宮浦神社(みやうらじんじゃ)は 以前は 家島白髭大明神を称していたが 明治になって宮浦神社と改称されました 社伝によれば 比叡山実相院の覚円僧都が門徒と共に坊勢島に渡海し 或る夜霊夢によって故郷の琵琶湖に準え白髭大明神を勧請したことによります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宮浦神社(Miyaura shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県姫路市家島町宮字中之町970
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》猿田彦神(さるたひこのかみ)
《配》天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
底筒男神(そこづつのおのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
宮浦神社
兵庫県姫路市家島町宮字中之町970縁起によれば、比叡山の僧覚円は 門徒と共に坊勢島に渡海し居を構えていたが、或る夜、霊夢を見て故郷の琵琶湖の景色に似た当地に白髭大明神を勧請した。以来この地を宮浦と呼び、社名を家嶋白髭大明神と称したと伝えている。
境内入り口の石鳥居は元禄五年(1692)建立と刻まれ、当時は海中に建っていたとも伝えられ、近江の白髭神社の湖中大鳥居を想わせる。
明治に入り、神仏分離の政策によって白髭の文字が仏語のようであるとして社名を宮浦神社と改称し、同時に地蔵、鐘撞堂も移設した。
旧の御社殿は天明五年(1785)に建立され壮麗であったが痛みが酷く、昭和63年(1988)に主要建物全てを改築した。旧拝殿を装飾していた彫刻の一部は、現御社殿内に受け継がれている。
七月に全島を挙げて行われる天神祭は、当社にて御神火を採火することからはじまる。この火は沢山の提灯に燈され街中を巡り、家島神社に移される。当社が、この島一番の祭りの重要な役割を担っている。一、ご祭神
猿田彦神 さるたひこのかみ
天照皇大神 あまてらすすめおおみかみ
武甕槌神 たけみかづちのかみ
底筒男神 そこづつのおのかみ一、境内末社
竃社 かまどしゃ
奥津彦神 おきつひこのかみ
奥津姫神 おきつひめのかみ
恵美酒社 えびすしゃ
蛭子大神 えびすおおかみ一、飛地境外末社
海神社 家島町宮字長崎鎮座一、例祭(十一月二日、三日)
例祭には、巫女による神楽や湯立てが行われ、西播磨地区に多い神輿型屋台一基や子供神輿が繰り出される。平成九年(一九九七年)に境内に隣接して常設展示型の屋台蔵が完成し、いつでもその美しい姿を見ることが出来る。一、御神木
柏槙伊吹 びゃくしんいぶき
樹高約8メートル、幹周り約2.7メートル現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社は、家島本島宮地区の氏神神社として鎮座する。諸島総鎮守の家島神社と関係が深い。夏祭りでは当社の火を戴いた上で提灯行列が行われ約1.5km離れた家島神社にその火を移す事によって祭りが始められることからも伺える。 当社は以前、家島白髭大明神を称していたが、明治になって宮浦神社と改称された。
社伝によれば比叡山実相院の覚円僧都が門徒と共に坊勢島に渡海し、或る夜霊夢によって故郷の琵琶湖に準え白髭大明神を勧請したという。以来この地を宮浦と称するようになったと伝える。
境内にある元禄5年(1692)建立の鳥居は、以前は海中にあったともいわれ近江の白髭神社を想わせる。 家島白髪大明神縁起の旧伝は、元慶7年比叡山西塔実相院覚円僧都衆会学席の相論より事起り武家に背く事にて播州家島に放さる。僧都産姓近江の郡主高島内蔵之助秀成3男也其の弟四郎秀景家兄の行衛を愁ひ相共に来往し、永く子孫を此の島に残也り、然し覚円同僧数10人別れを惜み迹を蒙ひ来りて、渡海し、今の坊勢に住居をかまえる。山従集り住し故に故の島の名となれり。僧都或夜不思議の霊夢を蒙り白髪大明神を乙酉9日の日南の湾江を故郷の琵琶湖に准らへ社を造建し、勧請し奉りしより宮浦と号す。誠に当国大小神社174社の其の内に当宮大神二四の其の一なり。兵庫県神社庁HPhttps://www.jinja-net.jp/jinjashi-kensaku/jsearch3jinjashi.php?jinjya=5484
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・竃社(かまどしゃ)
《主》奥津彦神(おきつひこのかみ)
奥津姫神(おきつひめのかみ)
・恵美酒社(えびすしゃ)
《主》蛭子大神(えびすおおかみ)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・海神社(家島町宮字長崎)
《主》綿津見神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1👟絇を 布1端に代える名神祭 二百八十五座
・・・・・・
家嶋神社 一座
・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 家嶋神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](いへしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iheshima no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載の
播磨國 揖保郡 家嶋神社 名神大 の論社は2つ
・家島神社(姫路市家島町)
家島神社(いえしまじんじゃ)は 国生み神話の伝承地ともされる播磨灘の中央に浮かぶ家島諸島に鎮座します 社伝によれば 神武天皇が東征途中 当地に御寄港になられ 港内が大変穏やかで「あたかも家の中にいるようで静かだ」として 家島と名付けられた 又 神功皇后 三韓御門出の時 天神を祀り給ふに山中ゆりければ ゆるの山と古歌にもよまれと伝わります
家島神社(姫路市家島町)
・宮浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
宮浦神社(みやうらじんじゃ)は 以前は 家島白髭大明神を称していたが 明治になって宮浦神社と改称されました 社伝によれば 比叡山実相院の覚円僧都が門徒と共に坊勢島に渡海し 或る夜霊夢によって故郷の琵琶湖に準え白髭大明神を勧請したことによります
宮浦神社(姫路市家島町)
・家島神社摂社 真浦神社(姫路市家島町) 《参考論社》
真浦神社(まうらじんじゃ)は 家島本島真浦の中心に位置して 家島神社の摂社として祀られてきました 以前は 荒神社と呼ばれていましたが 明治になって真浦神社と改称されました
真浦神社(姫路市家島町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
家島「宮港」下船 徒歩約2分
宮浦神社(姫路市家島町)に参着
鳥居の扁額には「宮浦神社」
「家島十景 白髭霊祠」と「宮浦神社 御造営記念碑」の石碑があります
元慶七年(883)九月九日の創始と刻まれています
手水舎には 何故かネコが 神使いの如くたたずみます
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には「宮浦神社」
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿向かって右手には並んで 境内社・竃社(かまどしゃ)・恵美酒社(えびすしゃ)が祀られています
社殿に再度一礼をします
参道を戻ります 鳥居のすく先には港があります
これから 真浦の真浦神社へ向かいますが 入江を歩くとかなりあり 宮浦から真浦迄 船で渡ろうと考えていましたら コミュニティバスの停留所があり 直ぐ発車のようで 確か100円 病院へ通うお年寄りなど結構乗車されています
・家島神社摂社 真浦神社(姫路市家島町)
真浦神社(まうらじんじゃ)は 家島本島真浦の中心に位置して 家島神社の摂社として祀られてきました 以前は 荒神社と呼ばれていましたが 明治になって真浦神社と改称されました
真浦神社(姫路市家島町)
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『播磨国風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
人が居住している島 と記しています
【意訳】
家嶋(いへじま)
人民が 家を作り居住している 故に家嶋と号される 竹・黒・葛などが生える
【原文参照】
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌
奈良時代に遣唐使・遣隋使と同様 朝鮮半島の新羅へ派遣された「遣新羅使人( しらぎにつかわさるるじんら )」が 都へ帰る〈入京〉時に 播磨国の家島で詠った歌
家島は 太古から 瀬戸内海の航海の要所で 風待ち・潮待ちの為に 家島へ寄港したとされます
【抜粋意訳】
回来 築紫海路 入京 至 播磨國 家島之時 作歌五首
巻15-3718
【原文】伊幣之麻波 奈示許曽安里家礼 宇奈波良手 安我古非伎都流 伊毛母安良奈久爾
【ひらがな】いえしまは なこそありけれ うなばらを わがこいひきつる いもあらなくに
【意訳】家島は 名こそ有りけれ 海原を 吾が恋(漕い)きつる 妹あらなくに
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
八保神〈八保神社〉と共に 官社に列せられたと記されています
【抜粋意訳】
承和七年(840)六月甲子の条
播磨國(はりまのくに)
揖保郡 家嶋神(いへしまのかみ)
赤穂郡 八保神(やほのかみ) 並びに 官社と為す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の論社として ・宮浦の白髭社〈宮浦神社(姫路市家島町)〉・真浦の荒神社〈真浦神社(姫路市家島町)〉とする説があるが これは誤りである と記しています
【抜粋意訳】
家島神社
家島は 伊敝之麻と訓べし
〇祭神 猿田彦大神 式社記、古跡建覧、播磨鑑
〇揖東郡家島宮浦に在す、今 白髭明神と称す
〇式三 臨時祭 名神祭二百八十五座 中略 播磨國 家島神社一座
〇播磨國風土記云、家島人民作家而居之、故号家島式社記に、往古は忘瀬島にありしを、嘉禄元年今の地に移す、』
古跡便覧に、家島は南海中陸を去る事 三里五里にして、東は蓑嶋より、西は院家嶋まで東西八里、南は松嶋に至りて三里、その間に大小の島々二十餘、押並に家島に列すといへり、
或人云、白髭社縁起に元慶七年勧請のよし見えたり、されば今 真浦といふ所にある、荒神社 是 式内 家島神社なるべく、元慶年中勧請の社 式に載るべきよしなしといへり、こは縁起を正敷ものと見えたる誤り也、総て後世に作れる縁起は取用がたき事 兼ねていひおけるが如し、故に従わずといへども、序に中し試みおく也、官社 續日本後記 承和七年六月甲子 播磨國 揖保郡 家島神 為官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神については 書かれておらず
【抜粋意訳】
家島神社
祭神
祭日 七月三十日 三十一日
社格 郷社
所在 家島宮浦
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
家島のもう一つの呼び名は「えじま」で「今も島の人々は 家島を『えじま』と呼ぶ」 「繪島神(えじまのかみ)称 宮浦明神〈宮浦神社(姫路市家島町)〉」を式内社の論社とする『播磨鑑』の説も載せています
【抜粋意訳】
兵庫縣 播磨國 飾磨郡家島村大字宮浦
郷社 家嶋(いへしまの)神社
祭神 大己貴命(おほなむちのみこと)
少名彦命(すくなひこなのみこと)創立年月詳ならず、但、播磨鑑に、元慶七年九月八日〇播磨名所巡覧図の鎮座云々」と見えたり、本社は一に白髭大明神と称す、〇播磨鑑 今或作 繪島神、称 宮浦明神と神名帳考証に見えたり、
續日本後記に云く、名神大社に列せらる、実に当国大社二十四社の内なり、
明治七年二月郷社に列す。
社殿は本殿、舞殿、拝殿を具へ、境内地は四百五十坪なりしが、三十八年中 内務省指令甲第八四三号を以て、上地林壹町七反七畝貮歩を境内に編入せらる。例祭日 七月二十五日
氏子戸数 千二百十一戸
【原文参照】
宮浦神社(姫路市家島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る
播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について