実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

三島神社(南伊豆町妻良)

三島神社(みしまじんじゃ)は 2つの式内社大津往命神社 阿米都加多比咩神社 の論社とされる古社と伝わります 祭神の大津往命(おほつのゆきのみこと)は 大津(港)を守護する姫神とも 三嶋神の御子神とも 大国主命の妻神とも伝わります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三島神社(Mishima Shrine)
(みしまじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

静岡県賀茂郡南伊豆町妻良828ー1

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大津往命Ohotsunoyuki no mikoto
《配》須佐之男命(Susanowo no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳 神代と云う

【由  (History)】

正中2年(1325)の社記

神代の昔 三島大神と姫命御船にて渡来たまい 当浦より上がりたまう とみえ 一座は姫神なるも所由あり 村名の妻浦も姫神鎮座の地なるより 比賣浦の略と聞こゆ

妻良・子浦の地名由来

昔々 大国主命が 御子 事代主命(みこことしろぬしのみこと)ほかの神々を引き具して 伊豆七島へ渡る途次 子浦港へ寄航した
碇を下ろし 后と御子が泊まる地を決めようと周囲を眺め やがて 后の大津往命を今の妻良の地に 事代主命の御子 伊波久良別命を子浦の地に 上陸させた
これから妻良 子浦の地名が生まれた

南伊豆町誌南伊豆町誌編さん委員会 (1995)より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

2つの式内社大津往命神社 阿米都加多比咩神社 の論社とされています

大津往命神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大津往命神社
[ふ り が な ]おほつのゆきのみこと の かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohotsunoyuki no mikoto no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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阿米都加多比咩神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 阿米都加多比咩神社
[ふ り が な ]あめつかたひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]AmetsuKatahime no mikoto no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
2つの式内社大津往命神社 阿米都加多比咩神社 の論社について

伊豆國 賀茂郡 大津徃命神社

・三島神社(南伊豆町妻良)

一緒に読む
三島神社(南伊豆町妻良)

三島神社(みしまじんじゃ)は 2つの式内社〈 ①大津往命神社 ➁阿米都加多比咩命神社 〉の論社とされる古社と伝わります 祭神の大津往命(おほつのゆきのみこと)は 大津(港)を守護する姫神とも 三嶋神の御子神とも 大国主命の妻神とも伝わります

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・波布比咩命神社(下田市東本郷)

一緒に読む
波布比咩命神社(下田市東本郷)

波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 2つの式内社〈 ①波布比賣命神社 ➁大津往命神社 〉の論社とされています ①波布比賣命神社は 伊豆大島の波浮港に鎮座する波布比咩命神社の遥拝所であろうとされていて ➁大津往命神社は 大きな津〈港〉を守護する女神であろうとされています

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伊豆國 賀茂郡 阿米都加多比咩命神社

・三島神社(南伊豆町下小野)

一緒に読む
三島神社(南伊豆町下小野)

三島神社(みしまじんじゃ)は 古くは門野明神 江戸時代には大宮と称して 上下小野の総鎮守であったとされ 村の古老の伝えでは 青野村の三島神の妹神であると云い 式内社「阿米都加多比咩命神社(あめつかたひめのみことの かみのやしろ)」に違いないとの説もあり 比定社とされています

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・姫宮神社〈姫宮大明神〉(南伊豆町一色)

一緒に読む
姫宮神社〈姫宮大明神〉(南伊豆町一色)

姫宮神社(ひめみやじんじゃ)は 3つの式内社〈 ①伊波比咩命神社 ➁阿米都加多比咩命神社 ➂多祁伊志豆伎命神社 〉の論社とされています 江戸時代の『豆州志稿』によれば 一色村の姫宮明神と称され 一棟三扉の祠で 中は姫宮 左は権現 右は御霊 廃絶して100年が経過しているが 天神社と云う旧祠があり 式内社であると記しています

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・三島神社(南伊豆町妻良)

一緒に読む
三島神社(南伊豆町妻良)

三島神社(みしまじんじゃ)は 2つの式内社〈 ①大津往命神社 ➁阿米都加多比咩命神社 〉の論社とされる古社と伝わります 祭神の大津往命(おほつのゆきのみこと)は 大津(港)を守護する姫神とも 三嶋神の御子神とも 大国主命の妻神とも伝わります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊豆急下田駅から R136号を西へ20km 車30程度
妻良の港からR136号を少し上がった辺り

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東南東に向いて 道路沿いに鳥居が建ちます 境内地は斜面なりに3段になっています 
三島神社(Mishima Shrine)に参着

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一礼をして 狛犬の構える鳥居をくぐります 鳥居の扁額には「三島宮」と掲げられています 

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境内の片隅に掲示板があり 北条水軍〈伊豆水軍〉について 記されています

北条水軍 妻良衆の力石(ちからいし)

重量280Kg

 戦国時代、伊豆を平定した北条早雲の傘下に入った妻良衆は村田一之助を頭領に仰ぎ、北条家中でも屈指の水軍であった。
 は、北条氏治世100年の中で伊豆衆と呼ばれ、その剛勇ぶりはつとに有名であった。
 その勇士達が、平素身体鍛錬のためにかつぎ、差し上げたのがこの石で、その名も力石(ちからいし)と名づけられ今日まで伝えられている。
 特に、北条氏と豊臣氏の戦雲急な頃、妻良一人 小関加兵衛は、伊豆沖にて敵の斥候一人を捕らえ、北条氏直から感状を贈られ、その武勇を賞賛されたのであるが、この人などは、この石をいとも軽々と差し上げたと伝えられている。
昭和605 妻良区長 清田兼雄

境内掲示板より

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拝殿にすすみます 

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拝殿の裏手から 上段へと通ずる階段があり ご本殿にお詣りができます

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本殿は 三殿の合祭のような造りで 又その彫刻は 実に見事です

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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階段をおり 境内を戻り 鳥居を抜けて振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

式内社大津往命神社の伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社「大津往命神社」として 手石村〈現 波布比咩命神社(下田市東本郷)〉をそれとして記しています

【意訳】

大津(オホツ)往命神社

姓氏 市往公
志  当郡 手石村に坐す 大津往は 古昔 この辺りの小地名なるべし 亦 王子ノ宮とも云う 三嶋の森と相対して 三嶋神の御子ならん

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

式内社「大津往命神社」として 手石村〈現 波布比咩命神社(下田市東本郷)〉をそれとして記しています

【意訳】

大津往命神社

大津往は 於保都由岐と訓ずべし
〇祭神 明らかなり
〇手石村に在す 今 王子宮と称す 志
伊豆志に 大津往は 古昔 この辺りの小地名なるへし 三嶋森と相対す 三嶋神の御子ならん と云えり

神位 国内神階 従4位上 おほつゆき姫の明神

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社「大津往命神社」として 手石村〈現 波布比咩命神社(下田市東本郷)とされているが納得しきれないので調べると
妻良村 三島神社二座の一座が そうであるに違いないと考えに至ったが 両社のどちらかとは決め難く 尚よく考えてほしい と記しています

【意訳】

大津往命(オホツノユキノミコトノ)神社

祭神
祭日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
式社攷證に 賀茂郡本郷村に波布比明神 有りて
豆志に 波布比賣命神社 濱士総鎮守なり 貞享元年(1684)の札に云 稲生澤郷 川津庄 本郷村 波富明神と比 式内にして大島波富池上に祀る波富大后と同神なり 云々とあるは もとよりなる波布比賣神と訛り来れるにて 決めて 大津往命なるべく聞こえたり
さるは この村に続きて 所謂(いわゆる)下田湊あるが 古昔は この本郷村境まで 入海にて 今 下田町と云うあたりは 皆 海中なりし と聞ゆれば 能大津の称に協ひ この所に大津と云う地名あるも旧称の遺存にて その大津に往通ふ所なるより 大津往(ユキ)と云う地名の起こり この所 鎮座の神なれば 彼 伊賀牟比賣命 笹原比賣命などの例と同じく 大津往比賣称へ奉りしと思われば也
然るを豆志に云う 大津往命神社 手名村 大津往は 古昔 この辺りの小地名なるべし 亦 王子ノ宮とも云う 三嶋の森と相対す 三嶋神の御子ならん とあれど思合する證も無耳ならず
この社もと竹麻神社の旧社地より遷し祀れる由なるが 竹麻神社三座坐すが 上に亦 大津往命神社並べて有るべくも非ず 亦 王子あれば男神なる事 論無きに 神階帳におほつゆき姫の明神と有るに協はざれば従いがたしとみえたるを

一説に 同郡 妻良村 三島神社二座の一座なるべし 既に先輩の考説もある如く 当社の旧祠なる事論なく
式社攷證には 阿米都加多比咩神社なるべしとえる如く由ある社なるが 加多比咩命は 同郡 下小野村允當と聞こえるに就て 考えるに 大津往の称に適へる該当地の形象なるは この姫神より外に 適当の神社なければ弥 疑いあるべからず
とありて何れ共決め難し 尚よく考えべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1

式内社 阿米都加多比咩神社伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

田方郡に類似の神社「阿米都瀬氣多知命神社」があると記しています

【意訳】

阿米都加多比咩(アメツカタヒメノ)神社

卯本旡此字
〇田方郡に 阿米都瀬氣多知命神社あり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

所在不明 国内神階に云う「あめつかた姫の明神」としています

【意訳】

阿米都加多比咩神社

阿米都加多比咩は 仮字なり
〇祭神 明らかなり
〇在所 詳らかならず

神位 国内神階云 あめつかた姫の明神

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』3 『神社覈録』4

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社「阿米都加多比咩神社」は 妻浦村 三島明神〈現 三島神社(南伊豆町妻良)〉であるとしていますが 一説には 下小野村 鎮座 大宮明神〈現 三島神社(南伊豆町下小野)〉もあると記しています

【意訳】

阿米都加多比咩(アメツカタヒメノミコトノ)神社

祭神
祭日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
式社考證に 妻浦村 三島明神なるべし 
正中2年の社記に 神代の昔 三島大神と姫命御船にて渡来たまい 当浦より上がりたまう とみえ 一座は姫神なるも所由あり 村名の妻浦も姫神鎮座の地なるより 比賣浦の略と聞こゆとみえ
又 一説に下小野村 鎮座 大宮明神ならむ
豆志に 下小野村門小野に在 今称す大宮上下小野川合野3村の総鎮守なり 村老相伝ふ この神は 青野村三島明神の妹なり 然らば2社ともに必ず式内なるべし云々と見え
古老の説に 門野明神と称たると伝え 今に社辺りを門野 或いは門小野と称しへるが 神名の加多に近く 大宮の称あるも因ありと云るによりて
足柄縣注進には 下小野村と定めたれど門野明神 又 門野などの称によりて 加多比賣に由ありと云る
は信じがたき心地せらるれば従わず

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』2 『特選神名牒』3

三島神社(Mishima Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

一緒に読む
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています