沖御前神社(おきごぜんじんじゃ)は 記紀神話の出雲国譲りの舞台として有名な稲佐の浜にある「弁天島」に鎮座します 『古事記』では「伊那佐之小濱(いなさのこはま)」『日本書紀』では「五十田狭小汀(いさたのおはま)」と記載され 現在も旧暦10月10日にはここで「神迎え神事」が行われ 全国の神様〈八百万神々〉を迎える場所とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
沖御前神社(Okigozen shrine)
[通称名(Common name)]
稲佐の浜 弁天島
【鎮座地 (Location) 】
島根県出雲市大社町杵築北稲佐
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・八大荒神社の摂社
八大荒神社(はちだいこうじんじゃ)は 出雲の奉納山の麓に鎮座します 摂社として 稲佐の浜 弁天島に鎮座する「沖御前神社(おきごぜんじんじゃ)」があり『出雲國風土記733 AD.』所載の出雲郡 神祇官社「伊奈佐乃社(いなさの)やしろ」とする説もあります
荒神社〈八大荒神社〉(出雲市大社町杵築北)
【創 建 (Beginning of history)】
江戸時代までは弁財天〈神仏習合〉が祀られていたが 現在は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が祀られる
かつては沖にあり「沖ノ島」と呼ばれていたが 現在は陸続きとなり砂浜にある
因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)が居た島の候補でもあります
【由 緒 (History)】
神話(しんわ)の舞台(ぶたい)”稲佐(いなさ)の浜(はま)”
稲佐の浜は、古くから出雲神話の舞台として有名であり、その神話を伝える「古事記」にも「伊那佐之小濱」という名で登場し、ここで国譲りの話し合いが行われたことが書かれています。
現在も旧暦10月10日にはここで「神迎え神事」が行われます。また、この浜は明治21年に県下で最初に開設された海水浴場でもあり、今も夏のシーズンになると多くの海水浴客で賑わいます。現地設置の案内板より
夕暮れ時には 弁天島が夕日のシルエットになった絶景があります
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
出雲大社を出発地点にします
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
出雲大 社から R431号を西へ向かうと稲佐の浜があります
稲佐の浜のシンボルとして有名な「弁天島」に鎮座します
かつては沖にあり「沖ノ島」と呼ばれていたが 現在は陸続きとなり砂浜にあり 歩いて行けますが 岩を上ることは禁じられています
弁天島の上に 鳥居と社が鎮座しています
沖御前神社(出雲市大社町)〈稲佐の浜 弁天島に鎮座〉に参着
お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
特に 稲佐の浜の伝承について
『古事記(kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』葦原中國(ashihara no nakatsukuni)平定の伝承
「出雲の伊那佐の小浜」〈現 稲佐の浜〉を舞台とした出雲の国譲りについて 次のように語られています
【意訳】
『そこで天照大御神(amaterasu omikami)は天鳥船神(ameno torifune no kami)を建御雷神(takemikazuchi no kami)のお供に付けて 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)に遣わされました
このように建御雷神(takemikazuchi no kami)と天鳥船神(ameno torifune no kami)の二柱の神は 出雲の伊那佐の小濱(いなさのこはま)に降り立ちまして
建御雷神(takemikazuchi no kami)は十拳剣(totsuka no tsurugi)を抜いて 剣先を上にして 柄を下にして 逆にして波頭に刺し立てて その剣の刃の先上にあぐらをかいて座り 葦原中國(ashihara no nakatsukuni)の大国主大神(okuninushi no okami)に尋ねて
建御雷神(takemikazuchi no kami)は 私心を全く差し挟まずに「天照大御神(amaterasu omikami)と高木神(takagi no kami)の仰せにより あなたの意向をお聞きすべく 私は使者としてお遣わしになりました
あなたが 神領としている葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 我が子孫の統治されるべき国であると 従って あなたのお考えはどうなのか お聞きしたい」と仰せになりました
ここに大国主大神(okuninushi no okami)は「私は返答を申し上げません 私の子の八重言代主神(yaekotoshironushi no kami)がご返答をするでしょう
しかし 今 鳥を狩ったり 魚を取ったり 美保の岬に出掛けていて まだ帰って来ておりません」と申し上げました
そこで 建御雷神(takemikazuchi no kami)は天鳥船神(ameno torifune no kami)を遣わして
