実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

守山八幡宮(伊豆の国市寺家)

守山八幡宮(もりやまはちまんぐう)は 1180年(治承4年)源頼朝 源氏再興を祈願して挙兵した時に本陣張った北條郷の地で 辺りには北条の屋敷があり 源頼朝公は 襲い討った山木判官平兼隆の屋敷から火の手が上がるのをこの辺りから見たされます

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

守山八幡宮(Moriyama Hachimangu)
もりやまはちまんぐう

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

静岡県伊豆の国市寺家1204-1

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》誉田別命(Homutawake no mikoto)
   大山祇神(Oyamatsumi no kami)
   木花開耶姫命(Konohanasakuyahime no mikoto)

《配》気長足姫命武内宿禰命大鷦鷯命猿田彦命
《合》平岡神経津主神武甕槌神松川神大山咋神塩土老翁神宇迦之御魂神市杵島姫神瓊瓊杵尊愛宕神

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

大化3年(647創建

守山八幡神社

當社の創建は大化3年(647)御祭神は大山祇神で延喜式内石徳高神社である
延喜7年(907)豊前国 宇佐宮より八幡神を勧請合祀 其の後専ら伊豆国総社八幡と稱す
治承4年(1180)源頼朝 此處に源家再興を祈り兵を挙げる
現在の本殿は寛永9年(1632)久能城主 榊原大内記照久の造営である

境内貼紙より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

由緒

当社の創建は、大化5年(699)で 御祭神は 大山祇神で 延喜式内 石徳高神社(いわとこたかじんじゃ)である。
延喜7年(907)源頼義 豊前国宇佐より八幡神を勧請して 以来 伊豆国総社八幡と称す。
治承4年(1180)源頼朝 此所に源家再興を祈願 社兵を挙げて 山木館に上る火煙を望見すと。頼朝 神威を畏み 社殿を造営し 心願成就(ねがいごとのかなふ)の社なり。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

史蹟 源頼朝挙兵之碑

源頼朝 治承4年(1180815 守山八幡宮に平家追討を祈願して 挙兵 夜陰 源氏重忠の軍 兵数十騎 山木判官平兼隆を襲い討つ 其の間 頼朝 遥かに山木館の火煙を望み 悲願の達成を悦ぶ 蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると 故に記して 建碑の所以とする

社頭石碑より

Please do not reproduce without prior permission.

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 石徳神社
[ふ り が な ]いはとくのたか かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ihatokuno taka no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

Please do not reproduce without prior permission.

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
式内社「石徳神社いはとくのたか かみのやしろ)」の論社

・守山八幡宮(伊豆の国市寺家)

一緒に読む
守山八幡宮(伊豆の国市寺家)

守山八幡宮(もりやまはちまんぐう)は 1180年(治承4年)源頼朝公が 源氏再興を祈願して挙兵した時に本陣を張った北條郷の地で 辺りには北条氏の屋敷があり 源頼朝公は 襲い討った山木判官平兼隆の屋敷から火の手が上がるのをこの辺りから見たとされます

続きを見る

・豆塚神社(伊豆の国市北江間)

一緒に読む
豆塚神社(伊豆の国市北江間)

豆塚神社(まめづかじんじゃ)は かつて石徳高命が降られたという雄徳山に式内社「石徳高神社」が祀られていました その後 狩野川が流路を西に変え 郷(依馬郷)が 江間と北條に二分されたので 鎮守も二社(当社と守山八幡宮)に分祀されたものと伝わります

続きを見る

・多賀神社(三島市谷田)

一緒に読む
多賀神社(三島市谷田)

多賀神社(たがじんじゃ)は もと三嶋大社 摂社の一つで 田川神社とも田河とも称された 2つの式内社「① 石徳髙神社(いはとくのたかの かみのやしろ)➁ 劔刀乎夜尓命神社(けむとをやにのみことの かみのやしろ)」の論社です

続きを見る

・岩徳高神社(伊豆市徳永)

一緒に読む
岩徳高神社(伊豆市徳永)

岩徳高神社(いわとくたかじんじゃ)は 境内に昭和50年頃まで樹齢約500年の年輪を数えたスギの大木があったという 昔から八軒の世襲の鍵取が決まっていて 当番の鍵取はその年一年は 毎月1日15日に献饌などの奉仕をし 氏子は蒜(ヒル)を栽培すると災いがおきるとの禁忌があり 今もその伝えは守られている

続きを見る

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊豆長岡から R136号を北上 900m程で左折して頼朝・政子語らいの路に入る 車5分程度

突き当りに鳥居が建ち 社号標には「守山八幡宮」と刻まれています
守山八幡宮(Moriyama Hachimangu)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから 鳥居をくぐると 石垣の上に玉垣の廻された境内へと階段が続いていて 拝殿&舞殿が建てられています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます 扁額は「八幡宮」とあります

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

舞殿後ろには 後方の山に社殿が建っていて 階段が続いています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

舞殿からは 向かいの山〈西側〉が見えていて
あの辺りが 1180年(治承4年)源頼朝 源氏再興を祈願して挙兵した時に襲い討った山木判官平兼隆の屋敷から火の手が上がった辺りされます

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承

社伝に云うには 式内社の石徳(いはとこたかの)神社伝わり 延喜7年(907)豊前宇佐八幡を 江間雄徳山に勧請せりと記されています

【意訳】

総社八幡  寺家

大山祇神 木花開耶姫命を祀る
社伝に云 式内 石徳(いはとこたかの)神社なり
延喜7年(907)豊前宇佐八幡を 江間雄徳山に勧請せり 後ち又ここに配祀す これにより専を八幡と称す 

源頼信 祠を造営し旗竿を納む 頼義 頼朝又 旗竿を奉献す
武田信玄 韮山城を攻める時に 富永山城守 雑兵なりを却奪す
文明17年 江州愛智郡 平井村 源観勢伝者弘法手書き舩板の名号を納める 今存す 総て古賢文書等いかが転移したりけん 信州に在り 
云 林の中に福石明神とて地主神あり この社奥の一巨石 高さ五尺許 中央に穴三ヶ所 水湧出づ これ古ノ神住なり
末社四 旧二十社 社領に町一段六畝二十八歩 外に社地併せ神主宅地 御除地なり 神主 槙氏 古くは位田も多く 社人十六戸 社僧十六坊
〇天神・・・云々

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『豆州志稿』選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

式内社「石徳神社いはとくのたか かみのやしろ)」の伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

石徳高(イハトコ)神社として 記されています

【意訳】

石徳高(イハトコ)神社

〇按 徳高言 泉觱佛 今 熱海温泉 艮隅 湯前権現 これ乎 釈書垣舜博曰 舜甚宴浪遊豆州説法 温泉神祠云々 下に劔刀石床別命神社あり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

Please do not reproduce without prior permission.

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

石徳髙は 伊波登古(いはとこ)訓じると記しています

【意訳】

石徳神社

石徳髙は 伊波登古と訓ずべし
〇祭神 詳らかならず
〇徳永村に在す 今 那賀郡に属す 
考証に 徳高言 泉觱佛 今 熱海温泉 艮隅 湯前権現 これ乎と云う
〇元享釈書云 垣舜博 舜甚宴浪遊豆州説法 温泉神祠

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

雄徳山の山頂に祀られていた神であったが 諸説ある中でも その後 村里の区分の時に豆塚に遷した〈現 豆塚神社(伊豆の国市北江間)〉と寺家村の守山に遷した〈現 守山八幡宮(伊豆の国市寺家)〉の2所が 後継であろうと記しています

【意訳】

石徳(いはとくのたかの)神社

祭神
祭日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
足柄縣 注進状に 石徳神社は 君澤江間村 雄徳山神社なるべし それは石徳は石床の意高は タケと訓て嵩の意と聞こえるを この山の岩壁よく石床の称にかない 山頂の旧祠の址に 宝殿平前殿殿平神楽など云称の遺るのみに非ず 山名の雄徳は石徳の訛転と聞こえるなど 証とすべし 

斯のて後に 社を西麓 チム野に遷し 亦 丸山に豆塚に移せり豆志に記せる如く 寺家村八幡も この雄徳山より遷してもと 此山上に石特高神社の鎮座地なりし確証と云いしも 強言に非じさるは この江間郷北條郷はもと一郷なるを 村里の区分せるより 総鎮守とある雄徳山の神を江間の郷にては チン野に遷し 北條の郷にては 寺家村の守山に遷したるより 山上の本社遂に廃絶に及び 雄徳山の称号のみ遺れる事となりしなり この他 諸説あれど この2所にて定ぬるべき事なるべし                                                                  

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承

地理の変更によって 二社に分祀されている
一社は〈現 豆塚神社(伊豆の国市北江間)
一社は〈現 守山八幡宮(伊豆の国市寺家)〉であると記しています

【意訳】

石徳(いはとこたけの)神社 

今は 分祀して二社となり

その一は 君澤郡江間(えま)村鎮座の いのい明神 神階帳 今称する豆塚神社 考証注進特選

その二は 田方郡寺家村 八幡神社 社伝豆志考證の一説續攷 なりにて 

蓋地理の変更に因りて分祀せる例 少なからず等しく この同神なり 何ぞ囂(かまびす)しく その本末を諍う事を為べき

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『伊豆国式社攷略』萩原正平 著 出版年月日 明15.6  編 出版者 栄樹堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815090 『伊豆国式社攷略』1 『伊豆国式社攷略』2

守山八幡宮(Moriyama Hachimangu) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

一緒に読む
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています