富戸三島神社(ふとみしまじんじゃ)は 源頼朝公の御子「千鶴丸(ちずるまる/せんつるまる)」を若宮として相殿に祀る伝承を持ちます 本殿に祀るご祭神は 異名を伝える「御島神(みしまのかみ)」とされ すなわち御祭神のご巡行の地に鎮座する古社と伝わり 創建は定かではありませんが 奈良時代の最盛期にあたる天平年間(729年-749年)の棟札が現存します
ご紹介(Introduction)
【神社名】(shrine name)
三島神社(mishima shrine)みしまじんじゃ
(元御島神社)(moto mishima shrine)
【通称名】(Common name)
富戸三島神社 futo mishima shrine
【鎮座地】(location)
静岡県伊東市富戸686
【地 図】(Google Map)
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
〈参考論社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 許志伎命神社
[ふ り が な ](こしきのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Koshiki no mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【御祭神】(God's name to pray)
《主》 積羽八重事代主命(tsumiha yae kotoshironushi no mikoto)
異名を「御島神(mishima no kami)」
《配》 若宮八幡(wakamiya hachiman)=千鶴丸(Sentsuru maru)
【御神格】(God's great power)
・家内安全 Safe and comfortable home life
・大漁満船 Good harvest and big catch
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・諸願成就 Realization of various wishes
・等 etc
【格式】(Rules of dignity)
延喜式内社(engishikinaisha)
【創建】(Beginning of history)
創建年代は不詳 最古の記録として 天平年間(729年-749年)の棟札が現存
約1300年前頃には すでにあった古社
【由緒】(history)
三島神社 みしまじんじゃ
鎮座地 伊東市富戸六八六番地
御祭神 事代主命 ことしろぬしのみこと
若宮八幡 わかみやはちまん例祭日 十月二十九日
由緒
「境内の案内板」から参照
創建の年代は詳かでないが 現存する最古の棟札に「明暦四戊戌年初秋 三島明神 是則 天平年中(七二九~七四九)出現 国家擁護の神霊也」とあり、御祭神が伊豆七島を開拓され、賀茂郡白浜村から田方郡三島町へ御巡幸の途次、富戸も御神徳に浴したことから産土神として奉祭したと云う、元御島神社と云ったが後に三島神社と改めた、又、源頼朝が伊豆に閉居の折の祈願社十七社の一社である。
【境内社】(Other deities within the precincts)
若宮八幡宮・第六天王神社・山神社を合祀しています
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
三島神社 mishima shrine (元御島神社)(moto mishima shrine)の歴史
富戸三島神社(futo mishima shrine)の創建について
とても古く 創建は定かではありませんが 奈良時代の最盛期にあたる天平年間(729年-749年)の棟札が現存しますので 約1300年前頃には すでにあった古社です
現在の本殿(建造物)の建築について
江戸時代の後期の享和3年(1803年)建造とされて 二間社流造という珍しい形式で 一つの棟に二社(右側に三島神社・左に若宮八幡宮)を別々に祀っています(市有形文化財に指定)
この建造様式は 同時期に造営された「八幡宮 来宮神社の二間社流造」(寛政7年(1795)に建立)が 同形式なので 参考にされたとも云われています社殿は荘厳で 総ケヤキ造・柿葺き屋根で 又 趣のある彫り物は素晴らしく 向拝柱(gohai bashira)・向拝虹梁(kohai koryo)・蟇股(kaeru mata)などの構造材に 見事な腕で彫刻がなされています
携わった職人は「大工の棟梁は田子村(現西伊豆町)の土屋左七」・「木挽きは八幡野村の稲葉久五郎と十足村の小川藤八」・「基礎は信州稲郡原口村の石工北原清吉」 があたったと記録されています
(伊東市役所公式HP参照)
すなわち「御島神(mishima no kami)」の ご巡行の地となります
御祭神については
現在は 「事代主命(kotoshironushi no mikoto)」となっていますが もともとは「御島神(mishima no kami)」の異名を伝えていて
相殿の若宮八幡は「千鶴丸(sentsuru maru)」の伝承をもっています
由緒にもあるように 創建の経緯は
御祭神の「御島神(mishima no kami)」が
伊豆七島を開拓されて 賀茂郡白浜村(現 河津町白浜)「白浜神社」から田方郡三島町(現 静岡県三島市)「三島大社」への巡幸の途中で
当地「富戸(futo)」も 御神徳に浴したから 元御島神社(moto mishima shrine)と云ったが 後に三島神社と改めた としています
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
「10月29日 例大祭」 鹿島踊り(kashima odori)・下方(sha giri)・神楽(kagura)・万灯(man do)
例大祭は 鹿島踊り(kashima odori)下方(sha giri)神楽(kagura)万灯(man do)の保存会が祭礼に関わるとのこと
例大祭は 早朝から始まります
6時30分頃 開始 清めの儀式 境内にて「神楽(kagura)」が奉納
8時30分頃 力自慢の若者による「万灯(man do)」が奉納
9時30分頃「富戸鹿島踊り(kashima odori)」の舞人が修祓を受け 直ちに
境内 中段で「富戸鹿島踊り(kashima odori)」を奉納します
祭式は粛々と進み「富戸鹿島踊り(kashima odori)」が終了
神輿(mi koshi)渡行が始まり 担ぎ手は「富戸鹿島踊りの舞人から12名」が務める その際 決して声を出さないよう 口に紙を銜えています 境内石段も静かに下ります
ところが 神輿(mi koshi)は 境内広場に降りると一変します
「下方(sha giri)」(お囃子)に合わせ始めて 30分ほど 縦横無尽に練り回ります
ここでも 担ぎ手は 口に紙を銜えて 決して声を出さないように しかし荒々しく 神輿(mi koshi)を突進させます
この神事の意味は 神輿(mi koshi)に 鎮座する御祭神が 外の景色を見たいといい 鳥居をくぐらせまいとする里人のせめぎ合いが 表現されているらしい
烏帽子(e boshi)をかぶった白装束の若衆「鹿島踊りの舞人12名」が 担ぐ神輿(mi koshi)が「下方(sha giri)」(お囃子)に合わせ 所狭しと動き回ります
他の衆の静止にも聞こえないかのように 露店や生け垣へと何度も突進します
子供たちは 喜んで逃げまどって 大人たちも楽しそうに見物しています
古くから 里人は 神輿(mi koshi)が 鳥居を出てしまうと お祭は終わりだと言い伝えられてきたので出したくありません
里に出たい御祭神と里人とのせめぎ合いですから 何度も何度も 神輿(mi koshi)は 境内に戻されます
やがて 神様と里人との意気が 整った頃合いに 里人の見守る中を 神輿(mi koshi)が 鳥居に向かって突進します そして くぐり抜け 神社から里に出ることになります
神社を出た神輿(mi koshi)は 海岸にあるお旅所(宇根展望台のすぐ横にある竜宮神社)へと向かう この間 練ることはなく粛々と進みます 先導役は 例大祭の参列者です
お旅所(宇根展望台のすぐ横にある竜宮神社)に着くと 神輿(mi koshi)は「千鶴丸(chizuru maru)伝説の産衣岩(ubuki iwa)」に据え しばし御休息
千鶴丸(chizuru maru)にも祈りが捧げられます
御祭神は 間近に見える伊豆大島と遥かなる伊豆七島の青々とした太平洋を堪能されます
神楽(kagura)が奉納 続いて「富戸鹿島踊り(kashima odori)」が奉納されて 神輿(mi koshi)は 神社に戻っていきます
境内に戻った神輿(mi koshi)は「下方(sha giri)」(お囃子)に合わせるように 僅かに練りながら 社殿へと進み入り ご本殿にお還りになられます
例大祭の締めは「富戸鹿島踊り(kashima odori)」(豊漁や地域の安全を祈願して25人の若衆が勇壮な舞を披露)が奉納されて 13時30分頃 終了
延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)の所載について
当社では 延喜式内社(engishikinaisha)の由緒は伝えていませんが
『静岡縣神社誌』(昭和16年に静岡県庁教育課内に設けられた静岡県郷土研究協会により編纂・刊行)に「式内 参考社」との記載があります
伊豆國 賀茂郡 許志伎命神社
izu no kuni kamo gun koshiki no mikoto no kaminoyashiro
一般的には 「許志伎命神社koshiki no mikoto no kaminoyashiro」の論社は2社
・(比定社)優婆夷宝明神社(ubai homei shrine)東京都八丈町
優婆夷宝明神社の記事をご覧ください
-
-
優婆夷宝明神社(八丈島 八丈町大賀郷)
優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)は 八丈島・八丈小島・青ヶ島の総鎮守として 御島神(みしまのかみ)の后「いなはゑ后=(優婆夷命)」と その子「五郎の王子(許志伎命=宝明神)」が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の2つの式内社〈・優波夷命神社(うはいのみことの かみのやしろ)・許志伎命神社(こしきのみことの かみのやしろ)〉に該当する格式の高い由緒ある神社です
・(参考社)三島神社 mishima shrine 伊東市富戸 (当社)
(元御島神社)(moto mishima shrine)
御祭神の許志伎命(koshiki no mikoto)は 八丈島の后神・優婆夷命(ubai no mikoto)の御子神とされています
八丈島 創始の伝説
「事代主命(kotoshironushi no mikoto)」(大国主命の御子神)は一族と妃(ki saki)八人を伴って 伊豆諸島を治めたと伝わり
その妃の一人「八十八重姫(yaso yae hime)=優婆夷命(ubai no mikoto)」は その子「古宝丸(koho maru)=許志伎命(koshiki no mikoto)」と共に 伊豆諸島の 最南端にある八丈島に渡り 親子で島を開拓し 統治したという伝説
一般に 伊豆地方での三嶋信仰の元は 伊豆諸島の「島々の神」を祀るものであったが
西方の三島の御祭神「大山祇命(oyamatsumi no mikoto)」が 融合して「三島神社」と呼ばれる事が多いとされています
富戸三島神社(futo mishima shrine)は 実際に「御島神社(明神)」と号していた神社で 御祭神の異名も「御島神(mishima no kami)」です
その由来も 御祭神が 伊豆七島を開拓されて 賀茂郡白浜村(現 河津町白浜)「白浜神社」から田方郡三島町(現 静岡県三島市)「三島大社」への巡幸の途中で 当地「富戸(futo)」も御神徳に浴したから 元御島神社(moto mishima shrine)と云ったが後に三島神社と改めた としています
御祭神の許志伎命(koshiki no mikoto)が 伊豆七島の最南端の八丈島を開拓をされて 父神の坐ます「三島大社(mishima taisha)」へ向かったとするならば
延喜式内社(engishikinaisha)とされるに十分な古い由緒を伝えています
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
伊豆急行 富戸駅から徒歩650m 10分程度ですが 高台にある駅からは 高低差は70mぐらいの下り坂です
伊東駅 から車で向かうとR135を南下して 県道109号へ左折 富戸まで進む 13kmぐらいか
「富戸」のバス停の先を右折すると鳥居があります
「富戸三島神社(futo mishima shrine)」に到着
境内入口に白い鳥居が建ち よく手入れが行き届いていて気持ちが良い
一礼の後 鳥居をくぐります
鳥居の先には 数段ほどの階段を上がると 平らな砂地の境内へ進む 更に社殿までは二段の敷地があり 3段構成の境内となっています
ここから 一段上がった場所には「手水舎」があり お清めです
さらに もう一段上がった場所には 狛犬が待ち受け 拝殿本殿と繋がります
狛犬を見るのに振り返ると 町越しに 眼下に海が見えています
遠くに見えますが 2分も歩けば 海があります
この景色を毎日 見ている狛犬さんに 会釈して 拝殿へと進みます
荘厳で趣のある彫り物が 施されている拝殿は素晴らしく 暫く見とれます
鈴を鳴らそうとしてもありません 当然ですが 鈴緒もありません
代わりなのか 賽銭箱の上に 太鼓が 置かれています
靴を脱いで 拝殿の階段を進み 賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 御先祖様に御礼 鎮まる御祭神「御島神(mishima no kami)」「若宮八幡(wakamiya hachiman)」に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
お詣りをして 階段を下がり 靴を履き 再び海の景色が飛び込みます
拝殿のすく下には「参籠石(okomori ishi)」があり 案内板を読み お詣りします
参籠石 おこもりいし
此の浜石は 当区に若衆組の組織があった当時、若衆組だけの漁をしていた折 不漁の時に一週間 此の下の中庭で 参籠と云って火を焚き神様に祈願をした。その際若衆は 毎夜参籠の後で 素足とふんどし一つの身となり 区民の寝静まるのを待って 海岸へ行くのである。それは人に見られないことになっているもので 時として会う場合は 物陰にかくれて通り過ぎるのを待つのである。
寒風吹く 暗夜午前一時過ぎに一斉にとび出した若衆は 海岸へ行き 暗い中を手でさぐり浜石をひろうのであるが 最初に手をふれたのを持つのである。
これは大きいからこれは小さいからと 選んではいけないきまりになっている。大きい石を持つ者 小さい石を持つ者等は 神前に祈りをこめて奉納した。それだけに 大漁の祈願の真心は 神様に通じ一週間の終わりには 必ず大漁があったと云う。
その後 敗戦国となって時代は 大きく変り民主主義の世の中と云うことで当区の若衆組は解散し この行事も終わったのであるが 数回に亘る参籠に奉納された浜石は 数百個にもなってこの両側に積まれていたが 境内の整備 その他に使用され残りは 裏側に積まれてあり
その一部をここに積んで当時の若者の意地と度胸と、信仰の尊い精神を偲ぶと共に後世に永く伝えべく保存するものなり。
平成五年三月 富戸三島神社
案内看板
そのすぐ隣に『千鶴丸と橘』があります 後程お話します
『名木はこの奥です』との看板に促され 拝殿の左横の敷地を歩くと 社殿の裏手には「伊東市の名木」に指定された御神木タブノキがあります
ご本殿は覆屋で見えませんが 拝殿の横「外陣の広縁」にも 素晴らしい彫刻がなされていているのを発見して感動です
階段を下がり 境内を抜けて鳥居をくぐり 拝殿を振り返り 一礼
ここから 例大祭で神輿(mi koshi)が向かう お旅所(宇根展望台のすぐ横にある竜宮神社) 「千鶴丸(sentsuru maru)伝説の産衣岩(ubuki iwa)」に向かいます
『千鶴丸と橘』の伝説の舞台 海岸にある宇根展望台へは
参道を真っ直ぐ進むと『スーパーうわみつじ』という地元スーパーが角にあるので そのまま海へただ真っすぐに向かう 左手に宇根展望台へ通じる小道があります
お旅所「千鶴丸(sentsuru maru)伝説の産衣岩(ubuki iwa)」(宇根展望台のすぐ横にある竜宮神社)に到着
産衣岩(ubuki iwa)の看板横には 階段が伸びていて その上に竜宮神社があります
不思議な空間です
東伊豆単成火山群(higashi izu tansei kazangun)が作り出した溶岩が
海に流れ出した「大木の根」のように柱状節理(chujo setsuri)の断崖絶壁の岬がに張り出しています 地元ではそれぞに「〇〇根(ne)」と呼んで区別しています
富戸上空 航空写真
目の前は 宇根(une)の断崖絶壁があり 真下は真っ青な太平洋の荒波が打ち寄せていて
沖には「伊豆大島」 晴天の日は 遥か彼方に「伊豆七島」が見渡せて 絶景です 岩に砕ける波の音が下界との遮断をしています
深く深く お旅所(宇根展望台のすぐ横にある竜宮神社) 「千鶴丸(sentsuru maru)伝説の産衣岩(ubuki iwa)」にお詣りです
『私が 愛すべき場所 』です
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
「千鶴丸(ちづるまる)伝説の産衣石(うぶぎいし)」について
今から860年程の遠い昔 源頼朝公(minamoto no yoritomo ko)にまつわる伝説です
私の先祖の「生川 甚之右衛門(ubukawa jin uemon)」が登場します
この名の由来は 衛門府(emon fu)という律令制の官司(君主を警衛する君主直属の軍人の役所ことで
「左衛門府と右衛門府の2つ」があり
鎌倉時代から 武家に好まれて 専ら武家に対して与えられるようになっていった官職名)からきていて
「生川 甚之右衛門(ubukawa jin uemon)」は 鎌倉幕府の初代将軍 源頼朝公(minamoto no yoritomo ko)から その名を直々に授かります
詳しくは 観光の案内板をご覧ください
産衣石 うぶぎいし
永暦一年(一一六〇年) 伊豆に流された源頼朝は 伊東祐親の三女・八重姫と人目を忍ぶ仲となり男の子が生まれた
この子は 千鶴丸(ちづるまる)と名付けられたが、平家の管領である祐親は清盛に知られては一大事と 千鶴丸を八重姫からうばい 家来に命じて伊東の八代田の川に 千鶴丸の腰に石をつけて沈めて殺した(この処を後に稚児渕と云う)
沈められた千鶴丸の腰の石がとれて、川を下り海へ出て富戸の海岸に着き ここで釣りをしていた甚之右衛門が見付け 引き上げた処 高価な着物をつけており これは高貴な御子であると丁重に扱い 遺体をこの石の上に安置し 着物をかわかして念ごろに葬ったと云う、これよりこの石を「産衣石(うぶぎいし)と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となり ここの三島神社の御祭神三島大明神の相殿として祀られ
御例祭には鹿島踊りが奉納され 村人の平穏無事と五穀豊穣大漁が祈願され 三島大明神と共に二年に一度神輿の御渡があり 御旅所(おたびしょ)として 此の石に据え しばし御休息をし 千鶴丸(ちづるまる)にも祈りが捧げられる
又 甚之右衛門は 千鶴丸(ちづるまる)が 握っていた橘(たちばな)の枝が余りにも見ごとであったので これを三島神社の社殿の前に挿した処 千鶴丸(ちづるまる)の怨念で根づいたが 数年にして枯れたので 同じ物を植えたのが 現在に至り 毎年香り高い花を咲かせ、当時を偲ばせてくれる。
千鶴丸(ちづるまる)が にぎっていた橘(たちばな)は 千鶴丸(ちづるまる)が稚児渕(ちごがぶち)につれてゆかれる途中 鎌田神社の境内に 丁度香り高い匂いをつけた橘(たちばな)の枝を せめてもの慰めにと 家来が持たせたと云う。
後に知った頼朝は 甚之右衛門を呼び出して 賞賛の言葉と 生川(うぶかわ)の姓と杯(さかづき)を授与されたと云う。
生川(うぶかわ)の姓は 今では 生川(なまかわ)という屋号で 甚之右衛門の生家は 現在の三好伍郎家である。
平成七年十二月 吉日 富戸城ケ崎観光会
観光案内の看板
『千鶴丸(chizuru maru)と橘(tachi bana)』について
同じ伝承が 境内の案内板にもあります
千鶴丸と橘
永暦一年(一一六〇)伊豆に流された源頼朝は 宇佐美の宿に潜在中 伊東の庄祐親の三女八重姫と音無の森で人目を忍ぶ仲となり やがて八重姫は頼朝の男子を出産し千鶴丸と名付けた。
これを知った平家の官領である父祐親は 清盛に知られては一大事と 八重姫から千鶴丸をうばい 家来に命じて 伊東の八代田にある川の稚児ヶ渕(千鶴丸を沈めた後につけられた名称)に体に石をつけて沈めたのである。
この折通る道側に 鎌田神社の境内にあった 橘の花の香り高く匂っていたので 家来はせめての慰めにと 小枝を二本おって 両方の手ににぎらせ 沈められた千鶴丸は、やがて石がとれて川を下り海へ出て この富戸の宇根の海岸に着いた
それは丁度朝のこと ここで漁をしていた富戸の住人 甚之右衛門(現時生川屋(なまかわや)の先祖である)と云う人が 之れを見つけひろい上げたところ
生れてまもない小児であり 面も衣服は立派なものをまとっており 両方の手には橘の小枝が みずみずしくもにぎっていた。
甚之右衛門は これは高貴な方の小児であると思い 丁重に側にあった岩(現在産衣岩(うぶきいわ)と云う)に 安置し遺体を乾かして 此の地に葬ったと云う。
この時にぎっていた橘の小枝を いっしょに押したところ 無残にも一命を絶たれた恩念は この橘に移ったのか 見事に根付き数年成長せしも 千鶴丸のもとえ帰へりしか、枯死したため昭和八年村人達は これをおしみ 同じ橘を両側へ植えたのがこの橘である。
右側は病気で枯れたのであるが 残ったこの橘は 年々香り高い花と実を結び見る者をして 亡き幼子千鶴丸の面影が ほうふつとして浮かんできます。
又村人達は 千鶴丸を この神社の相殿に 若宮神社として祀ったのである。
その後 頼朝は、建久元年に右近上大将に任ぜられ 引続いて建久三年に征夷大将軍に任ぜられた、
このことを知った頼朝は 甚之右衛門を呼び出され 恩賞の御沙汰があった
一つには これからはお前の性は生川(うぶかわ)と名のるがよい、
二つには 立派な茶器を授かったと云う、
生川(うぶかわ)の姓は 現在 屋号としてつかわれているが 呼び方は現在 生川(なまかわ)と呼んでいる。
この一説は「増訂豆州志稿」にも記されている
境内の案内板
「増訂豆州志稿(zotei zushu shiko)」
https://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/KGMS/KGMS-00089/KGMS-00089-01.jpg?log=true&mid=KGMS-00089&d=1581657719729画像利用
国文学研究資料館 電子資料館「増訂豆州志稿」より
御祭神の「事代主命(kotoshironushi no mikoto)」は 竿を片手に鯛を釣り上げる「恵比寿さまの像」からもわかるように 釣りが好きな「福の神」として有名です
正しく 釣りをしていた富戸の住人 甚之右衛門(jin uemon)が
社伝にあるように「千鶴丸(chizuru maru)が 握っていた橘(tachi bana)の枝が 余りにも見ごとであったので これを三島神社の社殿の前に挿した」 とあり
これも 数奇な運命に翻弄された「高貴な赤子の御魂」を救われた御祭神の御心のような気がします
ここに登場する富戸の住人「生川甚之右衛門(ubukawa jin uemon)」が 私の父方の祖先になります
我が家の家紋が 代々この「橘(tachi bana)の紋」であった訳がわかりました
「生川屋」では 江戸末期まで 当主は「甚之右衛門(jin uemon)」を名乗っていて 墓誌にも記されています
私の祖父は「三好松之助」といい 明治生まれで「生川屋」の跡取りでしたが 日本海軍に入隊し家督を弟へ譲ります
日露戦争の時は 日本海海戦でエルジック・クルーザーの原点とされる「軍艦和泉(izumi)」で バルチック艦隊に勝利しました 晩年は神社の氏子総代をしており 神社の石碑にも名前があります
「おとどい(兄弟)のタチバナ」について
橘(tachi bana)の木は 「常世の神の依り代」とされていて 太古より 神の坐ます処(常世)と人間の住む(現世)を結ぶものとして尊ばれています
古代から 自生している常緑樹で 美しい柑橘の実と香りがあり 不老不死の調薬ともされています
ところで この千鶴丸(chizuru maru)が握っていた橘(tachi bana)の枝は 伊東にある「火牟須比神社(ho musubi shrine)」(伊東市鎌田751)に この橘(tachi bana)の元々の木があり 2つの神社の橘(tachi bana)は「おとどい(兄弟)のタチバナ」と呼ばれています
伊豆七島を開拓された 「御島神(mishima no kami)」の御神徳に浴し
数奇な運命に翻弄された「若宮八幡(wakamiya hachiman)」を祀る
三島神社mishima shrine (元御島神社)(moto mishima shrine)
「富戸三島神社(futo mishima shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
三島神を祀る 三嶋大社の記事もご覧ください
三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受ける 伊豆国一之宮です 平安中期以降に伊豆国賀茂郡から現在地に移ったとされ 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願の後 治承4年(1180)旗挙げを果たし 鎌倉武家政権を樹立し 鎌倉幕府崇敬の神社となり 現在に至ります
三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉
優婆夷宝明神社(ubai homei shrine)東京都八丈町 の記事をご覧ください
-
-
優婆夷宝明神社(八丈島 八丈町大賀郷)
優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)は 八丈島・八丈小島・青ヶ島の総鎮守として 御島神(みしまのかみ)の后「いなはゑ后=(優婆夷命)」と その子「五郎の王子(許志伎命=宝明神)」が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の2つの式内社〈・優波夷命神社(うはいのみことの かみのやしろ)・許志伎命神社(こしきのみことの かみのやしろ)〉に該当する格式の高い由緒ある神社です
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について