西八幡神社(にしはちまんじんじゃ)は 当初は 初山の宗廟であり尒示八幡宮(にしはちまんぐう)と称され 式内社 爾自神社(にしの かみのやしろ)とする説があります 中葉より 鏡の霊験により鏡岳神社(初山東触)が初山村の新たな宋社となってしまい その影に埋もれてしまったとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
西八幡神社(Nishihachiman shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市郷ノ浦町初山西触126
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
・西八幡神社
初山西触にある。当初は、初山の宗廟であり、初山の地名は、初島大明神鎮座して神地より山立初めたのが由来とされていることから、創建はかなり古いようだ。
神職は長田といって、源平のころの長田荘司忠致に起こるらしい。室町時代より榊原氏と改め、今日に至っている。この榊原氏は代々文武にすぐれ、国分、黒崎、新城にも血縁を広め、島内でも知名の社家であることが続風土記にも記されている。
『初山地区まちづくり計画書』より抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・小祠〈拝殿向かって右〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 爾自神社
[ふ り が な ](にしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nishi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
石田郡(いしたの こおり)爾自神社(にしの かみのやしろ)の論社について
・爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)
爾自神社(にしじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 壱岐の島まで軍を進め〈対馬へと渡る為には東風が不可欠〉風待ち停泊した時 東風石(こちいし)と呼ばれている巨石に東風の順風祈願をした すると石が二つに割れて さわやかな東風が吹きおこり 順調に三韓に渡航して戦勝した 帰朝の際 ここに風の神を祀られたと伝わります
爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)
・西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)
西八幡神社(にしはちまんじんじゃ)は 当初は 初山の宗廟であり尒示八幡宮(にしはちまんぐう)と称され 式内社 爾自神社(にしの かみのやしろ)とする説があります 中葉より 鏡の霊験により鏡岳神社(初山東触)が初山村の新たな宋社となってしまい その影に埋もれてしまったとされます
西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)
・志々岐神社(壱岐市石田町南触)〈参考〉
志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地名 印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う」
志々岐神社(壱岐市石田町南触)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
郷ノ浦港から 県道175号を南下して約4.8km 車10分程度
海を見下ろす高台にあります
社頭に鳥居が建ちます
西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)に参着
一礼をして鳥居をくぐります 扁額には 西八幡神社と刻されています
社殿は 平成八年に新築されたようです
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 社頭へと戻ります
神社のある高台から 下り坂を海岸へと進むと 棚田があり 西方に原島・長嶋・大島が見えていて 真水もあり 高台で波もなく 克海も近く 古くから栄えていた場所なのだろうな と想いながら美しい景色を眺めます
夕日も沈み始めた頃 郷ノ浦港から 二泊三日の壱岐の式内社巡りを堪能してフェリーで博多港に戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
鏡岳神社の創建伝承と霊石を預かった西八幡神社について
初山村の宋社は 古くは西八幡宮であったが 鏡の霊験により 中葉より 鏡岳神社(壱岐市郷ノ浦町初山東触1587)が初山村の宋社になったとされます
・鏡嶽神社
初山東触初瀬の字花川にある。
古くは三嶽といい、本社(東嶽)中宮、北山宮からなり三社権現をなしていた。
その昔、柳田に彦兵衛という信心深い農夫かおり、豊前国の田川郡にある彦山権現に夫婦で参拝していたが、老いて参れなくなり、ある時彦山権現の神が現れ、「その節は永い年月よく参拝してくれた。○月○日朝、初瀬浦の中岸にある松の枝に我と同体の鏡一面を掛けておく。東嶽に新殿を造って三嶽三所権現として月に一度、又は、日に一度参詣しなさい。それは彦山参詣と同じです」と、夢さめて初瀬浦に行ってみると、人の入れるような所ではない岸の中途に一本の松の木があり、あの夢に出てきた鏡があるではないか。その鏡を東嶽に移し、社殿を建て奉献した。夫婦の死後、その息子も石霊を石段の左右に建てた。
時は文禄元年朝鮮征伐の時、逆風に遭い、兵船が初瀬浦港に停泊した折、兵士が霊石を海に落としてしまった。ようやくー基のみ引き揚げ、西八幡神社に移したが、平定の後、神主が霊石を還奉した。明治9年村社となり、昭和4年神饌幣帛料供進神社に指定されている。
『初山地区まちづくり計画書』より抜粋
