実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉

三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受けていました もともとは伊豆国賀茂郡にあり 平安中期以降に現在の場所に移ったと考えられています 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願し 治承4年(1180)旗挙げを果たして武家政権を樹立したことから 鎌倉時代を通じて幕府崇敬の神社となりました 現在でも 伊豆国一之宮として 伊豆半島の信仰の中心となっています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  三嶋大社(mishima taisha)
 (みしまたいしゃ)

 [通称名(Common name)]

・大社(taisha)・明神さん(myojin sun)

【鎮座地 (location) 】

 静岡県三島市大宮町2-1-5

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

御二柱の神を総じて「三嶋大明神(mishima daimyojin)」と称しています

《主》大山祇命(oyamatsumi no mikoto)
   積羽八重事代主神(tsumihayae kotoshironushi no kami)

《配》阿波神(awa no kami)
   伊古奈比咩命(ikonahime no mikoto)
   楊原神(yakiwara no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・山森農産の守護神 Protective deity of mountains, forests and agricultural products
・福徳の神 God of Fortune
・家内安全 Safe and comfortable home life
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・交通安全 Pray for Traffic safety
・安産   Healthy childbirth
・初宮詣 Baby prays at shrine for the first time
・七五三詣 7 year old 5 year old 3 year old celebration
・厄除け Prayer at an age considered a milestone in life
・開運 Good luck
・病気平癒 God cures the disease
・合格祈願 Prayer for passing the exam
・良縁祈願 A desire to deepen connections and intimacy with good people
・その他 etc

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社 名神大月次新嘗
・ 伊豆国一之宮(izunokuni ichinomiya)
・ 別表神社
 伊豆国総社

【創 建 (Beginning of history)】

創建は不詳
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には 伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載されています
現在の鎮座地は 当時は田方郡に所属していたので 記載と相違します
そこで諸説が提唱されていて 遷座説が通説となっています
初めは 賀茂郡三島郷(伊豆諸島の御嶋)のち賀茂郡大社郷白浜(現白浜神社 伊古奈比咩命神社付近)さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に国府へ勧請)したとする説です

現在の鎮座地が 確認できる文献は『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からです

【由 緒 (history)】

三嶋大社

祭神 大山祇神・事代主神 
大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神である。
事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神である。

由緒 元の官幣大社で、その創建は極めて古く、此の地に鎮座し、神の御名により三島の地名ともなった。
延喜の制にはすでに最高の格である明神大に列し、月次・新嘗の官幣に預り、祭料稲2000束を寄せられた。
中世以降 武士の崇敬が篤く、殊に源頼朝は治承4年8月17日、御祭礼の夜深く神助を頼み挙兵し、旗挙成功するや、偏に大明神の加護によるものと神領を寄せ、社殿を造営し、神宝を奉り益々崇敬を寄せた。
以来 武門武将を始め庶民の尊崇をあつめ、三嶋大明神の御名は広く天下に知られるところとなった。
明治4年、最高の社格である官幣大社に列せられたが、戦後官幣の制度は廃された。

例祭 8月16日を中心に15、16、17日の3日間で大祭と呼んで賑わう。
尚この他、年間115度の祭典が行われる。

宝物 国宝梅蒔絵手箱(平政子奉納)をはじめ、重文宗忠太刀、重文秋義脇差、重美三嶋本日本書紀、その他頼朝・頼家・尊氏、顕家、宗瑞(早雲)等の古文書、刀剣等多数を蔵す。

社殿・境内 古来幾十度か社殿の造営が行われたが、現在の社殿は嘉永7年11 (三嶋大神の御子神)
月4日の東海大地震により倒壊したものを時の神主矢田部式部盛治が10年の歳月と1万6千6百77両余の巨費を投じて、慶応2年完成させたものである。
その後関東大震災、伊豆震災により、一部修理が行われたものである。
境内は、約1万5千坪(5万平米)である。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・若宮神社(wakamiya shrine)(三嶋大神の御子神 神津島の物忌奈命神社の御祭神を祀る摂社)

 《主》物忌奈乃命(monoimina no mikoto)
    誉田別命(homutawake no mikoto)(第15代 応神天皇)
    神功皇后(jingu kogo)
    妃大神(hime no okami)

