実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

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1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

能登部神社Notobe Shrine)
(のとべじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

・上宮(うえのみや)・兄宮(あにのみや)

【鎮座地 (Location) 

石川県鹿島郡中能登町能登部上ロ70

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》能登比古神Notohiko no kami)
   大入杵命Ohoiriki no mikoto)〈第10代 崇神天皇の皇子〉

明治40年12月合祀〈秋葉神社 諏訪神社 菅原神社〉
《合》天照大神豊受大神少彦名命天満天神建御名方命迦具土命

 

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

 

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

由緒

当社は 能登国造の祖 能登比神 及び 能登臣の祖 大入杵命を祀る。
社伝に 大己貴命当地に巡行ありて、わが苗裔たれと、式内 能登生国玉比古神社は当社なり、その後 崇神天皇の皇子 大入杵命、当地に下向あり 殖産興業の道を開き給う、薨し給うや郷民その徳を慕い 郷土開拓の祖神とし崇め祀る。
前田利家公 入国に当り、深く当社を崇敬し、その室 寿福院は当地に住みて、藩主 利常公を出産す。以来 藩主の産神として深く崇敬さる。
明治4年 現社号に改む、同14年 御社、昭和7年県社に列す。

境内石板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 能登生國玉比古神社
[ふ り が な ]のとなりくにたまのひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Noto narikunitamanohiko no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 能登郡 能登生國玉比古神社」の論社は 3神社あります

・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)

一緒に読む
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮

能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています

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・能登生國玉比古神社(中能登町)

一緒に読む
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります

能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます

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・能登部神社(中能登町)

一緒に読む
能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

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「能登部神社ばっこまつり」中能登町指定無形民俗文化財について

終始無言で練り歩く能登部神社の伝統神事「ばっこまつり」毎年11月17日から11月21日
神代 大己貴命の能登巡行の際に 祭神の能登比古神が 濁り酒と団子を献じたところ 大己貴命がこれを褒めて「わが苗裔(末孫)となさん」と言ったことに由来します

中能登町指定無形民俗文化財

「能登部神社 ばっこまつり」

毎年11月17日から21日までの5日間、能登部神社で行われる祭りで、子孫繁栄と収穫に感謝し豊作を祈ります。
苗裔祭(びょうえいさい)とも呼ばれますが、これは大己貴命(おおなむちのみこと)の能登巡行の際、祭神の能登比古(ひこ)神が濁り酒と団子を献じたところ、大己貴命がこれを褒めて「わが苗裔(末孫)となさん」と言ったことに由来します。

祭りは、男神である能登比古神が年に一度、西馬場入合の愛宕(あたご)神社の女神と逢瀬(おうせ)を交わすもので、町無形民俗文化財に指定されています。19日は女神を迎える奉迎(ほうげい)祭が行われ、氏子たちが能登部神社から愛宕神社までの約1kmの道のりを深夜、無言で歩き、愛宕神社拝殿で神事の後、再び無言で能登部神社へ帰ります。
男神と女神は能登部神社で2晩をともに過ごし、21日に還御祭(かんぎょさい)が行われ、女神が愛宕神社に帰ります。
奉迎祭では、直会(なおらい)で氏子たちに菜飯と一汁二菜、どぶろくが振る舞われることから、「どぶろく祭り」とも言われています。

中能登町 公式HPより
https://www.town.nakanoto.ishikawa.jp/soshiki/kikaku/6/4514.html

(兄宮)「能登部神社(中能登町)」
(妹宮)「能登比咩神社(中能登町)」兄妹神社とされる式内社の論社

第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト)を能登部神社祭神として祀り 妹の沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)は 能登比咩神社で祀り 往古は この地は能登部兄村妹村と称され 両村の神社を兄宮 妹宮とも 上宮下宮とも称しました

・能登部神社(中能登町) 

一緒に読む
能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

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太古 大己貴命 少彦名命と共に天下を経営し越の八国を平け給う時 此の地に至り 国津神を求め給う 爰に機織乙女あり 命機殿に来たり 御飯を語り給いければ 乙女は稗粥と どぶろくを進む 命甚く愛で生して 永く吾苗裔と爲さむと宜り給う 此の乙女名を能登比咩神と稱へ奉る

・能登比咩神社(中能登町)

一緒に読む
能登比咩神社(中能登町)神代より伝わる「能登上布」を生み出した二柱の織姫(オリヒメ)を祀ります

能登比咩神社(のとひめじんじゃ)は 神代の時より伝わる伝統の麻織物「能登上布〈上等な麻織物〉」を生み出した 二柱の織姫(オリヒメ)〈・能登比咩命・沼名木入比賣命〉を能登上布の祖として祀ります 又 同じく能登部に鎮座する能登部神社を兄宮と呼び 当神社 能登比咩神社を妹宮と呼びます

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

能登部駅から 北東方向へ約1km 徒歩15分程度

旧道に面して 神社の200m程手前に社号標と鳥居が建ち 狛犬が厳しい表情で構えています
社号標には「能登部神社」側面には「当社旧縣社 上古称 能登生国玉比古神社 中古称 能登比古神社」と刻まれていて 鳥居の扁額には「能登部神社」とあり 社名の変遷が良くわかります

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鳥居をくぐり 参道を上がると 神門が建ち その先に境内と社殿 山の上に本殿が建っているのが見えます

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石垣と玉垣に囲まれて 社号標「能登部神社」と 神門が建ちます
能登部神社Notobe Shrine)に参着

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一礼をして 神門をくぐると 広い境内と二の鳥居の先に拝殿があり 山の上に本殿が建っています

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参道を拝殿へとすすみます  鳥居の扁額には「能登部神社」とあります

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御祭神の大入杵命(オホイリキノミコト)〈第10代 崇神天皇の皇子〉への神楽歌の石碑があります

神楽歌

能登の国原 朝日刺す
能登部の里や 玉寶山

宮居髙知る大神乃
御陵 威尊とみ神詣で

瑞垣乃宮 大日和
秋津島根の手振りをば

振るや眞衣手に木綿垂乃
縣でぞ頼む惟神

神と人との差別立ち
御世の隆昌を玉敷の

磯城乃朝廷に生れ出で志
神の御陵威の尊さよ

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拝殿の石段参道を上がります

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扁額には「能登部神社 侯爵 前田利嗣」とあります

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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参道を戻りながら 振り返り一礼をします
神門からは 能登部の景色が一望出来ます その先には なだらかな丘陵があり 眼下には邑知潟を干拓したであろう水田地帯があり 対岸の山々が見えています
太古には 入り江が入り込んだ豊かな海が広がっていたのだろうと想うと 神々がこの地を訪れ 開拓をされたのも自然と納得が出来ます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

社名「能登生」を「ノトナリ」と訓ずると記しています

【意訳】

能登生國玉(ノトナリクニタマノ)比古神社

摂津国 難波坐 生国魂御社
島山乎
〇能登 ノトナリと訓正身 按 社家呼伝

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

社名「生國玉」を「イククニタマ」と訓ずるとして「能登生」「ノトナリ」は誤りと記しています
式内社として 七尾の気多本宮比定しています

【意訳】

能登生國玉比古神社

能登は 郡名〈ノト〉同じ
生國玉は 伊久久爾多麻(イククニタマ)と訓ずべし
今 能登生と生字を上につけて ノトナリと読むは然るべからず
これ古は 仮字なり

祭神 生国神 足国神 歟(や) 
 神社帳云う 素戔嗚尊 大己貴命 奇稲田姫命

〇所口村に在す 氣多本宮称す 神社

類社
摂津国 東生郡 難波坐 生国魂神社の條 見合うべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社としては「所口村の氣多本宮を生國玉比古神社云へれる説」もあるので 論社ではあるが
やはり 正しくは金丸村の能登生國玉比古神社」であるとして 金丸村を比定しています

【意訳】

能登生國玉比古神社

祭神 多氣倉長命

今 按〈考えるに〉
祭神 多氣倉長命と云える 
神名古書に微かなれど 縁起の文をみるに 無稽(ムケイ)の妄説(モウセツ)とも想われず もとより古伝ありて記せりものである(や)

承應2年(1653)生國玉比古神社 縁起
金丸金丸鎮座 能登生國玉比古神社 者蓋 当国々魂之神 而名曰 多食倉長命なり 在昔 大己貴命 少彦名命 2神 当於巡行 国土之時会到 於当地興 多食倉長命 一心尽力 其討伐為害 人民之怪異 而後 経営国土愛護人物焉 
当此時 少彦名神が 娶(メトリ) 国魂神 多食倉長命之女 伊豆目比賣(イズメヒメ) 生金(カナマリ)翁 菅根彦命 此の神 即ち 金丸村主之遠祖なり」
と記したるは 風土記の説などのあるによりて記せるものなるべし 姑附て参考に備ふ

祭日 4月18日 9月8日 21日
社格 村社
所在 金丸村 (鹿島郡金丸村 大字 金丸)

今 按〈考えるに〉
一説に 本郡 所口村 氣多本宮を生國玉比古神社云へれど
こは羽咋郡 氣多神社の本宮にて 氣多社記にも その由記せるを 承應の頃 石動山の神官 詐術を以って 能登部上村の社号とせんと計りしに 上村の邑民服せざるを以って その事ならず

後 氣多本宮の神官と姻を結び 終に本宮を式内社と云い始めしなれど 本宮の所蔵 建武己来の古文書により考えるに 何れも 氣多本宮 又 所口 氣多大明神とあれば 生國玉比古とは 別神なり故 今 取り難けれども異説あるを以って 姑く決し難し

(明治13年5月 鹿島郡金丸村 鎮座 多氣倉神社より 旧来称し来候 能登生國玉比古神社復号致す度 皆出願の趣 石川県より照会ありしにより 式内の義は 未定の心得を以って 復称を聞届けに相成可然旨 6月25日回答あり) 

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

社伝に 式内社 能登生國玉比古神社としていること
祭神 大入杵命(オホイリキノミコト)は 第10代 崇神天皇の皇子にして 能登臣の祖であり 妹の沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)を誘い 当国に臨幸ありて 能登部郷に在せりと記されています

【意訳】

石川県能登国鹿島郡能登部村大字上

郷社 能登部(ノトベノ)神社

祭神 大入杵命(オホイリキノミコト)

合祭 迦具土命(カグツチノミコト)
   建御名方命(タケミナカタノミコト)
   菅原道真 天照大神 豊受大神

本社勧請年月詳らかならず
祭神は 崇神天皇の皇子にして 能登臣の祖なり
社伝に 皇子 大入杵命は 妹の沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)を誘い 当国に臨幸ありて 能登部郷に在せり

故に 往古は この地は能登部兄村妹村の称あり 而して 両村の神社を兄宮妹宮とも 且(か)つ 上宮下宮とも称し 後世に至り 能登部上村下村と称すと

又 諸記録によるに 古来 当国に猛鷲毒蛇ありて 蒼生を害す 氣多大神 これを退治して 竹津浦(今の一宮)に垂迹せしが 未だ全く平定せざるにより 妹宮と共にこの郷に下向ありて鎮撫せられ 恩威 並び行はれ 殖産興業を務め給うとあり

社伝に 当社は 式内 能登生國玉比古神社にして 國幣の祭典等 頗(すこぶ)る盛大の神社なりしを 中古以来 世の変遷に従い 梢衰退して 古書等を失い 里人も往時の寶況を知る者少しと されど能登国 能登部上村 能登生國玉比古神社 能登下村 能登比咩神社と対するは 古寶の残れる一証とすべし 且(か)つ 皇子 大入杵命 この郷に年久しく住み給い 10月21日薨去(こうきょ)せられしかば 小田中村と云うに埋葬し 神霊を玉寶山麓に斎き奉る 今 親王塚と称する所これなりと

三州誌に「小田中の親王塚は壽永の役 云々」ともあり 故に毎年10月19日より21日迄 苗裔祭(びょうえいさい)と云う大祭を行う


当社は中古以来 式内 餘喜比古神社と称したが 明治6年6月 能登部神社と改称す

当社歴世 庶人の崇敬厚く 特に当国守 前田利常公の産土神にして 社殿の造営 神田及び寄附品等 頗(すこぶ)る多し
明治12年5月 社殿 火災にかかりて焼失す
明治14年7月 郷社に列す
明治40年12月 同所 秋葉神社 諏訪神社 菅原神社 神明神社を合祀せり

建物は 本殿 拝殿 幣殿 神饌所 中殿 社務所にして
境 内 214坪あり
例祭日 11月21日

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

能登部神社Notobe Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る        

一緒に読む
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について

能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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