実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

能登比咩神社(中能登町)神代より伝わる「能登上布」を生み出した二柱の織姫(オリヒメ)を祀ります

能登比咩神社(のとひめじんじゃ)は 神代の時より伝わる伝統の麻織物「能登上布〈上等な麻織物〉」生み出した の織姫(オリヒメ)〈・能登比咩命・沼名木入比賣命〉を能登上布の祖として祀ります 又 同じく能登部に鎮座する能登部神社を兄宮と呼び 当神社 能登比咩神社を妹宮と呼びます

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

能登比咩神社Notohime Shrine)
(のとひめじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

下の宮(しものみや)・妹宮(いもうとみや)

【鎮座地 (Location) 

石川県鹿島郡中能登町能登部下125甲29

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》能登比咩神Notohime no kami)
   沼名木入比売命Nunakiirihime no mikoto)

明治40年 同所3社 諏訪 稲荷 菅原 八坂 谷内 大将軍等の各神社を合祀
《合》天照大神虚空津比売命猿田彦大神建御名方神倉稲魂命
   菅原道真素戔嗚尊日本武尊少名彦命

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

・創建年代不詳

【由  (History)】

能登比咩神社 御由緒書

御祭神 能登比咩神
    沼名木入比売命

(能登比咩神)
太古 大巳貴命、少彦名命と共に天下を経営し 越の8国を平らげ玉う、此地に到り、国津神を求め玉う、ここに手玉母由良に機織る乙女あり、命機殿に来り、御飯を語り玉ひければ、乙 稗粥(ドブロク)を進む 命甚く愛でして、永く吾苗裔と為さむと宣り玉う
 乙女を能登比咩神と称え奉る比咩神 常に女巧を重し自ら機杼を作り妙依を製して天に供え玉う後、機杼を海中に投し玉しに一島忽然として生る名を能登比咩織島、又名 機具島と言う羽咋 富来沖に在り

(沼名木入比売命)
人皇10 崇神天皇の皇女 沼名木入比命は 皇兄 大入杵命に随て、当国に下向し、此郷に駐玉ひ、産土神 能登比咩神の遺業を興し郷里の婦女に機織る業を教え玉ふ。
此地にして薨去し 玉ひければ、里人御尊骸を後丘に葬り 神霊を祭祀し奉る能登麻織物の御祖神と称へ奉り、御神徳を仰敬奉る。
境内案内石板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

子安神社

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 能登比咩神社
[ふ り が な ]のとひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Notohime no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

(兄宮)「能登部神社(中能登町)」
(妹宮)「能登比咩神社(中能登町)」と兄妹神社とされる式内社の論社

第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト)を能登部神社祭神として祀り 妹の沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)は 能登比咩神社で祀り 往古は この地は能登部兄村妹村と称され 両村の神社を兄宮 妹宮とも 上宮下宮とも称しました

・能登部神社(中能登町)

一緒に読む
能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

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太古 大己貴命 少彦名命と共に天下を経営し越の八国を平け給う時 此の地に至り 国津神を求め給う 爰に機織乙女あり 命機殿に来たり 御飯を語り給いければ 乙女は稗粥と どぶろくを進む 命甚く愛で生して 永く吾苗裔と爲さむと宜り給う 此の乙女名を能登比咩神と稱へ奉る

・能登比咩神社(中能登町)

一緒に読む
能登比咩神社(中能登町)神代より伝わる「能登上布」を生み出した二柱の織姫(オリヒメ)を祀ります

能登比咩神社(のとひめじんじゃ)は 神代の時より伝わる伝統の麻織物「能登上布〈上等な麻織物〉」を生み出した 二柱の織姫(オリヒメ)〈・能登比咩命・沼名木入比賣命〉を能登上布の祖として祀ります 又 同じく能登部に鎮座する能登部神社を兄宮と呼び 当神社 能登比咩神社を妹宮と呼びます

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

能登部駅から西へ約1.2km 徒歩15分程
古代から続く街道沿い玉垣に囲まれた境内参道あり 社号標「縣社 能登比咩神社とあります

能登比咩神社Notohime Shrine)に参着

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参道は長く 鳥居は3つ連なっています 一の鳥居の扁額には「能登比咩神社」とあり 一礼をしてくぐります

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二の鳥居の前には 再び玉垣が廻され ご神域歩み入れる事を悟ります

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昭和天皇が 昭和8年の歌会始で「朝海(あしたのうみ)」という御題で世の太平を祈って御詠みになられた御製(ぎょせい)石碑があります

天地(あめつち)乃 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

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三の鳥居先は 石段になっていて その先に社殿が建ちます 樹木に囲まれた先に社殿が覗いている 厳かな感のする石段を上がります

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拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の向かって左側には 境内地があって 境内社の子安神社が鎮座し お詣りをします

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子安神社の直ぐ脇は拝殿幣殿が建ちますが 本殿がないと想うと 裏手の丘の上に本殿が鎮座しています

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社殿一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社として能登部村を比定しています

【意訳】

能登比咩(ノトヒメノ)神社

〇今 能登部村に在り

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

式内社として能登部村を比定しています

【意訳】

能登比咩神社

能登は 郡名に同じ
比咩は 仮字なり

〇祭神 明らかなり
〇能登部下村に在す 神社帳

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社として能登部村を比定しています

【意訳】

能登比咩神社

祭神 能登比咩神 称 妙天神
今 按〈考えるに〉
一説に 祭神 三穂津姫命とあれど 如何あらん
社伝に氣多大神の苗裔神なりと云えり
故に 古来 苗裔祭と称する古式の祭典ありと云う 拠らば氣多大神の御女神などにや

祭日 8月19日 10月19日 20日
社格 村社
所在 能登部下村 〇属 鹿島郡能登部 大字 能登部下

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

明治から昭和初期頃 羽咋・能登部は 能登縮(のとちぢみ)能登上布」〈本麻手織り上布の一大産地であって 質量ともに全国一を誇っていました 
これらも 神の功績による記されています

【意訳】

石川県能登国鹿島郡能登部村大字能登部下

郷社 能登比咩(ノトヒメノ)神社

祭神 沼名木入比咩(ヌナキイリヒメノ)

合祭 天照大神 虚空津彦(ソラツヒコノ) 猿田彦大神 建御名方神
   倉稲魂命 天満天神 素戔嗚尊 日本武尊 少名彦命

創立年代詳らかならずと雖(いえど)も
崇神天皇の皇女 沼名木入比咩(ヌナキイリヒメノミコト)を祀り 延喜式内の旧社なり
神名帳考証に今在る能登部村 按 能登比咩者 伊弉那美命か 
旧事記云う 素戔嗚尊曰く 欲罷妣国根之堅洲国 伊弉諾尊 云々とあり
能登誌 及び 社記等に 沼名木入比咩の兄 大入杵命を誘い 当国に臨幸ありて能登部郷に座ます 故に 往古は 能登部妹村 兄村の村名ありて 即ち両村の神社を兄宮 妹宮 又は 上宮 下宮と称し 後世 能登部下村 上村と称ふと云う

氣多本宮社記 神祇志料に 今在るは能登部村 双天神と云う 蓋三穂津姫命を祭る者にして氣多大神の末社なりともあり
而して 
比咩を当所に祭れる所以は 始め 垂仁天皇 比咩に命じて 大倭大神を祭らしめ給いしが 身体痩せ弱り 斎き奉る能はず 皇兄 大入杵命に随い 当地に下向ありしことにして その後 本国にて 機杼(きじょ)の業を興し給い 妙衣を製し 天尊に供し 後 機杼(きじょ)を海中に投ずるに 忽然と一島を生じ これを能登比咩織島 或いは 織具島と号し 今 富木浦にあり 
或る説には 機杼(きじょ)の業は その始めを能登比咩命なりとし 沼名木入比咩は その当時 能登比咩命の遺業を興し給うものとせり 而して 今 支機石八尋石と云う社宝あり 皇女 自ら機を織り給う時 この石を以って機絲の重みに置き給う故に その名ある由 又 機を織り給う時 稗粥を以って機絲に塗りて 織成し給う事を発明せられしを以って 里人 今にこの法を伝える 故に4月21日の祭事に 稗粥を造りて これを供する古例ありと 而して 比咩命 この地に隠れ給いしかば 御尊體を丘上に葬り 当社を設置して神霊を奉斎す これ本社の起源なり 淳名城入比咩命の御墓は神社の西北の山上に在り 石柱に能登比咩宮と刻せりされば郷民の本社を崇敬することは勿論 源順 藤原基頼 畠山基国 前田利家卿等の 尊敬厚く 祭事を修し 幣帛を供進せらるること その多し かくて この神の遺業はやがて 現今 県下の屈指の物産として 能登縮布を出すに至れり 
嘗(なめ)て 前田斉秦の報恩賛に曰く
「この社 鎮座 能登比咩神は 崇神天皇 云々 

これ その神徳の宏遠なるを知るべし 而して 明治の初年 村社に列し 同14年9月郷社に昇格す

建物は 本殿 拝殿 中門 鳥居 幣殿 寶蔵にして
境 内316坪を有し
後方 山岳を負い県布瀧あり その下流を宮川と称し 命の布を晒し給うと云う
社内 椎松茂り 崇高にて清爽 所々 梅桜松を植え風致よく 髙丘にあるを以って 半郡を眺望し 神域として尊厳なり 
明治40年 同所3社 諏訪 稲荷 菅原 八坂 谷内 大将軍等の各神社を合併祭祀せり

特殊の祭事として 平国祭駐輿式あり
毎年3月23日にして 國幣中社 氣多神社 平国祭の砌(みぎり) 当社に駐り給う 稗粥濁酒の神饌を献供して式を行う 
社記に伝う 大己貴神 、此地に到り、国津神を求め玉う、ここに手玉母由良に機織る乙女あり、命機殿に来り、御飯を語り玉ひければ、乙女 稗粥(ドブロク)を進む 命甚く愛でして、永く吾苗裔と為さむと宣り玉う 云々

この古例によると 又 布祭乙女神楽苗裔祭あり 能登名跡志に祭體10月21日 同所 愛宕の社に幸御 この村に一楽と云う百姓あり このもの20日の夜 丑の刻に本社を開き 御神躰を負奉り 後しざりに歩む事なり 今は略して 草鞋を逆様にして あゆむなり 翌日 愛宕神社にて祭體ありと 宝物は八尋石 鏡等 外数種あり

例祭日 11月19日

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

能登比咩神社Notohime Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る        

一緒に読む
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について

能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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