・見目神社(mirume shrine)(三嶋大神の伊豆諸島の妃神六柱を祀る摂社

《主》波布比売命(伊豆大島の妃神)
    久爾都比咩命(新島の妃神)
    伊賀牟比咩命(三宅島の妃神)
    佐伎多麻比咩命(三宅島の妃神)
    伊波乃比咩命(三宅島の妃神)
    優波夷命(八丈島の妃神)

東五社 (内庭 舞殿の東方に鎮座し次の5社を祀る末社)

・大楠社《主》大楠神
・天神社《主》瓊瓊杵尊
・聖神社《主》聖神
第三社《主》第三王子
幸神社《主》猿田彦神

西五社 (内庭 舞殿の西方に鎮座し次の5社を祀る末社)

小楠社《主》小楠神
第二社《主》第二王子
酒神社《主》豊受比売神
飯神社《主》保食神
船寄社《主》塩土老翁

祓戸神社(harahedo shrine)(境内西側に鎮座 祓戸四柱の神を祀る末社

《主》織津姫神(seoritsuhime no kami)
    速秋津姫神(hayaakitsuhime no kami)
    気吹戸主神(ibukidonushi no kami)
    速佐須良姫神(hayasasuraihime no kami)
桜川が流れ込む池の中の島に鎮座 国司によってこの地に奉斎され 国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なったと云う

厳島神社(itsukushima shrine)(境内 神池中の島に鎮座 北条政子の勧請

《主》市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)

伊豆魂神社 (伊豆一円の戦没英霊二三七二柱を祀る境内末社

《主》護国の英霊

淡嶋神碑《主》淡島神

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)

[名神大 大 小] 式内 名神大社

[旧 神社名 ] 伊豆三島神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な  ](いずみしまの かみのやしろ)
[How to read ](izumishima no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

かつて三嶋大社の境外摂社とされていた5社は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の論社とされています

伊豆国とは かつて日本の地方行政区分だった律令制国の1つで 現代の行政区分では「静岡県伊豆半島」&「東京都伊豆諸島」がそれに相当する地域になります 三嶋大社は「伊豆国一之宮」で・二之宮・三之宮・四之宮を境外の摂社としていました

①「浅間神社」(伊豆国二之宮) 鎮座地:三島市芝本町6-3

(伊豆國賀茂郡 伊賀牟比賣命神社)『延喜式(engishiki)』論社

浅間神社(伊豆国二之宮)

浅間神社(せんげんじんじゃ)は 伊豆国二之宮とされています 古くは三嶋大社の摂社「八所別宮」でした 富士講が賑わいを見せた当時は 富士登山をする三島・伊豆方面の者は 必ず立ち寄り 安全を祈願して出発した と伝えられています 同じ境内敷地内に祀られる「芝岡神社」は 世古本陣から遷座されました

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➁「楊原神社」(伊豆国三之宮) 鎮座地:三島市北田町4-7

(伊豆國田方郡 楊原神社 名神大)『延喜式(engishiki)』論社

楊原神社〈伊豆国三之宮〉三島市北田町

楊原神社(やなぎはらじんじゃ)は 伊豆国三之宮とされる名社で 三嶋大社に次ぐ古い歴史を持ち『延喜式神名帳』所載の名神大社です この地は 三嶋大社の境外摂社として かつて伊豆国の国府があった場所の付近に鎮座していますので 沼津に鎮座する楊原神社を国司が遥拝する為の遥拝所とした説や 国境が変わったので遷座したのであろうとの説もあります

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➂「広瀬神社」(伊豆国四之宮) 鎮座地:三島市一番町19(楽寿園内)

(伊豆國田方郡 廣瀬神社)『延喜式(engishiki)』論社

廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉

廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました

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④「右内神社」 (御門の神)鎮座地:三島市梅名1

(伊豆國田方郡 阿米都瀬氣多知命神社)『延喜式(engishiki)』論社
(伊豆國賀茂郡 伊波氐別命神社)『延喜式(engishiki)』論社

右内神社(三島市梅名)

右内神社(うないじんじゃ)は 下田街道の左右に「左内神社」とともに 三嶋大社の御門守護神として 鎮座していたと伝わります 源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています

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➄「左内神社」 (御門の神)鎮座地:三島市中島字西310-2

(伊豆國田方郡 文梨神社)『延喜式(engishiki)』論社
(伊豆國田方郡 阿米都瀬氣多知命神社)『延喜式(engishiki)』論社

左内神社(三島市中島)

左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は手無という地名です 『延喜式神名帳』の論社とされいて 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも云われます 更に通称名として「天地(ame tsuchi)宮」とも呼ばれていて「式内社・阿米都知(ame tsuchi)命神社」の論社とも云われています

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「祓戸神社(harahedo shrine)」(境内西側に鎮座 祓戸四柱の神を祀る末社)について

富士山の伏流水の桜川が流れ込む 池の中の島に鎮座 国司によってこの地に奉斎され「国司の大社参拝の際は必ず当地で祓いを行なった」と云う格式ある謎の神社です 大社とは別に卜部氏などの氏子を持っていて 三嶋大社が当地に遷座する前から鎮座していたと想われます

三嶋大社 境内末社

祓所神社(ハラヘド ジンジャ)(通称浦島さん)

御祭神 織津姫神(セオリツヒメノカミ)
    速秋津姫神(ハヤアキツヒメノカミ)
    気吹戸主神(イブキドヌシノカミ)
    速佐須良姫神(ハヤサスライヒメノカミ)

御由緒
昔、桜川の清流が流れ込み島を迂回して見るからに清々しい所であった
国司(コクシ)の廰(チョウ)が此の島に祓所大神(ハラヘドノオオカミ)を鎮祭し
国司(コクシ)が三嶋大社参拝の折 必らず国の卜部(ウラベ)をしてお祓いを行なわしめたのが 祓所神社(ハラヘドジンジャ)の起源であると傳えられている
以来、桜川は祓所川とも呼ばれ 又此の島の西側にその昔 卜部(ウラベ)が住んでいた所として裏町(ウラマチ)また祓所町(ハラヘドマチ)又 宮川町(ミヤガワマチ)等と呼ばれて此の社の氏子区域となり祭典行事を行っている

御祭典
 六月三十日
 十二月三十一日

御造営
古い事は不明であるが 一遍聖絵(鎌倉時代)古絵図にも相当規模の御社殿の様子が知れる
最近に於いては 明治元年五月廿日 時の神主 矢田部式部盛治が大社御社殿群と共に落成させ 昭和十一年七月八日内務省が復旧改築した

御本殿 春日造り 四合四勺
御拝殿 入母屋造り 六坪

境内の案内板より

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

三島駅から 県道51号経由 約1.1km 徒歩15分程度
旧東海道に面した場所 伊豆の玄関口として下田街道の起点に鎮座します

三嶋大社(mishima taisha)に到着

社頭に大鳥居と社号標「三嶋大社」が建ちます

一礼して社頭の鳥居をくぐり抜けます

すぐ右手には「たたり石」が置かれています
ちょっと怖い名前ですが 案内板を読むと一安心します
「絡垜(たたり)は 糸のもつれを防ぐ道具で整理の意味語 旧東海道の交差点に置かれて行き交う人の整理をしていた石」とあります

神池の中を 参道が真っ直ぐ延びていて 広く大きな境内です

参道の神池の中にある島に北条政子の勧請とされる境内社にお詣りです
厳島神社(itsukushima shrine)
《主》市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)

続いて「総門」が建ち 一礼してをくぐり抜けます

さらに桜並木の参道を歩きます

「神門」が建ち 一礼してをくぐり抜けます

境内の中央には「舞殿」建ちます

「舞殿」の後方に「社殿」が見えます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿向かって左側には 境内社が鎮座し お詣りします

拝殿向かってすぐ左脇

・若宮神社(wakamiya shrine)(三嶋大神の御子神 神津島の物忌奈命神社の御祭神を祀る摂社)
 《主》物忌奈乃命(monoimina no mikoto)
    誉田別命(homutawake no mikoto)(第15代 応神天皇)
    神功皇后(jingu kogo)
    妃大神(hime no okami)

舞殿向かって左側

・見目神社(mirume shrine)(三嶋大神の伊豆諸島の妃神六柱を祀る摂社)
 《主》波布比売命(伊豆大島の妃神)
    久爾都比咩命(新島の妃神)
    伊賀牟比咩命(三宅島の妃神)
    佐伎多麻比咩命(三宅島の妃神)
    伊波乃比咩命(三宅島の妃神)
    優波夷命(八丈島の妃神)

舞殿向かって右側には 神札授与所があります お守りやご朱印などを授与して頂けます

境内を後にして 神門へ戻ります

参道を戻り 総門をくぐり抜けて 振り返り一礼します

先程の神池の方向ではなく 総門から西方向に向かうと 境内社の「祓戸神社(harahedo shrine)」がありお詣りします

先程も述べていますので 詳細は省きますが 本来は こちらで禊払いをして お詣りするのが正しい参拝方法なのでしょう 手水舎もあります

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

三島神(mishima no kami)は 伊豆諸島の神「御島神(mishima no kami)」との説があります(古代に噴火を畏れた人々の伊豆諸島に対する畏怖尊称)
古の鎮座地は「御島」であったとするものです

『日本後紀(nihon koki)』逸文 天長9年(832)年5月癸丑(22日)条には 社地に関して記されています

『日本後紀(nihon koki)』は 792~833年(42年間)を記す(六国史の第三にあたり 現存10巻)

三嶋大社は 元は伊豆諸島 次に下田市白浜に鎮座したと云われていて 記載文が 白浜鎮座時の描写とされています この時に御神威を示したので「名神」を預かっています

原文
「伊豆国言上 三島神 伊古奈比咩神 二前預名神 此神塞深谷摧高巌 平造之地 二千町許 作神宮二院 池三処 神異之事 不可勝計 」

意訳
「 伊豆国から言上がありました 
三島神(三嶋大社)と伊古奈比咩神(下田白浜神社)の二前 名神を預かる
この神は 塞がれた深い谷の摧高な巌にあります
平造の地を二千町許します 造るのは 神宮「二院」制と池が三箇所です
神が異なる事は 不可勝計(あげてかぞふべからず) 」

「富戸三島神社(元御島神社)」に残る伝承

御祭神の「御島神(mishima no kami)」が 
伊豆七島を開拓されて 賀茂郡白浜村(現 河津町白浜)「白浜神社」から田方郡三島町(現 静岡県三島市)「三嶋大社」への巡幸の途中で 
当地「富戸(futo)」も 御神徳に浴したから 元御島神社(moto mishima shrine)と云ったが 後に三島神社と改めた としています

詳しくは「富戸三島神社(元御島神社)」の記事をご覧ください

富戸三島神社(伊東市富戸)

富戸三島神社(ふとみしまじんじゃ)は 源頼朝公の御子「千鶴丸(ちずるまる/せんつるまる)」を若宮として相殿に祀る伝承を持ちます 本殿に祀るご祭神は 異名を伝える「御島神(みしまのかみ)」とされ すなわち御祭神のご巡行の地に鎮座する古社と伝わり 創建は定かではありませんが 奈良時代の最盛期にあたる天平年間(729年-749年)の棟札が現存します 

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『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和7年(840年)に記される伝承

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和7年(840年)9月23日条に記される伝承

要約

上津島(神津島)に 御島神の本后(本妻)の「阿波神(awa no kami)」 その御子神の「物忌奈乃命(monoimina no mikoto)」が鎮座している

承和5年(838)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生したが 占いの結果は 三嶋神の後后(伊古奈比咩命=白浜神社)が 位階(神階)を賜ったにも関わらず
本后の「阿波神(awa no kami)」(阿波咩命:阿波命神社)には沙汰がなったことに対する怒りによるものだと見なされました

意訳
「 三嶋大社の本后は上津島(現 神津島)に坐ます「阿波神(awa no kami)」です
又 「物忌奈乃命(monoimina no mikoto)」が鎮座しますが すなわち「阿波神(awa no kami)」の御子神です

新しく造る宮は4院で石室は2間 屋は2間 闇室13基 ・・津嶋は草木茂り・・・・・・・・・・ 」

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和7年(840年)10月14日条に記される伝承

要約

前述 承和7年(840年)9月23日条の記事を受けて 約一ヶ月後の記事には
「阿波神(awa no kami)」と「物忌奈乃命(monoimina no mikoto)」の神階が無位から従五位下に昇ったと記されています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

古代から中世に入り『吾妻鏡(azumakagami)』治承4年(1180年)に 現在の鎮座地が 確認できる文献として記されます

『吾妻鏡(azumakagami)』治承4年(1180)8月17日条に記される「源頼朝公の挙兵」(日本史上の武家政権への転換点ともいえる重要な日です)

要約

8月17日(現在の9月中頃) 快晴 三嶋大社の神事なり
この日 源頼朝公が 平氏追討の兵を挙げました

頼朝公は この日 挙兵直前に三嶋大社へ奉幣します
いよいよ挙兵の時 北条時政が「今日は三嶋大社の神事があるので 群衆が参拝している だから 牛鍬大通りを回ると行き来する人達に疑われるので 裏道(蛭嶋通り)をいくべき」と頼朝公に具申します
頼朝公は「もっともな意見である しかし 新しい世に替える 初めなので 閑道は使いなくない また 蛭嶋通りでは騎馬が使えない 大通りを行くべきだ」と返答します

北条時政達は 山木兼隆の屋敷の前の天満坂あたりで矢石を放ちました

兼隆の郎従の多くは 三嶋大社の神事を見物するために参拝し そのまま黄瀬川の宿にとどまって遊んでいたために不在だった
残留した武士達は 死を恐れず先を争って戦いましたが その間に佐々木定綱兄弟は 堤信遠を討った後 こちらの戦いに加わりました 

結果 源頼朝公は 首尾よく 山木兼隆を討ち取ります

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『吾妻鏡』 治承04年写本 室町[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047829&ID=&TYPE=&NO=

『吾妻鏡(azumakagami)』文治四年(1188)正月20日丙辰の条 に記される最初の「源頼朝公の二所詣(nisho mode)」が確認されます

源頼朝公が始められた「伊豆国 走湯権現(伊豆山神社)」と「相模国 箱根権現(箱根神社)」に参詣し 三嶋大社への参詣を「二所詣(nisho mode)」といいます
「二所詣(nisho mode)」の名は 前者の二つをとったと云われ いずれも頼朝公のゆかりの「神仏」で この後
「二所詣(nisho mode)」は以後 鎌倉幕府の将軍が 毎年正月恒例の行事として ほぼ鎌倉幕府を通じて行われました

文治四年(1188)正月は「二所詣(nisho mode)」の神事について書かれています 以下要約

文治4年(1188年)正月16日
頼朝公は 鶴岡八幡宮へお参りをしました 御所へ戻られてから 二所詣での精進潔斎の沐浴を始めました

文治4年(1188年)正月18日
二所詣での出発が近づき 甲斐 伊豆 駿河などの在国 御家人達に山道を警備するように 前もって命じてありますが 今日再度命じました
それは 義経の所在が 未だに分からないので 特に用心されておられるからです

文治4年(1188年)正月20日
頼朝公は 鎌倉を出発され 伊豆山権現 箱根権現 三島大社へ参詣されました
武州 參州 駿州 源藏人大夫 上総介 新田藏 奈胡藏人 里見冠者 徳河三郎 等などがお供をしました
伊澤五郎 加々美次郎 小山七郎以下の付随兵は三百騎にも及びました
三浦介義澄の担当として 浮橋(船橋)を相模川に架けて用意をしたと云われます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『吾妻鏡』 治承04年写本 室町[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047829&ID=&TYPE=&NO=

伊豆国一之宮として 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受けていました もともとは伊豆国賀茂郡にあり 平安中期以降に現在の場所に移ったと考えられています

三嶋大社(mishima taisha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

元宮とされる 伊古奈比咩命神社(白浜神社)の記事もご覧ください

伊古奈比咩命神社〈白浜神社〉(下田市白浜)

伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は 三嶋大社の元宮とされ 神社の縁起に「この神 三宅島よりここに遷り 後更に 三島に遷座す」とあります 鎮座地 白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま)」は 古代から 伊豆半島から伊豆諸島に向けて神に祈り祀る祭祀遺跡で 祭神は伊豆諸島の開拓神「御島神=三嶋神」と その后神「伊古奈比咩命」が祀られます

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発祥の地とされる 富賀神社(三宅島 阿古)の記事もご覧ください

富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉

富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る

一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る

一緒に読む
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています