実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)

高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」別墅(所)と称されていました 

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

水分神社(みまくりじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

高良大社 奥宮〈奥の院〉(Okumiya

【鎮座地 (Location) 

福岡県久留米市御井町1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
  〈毘沙門天(高良神の本地)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

高良大社奥宮(奥の院)

 古くは「高良廟」「御神廟」と称し、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳七年(六七八)開山 隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の水の法力で招き寄せたのが、この清水であるという。
 鎌倉時代の貞永元年(一二三二)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。
 中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。
 江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修行したという。
 明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。
高良大社社務所

現地案内板より

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【由  (History)】

奥の院(おくのいん)(別所・べっしょ)

高良大社奥宮であり、江戸時代までは高良大明神の御廟所(ごびょうしょ)(別所)と称されていました。

また、山中に初めて仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人 建立の毘沙門堂があり、戒壇(かいだん)が設けられていたと伝わります。

このため、山頂を毘沙門岳、高良内へ向かう谷を毘沙門谷と称しています。

社殿前の湧き水もまた、隆慶上人が天竺の無熱池(むねつち)の清涼な水を迎えたと伝わっています。

高良山観光ボランティアガイドの会(平成31年3月末日)

現地案内板より

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初寅(はつとら)祭

 七世紀の後半、仏教が高良山に入ると高良の神の本地(本当の姿)は、毘沙門天(びしゃもんてん)(七福神中の一尊として親しまれている)であるという信仰が起こり、奥宮(奥の院)の神は毘沙門天とされました。

毘沙門岳」「毘沙門谷の地名も、これに因むものです。

初寅祭とは、年初め、また月初めの寅の日に参詣すると、特に御加護をいただくことができるという毘沙門天の信仰に基づくもので、
明治の初め毘沙門堂が水分(みくまり)神社と改められたのちも絶えることなく、毎月最初の寅の日に執り行われている伝統の祭であります。
高良大社々務所

現地案内板より

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奥宮(おくみや)〈奥の院(おのいん)〉

霊水が湧く聖地で、高良大社の奥宮です。
諸願成就の神として民間の信仰がきわめて篤く、現在も「寅」の日には多数の参拝があります。

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

白鳳七年(687隆慶(りゅうけい)上人 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水

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社殿向かって 左手境内社の祠 2つ

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

高良山中腹に鎮座
・高良大社(久留米市)

一緒に読む
高良大社(久留米市御井町)

高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神祭 二百八十五座
・・・

・・・

良玉垂命神社(たからたまたれのみことの かみのやしろ) 一座

豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ) 巳上 筑後國
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

高良大社本殿には 名神大社の豊比咩神社が合祀されています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 良玉垂命神社(名神大)
[ふ り が な ]たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takanra no tamatare no mikoto no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

地主神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 山上に鎮座していた伝承

高良山(こうらさん)高樹神社(たかきじんじゃ)の伝承によれば

高良山(こうらさん)は もともと高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていた〈高木神〈高御産巣日神or高牟礼神〉が鎮座していた為〉
そこへ 高良玉垂命が 一夜の宿として山を借りたいと申し出る 高木神が譲ったところ 玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説があります

一緒に読む
高樹神社(久留米市御井町)

高樹神社(たかきじんじゃ)は 伝承によれば 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 元々は高良山の山頂に地主神として鎮座されていたが 高良神(こうらのかみ)に一夜の宿を貸したところ 高良神が神籠石(こうごいし)を築いて結界の地としたため山上にもどれず ここ高良山の麓(ふもと)に鎮座するに至ったと伝わります 正史=六国史に名の現れる国史現在社(こくしげんざいしゃ)です

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英彦山(ひこさん)の伝承によれば

日子山(ひこさん)〈英彦山〉には 山頂にはもともと高木神〈高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて その地を譲り 今は山頂より少し下った所に 産霊神社 《主》高皇産霊神(たかみむすびのかみ)として鎮座していると云う説

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 山上を譲ったとする高良山と同様の伝承です

現在 英彦山の山頂に鎮座する英彦山神宮の御本社・上宮の主祭神は 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です 英彦山の山頂域は もともと 高木神を祭祀する旧地とされ 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 鎮座する山であったとも云われる訳は

御祭神「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」には 6柱の御子がおられ そのうち お一柱が「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」です 姫は天照大神の御子「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」の后となり 「天火明命(あめのほあかり)」「饒速日命(にぎはやひのみこと)」「邇邇芸命(ににぎのみこと)」らをお産みになり そして英彦山は 娘神の夫「天忍穂耳命」に譲ったと伝えられています

・英彦山神宮(添田町 英彦山)

一緒に読む
英彦山神宮(福岡県 英彦山)〈奉幣殿・下津宮〉

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は 社伝によれば 鎮座する英彦山は 御祭神が天照大神の御子 天忍穂〈根〉耳命 故に「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれたする この縁起から『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊前国 田川郡 忍骨命神社(をしほねのみことの かみのやしろ)の論社ともされます

