で、阪神間最大の祭りとして一〇日前後の三日間は境内に賽者が満たされる。
この他、六月一四日に行われるおこしや祭は、当社鎮座の由来を今に伝えるもので、寄神信仰の基本的な姿がここでも見出され、一一月二〇日には誓文祭(全国各地ではえびす講の祭)が行われる
現在の社殿は戦災後昭和三六年に再建されたものであるが、三連春日造の国宝建造物をその通り素木造にて復元された。表大門(桃山時代)、大練塀(室町時代)はともに重文に指定されている。社宝に慶長一五年(一六一○)銘の銅鐘があり市指定文化財となっている(吉井)

『神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編より抜粋

 大國主西神社〈西宮神社 境内社〉(西宮市社家町)に「 (hai)」(90度のお辞儀)

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摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る    

一緒に読む
摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)

攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています