乎疑原神社(おぎはらじんじゃ)は 『播磨國風土記』゛揖保郡 萩原里(はりはら/をきはら のさと)゛の条に 鎮座地゛乎疑原(をきはら)゛の名付け由縁が記される古社で 加東・加西三十五箇村の総社として例祭には 国家より幣帛が供進された 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
乎疑原神社(Ogihara shrine)
【通称名(Common name)】
・繁昌天神宮(はんじょてんじんぐう)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県加西市繁昌町529
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》 大物主神(おほものぬしのかみ)
《配》大国主神(おほくにぬしのみこと)
少彦名大神(すくなひこなのおほかみ)
菅原道眞命(すがはらのみちざねのみこと)
住吉大神(すみよしのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・農・工・商すべての産業開発・方除・治病・縁結び等、世の中の幸福を増進された人間生活の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
乎疑原神社
主祭神 大物主神 オホモノヌシノカミ
配祀神 大国主神 オオクニヌシノカミ
少彦名大神 スクナヒコナノオオカミ
菅原道真 スガハラノミチザネ
住吉大神 スミヨシノオオカミ祭記事
由 緒
創立年不詳。延喜式の制に、賀茂郡八座の一つに加えられる。少彦名大神を主神とするが、菅原道真左遷にさいし、当国に立ち寄りしとき、知友の僧たる百代寺の僧隆全、訪れる。
道真の天満大自在天神と仰がれしおり、これを配祀し、天神宮と称し、いつしか天津神の天神と天満の天神と混同し、信仰する。国内鎮守大小明神社記にも荻原明神と記す。
元禄5年(1692)、姫路市随願寺の天文13年(1544)鋳造の鐘を受ける。
明治7年(1874)、郷社に列せられる。
明治13年(1880)、弊殿新築。
明治24年(1891)、拝殿建替え。
明治35年(1902)、八幡神社合祀。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6313062.html
【由 緒 (History)】
『加西郡誌 : 御大典紀念』〈昭和4年(1929)〉に記される内容
【抜粋意訳】
乎疑原神社 (郷社)九會村繁昌字天神
祭神
中 大國主神 少彦名神 大物主神 天照皇大神 素戔嗚尊 稲倉魂神
左 底筒之男神 中筒之男神 表筒之男神
右 菅原道眞公 宗像姫三柱神(明治三十五年四月同村 無社格八幡神社合祀)祭日 住時は二月廿五日 現今は三月二十五日
勧請の年月、由緒等詳細知るを得ないが、
當神社は廷喜式に記された加茂郡八座の中の乎疑原神社である事云ふまでもなく、創祀は一千餘年の以前であることだけは知り得られる
天文年間災火に罹って 社殿をはじめ諸の建物、別當 百代寺等まで、全部焼け、其の際 古記錄其他 貴重書類 悉く燒失したので、その以前の事は 何等文書に傳ふる所がない。
ただ、口碑傳へるのは 往古朝廷からも屢々祈願があつたと云ひ又、醍醐天梟の御宇 當地百代寺の阿闍梨隆全と云ふのが 菅原道眞公の死後 その霊を筑前大宰府に「天満大自在天神」として祀った事を聞き、菅公の霊を當神社に配祀した。
それから世人が「乎疑原神社」とは云はず「天神社」と俗稱するに至り「繁昌村の天神社」として遠近に聞こえるやうになつた。と云って居る。
若しこの口碑の通りであるとすると、菅公の薨は醍醐帝の延喜三年であり、天満大自在天神として大宰府に祀られたのは延喜五年八月であるから、隆全が菅公の霊を當神社に配祀したのは延喜六年から延長八年迄 (卽ち醍醐帝の御宇)の間に於てであらうと思ふ。さうすると當「天神」は京都北野の天満天神 (天曆年間創祀)より古いのである。
記錄文書がないから明細には分らないが 延喜以後に於て國司領主等から當神社に寄附奉賽等も多くあったやうである。
當神社は往時は河合郷三十五ヶ村の惣社であって、明治七年郷社に加列されたものである。