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高良山の山頂も 英彦山の山頂も かつて高木神〈高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて これを譲ったと伝承しています

この伝承には 古代の北九州地区で 地主神の交代劇があったことが伝承されているとされ 天津神と渡来神との争いとも様々な説があり 神仏習合の八幡神・香春神との関わり やがて宇佐系・朝鮮系シャーマニズムと習合していく密教修験道へと歴史は続いていきます

゛御祭神 武内宿禰(たけしうちのすくね)の 御隠れ伝承゛について

『古風土記逸文』〈昭和2〉に記される゛武内宿禰の御隠れ伝承゛

【抜粋意訳】

風土記逸文 因幡國(いなばのくに)武内宿禰(たけしうちのすくね)

因幡國風土記に云はく

難波の高津宮の天皇の天下治めしし五十五年春三月
大臣武内宿禰 御歳三百六十餘歳にして 當國に下向りまし 龜金に雙履(くつ)を残されて 御陰所を知らず

蓋し聞く 因幡國(いなばのくに)法美郡(はふみのこほり)宇倍山(うべやま)の麓に神社(かみまやしろ)と曰ふ これ武内宿禰の靈なり

昔 武内宿禰 東夷を平げ 還りて宇倍山に入りし後 終る所を知らずと

【原文参照】

栗田寛 著『古風土記逸文』,大岡山書店,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1210472

栗田寛 著『古風土記逸文』,大岡山書店,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1210472

因幡國 宇倍神社(鳥取市国府町宮下)には 「亀金の丘」に双履を残して昇天されたとする゛双履石(ソウリセキ)゛があります

延喜式内社 因幡國 法美郡
宇倍神社(貞・名神大)(うへの かみのやしろ)

・宇倍神社(鳥取市)

一緒に読む
宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉

宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です

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高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられる゛高良大社奥宮(奥の院)゛

社伝には
高良大社奥宮(奥の院)は 古くは「高良廟」「御神廟」と称し 高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた 高良山信仰の原点ともいうべき聖地 とある

延喜式内社 筑後國 三井郡
高良玉垂命神社(名神大)(たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)

・高良大社(久留米市)

一緒に読む
高良大社(久留米市御井町)

高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます

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・高良大社奥宮(高良山 山頂付近)

一緒に読む
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)

高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました 

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武内大臣(たけしうちのおおおみ)昇天の沓塚(くつづか)がある織幡神社

武内宿禰は ある日 ひとそろいの沓(くつ)を残し 天に昇ったと言われ その場所に 沓塚があります

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社説に
筑前國続風土記に「山の傍に神廟あり、相殿と云ふ、武内宿禰此山佳境なるをしたひ、われ死なば、神霊はかならす此地にやすんずべしとのたまふ、即ち異賊襲来の事を守り防がんためなりとぞ、これによりて後人此地に祠を立つ」と見え、又同書に「同社より登れば、右の方に武内大臣 沓塚とて石塔あり、里俗は大臣天に登り給ふ時、沓をここに脱ぎ置き給へりと云ふ」

延喜式内社 筑前國 宗像郡
織幡神社(名神大)(をりはたの かみのやしろ)

・織幡神社(宗像市鐘崎)

一緒に読む
織幡神社(宗像市鐘崎)〈赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)をお祀りする神社〉

織幡神社(おりはたじんじゃ)は 海路守護の神 異国襲来守護の神として゛赤白二流之旗(あかしろふたながれのはた)゛をお祀りし 鐘崎の海辺に鎮座します 神功皇后の三韓出兵の時 赤白二流之旗を織り 武内宿禰命が それを゛宗大臣〈宗像大神〉御手長(みてなが)の旗竿゛に取り付け勝利した事に依ります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

高良大社の境内から 徒歩で20~30分
久留米森林つつじ公園まで 車で行けば そこから徒歩5~8分程度ですが

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これを知らずに 高良山の南側の林道から徒歩で向かってしまった

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高良山頂への登山者には 最適な経路ですが 参道としてはお勧めしません

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やっと奥の院が見えました

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裏参道から来てしまいましたので 表の鳥居に進みます

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高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)に参着

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鳥居の扁額は 奥宮 と刻まれています 一礼をして くぐります

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白鳳七年(687左手には 隆慶(りゅうけい)上人 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水が 手水にも使われています

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿には 銅板で出来た蝋燭立てがあり 蝋燭とお線香は置かれています
改めて賽銭を入れます

神仏習合により 毘沙門天(高良神の本地)祀られています
毘沙門天の開運マントラとされる 御真言「おんべいしらまんだやそわか」を唱えます

毘沙門天に帰依いたします 願いが成就致します様に〉の意
唱える回数は7回 or 21回 or 108回 or 1000回

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拝所の奥には 石の積まれた檀に玉垣が廻され 石塔の本殿が祀られています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承

