高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
水分神社(みまくりじんじゃ)
[通称名(Common name)]
高良大社 奥宮〈奥の院〉(Okumiya)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市御井町1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
〈毘沙門天(高良神の本地)〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
高良大社奥宮(奥の院)
古くは「高良廟」「御神廟」と称し、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳七年(六七八)開山 隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の水の法力で招き寄せたのが、この清水であるという。
鎌倉時代の貞永元年(一二三二)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。
中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。
江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修行したという。
明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。
高良大社社務所現地案内板より
【由 緒 (History)】
奥の院(おくのいん)(別所・べっしょ)
高良大社奥宮であり、江戸時代までは高良大明神の御廟所(ごびょうしょ)(別所)と称されていました。
また、山中に初めて仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人 建立の毘沙門堂があり、戒壇(かいだん)が設けられていたと伝わります。
このため、山頂を毘沙門岳、高良内へ向かう谷を毘沙門谷と称しています。
社殿前の湧き水もまた、隆慶上人が天竺の無熱池(むねつち)の清涼な水を迎えたと伝わっています。
高良山観光ボランティアガイドの会(平成31年3月末日)
現地案内板より
初寅(はつとら)祭
七世紀の後半、仏教が高良山に入ると高良の神の本地(本当の姿)は、毘沙門天(びしゃもんてん)(七福神中の一尊として親しまれている)であるという信仰が起こり、奥宮(奥の院)の神は毘沙門天とされました。
「毘沙門岳」「毘沙門谷」の地名も、これに因むものです。
「初寅祭」とは、「年初め」、また月初めの「寅の日」に参詣すると、特に御加護をいただくことができるという毘沙門天の信仰に基づくもので、
明治の初め毘沙門堂が水分(みくまり)神社と改められたのちも絶えることなく、毎月最初の寅の日に執り行われている伝統の祭であります。
高良大社々務所現地案内板より
奥宮(おくみや)〈奥の院(おのいん)〉
霊水が湧く聖地で、高良大社の奥宮です。
諸願成就の神として民間の信仰がきわめて篤く、現在も「寅」の日には多数の参拝があります。現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・白鳳七年(687)隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水
・社殿向かって 左手に境内社の祠 2つ
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
高良山中腹に鎮座
・高良大社(久留米市)
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・・・・
髙良玉垂命神社(たからたまたれのみことの かみのやしろ) 一座
豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ) 巳上 筑後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
高良大社の本殿には 名神大社の豊比咩神社が合祀されています
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 髙良玉垂命神社(名神大)
[ふ り が な ](たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takanra no tamatare no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
地主神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 山上に鎮座していた伝承
高良山(こうらさん)高樹神社(たかきじんじゃ)の伝承によれば
高良山(こうらさん)は もともと高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていた〈高木神〈高御産巣日神or高牟礼神〉が鎮座していた為〉
そこへ 高良玉垂命が 一夜の宿として山を借りたいと申し出る 高木神が譲ったところ 玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説があります
一緒に読む
高樹神社(久留米市御井町)
高樹神社(たかきじんじゃ)は 伝承によれば 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 元々は高良山の山頂に地主神として鎮座されていたが 高良神(こうらのかみ)に一夜の宿を貸したところ 高良神が神籠石(こうごいし)を築いて結界の地としたため山上にもどれず ここ高良山の麓(ふもと)に鎮座するに至ったと伝わります 正史=六国史に名の現れる国史現在社(こくしげんざいしゃ)です
英彦山(ひこさん)の伝承によれば
日子山(ひこさん)〈英彦山〉には 山頂にはもともと高木神〈高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて その地を譲り 今は山頂より少し下った所に 産霊神社 《主》高皇産霊神(たかみむすびのかみ)として鎮座していると云う説
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 山上を譲ったとする高良山と同様の伝承です
現在 英彦山の山頂に鎮座する英彦山神宮の御本社・上宮の主祭神は 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です 英彦山の山頂域は もともと 高木神を祭祀する旧地とされ 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 鎮座する山であったとも云われる訳は
御祭神「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」には 6柱の御子がおられ そのうち お一柱が「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」です 姫は天照大神の御子「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」の后となり 「天火明命(あめのほあかり)」「饒速日命(にぎはやひのみこと)」「邇邇芸命(ににぎのみこと)」らをお産みになり そして英彦山は 娘神の夫「天忍穂耳命」に譲ったと伝えられています
・英彦山神宮(添田町 英彦山)
一緒に読む
英彦山神宮(福岡県 英彦山)〈奉幣殿・下津宮〉
英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は 社伝によれば 鎮座する英彦山は 御祭神が天照大神の御子 天忍穂〈根〉耳命 故に「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれたする この縁起から『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊前国 田川郡 忍骨命神社(をしほねのみことの かみのやしろ)の論社ともされます
高良山の山頂も 英彦山の山頂も かつて高木神〈高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて これを譲ったと伝承しています
この伝承には 古代の北九州地区で 地主神の交代劇があったことが伝承されているとされ 天津神と渡来神との争いとも様々な説があり 神仏習合の八幡神・香春神との関わり やがて宇佐系・朝鮮系シャーマニズムと習合していく密教修験道へと歴史は続いていきます
゛御祭神 武内宿禰(たけしうちのすくね)の 御隠れ伝承゛について
『古風土記逸文』〈昭和2〉に記される゛武内宿禰の御隠れ伝承゛
【抜粋意訳】
風土記逸文 因幡國(いなばのくに)武内宿禰(たけしうちのすくね)
因幡國風土記に云はく
難波の高津宮の天皇の天下治めしし五十五年春三月
大臣武内宿禰 御歳三百六十餘歳にして 當國に下向りまし 龜金に雙履(くつ)を残されて 御陰所を知らず蓋し聞く 因幡國(いなばのくに)法美郡(はふみのこほり)宇倍山(うべやま)の麓に神社(かみまやしろ)と曰ふ これ武内宿禰の靈なり
昔 武内宿禰 東夷を平げ 還りて宇倍山に入りし後 終る所を知らずと
【原文参照】
因幡國 宇倍神社(鳥取市国府町宮下)には 「亀金の丘」に双履を残して昇天されたとする゛双履石(ソウリセキ)゛があります
延喜式内社 因幡國 法美郡
宇倍神社(貞・名神大)(うへの かみのやしろ)
・宇倍神社(鳥取市)
宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です
宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉
高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられる゛高良大社奥宮(奥の院)゛
社伝には
高良大社奥宮(奥の院)は 古くは「高良廟」「御神廟」と称し 高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた 高良山信仰の原点ともいうべき聖地 とある
延喜式内社 筑後國 三井郡
高良玉垂命神社(名神大)(たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
・高良大社(久留米市)
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
・高良大社奥宮(高良山 山頂付近)
高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)
武内大臣(たけしうちのおおおみ)昇天の沓塚(くつづか)がある織幡神社
〈武内宿禰は ある日 ひとそろいの沓(くつ)を残し 天に昇ったと言われ その場所に 沓塚があります〉
社説に
筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣 沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」
延喜式内社 筑前國 宗像郡
織幡神社(名神大)(をりはたの かみのやしろ)
・織幡神社(宗像市鐘崎)
織幡神社(おりはたじんじゃ)は 海路守護の神 異国襲来守護の神として゛赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)゛をお祀りし 鐘崎の海辺に鎮座します 神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります
織幡神社(宗像市鐘崎)〈赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
高良大社の境内から 徒歩で20~30分
久留米森林つつじ公園まで 車で行けば そこから徒歩5~8分程度ですが
これを知らずに 高良山の南側の林道から徒歩で向かってしまった
高良山山頂への登山者には 最適な経路ですが 参道としてはお勧めしません
やっと奥の院が見えました
裏参道から来てしまいましたので 表の鳥居に進みます
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)に参着
鳥居の扁額は 奥宮 と刻まれています 一礼をして くぐります
白鳳七年(687)左手には 隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水が 手水にも使われています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿には 銅板で出来た蝋燭立てがあり 蝋燭とお線香は置かれています
改めて賽銭を入れます
神仏習合により 毘沙門天(高良神の本地)が祀られています
毘沙門天の開運マントラとされる 御真言「おんべいしらまんだやそわか」を唱えます
〈毘沙門天に帰依いたします 願いが成就致します様に〉の意
唱える回数は7回 or 21回 or 108回 or 1000回
拝所の奥には 石の積まれた檀に玉垣が廻され 石塔の本殿が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承
境内社の項に 〈明治初年の神仏分離により 毘沙門堂は「水分神社」と改められた〉末社 水分神社(水分神)と記されています
【抜粋意訳】
國幣大社 高良神社 三井郡御井町高良山
祭 神 高良玉垂命、
相殿神 八幡大神 住吉大神由 緒
履申天皇御宇の御創立にして、以来 歴代朝廷の御尊崇厚く、延喜の制に名紳大社に列せられ、桓武天皇 延暦十四年五月従五位下を授けさせられ、爾来逐次 御昇叙、清和天皇 貞観十一年三月従一位を、宇多天皇 寛平九年十二月正一位を御加叙あらせらる。筑後國一宮にして、古くは九州の総社とも称へられ、鎌倉時代以前は御造営はすべて勅裁を以て行はれ、又武神として長寿神として一般の崇敬も頗る篤し。明治四年五月十四日國幣中社に列せられ、大正天皇御即位式の大正四年十一月十日國幣大社に昇格、特に金五百圓を御下賜あらせらる。特殊祭事
春祭 陰暦正月一、二、三の三日古例により行ふ祭典にして、當日は遠近より参拝者頗る多し。玉替祭 陰暦正月十五日 午後六時より祭典執行、午後七時より社頭の燈火を消滅し、真暗中 玉替の行事を行ふ祭典なり 古く神功皇后 三韓御征伐の砌、神託により授けられたる満珠干珠の霊験に依り芽出度凱旋あらせられたるに因みたる祭事にして、社頭頗る雑踏す。
川渡祭 陰暦六月一日と十二月一日に行ふ。当年七歳と六十一歳の男女が何れも筑後川の流にみそぎし、赤褌を締めて参拝し、身體の壮健と長命とを祈る祭にして、社頭に茅の輸を設け.当日は早旦より社頭は老若の別なく赤色の肌着や腰巻で賑ひ.他に類例なき特殊の祭事なり。
秋祭 俗称(おくんち)陰暦九月九、十、十一日の三日間に且る祭事にして元は大祭なり、古くは九州九箇所の国司郡司参集して祭典を行ひ、少貳、大友、菊池、鳥津の九州四族四頭として輪番に神事を行ひ来り、現在に於ても年中を通じ最も参拝者多く当日は筑後園内一圓何れの家庭に於ても祭日として御祝する風習あり
神幸祭 神幸祭は三年に一度朝妻頓宮に御神幸遊ばさるゝ恒例にして、古く称徳天皇の神護景雲元年十月勅裁により行はれしより、乱世の頃中絶したる事もありしが、再興して現在に及ぴ.其の行列は、甲冑を著けたる騎馬武者や衣冠を正したる文官、神輿の前後を警衛供奉し蜿艇数十町に亘り、其の壮観は九州稀有の大祭事なり。
斎田神事 当社斎田は昭和大嘗祭記念として、高良山下豊穣なる神田一反餘歩を斎田と定め、之が耕作は福岡縣三井農学校職員生徒之に當り、五月に播種祭、六月田植祭(田植祭は三井郡山川小學校女性徒奉納す)十月下旬抜穂祭を執行す。而して三井農學校内斎庫に於て精選せられ、向ふ一筒年の祭典に神供する神穀を、十一月二十三日の新嘗祭当日同校全職員生徒奉持の下に荘厳なる献納式を執行す。
和歌厭詠祭 厭詠會を組織し、毎月の厭詠歌を神前に献り、毎月十五日披講式を執行し、尚春秋二季に献詠大祭を執行す。
例祭日 十月十三日
神饌幣帛料供進指定 明治四年五月十四日
主なる建造物 本殿.幣殿.拝殿.神饌所、透塀、社務所、斎館、手水會.休憩所、神庫.神輿殴
主なる寶物 平家物語、斎衡文書、天慶文書、國友太刀、船釘太刀、青江太刀、鏡二面、高良社繪縁起、高良社聳縁起。
境内坪数 十萬九千八百飴坪
境内神社
摂社 高良御子神社(斯禮賀志命、朝日豐盛命、暮日豐盛命、淵志命、谿上命、那男美命、坂本命、安子奇命、安樂慶寶秘命)
末社 眞根子神社(伊岐眞根子命)
末社 印鑰神社(高良神社の印鑰)
摂社 豊比咩神社(豊玉姫命)
末社 稲荷神社(倉稲魂命)
同 愛宕神社(加具土命)
同 御祖神社(天照大神)
同 天満神社(菅原道真公)
同 八幡神社(応神天皇)
同 琴平神社改定(大国主命、崇徳天皇)
末社 厳島神社(市杵島姫命)
同 水分神社(水分神)
同 味水御井神社(水波能賣命)
【原文参照】
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について に戻る
筑後国(ちくごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 筑後国(ちくごのくに) 4座(大2座・小2座)の神社です
筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について