郷社となるその當時 俗稱「天神社の稱」を舊「乎疑原胸祉」とするに際し 豊倉村の氏子から爭ひを起し一時紛糾したが 乎疑原神社が正なること分明し事なく解決した。
神式としての特別の行事はないが 春祭りには「天神の雛市」と稱し雛人形の露店が多く出る。この時には植木市も行はれ この両市は有名である。
現今の氏子は九會村繁昌、上宮木、下宮木、富合村朝妻、豊倉等である。境内には 八幡神社 (祭神端津姫神、田心姫神、市杵島姫神) 稻荷神社 (祭神猿田彦神、蒼稻魂神、天字豆賣神 ) 神宮社(祭神仲哀天皇) 三輪社 (祭神大物主神) 荒神社(祭神奥津姫命、奥津彦命、斬遇突馳命) 若宮八幡社(祭神息長足比賣神) 秋葉神社(祭神火蘭降命) 大歳神社(祭神大歳神) 大歳神社(祭神大歳神)の九社がある。
【原文参照】
延喜式内
天神宮 乎疑原神社(おぎはらじんじゃ)
祭神
大国主命
少彦名命
菅原道真命神事
例 大 祭 三月二十五日
七月 大祭 七月二十五日
十二月大祭 十二月二十五日
月首祭 毎月一日
月次祭 毎月二十五日
古例祭 祈年祭
新嘗祭 学神祭由緒
当社の創始は奈良時代にさかのぼる。平安時代の醍醐天皇の御代に 延喜式の国幣の官社に指定された。加東・加西三十五箇村の総社として例祭には、国家より幣帛が供進された格式の高い神社である。ご祭神大国主命 少彦名命は、記・紀によれば協力して国土を拓き 農・工・商すべての産業開発・方除・治病・縁結び等、世の中の幸福を増進された人間生活の守護神である。
ご祭神 菅原道真命は学者であり、政治家であり至誠の人であった。天神信仰によって、道真公は学神として庶民に奉斎されていった。また、芸能の神としても崇拝される。
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・八幡神社《主》応神天皇〈端津姫神、田心姫神、市杵島姫〉
・稲荷神社《主》猿田彦神、蒼稻魂神、天字豆賣神
・新宮社〈神宮社〉《主》仲哀天皇
・三輪社《主》大物主神
・若宮八幡社《主》息長足比売命
・秋葉神社《主》火蘭降命
・荒神社《主》奥津姫命,奥津彦命,軻遇突馳命
・大年神社《主》大年神
・大歳神社《主》大歳神
・柿本社《主》柿本人麻呂
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
延喜式内社 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)は ゛萩原(をきはら)゛とも書いていたと伝わっています
※『國内鎭守大小明神社記』には゛荻原明神゛と載せられています
鎮座地が゛乎疑原゛と名付けられた所以は 『播磨國風土記』゛揖保郡 萩原里(はりはら/をきはら のさと)゛の条に記されています
神功皇后にまつわる地名起源の神話で 神功皇后が 韓国から還られ給われた時 この地に停泊した一夜の間に「萩」 (榛・はり )がー株生え 一丈 (約三メ—トル)に達したと云う すぐに井を掘り これを萩 (はり)にちなんで「針間矛 (はりまゐ)と名付けた その場所は神聖な場所として開墾はされなかった
※(荻間〈針間〉から転じて播磨国の國名の由来となったとも云う説あり)
また韓国から持ち来たった酒を入れる樽(壺)から水が溢れ出し井となり この水は 朝汲んでも使わない風習があり この水で酒を醸し酒殿を造った 酒を入れる舟 (桶)が傾いて 酒がこぼれて中が空となって乾くと 従者が 酒に酔って 稲をつく女の陰を犯したので陰絶田(ほとたちだ)と云う
※(神功皇后が 韓国から引き連れてきた渡来系氏族の土着勢力発生源の神話ともされます)
また 萩が生茂っているので萩原と云う
※(゛乎疑原(はりはら/をきはら)゛の事です)
此処に祀られている神は 少足命(スクナタラシ)が坐します と記しています
※(少足命とは 〈少彦名命(すくなみことのみこと)〉とされます)
【抜粋意訳】
揖保郡 萩原里の条
萩原里(はりはらのさと)〔土中土〕
右所 萩原と名付けられた所以は
息長帯日賣命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉が 韓国から還られ給われた時 御舩をこの村に停められて 一夜 宿泊をされた 一夜の間に 萩一根が生え 高さは一丈(約三メ—トル)ばかりとなった よって萩原と名付けたと云う
此処に 即(ただちに)に御井(みゐ)を闢(ひら)き給われた 故に゛針間井(はりまゐ)゛と云う其所は開墾せず〈田は作っていない〉
また 樽(壺)の水が溢れて井戸と成った 故に゛韓清水(からしみづ)゛と名付けた その水は朝汲んでも使わない風習があり それで酒殿を造った 故に゛酒田(さかた)゛と云う
また 酒を入れる舟 (桶)が傾いて乾いた 故に゛傾田(かたぶきた)゛と云う
また 皇后の従者が 春米女(いねつきめ)らの陰(ほと・女陰)を犯した 故に゛陰絶田(ほとたちだ)゛と云う
また 萩が生茂っている 故に゛萩原(はりはら/をきはら)゛と云う
此処に祀られている神は 少足命(すくなたらしのみこと)が坐ます
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 乎疑原神社
[ふ り が な ](をきはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wokihara no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 播磨國 賀茂郡 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)の論社について
乎疑原神社(加西市繁昌町)は 明治7年 式内社であるとして郷社に加列されました
その時 俗称であった゛天神社゛から 式内社゛乎疑原神社゛に改称しようとしましたが
豊倉村の氏子から係争され 一時紛糾したと『加西郡誌 : 御大典紀念』兵庫県加西郡教育会 昭和4年 編に記されています
乎疑原神社(加西市豊倉町)は 乎疑原神社(加西市繁昌町)からの分祀であるとする説 元宮であるとする説 の両説があり
現在 式内社の論社としては 二ヶ所が該当しています
・乎疑原神社(加西市繁昌町)
乎疑原神社(おぎはらじんじゃ)は 『播磨國風土記』゛揖保郡 萩原里(はりはら/をきはら のさと)゛の条に 鎮座地゛乎疑原(をきはら)゛の名付け由縁が記される古社で 加東・加西三十五箇村の総社として例祭には 国家より幣帛が供進された 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)です
乎疑原神社(加西市繁昌町)〈播磨國 河合郷加東・加西三十五箇村の総社〉
・乎疑原神社(加西市豊倉町)
乎疑原神社(おぎはらじんじゃ)は 『國内鎭守大小明神社記』には゛荻原明神゛と載り゛萩原(をきはら)゛とも書きました 鎮座地゛乎疑原(をきはら)゛の名付け由縁は『播磨國風土記』゛揖保郡 萩原里(はりはら/をきはら のさと)゛の条に記されます 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)の論社です
乎疑原神社(加西市豊倉町)〈延喜式内社 乎疑原神社(をきはらの かみのやしろ)〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
中国自動車道 加西ICから南へ約4.7km 車で10分程度
普光寺川の西岸の小高い丘に向かいます
かつての別當 百代寺の参道を上がって行きます
百代寺を過ぎて80m程進むと 梵鐘があり 乎疑原神社の裏手になります
乎疑原神社(加西市繁昌町)に参着
すぐに本殿の脇に出ます
拝殿の真横に出ると社殿の周りには 鉄パイプで工事足場が組まれています
一方 境内の日陰部分には 数日前の雪がしっかりと残っていました
裏参道から境内に入ってしまいましたので 一旦 表参道の境内入り口に立っている注連柱まで 境内の隅を歩いて進みます
一旦 表参道の境内入り口まで戻ると 参道の遥か下に 社頭の鳥居が見えています
目の前の参道のには 境内社の石祠が 参道の両脇に祀られています
御祭神はわかりませんが 祓いの社なのだろうか 気になりますのでお参りをします
立札の文字はかすれていますが 最後に「兵庫縣」の文字が見えていて 内容は 境内の禁じ事が書かれています 郷社であった時の名残なのでしょうか?
再び 社殿を向いて 参道を進み 注連柱の手前で一礼をして 境内へと進みます
境内向かって左手には手水舎があります
拝殿の工事足場は 拝殿の瓦屋根を葺き替えているようです
職人さんが屋根の上で作業をしています
改めて 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 振り返ると境内入り口の注連柱の先に 参道は東へ向いています
工事の邪魔にならないように 境内巡りは遠慮して 裏参道へと戻ります
拝殿の奥には 幣殿が続いていますが 幣殿の屋根にもブルーシートが掛けられています
玉垣の中 本殿の横には 幾つか境内社が祀られているようです
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 乎疑原神社について 所在は゛所在分明ならず゛と良く分からないとしています
播磨國風土記には゛揖保郡荻原里゛
式社記には゛加西郡豊倉村にあり゛〈現 乎疑原神社(加西市豊倉町)〉
古跡便覽、播磨鑑には゛其所しれずと云り゛
【抜粋意訳】
乎疑原神社
乎疑は假字也、原は波良と訓べし
〇祭神 少足命〔風土記〕
〇所在分明ならず
〇播磨國風土記云、
揖保郡荻原里、〔土中中〕右所 以名に萩原里者、息長帶日賣命、韓國還上之時、御船宿に於此村、一夜之間、生に荻根高ー丈許、仍名に荻原、〔中略〕爾祭神 少足命坐、〔連胤云、こは本社なるべし〕式社記、加西郡豊倉村にあり、
古跡便覽、播磨鑑、其所しれずと云り、猶考ふべし、類社
伊勢國 度會郡 荻原神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 乎疑原神社について 所在は゛今 加西郡繁昌村にあり、天神宮と云、之を西河合郷の惣社とす゛〈現 乎疑原神社(加西市繁昌町)〉で 祭神は゛少彦名命を祭る゛と記しています
【抜粋意訳】
乎疑原(ヲギハラノ)神社
今 加西郡繁昌村にあり、天神宮と云、之を西河合郷の惣社とす、〔葛麿縣神社調〕
盖 少彦名命を祭る、〔土人傳説〕
凡 其祭二月二十五日 九月朔日を用ふ、〔葛麿縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 乎疑原神社について 所在は゛繁昌村(加西郡九會村大字繁昌)゛〈現 乎疑原神社(加西市繁昌町)〉と記しています
【抜粋意訳】
乎疑原神社
祭神 少彦名命
祭日 二月二十五日 九月一日
社格 郷社所在 繁昌村(加西郡九會村大字繁昌)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
乎疑原神社(加西市繁昌町)について 兵庫県の郷社に列した事が記されています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 加西郡九會(クエ)村 大字繁昌
郷社 乎疑原(ヲギキラノ)神社
祭神 大國主(オホクニヌシノ)命
相殿 大物主命 住吉神 少彦名命 菅原道眞
合祭 宗像姫三柱神 天照皇大神 素戔嗚命 倉稻魂命創建年月詳ならず、
〔〇明細帳〕但、延喜の制小社に列せられ ,大小明神社記・明神小社とす、
此地乎疑原と名づくる所以は、播磨風土記に「息長帯日賣命韓國還上之時、御船宿に於此村、一夜之間、生に荻根、高ー丈許 仍名 萩原」とあり、但、其頃 鎭座ありしや否やは分明ならず、
明治七年二月郷社に列す、其後 同村 八幡神社及同社境内社三社を本社に合祀す、
社殿は本殿・拜殿・神具殿を具備し、境内地は七百十八坪 (官有地第一種)、三十九年中内務省指令甲第一八〇號を以て、更に上地林一町四反二十六步を境内に編入せらる。
境内神社
八幡神社 稻荷神社 新宮神社 三輪神社
荒神社 若宮八幡社 秋葉神社 大年神社〔二社〕
【原文参照】
乎疑原神社(加西市繁昌町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 50座(大7座・小43座)の式内社に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について