洩矢神社(もりやじんじゃ)は 洩矢大神とも称します 神代に諏訪に侵入した外来の勢力 諏訪明神=「建御名方神(たけみなかたのかみ)」に 抵抗した 先住の神「洩矢神(もりやのかみ)」が屈服するという「諏訪の国譲り物語」の舞台とされます 御祭神の「洩矢神(Moriya no kami)」は 諏訪大社上社の神長官「守矢氏(もりやうじ)」の始祖とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
洩矢神社(Moriya shrine)
(もりやじんじゃ)
[通称名(Common name)]
洩矢大神(Moriyo no okami)
【鎮座地 (Location) 】
長野県岡谷市川岸東1丁目12
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》洩矢神(Moriya no kami)
《配》藤島神(Fufjishima no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・諏訪大社 上社の社家 守矢氏の始祖神
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代は不詳
洩矢神を祭る神社で神話の時代 今の諏訪の神様 建御名方神と対岸にある藤島社で対峙をして その後和解、諏訪上社の神長官として諏訪神社に尽力します。
元々鉄器を使えたりしていましたし、諏訪一円を抑えめていたのは洩矢神だったので いろいろと力のある神様だったのだと思われます
ただし物部守屋とは別の存在です洩矢神の子孫も存命で 今年は洩矢神社の神事にも参加するなど交流もしていますよ。また洩矢神は 関東、東海、関西にも影響のあった ミシャクジ様のお祭りの権利も持っていたので その関係なのか、洩矢神の子孫の神長官の所には ミシャクジ様の総社がございます。
神長官の関係もあるのかもしれませんが 諏訪大社と同格の旗があります
この旗は神社の格を表すとされていて 同格の旗という事であれば 神社の社殿は確かに大社よりは小さいですが 良い神社なのでしょうね。
同格でない場合は旗は小さくなるのだそうです洩矢神社公式HPより
【由 緒 (history)】
洩矢神社 由緒略記
一、御祭神御鎮座地 岡谷市川岸橋原
一、御祭神 洩矢神(もりヤのかみ)
旧橋原村の産土神(うぶすなかみ)明治五年村社となる一、縁起
諏訪大明神画詞(みょうじんえことば) 延文五年(1356)によれば
昔 諏訪には先住の国津神(くにつかみ)の洩矢神がおられた
そこへ建御名方命(たてみなかたのみこと)(諏訪明神)が侵入されようとした
川岸の地で洩矢神は「鉄の輪」を建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが 洩矢神は命の陵威に服した
その時 建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処 その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったのが 現在の荒神様、藤島神社(三澤区)である洩矢神は建御名方命に服属し その最高の職 神長官(みわのちょうかん)となり 建御名方命を助けて 諏訪の地の開発につくされた
氏子は 洩矢神の御神徳をたたえるために 天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て 洩矢神を祀った これが洩矢神社の始めである一、神裔
洩矢神には一男一女があり、女は多満留姫といい 建御名方命の第二子 出早雄命(いずはやおのみこと)に嫁し、男は守宅神(もりやしのかみ)といい その子孫は 茅野市宮川 髙部(たかべ)に住み 神長官を代々世襲(せしゅう)した一、藩主の崇敬
洩矢神社の藤と三澤区の藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程 繁茂していた
寛文年中(1664~1773)諏訪藩主が蛍(ほたる)見物のとき邪魔になると云うことで 切り払うことを命じたが 神罰を恐れて誰一人伐る者がないその時 新屋敷の嘉右衛門という力自慢の男が「自分に山役(やまやく)(青蔵米(みつきくらまい)三升の役)二人の役料をくださるなら伐ります」と申し出たので 伐らせた処 間もなく気がおかしくなってしまった
藩主にも祟があったので 新たに祠を場内で造って奉納することにした処 大きすぎて大手門を出ることができない やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。その時現在地に遷座した
その後 藩主の崇敬があつく 上田(じょうでん)高壱百九斗四升壱合参向の神事免が奉られ 例祭も藩主が行ったが 明治四年廃藩と共に神事免を上地(じょうち)し例祭も氏子で行うようになった
一、神徳
祈願に対しては真に霊験あらたかで 御神徳はふかく厚く 諸(もろもろ)の祈願を籠むれば霊験に立ちどころに表れ 特に産婦などが底抜けの柄杓を献納し祈願すれば安産間違いなしといわれている一、式年(しきねん)御柱祭
古来 諏訪大社の御柱祭より七日下りの下社の御柱祭と同日に行ったこれは他の神社と全く違っている
このことは洩矢神社と上社との縁故がいかに深いかを物語るものである
ちなみに諏訪大社の幟旗と同じ大きさを許されている
しかし近年では種々の事情から他の日を選んで行っている一、祭日 十月二十日
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・社殿の左右に三社の境内社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
洩矢神社(Moriya shrine)神社の南側(山側)は 天竜川沿いの扇状地には縄文遺跡が数多く点在しています
現在は 中央高速道が通る その辺りには『洩矢遺跡』があり 縄文土器や平安時代の住居跡が出土されたと記録されています さらに「洩矢大神御舊趾碑」には『経塚遺跡』もあり 縄文時代にさかのぼる複数の遺跡が確認されていて 古くから祭祀が行われていたであろうことが 推察できます
洩矢神を祭る神社で神話の時代 今の諏訪の神様 建御名方神と対岸にある藤島社で対峙をして その後和解、諏訪上社の神長官として諏訪神社に尽力します。
元々鉄器を使えたりしていましたし、諏訪一円を抑えめていたのは洩矢神だったので いろいろと力のある神様だったのだと思われます
ただし物部守屋とは別の存在です
洩矢神の子孫も存命で 今年は洩矢神社の神事にも参加するなど
交流もしていますよ。
また洩矢神は 関東、東海、関西にも影響のあった ミシャクジ様のお祭りの権利も持っていたので その関係なのか、洩矢神の子孫の神長官の所にはミシャクジ様の総社がございます。
洩矢神社公式HPより
諏訪大社 上社 前宮(茅野市)の記事をご覧ください
諏訪大社 上社 前宮は 4つの諏訪大社の中でも 諏訪の祭祀の発祥地とされます 古来より諏訪明神の住まう所で 現人神とされた諏方の大祝(オオホフリ)の居舘があり 上社の祭祀の中心地でした 神長官(ジンチョウカン)の守矢氏が 神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして 諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地とされています
