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新屋坐天照御魂神社(西河原)

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)で 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています 

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

新屋坐天照御魂神社Niiyanimasu amaterumitama Shrine)
(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

新屋神社Niiya Shrine)

【鎮座地 (Location) 

大阪府茨木市西河原3-1-2

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

本社
《主》天照国照彦火明命Amateru kuniteru hikohoakari no mikoto)

相殿 天児屋根命Ameno koyane no mikoto)
   建御名方命Takeminakata no mikoto)

本殿の横に鎮座
東之神社Higashino Shrine)〈3社〉

中央
 八幡宮Hachimangu)
《主》応神天皇(ojin tenno)

左(西)
 磯良(isora no yashiro
《主》磯良神(isora no kami)
  

右(東)
 住吉社Sumiyoshi no yashiro
《主》底筒男神(sokotsutsuo no kami)
   中筒男神(nakatsutsuo no kami)
   上筒男神(uwatsutsuo no kami)

   

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社 名神大

【創  (Beginning of history)】

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)

主祭神 天照御魂神
    (天照国照彦火明命 あまてるくにてるひこほあかりのみこと)

  一月一日歳旦祭 五月十日春祭 十月十五日例祭

 
当社は延喜式 神名帳(じんみょうちょう)(927年成立)に記載された古社である。

当地 西河原の周辺はその昔 新屋 郷(ごう)といわれ、遥か古代から天照御魂神がお鎮まりになった。名神(みょうじん)大社の中でも相嘗(あいなめ)祭に朝廷から幣帛を奉られた式内社最高の社格で、府下には数社あるにすぎない。

天正(1573-92)の頃までは神域広大、神事も盛んに行われ、近隣七ヵ村の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬された。

しかし 戦国争乱等により衰運に傾き、寛文9年(1669)社殿は 旧神域の西北隅にあたる今の社地にうつり、同12年 現社殿が新しく造営された。

現在、本社には主祭神のほか天児屋根命(あめのこやねのみこと)・建御名方命(たけみなかたのみこと)を相殿(あいどの)に祀(まつ)り、
境内社には八幡神・住吉神・磯良(いそら)神を祀る東之(ひがしの)神社、速素盞鳴尊(はやすさのおのみこと)を祀る須佐(すさ)神社、宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)を祀る稲荷(いなり)神社がある。

境内案内板より

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【由  (history)】

通称(疣水神社)磯良神社の本宮とも申すべき
新屋坐天照御魂神社は その創祀の年代は詳らかではありませんが、
延長5年(927)に成った「延喜式」に「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」とあり、延喜式内社のうち特に霊験あらたかな神に与えられた名神の称を受ける旧三島郡唯一の大社であります。
三座のうち天照御魂神一座は 朝廷より相嘗祭に幣帛を奉られる40社71座に加えられ、当時非常に格式高い神社であったことがうかがわれます。

なお、大同元年(806)、神封一戸を寄せられ、貞観元年(859)、天照御魂神に従四位下が授けられています。
天正(1573~1592)以前は、神域も広大であって、近隣七か村の産土神として崇敬も篤く、神事も盛大に執り行われていましたが、天正以降社領を失い、神域も縮小され、神事も振るわなくなったと伝えられます。

寛文9年(1669)、旧社地の西北隅に当たる現在の境内地に奉遷し、同12年に社殿を造営して今日に至っています。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

拝殿向かって左側の覆屋
須佐神社(Susa Shrine)《主》速素戔嗚尊Hayasusanowo no mikoto)
本殿向かって左奥
稲荷神社(Inari Shrin)《主》宇賀御魂神Uganomitama no kami)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座 大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)島下郡 17座(大5座・小12座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 新屋坐天照御魂神社 三座
(並名神大 月次新嘗・就中 天照御魂神一座預 相嘗祭)

[ふ り が な ]
(にひやのます あまてるみたまの かみのやしろ さんざ
(ならびみょうじんだい つきなめ にいなめ 
・なかんづく あまてるみたまのかみ いちざあずかる あいなめのまつり)

[Old Shrine name]
Nihiyanomasu Amaterumitama no kamino yashiro sanza
Narabimyojindai Tsukiname Niiname
Nakanzuku Amaterumitamanokami Ichiza Azukaru Ainame no matsuri) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

太陽祭祀の神社
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
「摂津国 島下郡 新屋坐天照御魂神社三座」の3つの論社について

新屋坐 天照御魂(アマテルミタマノ)神社」が 3つあり その名の通り
いずれも太陽祭祀に関わりがありそうです

鎮座する位置の関係では
・東(西河原)
中心点(西福井)
西(宿久庄)
となります

中心点の(西福井)は
御祭神「饒速日大神(Nigihayahi no okami)」が 天降りされた「日降丘(ヒフリノオカ)」と呼ばれる小高い丘に鎮座しています

「日降丘(ヒフリノオカ)」に立つ石碑には

第十代 崇神天皇 七年秋九月
伊香色雄命 天照御魂大神
亦名 火明大神 を此の丘に奉斎る

と刻まれていて 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC30年頃〉が 伊香色雄命(イカガシコオノミコト)に 天照御魂大神(アマテルミタマノオオカミ)を祀らせたとあります

この「日降丘(ヒフリノオカ)」がある「中心点(西福井)」の位置からの見ると

冬至の日
日の出は「(西河原)」から太陽が昇り
日の入り「西(宿久庄)」へと太陽が沈む

の位置にあると云われています

参考までに地図(グーグルマップ)を作成しました
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=1tSmNw-IiPD_3XbJXvo1swVzmmxpjUUwR&ll=34.84449392806914%2C135.54928608779775&z=15 

「摂津国 島下郡 新屋坐天照御魂神社三座」の3つの論社 各々記事をご覧ください

新屋坐天照御魂神社(西福井)

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

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・新屋坐天照御魂神社(宿久庄)

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(宿久庄)

新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています

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・新屋坐天照御魂神社(西河原)〈当社〉

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(西河原)

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています

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『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の「〇〇坐天照御魂(アマテルミタマノ)神社」について

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には 畿内に
「〇〇坐天照御魂(アマテルミタマノ)神社」が 当神社を入れて4つかありますが いずれも太陽祭祀に関わりがありそうです

大和国(奈良県)
(大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社 大)

(大和國城上郡 他田坐天照御魂神社 大)

の2つの神社は 辰巳の方角には 三輪山があり 冬至に三輪山から昇る太陽を遥拝したのであろうと云われています

山城国(京都府)
山城国 葛野郡 木島坐天照御魂神社(名神大 月次相嘗新嘗)

一緒に読む
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています

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摂津国(大阪府)〈当社〉
(攝津國嶋下郡 新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大)

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR総持寺駅から 北へ約800m 徒歩10分程度
西河原の交差点南向きに 入口に灯籠と注連柱があり 右手に社号標「式内社 新屋坐天照御魂神社」とあり 鳥居が建っていました

新屋坐天照御魂神社Niiyanimasu amaterumitama Shrine)(西河原)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります
〈2018年頃に この鳥居は倒壊した模様です〉

鬱蒼とした森の中を参道が奥へ続いています
正面には 南向きに社殿が建っています

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拝殿にすすみます
拝殿前に「新屋坐天照御魂神社一座」と比定されたことを記念して石碑

〈この石碑は『五畿内志(Gokinaishi)』享保14年(1729~1734)編纂に並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉によって「一座」として比定した旨を記された記念として立てられています 下記参照〉

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内社にお詣りをして 参道を戻ります
鳥居を抜けると国道171号の交通量の多い事に驚くほど 不思議に騒音を忘れてしまうような感じの境内です 境内を出て振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『五畿内志(Gokinaishi)』享保14年(1729~1734)編纂に記される伝承

江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされる『五畿内志(Gokinaishi)』の
摂津国 嶋下郡 [郷名]新屋(ニヒヤ)の条には
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の「新屋坐天照御魂神社三座のうち天照御魂神一座預」に比定しています

又 近隣七ヵ村が祀った大社であったことが記されています

※著者の並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉は『五畿内志』を編纂する調査の過程で『畿内』の数々の延喜式式内社の比定も行こないました

意訳

【神廟】新屋坐天照御魂神社 三座
並名神大 月次新嘗・就中 天照御魂神一座預 相嘗祭

貞観元年 正月27日 従5位下 勲8等 新屋坐天照御魂神社 従4位下
同年5月26日 辛未 摂津国 従5位下 新屋坐天照御魂神社 伴酒着神 並 正5位下

天照御魂神社一座 

西河原村に在り(西河原)
近隣7邑〈近隣七ヵ村〉は 共に 祭祀に預かり

一座は 福井村に在り(西福井)
今は天王(テンノウ)と称す
中河原村に祭り預かる 梁文に 天正12年8月 領主 中川氏 造営焉〈これ造営する〉

一座は 上川原村に在り(宿久庄)
称して曰く 天照太神(アマテルノフトカミ) 清水村も又 祭り預かる

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『五畿内志』著 並河永 著 編纂 享保14年(1729)[他] 出版 昭和4(1929年)日本古典全集刊行会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179429『五畿内志』

『摂津名所図会(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承

神社(西河原)を中心と見ています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)の新屋坐天照御魂神社三座のうち天照御魂神一座預

便の水(よるべのみず)」が記されますが
神社(西河原)の南約100mに鎮座する現在の磯良神社(疣水神社)」の玉の井のことです

この神水で洗うと 疣が落ち痣が消え美しくると云われ玉の井が有名となり庶民の信仰集り もともとは神社(西河原)の境内社として祀られていましたが 西河原社社地西北隅に移して磯良神社(疣水神社)の社殿を構えた伝わります 現在では天照御魂社に比べて 立派な社殿が建っています

本来は 天照御魂神の神水でした

意訳

新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)三座

西川原村にあり(西河原)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)曰く
名神大 月次新嘗(にいなめ)・就中 天照御魂神一座預 相嘗(あいなめ)

三代実録『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に
貞観元年 正月27日 5位下 勲8等 新屋坐天照御魂神社 従4位下
同年5月26日 辛未 摂津国 従5位下 新屋坐天照御魂神社 伴酒着神 並 正5位下

天照御魂神 一座は 西川原村にあり 近隣七ヶ村の生土神(うぶすなかみ)とする

一座は 福井村にあり 今 天王(テンノウ)と称し
上梁文にいわく 天正12年8月 領主 中川瀬平清秀(きよひで)三社を造営(ぞうえい)す

一座は 上川原村にあり 称して天照太神といい 清水村も 又 共に祀る

便の水(よるべのみず) 

西河原村 新屋(ニイヤノ)社の東南一町許りにあり (ハラ)
この所は 新屋神社(ニイヤノカミノヤシロ)の神籬(ヒモロギ)の門なり

家集 社頭目
かけてさえにけらしか 神籬(ヒモロギ)や よるべの水につららるまで

よるべの水は社頭(シャトウ)の神水(シンスイ)なり
世人この水を疣水(イボミズ)といふ
(ココニキ)って 疣黒痣(イボケクロ)を濯(アラ)ふ時は (タチマチ)ちに抜落(ヌケオ)つるとぞ
天照御魂(アマテルミタマ)社の神水なれば 面貌(メンボウ)〈顔つき〉の痣(イボ)にも限(カギ)らず 邪念(ジャネン)の穢(ケガ)れを 清め洗う時は などか美(ビ)とならざらんや
・・・・・・・
・・・・・・・

玉の井と書けり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~  刊本 ,寛政10年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

文中にある 「1座 西河原村に在り」と 当神社(西河原)を記しています

意訳

新屋(ニヒヤノ)坐天照御魂神社 三座
 並名神大 月次新嘗・就中 天照御魂神一座預 相嘗祭

和抄『和名類聚抄』 新屋坐此社

續後記『続日本後紀(shoku nihon koki)』
嘉祥2年12月甲午 奉授 伴馬立 天照神 伴酒着神 従5位下

三実『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』
貞観元年 正月27日 従5位下 勲8等 新屋坐天照御魂神社 従4位下

〇同年5月26日 辛未 摂津国 従5位下 新屋坐天照御魂神社 伴酒着神 並 正5位下 この位階考ヘシ

〇今日に酒満明神 炊自に三田 3里許巽なり

〇この3座
1座 西河原村に在り
1座 福井村に在り
1座 上河原村に在り

福井村 今称す 天王
上河原村 今称す 天照大神

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

御祭神の由来について 伊勢の神と混同しないように注意喚起をしています
さらに
3社の論社(西福井)(宿久庄)(西河原)の中から 式内社を正しく定めるには 福井村(西福井)として良い と記しています

意訳

新屋坐天照御魂(ニヒヤニマスアマテルミタマノ)神社 三座
 並名神大 月次新嘗・就中 天照御魂神一座預 相嘗祭

祭神 天照国照天彦火明命(アマテルクニテルアメノホアカリノミコト)

今按〈今考えるに〉
注進状に 祭神 天照御魂皇大御神天照国照彦火明大神天津彦火瓊瓊杵大神〈ニニギノ命〉とあって 天照大御神(アマテラスオオミカミ)を主としたるは 天照御魂(アマテルミタマ)と云うによって 大御神の御事〈アマテラスオオミカミ〉と思える誤(アヤマ)りなり

これは 天照国照天火明命(アマテルクニテルアメノホアカリノミコト)を主として2神を配し祀りしなり
その2神は 今は 詳しく知りがたけれど〈詳細は不明だが〉
社説に従う時は その上に舉(アゲ)るが如し〈こぞって全てを調査し〉 猶(ナオ)よく考べし〈更に一考すべき〉

祭日 9月11日
社格 郷社
所在 新屋郷福井村 字 新屋神森

今按〈今考えるに〉
注進状に 同郡 宿久庄村の内に上河原と西川原村と2ヶ所にも 同名の神社あり
上河原は 天照大御神(アマテラスオオミカミ)
西川原村は 火明命(ホアカリノミコト)
を祀ると云えり

これは 全く本社より分社したるものなり とあるが
如くなるべし〈そうである〉
されど〈しかし〉 正しく式社を 定めたまわん〈定めるためには〉には 福井村と定めて 可ならん〈よろしい〉

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

新屋坐天照御魂神社Niiyanimasu amaterumitama Shrine)(西河原) (hai)」(90度のお辞儀)

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磯良神社(疣水神社)記事をご覧ください

摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る    

一緒に読む
摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)

攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています