実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

杜屋神社(下関市豊浦町黒井)長門国三之宮

杜屋神社(もりやじんじゃ)は 創建の伝説が幾つかあり 日本武尊大海化にあっ 亀甲に乗った三穂津命が現われ船を無事に毛呂の長浜に導いた 或は 仲哀天皇が九州御征討で 海路豊浦宮に行幸された 穴門の中ッ村毛呂の里に霊光が終夜輝き渡り この霊光を守り屋の神と称しお祀りされた とも伝わる古社で 式内社 長門國 豊浦郡 村屋神社(むらやの かみのやしろ)とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

杜屋神社Moriya shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

山口県下関市豊浦町大字黒井1541

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》三穂津姫命(みほつひめのみこと)

《合》応神天皇,仲哀天皇,神功皇后

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 長門国三之宮

【創  (Beginning of history)】

由緒

平安時代の『延喜式神名帳』に、「村屋神社」と記載されているのが当 杜屋神社で、長門国式内三社のうちの一社である。
主神 三穂津姫神については、『日本書紀神代下』に次のような記載がある。「時に高皇産霊尊、大物主神に勅したまはく、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝を疏き心有りと謂はむ。故れ今吾が女三穂津姫を以て汝に配せて妻と為む。宜しく八十萬神を領ゐて、氷に皇孫の為に護り奉れと。乃ち還り降らしむ。」姫神は、出雲大社の御祭神大国主命(大物主神)の后神とある。

当社創建の伝説として、次のようなことが伝えられている。
一、筑紫平定を終えられた日本武尊が、海路穴門国(長門国)に入られたところ、大海化にあって命が危うくなった。その時、亀甲に乗った貴女三穂津命が現われ、尊の船を無事に毛呂の長浜に導いた(延宝三年=一六七五、『大宮司堀立亀松丸記』)。

一、仲哀天皇が九州御征討のため、海路豊浦宮に行幸された。このとき、穴門の中ッ村毛呂の里に、霊光が終夜輝き渡るという不思議が報告された。
天皇自ら潔斎ののち、この霊光をお祀りされた。この神が三穂津姫命で、守り屋の神と称したのが本社の本元である(元文二年=一七三七、『大宮司浜田出羽守長元記』)。

一、『孝徳天皇本紀』に、「白雉元年二月、長浜毛呂里より白雉を獲り献上した」ので、天皇は守屋の宮に特便を送り礼拝をした。これが礼拝山の名の起源とするもの(寛元二年=一二四四=寅二月、『領地三郎源康頼記』)。

一、北条実政による戦勝祝賀のための奉納舞踊に、「チュウニ」(徒士)、「ゴッポウナ」(護方女)、「ドヒョウシ」(度拍子、または土拍子)などの舞装束や楽器が伝えられたとするもの(『永禄の年代』)
(旧県社)。

山口県神社庁HPより
http://www.yamaguchi-jinjacho.or.jp/pattern2.php

千古の名社 長門国三の宮(延喜式内社) 杜屋神社 由来

鎮座 山口県下関市豊浦町大字黒井一五四一番地

主神 三穂津姫神

配祀 厚母八幡宮、萩尾八幡宮、両社を合祀

一、主神 三穂津姫神については「日本書紀」神代下に次のように記載されています。
「時に高皇産霊尊、大物主神に勅したまはく、 汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ 汝を疏き心有りと謂はむ。故れ今吾が女 三穂津姫を以て汝に配せて妻と為む。宜しく八十萬神を領ゐて、永き皇孫の為に護り奉れと。乃ち還り降らしむ。」

一、延喜式(醍醐天皇 延長五年(九二七年)に撰進せられた法典)に次の通り載録されています。
長門国 五座(大三座、小二座)
豊浦郡 五座(大三座、小二座)
 住吉坐荒魂神社 三座(並名神大)
 忌宮神社 村屋神社

註 この「村屋神社」が当社であることは神祇史料等で明らかである。

一、御祭神及び神社に関する諸伝説を伝

一、宝物
 大内義隆、毛利元就(豊浦町文化財指定)等の古文書
 能面(神楽面、土俗面)十余点
 棟札 多数

一、御祭礼
 春 祭 四月十四、十五日
 例 祭(秋祭)十月十四、十五日
 お忌祭 一月十八日夜~二十五日朝

現地案内板より

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【由  (History)】

杜屋神社

 杜屋神社は、延長年(927)に撰進された『延喜式』の神名帳に社名が記載されている社格高い「式内社」であり、長門国三の宮と称されている。

 本殿背後には「磐境(いわさか)」と思われる岩室もあるなど上代からの由緒を感じさせられる神社で、社宝も指定物件以外にも多数保存されている。

下関市指定有形文化財 昭和62年3月26日指定

木造随身椅像

楠材で造られた二体の随身像で、応永年(1399)の墨書がある。その彫法は簡素で地方の仏師の手になるものであろうが、制作並びに再興の年月が明らかであり、地方の彫刻基礎資科として重要である。

下関市指定文化財 昭和54年12月1日指定
杜屋神社文書(二通)

大内義隆寄進状

天文年(1535)に大内義隆が太刀一腰を寄進した際の文書。

毛利元就書状

永禄十三年(1570)に毛利元就が、社殿造営の労をねぎらうとともに病気回復の祝意を伝えた大宮司掘立壱岐守に宛てた書状。

下関市教育委員会

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈本殿の奥に2社(東社・西社

・〈向かって左〉東社

《合祀神》
〈八ヶ浜 赤崎神社〉〈一ノ瀬 日吉神社〉〈石印寺 山王神社〉〈市 大歳神社〉〈原 大門 八王子神社〉〈郷 若宮神社〉

・〈向かって右〉西社

《合祀神》
〈黒井沼 沼神社〉〈杜屋町 事代主神〉〈大久庵 西明寺 久信 廣幡神社〉〈阿蔵 遠田 大歳神社〉〈上郷 下郷 豊洋台 龍王神社〉〈旧杜屋 天満宮〉

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)長門国 5座(大3座・小2座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)豊浦郡 5座(大3座・小2座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 村屋神社
[ふ り が な ]むらやかみのやしろ)
[Old Shrine name]Muraya no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の゛村屋神社゛について

゛村屋゛と名の付く 式内社は

・大和國 城下郡 村屋坐弥冨都比賣神社(大 月次 相嘗 新嘗)
・大和國 城下郡 村屋神社二座
・長門國 豊浦郡 村屋神社

以上の3社が所載されています 各々の論社について

式内社 大和國 城下郡 村屋坐弥冨都比賣神社(大 月次 相嘗 新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)の論社について

・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)

一緒に読む
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)

村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です

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式内社 大和國 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたくら)の論社について

・村屋神社(田原本町蔵堂)
〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉

一緒に読む
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)

村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です

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式内社 長門國 豊浦郡 村屋神社(むらやの かみのやしろ)の論社について

・杜屋神社(下関市豊浦町黒井)長門国三之宮

一緒に読む
杜屋神社(下関市豊浦町黒井)長門国三之宮

杜屋神社(もりやじんじゃ)は 創建の伝説が幾つかあり 日本武尊が大海化にあった時 亀甲に乗った三穂津命が現われ船を無事に毛呂の長浜に導いた 或は 仲哀天皇が九州御征討で 海路豊浦宮に行幸された時 穴門の中ッ村毛呂の里に霊光が終夜輝き渡り この霊光を守り屋の神と称しお祀りされた とも伝わる古社で 式内社 長門國 豊浦郡 村屋神社(むらやの かみのやしろ)とされます

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 黒井村駅からR191号を南下 約600m 車2分程度

R191号を走ると JR山陰本線の線路の向うに 鳥居と社号標が見えが こちらからは入れません 神社の北側に参道があり社号の看板があります

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黒井川の手前に駐車場があり 石灯籠と鳥居が建ち 神橋が架かります

杜屋神社(下関市豊浦町黒井)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります

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御神橋を渡ります 黒井川と想っていたが 欄干には゛厚母川゛とあります

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神橋を渡ると 神門が構えます

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神門をくぐると 拝殿が建ち 小さな狛犬が座します

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が北北西を向いて建ちます
更に本殿背後には「磐境(いわさか)」と思われる岩室があります

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境内の東側に鳥居があり 水路に石橋が架かっている ここから 先程のJR山陰本線の線路沿いの鳥居に行けます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 村屋神社について 詳しくはわからない
類社として 大和國 城下郡 村屋神社二座を挙げるのみです

【抜粋意訳】

村屋神社

村屋は 牟良夜と訓べし

〇祭神詳ならず

類社
大和國 城下郡 村屋神社二座

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 村屋神社について 所在は黒井村〈現 杜屋神社(下関市豊浦町黒井)〉と記しています

【抜粋意訳】

村屋(ムラヤノ)神社

今 黒井村にあり、豊浦藩神社調

蓋 三穂津姫命を祭る

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 村屋神社について 所在は黒井村〈現 杜屋神社(下関市豊浦町黒井)〉と記しています

【抜粋意訳】

村屋神社

(明細帳に杜屋神社あり)

祭神 三穂津比賣命 称 杜屋神社(按 式の村屋は杜屋を誤れるなり
祭日
社格 郷社(縣社)
所在 黒井村 杜屋(豊浦郡黒井村大字黒井)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

杜屋神社(下関市豊浦町黒井)ついて 式内社 村屋神社であろうと 記しています

【抜粋意訳】

山靴縣 長門國豊浦郡黒井村大字黒井杜屋

郷社 杜屋(モリヤノ)神社

祭神 三穂津姫(ミホツヒメノ)命

創建年月詳ならず、延喜式内の社なり、

神社覈録には ,「祭神詳ならず」といひ、
神祇志料には『社傳の如く三穗津姫命を祭る」とあり、
神名式に長門國小・村屋神社とあり、杜を村と誤れるなり、

中村徳美の長門國志に、「社説云、祭神乳母屋明神同一體、孝德天皇白雉年中鎮座と云へり、卜部家説云、祭神 玉依姫命とあり、 (後世社説に祭神 彌富津比賣命と云へり)、今按ふに、通證に孝徳天皇紀に我親神祖之所知穴門國とある註に、神名式に長門國豊浦郡村屋神社、今按、以大和國城下耶村屋座彌富都比賣神社之例、恐高皇産霊尊也とあり、是は此神社と大和國村屋神社と、地名相同じき故、同神ならんと思へる僻説なり、後世の社説は此通證に拠りたるものと覚し云々」とあり、

神名式に信濃國埴科郡 玉依比資神社ありて、同國安曇 穂高神社、更科郡 氷飽斗責神社あり、
姓氏錄を考ふるに皆海神に由ある神社なり、此神社の近所  海部に由ある事多し、

古老の傳説に 若宮八幡吉郎浦にて出生まし、時、乳母の御神は吉見の乳母屋、傳の御神は此黒井の杜屋に鐘座す、故に傅屋と名づくと云へり、此御神は鸕鶿草葺不合尊を持養し給ひし御神に坐しければ、しか云ふも亦宜なり、毛里夜と云ふは地名にて、此濱邊を森の長濱とも云へば、毛里と云ふは地名なり、其西に隣る浦を室津と云へり、和名抄に長門國豊浦郡室津 (無呂津 )郷あり、俗に毛呂都と云ふ、無呂、毛呂、毛里皆通ふ音 中略、毛里と云ふは奮名なるべし、室字を牟盧夜と訓めば、室村を毛里夜牟良とも云ふにや、然るを杜屋村とも村屋村とも書けるならんか、杜と村形相似たり、又吉母若宮は全く鸕鶿草葺不合尊なるを、八幡宮と云ふも由縁あり、尊の后妃も、誉田天皇の后妃も共に玉依姫と申すと云へり、恐らく後世の社人が猥りに祭神を改めたるならんか、
明治七年二月郷社に列せらる。

社殿は本殿、釣屋・拜殿等を具備し、社殿の構造異樣にして、他と趣を異にせり、境内地二百九十七坪 (民有地第二種 )あり、古文書を蔵す。

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

杜屋神社(下関市豊浦町黒井) (hai)」(90度のお辞儀)

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長門国 式内社 5座(大3座・小2座)について に戻る

一緒に読む
長門国 式内社 5座(大3座・小2座)について

長門国(ながとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 長門国 5座(大3座・小2座)の神社です

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