実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)

大野見宿禰命神社(おおのみすくねのみことじんじゃ)は 御祭神出雲国造血筋にあたる角力(すもう)の祖 野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を祀ります 延喜式神名帳927 AD.所載 因幡国 高草郡 大野見宿禰命神社おほのみすくねのみことの かみのやしろ)とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大野見宿禰命神社(Ohonomisukunenomikoto shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

鳥取県鳥取市徳尾80

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》野見宿禰命(のみのすくねのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

大野見宿禰命神社記

因幡国高草郡野見の保 徳尾村に祭るところの神社は 野見宿禰の霊なり
其の先 天穂日命より出て 出雲に住し玉ふ 垂仁天皇七年七月 詔を承けて大和に至り 當麻蹴速と角力して 是に勝ち玉ふ 本朝相撲の初めなり
二十八年冬 皇后日葉酢媛命薨し玉ふ 天皇群郷に詔して曰く 従死の道如何と 宿禰進んで曰く 夫れ君王の陵墓に生人を埋るは不良の事なり 豈後世に伝えんや願わくは 今便事を議せんと 自ら土部等をして埴を取り 人馬及種々の物形を造作して之を献り 自今以後此の土物を以 生ける人に易え 陵墓に入れて 後葉の法とせんと 天皇大いに喜び玉ひ 厚く其の功を賞し 土部臣の姓を賜ふ 仍て令を下して曰く 自今以後陵墓には 必ずこの土物を入れて 人を傷こと勿れと 誠に 仁の至 義の尽なり 其弊を革め 皇統連綿として栄え 宿禰の裔も亦繁栄せり 土部菅原秋篠大江は 皆これ宿禰の後胤なり
貞観八年十 因幡無位 大野見宿根神に 従五位を授けらる 延喜式神名帳に載って 著名なり 鎮座なり 還通頻繁 礼を尽くして尊崇し仰ぐべし 云々

寛永四年丁亥夏四月 藤原具房

拝殿の額より

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【由  (History)】

由緒

「相撲(角力)の神さま」
鳥取市街地から行徳を経て、千代橋を渡り、更に西へ進むと大正橋にさしかかる。橋の上から前方を見ると、小高い丘を包むようにこんもりとした森が目につく。この道はその森の麓を通りまっすぐに村落を貫き白く西に延びている。

その昔、夜更けになると一陣の風と共に大坊主が大木の陰からぬっと現われ、旅人を怖がらせたという所謂「徳尾の大坊主」なる咄(はなし)のでた所である。
この森は全体が神域であり、丘の頂上には 御祭神 野見宿禰命をお祭りする大野見宿禰命神社が 御鎮座 座している。
当社は 戦国時代しばしば兵火に遇い、社殿の創立年月を詳らかにすることはできないが、延喜式(宮中の年中儀式、百官の儀、国々の諸式、作法等を漢文で記した書、905)神祇の巻に「因幡国五十座略高草郡七座大野見宿禰命神社」とあり、又 倭名類聚抄(わが国最初の分類体漢和辞書、醍醐天皇の御代)に「因幡国高草郡野見郷」とある。貞観、延喜よりはるか古代より信仰の対象として崇敬されていたのです。
古文書によると、姫路城より池田光政公9才にして鳥取城へ32萬石の大名としてご転封になる元和3年(西暦1617)から明和4年(西暦1767)までに数回社殿の建造がなされている。
現在の本殿は安政5年(西暦1858)5月に建てられたもので、弊拝殿は昭和16年(西暦1941)に新築され今日に至っている。

次に、御祭神、野見宿禰命について、当社の由緒から要約して記す。
「天穂日命十四世の孫である野見宿禰命は 垂仁天皇の御代(約2000年前)に出雲国より召されて京に上がり、当代随一の豪の者 当麻の蹴速 と力競べを行い、蹴速を倒し殺す。宿禰は勇力を賞され京に留まり朝廷に仕える。これが相撲の始祖と呼ばれる理由である。
この時代に 高貴な人が死亡した時は 側近に奉仕していたものを、主人の亡骸と共に墳墓に埋める慣わしがあった。時に 皇后 日葉酢媛命が亡くなられ、宿禰は人、馬等の土偶を造り共に埋め、生人を埋めない事に改めるよう献言する。
天皇のお許しが出た上で、出雲より土師を多数呼び寄せ、種々の土偶を造り用いた。天皇はこれを賞され 土師部の職を定め 野見宿禰にこれを与えた。」
野見宿禰命は土師部の始祖であり、相撲の守護神であり、野見の郷を主領す産土神である。
野見宿禰の後裔である出雲大社 千家尊福大宮司(大教正従五位)は明治107月参拝奉弊された。
当神社境内にはシイ、タブの木、モチの木から海浜植物のトベラに至るまで繁茂し、植物生理学上からみて貴重な原生林であること、更に境内地の頂上で、本殿の北西方の上段に円墳があること、東方下段に副葬遺跡があることにより社叢全域にわたり、昭和9年8月文部省により天然記念物の指定を受けている。
往古より野見宿禰の御墓所として遠近よりの尊信を厚くしている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高草郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大野見宿禰命神社
[ふ り が な ]おほのみすくねのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Atakatsu takemikuma no mikoto no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

出雲大社に伝わる 野見宿禰(のみのすくね)について

出雲大社には 野見宿禰は 第13代出雲國造(出雲大社宮司)である襲髄命(かねすねのみこと)の別称と伝えています

野見宿禰神社 のみのすくねじんじゃ 

御祭神 野見宿禰(のみのすくね)

野見宿禰は 第13代出雲國造(出雲大社宮司)である襲髄命(かねすねのみこと)の別称です。垂仁天皇の御代7年、当時大和国に当麻蹶速(たいまのけはや)という天下一の力人がおりましたが、垂仁天皇はこの当麻蹶速に匹敵する者が他にいないだろうかと御下問になられました。その際、一人の家臣が進み出て、出雲国には野見宿禰という力人がいることを申し出ると、すぐに役人が出雲国へと遣わされ、野見宿禰は朝廷へと趣きました。そして当麻蹶速と野見宿禰による御前相撲が執り行われ、野見宿禰は見事に打ち勝ち、以降、大和国へ留まって朝廷へ仕えました。このことが『日本書記』に伝えられていることから、野見宿禰は古くより相撲の祖と称えられ、今日では相撲を始めスポーツを志す人々に篤く信仰されています。 また、野見宿禰が朝廷へ仕えた際、墓陵での殉葬を取り止め、代わって埴輪(はにわ)を納める葬儀を考案。その功が称えられて焼物に適した土地を与えられ、土部(土師)職(=はじのつかさ)に任じられるなど、文武両道の神として崇められています。

出雲大社公式HPよりhttps://izumooyashiro.or.jp/precinct/keidai-index/setumatu

出雲大社(出雲市)【後編】 

一緒に読む
出雲大社(出雲市)【後編】

出雲大社(いずものおおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(okuninushi no okami)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(amatsu kami)」が 天日隅宮(amenohisumi no miya)を献上されたことに始まるとされています

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因幡国 髙草郡(たかくさの こおり)に鎮座する「天穂日命(あのほひのみこと)」に関連する5つの式内社 それぞれの論社について

3.因幡國 高草郡 天穗日命神社(あまのほひのみことの かみのやしろ)

・天穗日命神社(鳥取市福井)

一緒に読む
天穂日命神社(鳥取市福井)

天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)は 古代 稲葉国造(いなばのくにのみやつこ)の氏神として天穂日命が祀られたものであったと伝わります 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の因幡國 高草郡 天穗日命神社の論社です

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・天穂日命社〈日吉神社 境内摂社〉(鳥取市布勢)

一緒に読む
日吉神社(鳥取市布勢)&天穂日命社〈境内摂社〉

日吉神社(ひえじんじゃ)は 国の史跡「布勢古墳」と同じ丘陵地にあり 俗に「布勢の山王さん」と呼ばれ親しまれています 境内摂社の天穂日命社〈あめのほひのみことのやしろ〉は 山王社地宝筐印塔(さんのうしゃじほうきょういんとう)を御神体とする式内社 因幡國 高草郡 天穗日命神社の論社です

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4.因幡國 高草郡 天日名鳥命神社(あまひなとりのみことの かみのやしろ)

・天日名鳥命神社(鳥取市大畑)

一緒に読む
天日名鳥命神社(鳥取市大畑)

天日名鳥命神社(あめのひなどりのみことじんじゃ)は 中古に神廟 燹火(へいか)の災に遭(あ)ひ 燔滅(せんめつ)し 後の代に 本社一宇を建て 三神〈天日名鳥命 天穂日命 天日鷺命〉共に祭祀し「天三祇の宮」と称したとの事 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の因幡国 高草郡 天日名鳥命神社(あまひなとりのみことの かみのやしろ)とされます

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5.因幡國 高草郡 阿太賀都健御熊命神社(あたかつたけみくまのみことの かみのやしろ)

御熊神社鳥取市御熊

一緒に読む
阿太賀都健御熊命神社(鳥取市御熊)

阿太賀都健御熊命神社(あだかつ たけみくまのみこと じんじゃ)は 社殿一帯に玄武岩柱状節理がみられ これは「御祭神 健御熊命が 一夜で 隠岐島に石橋を架け造ろうとしたが にわかに夜が明けたと思い 事成らず捨置き給ふ趾」と伝説があります 式内社の阿太賀都健御熊命神社(あたかつ たけみくまのみことの かみのやしろ)とされます

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6.因幡國 高草郡 大和佐美命神社(おほやまとさみのみことの かみのやしろ)

・大和佐美命神社(鳥取市上砂見)

一緒に読む
大和佐美命神社(鳥取市上砂見)

大和佐美命神社(おおわさみのみことじんじゃ)は 式内社 大和佐美命神社(おほやまと さみのみことの かみのやしろ)とされます 御祭神 大和佐美命の御名は〈オワサミノミコトorオホヤマトサミノミコト〉とされ 諸文献には記されない神で 野見宿禰命(のみのすくねのみこと)の父ではないかとの説もあります

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7.因幡國 高草郡 大野見宿禰命神社(おほのみのすくねのみことの かみのやしろ)

・大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)

一緒に読む
大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)

大野見宿禰命神社(おおのみすくねのみことじんじゃ)は 御祭神に出雲国造の血筋にあたる角力(すもう)の祖 野見宿禰命(のみのすくねのみこと)を祀ります 『延喜式神名帳927 AD.』所載 因幡国 高草郡 大野見宿禰命神社(おほのみのすくねのみことの かみのやしろ)とされます

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR鳥取駅から千代川を渡り 吉岡街道を西へ 野坂川を渡ると 街道の右手沿いにこんもりとした鎮守の杜の丘があります 鳥取駅から約3km

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この鎮守の社叢は「徳尾の森」とも呼ばれ 国指定天然記念物なっています

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国指定天然記念物

大野見宿禰命神社社叢

昭和九年八月九日指定

 シイ・タブ・モチノキを主とする原始林におおわれた小丘である。
 高所はシイ・ヤブニッケイ群落とシイ・モチノキ・ヤダケ群落が優占しツバキが多くまざっている。
 山脚部のタブ・モチノキ群落にはサカキもられる。
 低木層には、ネズミモチ・アオキ・ヒサカキが多く、草本層にはテイカカズラ・ヤブラン・ベニシダ・ツワブキ・ジャノヒゲ・ヤブコウジが分布しており、蔓植物ではヤマフジ・イタビカズラがある。

平成元年十月 鳥取市教育委員会

現地案内板より

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一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には「式内 大野見宿禰命神社

大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)に参着

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石段を上がります

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中段辺りに 名板社務所掲げられている建物が建ちます

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上段手前に平坦ながあり 立札には「因幡誌二依ル 往昔之 角力場ハ此ノ所前 社務所」とあり この平坦な場所が角力場〈土俵〉だったとあります

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拝殿にすすみます 

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社殿の建つ上段には 円座に味わいのある狛犬が座します

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拝殿の木製扁額には「式内郷社 大野見宿禰命神社」と刻まれています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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神明造本殿の御扉には 神紋が二つ〈菊花紋・桐紋〉彫られています

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本殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階奉授が記されています

【抜粋意訳】

貞観八年(866)十月己卯

(さず)くに
因幡国(いなばのくに)无位(むい)
大野見宿禰神(おほのみのすくねのかみ)に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

大野見宿禰おほのみのすくねと読む と記しています

【抜粋意訳】

大野見宿禰命神社

大野見宿禰は 於保乃美乃須久尼と訓べし
和名鈔、郷名部 能美
〇祭神明らかなり
〇野見保徳ノ尾村に在す、今 大野見大明神と称す、因幡志

神位
三代実録 貞観八年(866)十月己卯(さず)くに 因幡国(いなばのくに)无位(むい)大野見宿禰神(おほのみのすくねのかみ)に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

延喜式神名帳に記されている 因幡國 高草郡には 天穂日命以下 末裔の神が五座 祀られている と記しています

【抜粋意訳】

大野見宿禰命神社

祭神 野見宿祢命

 今按〈今考えるに〉
書紀 雄略巻に 詔土師連等使進慶盛朝夕御膳清器者於 是土師連祖吾笥進云々 及 丹波但馬因幡 私民部名曰 贄土師部とあるを思ふに野見宿祢の裔なる土師連の氏人の此地方にめるか其の贄土師部を率て 朝廷に仕奉りけむ故に 其の祖先 天穂日命以下五座を本郡に崇め祭りしものなるし

神位 清和天皇 貞観八年十月八日 已卯 授 因幡國 無位 大野見宿禰神 従五位下

祭日 九月十三日
社格 郷社
所在 徳尾村 字丸山(気高郡大正村大字徳尾)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)について 當麻蹴速(タイマノケハヤ)との相撲の件
皇后の崩御に際し 殉死を止めて 埴輪を納めるように 天皇に進言して 出雲の土部百人召して自ら之をし を以て人馬及諸物を作らして 朝に献じた 以後 殉死は無くなったと記しています 

【抜粋意訳】

郷社 大野見宿禰命(オホノミノスクネノミコト)神社

祭神 大野見宿禰(オホノミノスクネノ)

宿禰出雲の人、天穂日命十四世の孫なり、垂仁天皇の朝、當麻蹴速といふものあり、角よく伸ぶ、常に衆に語り曰く、世安んぞ吾に比すべき力者あらんや、願わくは剛力の士と力を角せんと、天皇之を聞き群臣に間ひたまふ、蹴速は天下の力士なり、當世 これに比すべきものあるかと、或人宿祢を進む、天皇これを召して角力せむ事を命じたまふに、各足を挙げて当たる宿祢一蹴して蹴速が腰骨を挫き、遂に死に至らしむ、天皇これを賞して 蹴速が地を以て宿祢に賜ふ、

宿祢留って仕ふ、二十三年 皇后 日葉酢姫崩す、葬る事日あり、是より先天皇殉死を禁ヒたまひぬ、これに至りて群臣をして皇后の葬儀を議せしめたまふ、野見宿祢進んで曰く、凡そ陵墓に生人を埋むるは誠に不仁なり、後世に示す所以に非ず、臣願くは便宜を以て事に従はんと、乃ち出雲の土部百人召して自ら之をし、を以て人馬及諸物を作らしめ、朝に献じて曰く今より以後これを用いて陵墓に立て以て後世の法となさんと天皇これを嘉したまふ、其の土物を以て皇后の陵に立て、土物を称して埴輪といふ、詔下して定例なしたまひぬ、
延喜式神名帳に、大野見宿禰命神社とある是なり、鎮座の年代等詳ならず、三代実録に、貞観八年十月八日已卯 授 因幡國 無位 大野見宿禰神 従五位下を授け給ふ事見ゆ、又社は徳尾村田野の一丘深林の中に在り、旧と大野見大明神

称し其の社地丸山と号す、土俗これを徳尾の森と云ふ由因幡神社考に云へり、境内二千八百十九あり、社殿は本殿 拝殿 その他神楽庫、参所籠り備へたり。

例祭日 四月十三日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承

延喜式所載の神社であり「往古より 土師氏の祖神たるの所以を以て 参詣者 各々手に土を盛り持來りて報賽せしが、歳月の久しき遂に堆積して一丘となれりと傳ふ」と記しています

【抜粋意訳】

郷社 大野見宿禰命神社

氣髙郡大正大字徳尾丸山 鎮座

祭神 大野見宿禰命

由緒
延喜式所載の神社にして、三代実録巻十三貞観八年十月の條に「日己卯 因幡国 无位 大野見宿禰神 從五位下」と見ゆ、蓋し因幡の贄土師部の祭る所なり、
古老の口碑に、祭神 在世中に於ける 領地内の旧居地に社殿を建立し、往古より 土師氏の祖神たるの所以を以て 参詣者 各々手に土を盛り持來りて報賽せしが、歳月の久しき遂に堆積して一丘となれりと傳ふ、
明治元年 郷社に列せられ 四十二月三日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる、次いで大正十四 本殿を改築す、尚 当神社の社叢はを主木とする常緑闊葉樹林にしてタブの木椎等の喬木大群落をなし植物生理學上貴重の群落参考資料として昭和九年三月一日文部省より天然記念物として指定せらる。

例祭日 四月十三日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、社務所、神輿庫土蔵
境内坪数 二千八百十九坪
氏子戸数 五十八戸

【原文参照】

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)に (hai)」(90度のお辞儀)

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因幡国 式内社 50座(大1座・小49座)について に戻る      

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因幡國 式内社 50座(大1座・小49座)について

因幡国(いなばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 因幡国には 50座(大1座・小49座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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