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻之十二 石田郡初山村之部 尒示八幡宮〈現 西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)〉は 式内社 尓自神社と伝わる と記されています
【抜粋意訳】
壱岐名勝図誌 巻之十二 石田郡初山村之部
尒示八幡宮 (在西 例祭八月十八日)
中殿 誉田天皇 左殿 足仲彦天皇 右殿 気長足姫尊
御殿(辰向桁六尺八寸五分 梁壱丈四寸二分三方 広縁附柿葺)
上屋(桁二間半 梁三間四寸 茅葺)
廊下(桁五尺五寸二分 案壱間 板葺)
拝殿(桁三間 梁二間 茅葺)稲荷社(在境内 元文年中 村中より鎮座)
小社 上屋(桁五尺 梁四尺)石鳥居(去拝殿七間 竪壱丈二尺 横七尺七寸三分 貞享四丁卯年十二月建立)
境内(東酉甘四間 南北十四間 周囲七十九間余)
馬場(竪甘ヒ間 横四間四尺)当社は 昔は村中の本社なりしといひ伝ふ所なり 黙りといへとも 今は末社に列す 寛文七年宝殿再建の棟札に 爾示八幡宮と書記(シルシ)たり。
○神社帳に西八幡云々と記し 又承応の旧記に 当社を式の爾自神社とかきたるは 能かなひたる歟 毎歳八月十八日鋸の濱に神幸なし奉れり初島大明神(在本村西)祭神 三女神
石祠 西向
境内(東西甘二間 南北甘間 周囲一百二十間)
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 爾自神社は 長嶺村〈現 爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)〉と記しています
【抜粋意訳】
爾自神社
爾自は 假字なり
〇祭神 詳ならず
〇長嶺村に在す 土俗 東風(コチ)明神と称す類社
播磨国 穴栗郡 邇志神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社の爾自神社について 初山村 爾示八幡宮〈現 西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)〉と記しています
【抜粋意訳】
尒自(にじの)神社
今 初山村にあり 尒自八幡宮と云 蓋是也 壱岐式社沿革考
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の爾自神社について 長峰村〈現 爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)〉としているが これは延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 西と云地名によって東風大明神と定めたもので信憑性が無く むしろ 以前から式内社とされていた石田郡初山邑 爾示八幡宮〈現 西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
爾自神社
祭神 級長津彦神 級長戸邊神 息長足姫尊
祭日 九月廿三日
所在 長峰村 字爾志山(石田郡沼津村大字長峰)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記 共に長峰村 爾志山にあり
一説には 有安村 所祭 十城別尊
續風土記には 級長津彦神 級長戸邊神 息長足姫尊とあるを
神社考に 有安村 東風大明神の地名を西と称するによりて 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に式の爾自神社とすと雖も 此村は壱岐郡の内にして石田郡にあらずとみえ
式社沿革考には石田郡初山邑に爾示八幡宮と称す 往昔 当社を村の宗社と称し 延宝以前は式内と称したれば
式の爾自神社は右の両社の内なるべけれども 爾示八幡宮を式社ならんと云る明証と云べし 然るを西と云地名によりて東風大明神と定め 東風大明神と云より級長津彦姫を祭れる如く云るものにて信じがたし尚よく考べし
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)は 最初 式内社 爾自神社として この地に創建された 初山村の宋社として西八幡宮を号していたが 中古より三所権現〈現 鏡岳神社〉が出現して 新たな宋社となってしまい その影に埋もれてしまった事が 記されています
【抜粋意訳】
志原村ノ部 無社格 西八幡神社
鎮座地 初山村西觸
祭 神 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后
例祭日 九月十八日 神幸式 大神楽奏奏
境内地 300坪[由緒沿革]
式社沿革考に曰、初山村 西八幡神社は往昔 村の宗廟とす、中古より同邑 鏡岳権現を村の宗社とす。續風土記に、村を初山と言へるは民居の初め八幡宮鎮座し給ひ 其の後 初島大明神鎮座ありて 此等神地より山立始めしが故に名付くと言へり、従つて創建は古きこと明かなり。
偖 当村の神職は長田と称し 其の遠祖は源平時代の長田荘司忠致に起こと傳ふ、其の社務めとなりしは室町幕府時代にあるもの、如く以来世襲にて中葉 榊原氏と改め 以て昭和の今日に至る、近代の平内種清 又学識あり、文政年間より明治維新まで家職を継ぎ明治三十九年九十一の高齢を以て帰幽せり、高徳の人なりき、榊原氏 始めは初山村に起り 後別れて國分の社家となり 又一族を分ちて黒崎の社家を継がしめ 次で新城に入る、郡内知名の社家たるを失はず。
当社は最初 式内社として現 西八幡神社の地に創建せられ 西八幡宮と社号を改め 初山村の宋社たりしが初瀬湾頭三所権現の出現ありて漸時 其の勢力を扶植するに及びて 宋社を茲に移すの必要に迫られ 遂に式内宋社を三所権現に負はせ奉るに至れるものの如し。
【原文参照】
西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
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