八重言代主神(yaekotoshironushi no kami)を呼び寄せて その意向をお尋ねになった時に 八重言代主神(yaekotoshironushi no kami)は 父の大国主大神(okuninushi no okami)に語って
「畏れ多いことでございます この葦原中國(ashihara no nakatsukuni)は 天津神の御子孫に奉りましょう」と言って
ただちに船を踏んで傾けて 天の逆手(amano sakate)という柏手をして 船を青柴垣に変えさせ その中にご鎮座しました』
『原文』参照
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』には 本文と或る一書による幾つかの伝承が残ります
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「本文」の伝承
天津神が「出雲の国 五十田狭小汀(いさたのおはま)」に降り 大己貴神に対して 武力行使で国譲りを迫る様子が描かれています
第九段「本文」の伝承
【意訳】
その後 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は 神々を集めて葦原中国(あしはらのなかつくに)に遣わすべき者を選んびました
皆が云うには
「磐裂根裂神(いわさくねさくのかみ)の子で 磐筒男(いわつつのお)磐筒女(いわつつのめ)が生んだ 経津主神(ふつぬしのかみ)が良いでしょう」と言う
そのとき 天石屋(あまのいわや)に住む稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)の子で 甕速日神(みかはやひのかみ) その子である熯速日神(ひのはやひのかみ)その子である武甕槌神(たけみかつちのかみ)が進み出て「どうして経津主神(ふつぬしのかみ)だけが丈夫(マスラオ)者なのか 自分は丈夫(マスラオ)者ではないのか」と言った
その語気が大変激しかったので 経津主神(ふつぬしのかみ)に添えて 共に葦原中国(あしはらのなかつくに)に向かわされました
二柱の神は 出雲の国 五十田狭小汀(いさたのおはま)に降り 十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて 逆さに大地に突き立てて その剣先にに胡坐(あぐら)をかいて座り 大己貴神(おおなむちのかみ)に尋ねられた
「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が皇孫(すめみま)を降らせ この地に君臨しようと思っておられる そこで我ら二人を平定に遣わされた お前の心はどうか ここを去るか」
そのとき 大己貴神は「私の子どもに相談して、御返事いたしましょう」
と答えた
このとき その子 事代主神(ことしろぬしのかみ)は 出雲の美保崎(みほのさき)に遊びに出掛けていました
そこで事代主神は魚釣りを楽しんでいました
あるいは鳥を射ちに行っていたともいいます
そこで 熊野の諸手船(もろたぶね)に 使者の稲背脛(いなせはぎ)を諾否を問う係として乗せて向かわせました
そして 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の言葉を事代主神(ことしろぬしのかみ)に伝え その返事を尋ねました
そのとき 事代主神(ことしろぬしのかみ)は使者に対し
「今 天神(あまつかみ)の言葉に 私の父上は抵抗しない方が良く 私も仰せに逆いません」と言い
そして 海の波の上に幾重もの青柴垣(あおふがき)をつくり 船の端板を踏んで 姿を消されました
使者は帰って これを報告しました
大己貴神(おおあなむちのかみ)は その御子(みこ)の言葉を二柱の神に告げ「私が頼みとした子はもう去りました ですから私も身を引きましよう もしも私が抵抗すれば 国内の神々もきっと同じように戦うでしよう 今 私が身を引けば、誰もあえて歯向かう者はないでしょう」と言われた
そして 国を平定したときに用いられた広矛(ひろほこ)を二柱の神に奉り
「私は この矛をもって 事を成し遂げました
天孫が もしこの矛を用いて国に臨まれたら きっと平定となるでしょう 今から私は百不足之八十隈(モモタラズヤソクマデ)(死後の世界のことか)に隠去ります」と言い終ると共に隐れてしまわれた
そこで 二神は 諸々の従わない神たちを処罰し終え あるいは、邪神や草木 石に至るまで皆平げた
従わないのは 星神香香背男(ほしのかみかかせお)だけとなった
そこで 建葉槌命(たけはつちのみこと)を遣わして屈服させました
そして 二神は天に上って復命されました
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「一書(1)」の伝承
天津神が 大己貴神に対して 武力行使で国譲りを迫る様子が描かれています
第九段「一書(1)」の伝承
【意訳】
すでに天照大神(あまてらすおおみかみ)は 思兼神(おもいかねのかみ)の妹の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)と正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)とを娶あわせ 妃として葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らされました
そこで 勝速日天忍穂耳尊(かちはやひあまのおしほみみのみこと)は 天浮橋(あまのうきはし)に立ち下を見下して云われるには
「あの土地は まだ騒がしく乱れている 不須也頗傾凶目杵之国(イナカブシシシコメキクニ=気の進まぬ醜い国のようだ)」
それで 再び帰り上って 天降られないわけを詳しく述べられました
ゆえに 天照大神が 武甕槌神(たけみかつちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を遣わし 先に討ち払わさせました
そこで 二柱の神が 出雲に降りました
大己貴神(おおあなむちのかみ)に問われました
「お前は この国を天神に奉たてまつる気はあるか?」
大己貴神(おおあなむちのかみ)が答え
「我が子 事代主(ことしろぬし)が 鳥を射ちに三津之崎(みつのさき)にいっています 今すぐ尋ねてご返事いたしましょう」
そこで使いを送って尋ねました
事代主ことしろぬしの答えは、
「天神(あまつかみ)の望まれる所を 奉らないことはありません」
それで 大己貴神は その子の言葉で 二柱の神に返事をしました
二柱の神は天に上って復命し
「葦原中国(あしはらのなかつく)の神々は 皆すでに平定しました」
と言われた
時に 天照大神(あまてらすおおみかみ)が勅ちょくして
「もしそうなら すぐ我が子を降らせよう」と言われたそのまさに降らせようとするときに 皇孫(すめみま)がお生まれになった
名を天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)といいます
特に申し上げる者があり
「この皇孫を代りに降らせられませ」と言います
そこで天照大神は 瓊瓚杵尊(ににぎのみこと)に 八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま) 及び 八咫鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の神器を賜わりました
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』巻第二 神代下 第九段「一書(2)」の伝承
天津神が 大己貴神に対して懇切丁寧に国譲りの条件を提示して 承諾を得る様子が描かれています
第九段「一書(2)」の伝承
【意訳】
別の言い伝え(2)によると
天神(あまつかみ)は 経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)を遣わして 葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させようとされました
そのとき 二柱の神は
「天に悪い神がいます
名を天津甕星(あまつみかほし)といいます またの名は 天香香背男(あまのかかせお)といいます まずこの神を除いて それから天降って 葦原中国を平定したい」と言った
このとき 斎主(いわい)の神を斎之大人(いわいのうし)といいました
この神は今 東国の檝取(かとり)の地にあります
時に 二柱の神は 出雲の五十田狭(いさだ)の小汀(おばま)に降って 大己貴神に「お前は この国を天つ神に奉るかどうか」と問われました大己貴神は 答えた
「お前たち二柱の神が 私が元から居る所へやって来たのではないか 許すことは出来ぬ」
そこで 経津主神(ふつぬしのかみ)は帰り上って報告しました
これを聞いた高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は 二柱の神を再び遣わして大己貴神に勅(ちょく)して
「今 あなたの言うことを聞くと 深く道理に叶っている
それで詳しく一つ一つ条件を揃えて申しましょう
あなたが 納めている現世のモノことは 皇孫(すめみま)が致しましょう
あなたは 神事を納めて頂きたい
また あなたが住むべき天日隅宮(アマノミスミノミヤ)は 今からお造り致します 千尋(ちひろ)もある栲縄(たくなわ)で180ヶ所も結んでゆわえて しっかりと結び造りましょう その宮を造るには 柱は高く太く 板は広く厚く致しましょう
また 供田も作りましょう
また あなたが 海に遊ばれるために 高い橋や浮橋や天鳥船(アマノトリフネ)もまた造りましょう
さらに、天安河(あまのやすかわ)に打橋(うちはし)を造りましょう
また 百八十縫(モモアマリヤソヌイ)の白盾(シラタテ)も造りましょう
また あなたの祭祀を掌るのは 天穂日命(あめのほひのみこと)が致します」
と言いました
そこで大己貴神は
「天神(あまつかみ)のおっしゃることは 懇切に行き届いている どうして仰せに従わないことがありましょうか
私が治めるこの世のことは 皇孫(すめみま)が治められるべきです
私は退き 幽界(かくれのこと)の世界を治めましょう」と答えましたそこで 岐神(ふなとのかみ)を二神に勧めて云うには
「この神が 私に代ってお仕え申し上げるでしょう 私は今ここから退去します」体に瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました
その後 経津主神(ふつぬしのかみ)は 岐神(ふなとのかみ)を先導役として 方々を巡り歩き、平定しました
従わない者があると斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて それらを率いて天に昇り 正道を説きました
【原文参照】
沖御前神社(出雲市大社町)〈稲佐の浜 弁天島に鎮座〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る
出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社