境内社の項に 〈明治初年の神仏分離により 毘沙門堂は「水分神社」と改められた〉末社 水分神社(水分と記されています

【抜粋意訳】

國幣大社 高良神社  三井郡御井町高良山

祭 神 高良玉垂命、
相殿神 八幡大神 住吉大神

 
履申天皇御宇の御創立にして、以来 歴代朝廷の御尊崇厚く、延喜の制に名紳大に列せられ、桓武天皇 延暦十四年五月五位下を授けさせられ、爾逐次清和天皇 貞観十一年三月従一位を、宇多天皇 寛九年十二月正一位をあらせらる。筑後一宮にして、古くは九州の総社ともへられ、鎌倉時代以前は御造営はすべて勅裁を以て行はれ、又武として長寿神として一般の崇敬頗る篤し。明治四年五月十國幣中社に列せられ、大正天皇御即位式の大正四年十月十日國幣大社に昇格、特に金五百圓を御下らせらる。

特殊祭事
春祭 陰暦正月一、二、の三日古例により行ふ祭典にして、日は遠近参拝者頗る多し

替祭 陰暦正月十五日 午後六より祭典執行、午後より社頭の燈火を消滅し、真暗 替のを行ふ祭典なり 古く神功皇后 三韓御征伐の砌、神託により授けられ満珠干珠霊験依り芽出度凱旋あらせられるに因みたる祭事にして、社頭頗る雑踏す。

渡祭 陰暦六月日と十日に行ふ。当年歳と六十一歳の男女が何れも筑後川のにみそし、赤を締めて参拝し、身壮健と長命とを祈る祭にして、社頭に茅の輸を設け.当日は早より頭は老若の別な赤色の肌着や腰ひ.他に例なき特殊の祭事なり。

秋祭 (おんち)陰暦九月九、十一日三日間に且る祭事にして元は大なり、古くは九州九箇所国司郡司参集して祭典を行ひ、少貳、大友、菊池鳥津の九州四族四頭として輪番に事を行ひ来り、現在に於も年中通じ最も参拝者多く当日は筑後園内圓何れの家庭に於ても祭日として御祝する風習あり

神幸祭 神幸祭三年に一度朝頓宮に御遊ばさるゝ恒例にして、古く称徳天皇神護景雲元年十月勅裁によりはれしより、乱世の頃中絶したる事もありしが、再興して現在に及ぴ.其の行列は、甲冑を騎馬武者や衣冠を正したる文官、神輿の前後を衛供奉し蜿艇数十町に亘り其の壮観は九州稀有の大祭事なり

斎田 当社斎田は昭和大嘗祭記念として高良山下豊穣なる田一反餘歩を斎田と定め、之が耕作は福岡縣三井学校職員生徒之に當り、五月に播種祭、六月田植祭(田植祭は三井郡山川小學校女性奉納す)十月下旬抜穂祭を執行す。而して三井農學校内斎庫に於て精せられ、ふ一筒年の祭典供する神穀を、十一月二十三日の新嘗祭当日同校全職員生徒奉持の下に荘厳なる納式を執行す

和歌詠祭 厭詠會を組織し、毎月の詠歌を神前に献り、毎月十五日披講式を執行し、尚春秋二季に献詠大祭を執行す

例祭日 十月十

饌幣帛料供指定 明治四年五月十四日

なる建造物 本殿.幣殿拝殿神饌所、塀、社務所館、手水會.休憩所庫.神輿

主なる 平家物語、斎衡文書、天慶、國友太刀船釘太刀青江太刀、鏡二面、高良社繪縁起、高良聳縁起

境内坪数 十萬九八百飴坪

境内神社
摂社 高良御子神社(斯賀志命、朝日盛命、暮日豐盛命、志命、谿上命、那男美命、坂本安子奇命、安樂慶寶秘命)
社 眞根子神社(伊岐眞根子命)
末社 印鑰神社高良神社印鑰
摂社 豊比咩神社(豊玉姫命
末社 稲荷神社倉稲魂命)
  愛宕神社(加具土命)
同  御祖神社天照大神
  天満神社(菅原道真公)
  八幡神社応神天皇
同  琴平神社改定(大国主命、崇徳天皇)
社 厳島神社(市杵島姫命
  水分神社(水分
  味御井神社(水波能賣命)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『福岡県神社誌』昭和20年(1945)出版 大日本神祇会福岡県支部https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040147

国立公文書館デジタルコレクション『福岡県神社誌』昭和20年(1945)出版 大日本神祇会福岡県支部https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040147

高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町) (hai)」(90度のお辞儀)

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について に戻る 

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筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について

筑後国(ちくごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 筑後国(ちくごのくに) 4座(大2座・小2座)の神社です

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  • B!

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています