能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
能登生国玉比古神社(Notoikukunitamahiko Shrine)
(のといくくにたまひこじんじゃ)
[通称名(Common name)]
氣多本宮(けたほんぐう)
【鎮座地 (Location) 】
石川県七尾市所口町ハ48
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴神(Ohonamuchi no kami)
《配》素盞嗚尊(Susanowo no mikoto)
奇稲田姫命(Kushi inadahime no mikoto)
《合》事代主神(Kotoshironushi no kami)
底筒男神(Sokotsutsuwo no kami)
中筒男神(Nakatsutsuwo no kami)
上筒男神(Uwatsutsuwo no kami)
建御名方命(Takeminakata no mikoto)
多遅摩毛理命(Tajimamori no mikoto)
(事代主神以下5柱は 明治時代の神社整理の結果 合祀)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)の元宮
・ 能登國一之宮(Noto no kuni ichinomiya)の元宮
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
・ 能登国総鎮守〈能登の大神〉
【創 建 (Beginning of history)】
・上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉に創祀されたと伝える
第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉に羽咋の竹津浦に祭神を分霊したと伝わり これが現在の氣多大社の創祀とされていて
その頃から 気多本宮と称したと伝えます
現在でも 平国祭(くにむけのまつり)通称「おいで祭」して 羽咋の氣多大社からの神幸祭が 毎年3月18日~3月23日に5泊6日かけて50余名で巡行する神事が執り行われます
七尾城が元の鎮座地です 天正年間(1573~1592)に兵災に遭い 前田利家公により七尾城築城のため当地に遷座 再建
【由 緒 (History)】
由緒
延喜式に見られる能登生国玉比古神社といわれ、孝元天皇の創祀という。
崇神天皇が当社の祭神を分霊し、羽咋郡 竹津浦に勧請し気多神社とされた故に、当社を気多本宮と称する。
天正年間に前田利家 旧社地所口より現在の所口へ遷された。
明治5年3月23日県社に列し、同39年12月29日神饌幣帛料供進神社に指定された。大正12年神門及び拝殿を銅葺とし、昭和42年より46年に亘り社殿を大修理した。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・御門神社《主》豊石窓神・櫛石窓神
・稲荷神社《主》倉稲魂神・大宮女命
・菅原神社《主》菅原道真公
・鍛冶祖神社《主》天目一箇神・金山彦神・金山姫神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
氣多大社の元宮であるとして 氣多大社について
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える氣多神社(ケタノカミノヤシロ) 一座 能登国(ノトノクニ)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」の末尾
宮司(グウジ)禰宜(ネギ)に季禄者(キロクシャ)の官位を授けています
主要な神社として 伊勢の内宮・外宮の他には
〈香取神宮〉〈鹿島神宮〉〈気比神宮〉〈氣多大社〉の4社です
凡諸神(ボンショノカミ)宮司(グウジ)禰宜(ネギ)季禄者(キロクシャ)
伊勢太神宮〈内宮〉の禰宜は 准従7位の官に
渡会の宮〈外宮〉の禰宜は 准従8位の官に
並び以って 神郡の神統給う之下総国 香取神〈香取神宮〉の宮司
常陸国 鹿嶋神〈鹿島神宮〉の宮司
越前国 氣比神〈気比神宮〉の宮司
並びに 准従8位の官
並び以って 封戸物旡之
能登国 氣多神〈氣多大社〉の宮司 准初位の官に
持って神封 給え之
【原文参照】『延喜式 巻3「臨時祭」の「名神祭」の条285座』
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
※氣多大社の元宮であり参考に 氣多大社について
「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 氣多神社
[ふ り が な ](けたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Keta no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
「能登國 能登郡 能登生國玉比古神社」の論社です
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 能登生國玉比古神社
[ふ り が な ](のとなりくにたまのひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Noto narikunitamanohiko no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について
氣多神(ケタノカミ)と その御子神〈苗裔神(ビョウエイシン)〉 や 分祠とされる神社が 日本海の沿岸や河川流域に鎮座します
「氣多神(ケタノカミ)」の本宮 「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の元宮
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・気多大社(羽咋市)能登国一之宮
氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社
①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多御子神社(小松市)
気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です
気多御子神社(小松市)
・市之瀬神社(加賀市山代温泉)〈合祀先〉
市之瀬神社(旧村社)に合併されている神明宮に祀られていたという御子社(山代日子命)が氣多御子神社だという説
➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です
氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉
➂「越後國 頸城郡 居多神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・居多神社(上越市)越後国一之宮
居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています
居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉
④「但馬國 氣多郡 氣多神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多神社(豊岡市)但馬国総社
➄「飛騨国 気多若宮神」
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条
・気多若宮神社(飛騨市)国史見在社
氣多本宮の「夏越祭(なごしのまつり)」について
日本遺産 JAPAN-hERITAGE
「夏越祭」なごしのなつまつり
平成27年4月24日 文化庁認定
夏越祭は、所口町に鎮座する能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)〈気多本宮〉の夏祭りです。(7月最終土曜日開催)旧暦6月末日に行われた夏越の神事、すなわら心身のケガレを祓い流して清浄を期した夏祓いの行事です。「西のおすすみ」とも呼ばれ、氏子各町より大小の奉燈が出されます。当日早朝、三島町(旧・竹町浜)に仮宮が設けられ、夕方には神社から仮宮まで神輿が神幸します。晩方、各町は自町内を練ったあと仮宮で到着順に練り、奉鐙の整列後、祭礼が行われます。・夜も更けると神輿は神社に還御し、各町の奉燈は自町内に戻ります。
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 能登生國玉比古神社」の論社は 3神社あります
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・能登生國玉比古神社(中能登町)
能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります
・能登部神社(中能登町)
能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります
能登部神社(中能登町能登部上)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
七尾駅から 北へ1.1km 徒歩15分程度
東南に向いて社殿が建ち 参道も東南方向に伸びています
能登生国玉比古神社(Notoikukunitamahiko Shrine)に参着
鳥居の扁額には「能登生国玉比古神社」と記されています 一礼をして鳥居をくぐります
参道を進むと 太鼓橋の神橋が架かり その先に広々とした境内に参道が抜けていて 隋神門 社殿が建っています
この隋神門が 境内社の御門神社《主》豊石窓神・櫛石窓神とおもわれ お詣りをして 境内を進みます
広めの参道には 新旧2対の狛犬が並び
拝殿にすすみます
拝殿には奉献酒が並べられ
扁額には「氣多本宮」とあり 御神紋も気多大社と同様の桜です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の彫刻は 実に見事です
拝殿横の鳥居から外へ出て 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
社名「能登生」を「ノトナリ」と訓ずると記しています
【意訳】
能登生國玉(ノトナリクニタマノ)比古神社
〇摂津国 難波坐 生国魂御社
〇島山乎
〇能登 ノトナリと訓正身 按 社家呼伝
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
社名「生國玉」を「イククニタマ」と訓ずるとして「能登生」「ノトナリ」は誤りと記しています
式内社として 七尾の気多本宮を比定しています
【意訳】
能登生國玉比古神社
能登は 郡名〈ノト〉に同じ
生國玉は 伊久久爾多麻(イククニタマ)と訓ずべし
今 能登生と生字を上につけて ノトナリと読むは然るべからず
これ古は 仮字なり〇祭神 生国神 足国神 歟(や)
神社帳云う 素戔嗚尊 大己貴命 奇稲田姫命〇所口村に在す 氣多本宮と称す 神社帳
類社
摂津国 東生郡 難波坐 生国魂神社の條 見合うべし
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社としては「所口村の氣多本宮を生國玉比古神社と云へれる説」もあるので 論社ではあるが
やはり 正しくは金丸村の「能登生國玉比古神社」であるとして 金丸村を比定しています
【意訳】
能登生國玉比古神社
祭神 多氣倉長命
今 按〈考えるに〉
祭神 多氣倉長命と云える
神名古書に微かなれど 縁起の文をみるに 無稽(ムケイ)の妄説(モウセツ)とも想われず もとより古伝ありて記せりものである歟(や)
承應2年(1653)生國玉比古神社 縁起に
「金丸郷金丸村鎮座 能登生國玉比古神社 者蓋 当国々魂之神 而名曰 多食倉長命なり 在昔 大己貴命 少彦名命 2神 当於巡行 国土之時会到 於当地興 多食倉長命 一心尽力 其討伐為害 人民之怪異 而後 経営国土愛護人物焉
当此時 少彦名神が 娶(メトリ) 国魂神 多食倉長命之女 伊豆目比賣(イズメヒメ) 生金鋺(カナマリ)翁 菅根彦命 此の神 即ち 金丸村主之遠祖なり」
と記したるは 風土記の説などのあるによりて記せるものなるべし 姑附て参考に備ふ祭日 4月18日 9月8日 21日
社格 村社
所在 金丸村 (鹿島郡金丸村 大字 金丸)今 按〈考えるに〉
一説に 本郡 所口村 氣多本宮を生國玉比古神社と云へれど
こは羽咋郡 氣多神社の本宮にて 氣多社記にも その由記せるを 承應の頃 石動山の神官 詐術を以って 能登部上村の社号とせんと計りしに 上村の邑民服せざるを以って その事ならず後 氣多本宮の神官と姻を結び 終に本宮を式内社と云い始めしなれど 本宮の所蔵 建武己来の古文書により考えるに 何れも 氣多本宮 又 所口 氣多大明神とあれば 生國玉比古とは 別神なり故 今 取り難けれども異説あるを以って 姑く決し難し
(明治13年5月 鹿島郡金丸村 鎮座 多氣倉神社より 旧来称し来候 能登生國玉比古神社に復号致す度 皆出願の趣 石川県より照会ありしにより 式内の義は 未定の心得を以って 復称を聞届けに相成可然旨 6月25日回答あり)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
羽咋の氣多大社の本宮であり 平国祭について詳しく説明があり「古昔 大己貴神が妖鬼を誅殺し 以って当国を平定し 萬類を生育せしめたる古寶を後世に存せるものにして 所謂(いわゆる)能登開国記念の祭典なり」と記しています
【意訳】
石川県能登国鹿島郡矢田郷村大字所口
縣社 能登生國玉比古(ノトナリクニタマビコノ)神社
祭神 大己貴(オオナモチノ)神
相殿 素戔嗚(スサノヲノ)神
奇稲田姫(クシイナダヒメノ)命事代主(コトシロヌシノ)神
底筒男(ソコツツノヲノ)神
中筒男(ナカツツノヲノ)神
上筒男(ウハツツノヲノ)神
建御名方(タケミナカタノ)神
(事代主神以下5柱は 神社整理の結果 合祀せられたものなり)創建年代詳らかならずと雖(イエド)も
延喜式に載せられたる旧祠なり
古老の伝説によれば 古昔 当国に巨鳥毒蛇が棲んで 山海穏やかならず 当時 大己貴神が これを誅殺し 国土を平定し萬類を生育せしめ給いたり これ即ち 当社の大己貴神を崇祀する所以なりと
大同類聚方に「能登薬能登国 能登生國玉比古の家伝 腹張者 仁興天下須」と見えるも この神の功績を表證せるとなり
天正年間 火災に罹り 社殿及び記録 悉く焼失して徴とするに足るものにし
今 漸(ようや)く残存せる旧記によれば
孝元天皇 使を下して 社殿を造営し給い 春秋の祭祀 甚(はなはだ)厳重なり
崇神天皇 当社の祭神を分霊し 羽咋郡 瀧津浦に勧請し給い これを氣多神社と称すと云う
又
仁徳天皇 幣使を下し給い 天武天皇 社殿を造営せしめらる
養老3年以来 数度 奉幣使を下し給い
降って
醍醐天皇 健武元年 中院少将定清に詔して 社殿を修理せしめられ 同3年 源頼顕 神封5箇免田を増加せられ その後 大官家持をして 幣帛を奉らしめ
弘治3年3月 管領 畠山義綱 社殿を改造し 神封を増加せり 而して 天正の兵火を経て 当国は前田利家の領する所となるに及び 築城のため当社を宇明神野 旧地より南の方へ8丁ばかり へ遷して造営し 神封を廃して 更に米10俵の地を寄附せられたり
能州名跡志にも「一国府の総社にして十名神明野に在す この神 氣多本宮なり 社伝12石 昔は社領1000石 両部にして 社人社伝多し」と あるを以ても その盛大なるを知らる 明治5年 縣社に列す建物には 本殿 拝殿(文久年間の改造八ツ棟唐破風造 欅材 坪数45坪なり)中門あり
境内1475坪にして 近年 梅樹を栽植したれば 喬木扶疎 風致に富み 祠字 高宏巖然として聳え 神威赫々たり
特有の神事
当社の祭典は 年中75度就中3月21日
國幣中社 気多神社の神輿 当社に渡幸 祭典を執行するの古例あり
氣多の神職 騎馬にて神輿に供奉し来りて 当社 鳥居前に至る間 群民充満肉薄して神輿を奉迎える この時 神職 神輿に前騙して群衆中を通過し 下馬場に達するとす 群衆吶喊之を遮り 進行を害し達しめさる事を勉む 神職は馬上に於いて これを便撻して避けしめ 漸くにして達する この間 頗(すこぶ)る雑踏を極め 宛然 兵乱接戦の状を為す これ即ち 古の昔 大己貴神が妖鬼を誅殺し 以って当国を平定し 萬類を生育せしめたる古寶を後世に存せるものにして 所謂(いわゆる)能登開国記念の祭典なり 即ち 地誌提要神祇志料等にも 毎年2月初午 一宮 氣多大神の神輿 この處(ところ)に行幸(ぎょうこう)して 祭りを行う云々とあり
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
能登生国玉比古神社(Notoikukunitamahiko Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について