諏訪大社 上社 前宮(茅野市)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
天竜川の対岸にある「藤島神社(Fujishima Shrine)」について
洩矢神社由緒略記にもあるように
洩矢神社(Moriya shrine)の境内にあった藤の木が
対岸の藤島神社(Fujishima Shrine)の藤の木と天竜川の上で絡み合い 大きな橋に見えるほど繁茂していたらしい
この対岸の藤島神社(Fujishima Shrine)が 川岸の地で洩矢神が「鉄の輪」を 建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが 洩矢神は命の陵威に服した
その時 建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処 その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったとされる地と伝承されています
諏訪大明神絵詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条に
「尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝を取りて是を伏し給う」
藤島神社(岡谷市)の記事をご覧ください
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
岡谷駅から 北西に約1.3km 天竜川を渡り 車3分程度
今日は 10/20祭の当日であったようです 幟旗が風になびいています
洩矢神社(Moriya shrine)に参着
幟旗には「奉献 洩矢大神」とあります
鳥居と参道には 提灯が掛けられています 多くの人が参拝に来られています
鳥居脇の社号標には「洩矢神社」と 御神紋は「丸に一つ柏」が刻まれています
一礼をして鳥居をくぐり 提灯で飾られた参道を進みます
拝殿にすすみます 祭りの日にお詣りをさせて頂き感謝の念を込めて
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
お祭りの準備で 境内は大忙しです
境内社へのお詣りも自粛 荷物などが置いてありますので 拝殿にてご一緒にお詣りを致しました
参道を振り返ると 祭の引換券の抽選会場がありました
境内から出ると 青空に幟旗「奉献 洩矢大神」が映えます
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
諏訪大明神画詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条に記される伝承
諏訪大明神画詞(suwadaimyojin ekotoba)は 1356年(正平11年 / 延文1年)に成立した「諏訪大社の縁起」全12巻です
縁起では 神代に諏訪に侵入した外来の勢力「建御名方神(takeminakata no kami)」に抵抗した 先住の神「洩矢神(Moriya no kami)」が 屈服する「諏訪の国譲り物語」とも云える話があります
諏訪大明神絵詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条
この藤島明神と申すは
「尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争い、明神は藤の枝を取りて是を伏し給う ついに邪輪を降ろして正法を興す 明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば 即ち根をさして枝葉をさかへ 花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す 藤島の明神と号するこのゆえなり」
諏訪大明神絵詞(suwadaimyojin ekotoba)諏訪祭四の条
国立国会図書館デジタルコレクション
続群書類従. 第3輯ノ下 神祇部 著者塙保己一 編出版者 続群書類従完成会
境内案内板より抜粋
一、縁起
諏訪大明神画詞(みょうじんえことば) 延文五年(1356)によれば
昔 諏訪には先住の国津神(くにつかみ)の洩矢神がおられた
そこへ建御名方命(たてみなかたのみこと)(諏訪明神)が侵入されようとした
川岸の地で洩矢神は「鉄の輪」を建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが 洩矢神は命の陵威に服した
その時 建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処 その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったのが 現在の荒神様、藤島神社(三澤区)である洩矢神は建御名方命に服属し その最高の職 神長官(みわのちょうかん)となり 建御名方命を助けて 諏訪の地の開発につくされた
氏子は 洩矢神の御神徳をたたえるために 天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て 洩矢神を祀った これが洩矢神社の始めである一、神裔
洩矢神には一男一女があり、女は多満留姫といい 建御名方命の第二子 出早雄命(いずはやおのみこと)に嫁し、男は守宅神(もりやしのかみ)といい その子孫は 茅野市宮川 髙部(たかべ)に住み 神長官を代々世襲(せしゅう)した一、藩主の崇敬
洩矢神社の藤と三澤区の藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程 繁茂していた
寛文年中(1664~1773)諏訪藩主が蛍(ほたる)見物のとき邪魔になると云うことで 切り払うことを命じたが 神罰を恐れて誰一人伐る者がないその時 新屋敷の嘉右衛門という力自慢の男が「自分に山役(やまやく)(青蔵米(みつきくらまい)三升の役)二人の役料をくださるなら伐ります」と申し出たので 伐らせた処 間もなく気がおかしくなってしまった
藩主にも祟があったので 新たに祠を場内で造って奉納することにした処 大きすぎて大手門を出ることができない やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。その時現在地に遷座した
境内案内板より
洩矢神社(Moriya shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
諏訪大社 上社 前宮(茅野市)の記事をご覧ください
諏訪大社 上社 前宮は 4つの諏訪大社の中でも 諏訪の祭祀の発祥地とされます 古来より諏訪明神の住まう所で 現人神とされた諏方の大祝(オオホフリ)の居舘があり 上社の祭祀の中心地でした 神長官(ジンチョウカン)の守矢氏が 神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして 諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地とされています
諏訪大社 上社 前宮(茅野市)
藤島神社(岡谷市)の記事をご覧ください