実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

目久美神社(米子市目久美町)

目組神社めぐみじんじゃ)は 久延毘古命(くえびこのみこと)」が御祭神です 『古事記』神代巻にこの 小名毘古那神(すくなひこなのかみのことを申し上げた 久延毘古(くえびこというのは  山田の曽富騰(そほど山田の案山子〉といいます この神は では歩あるきませんが 天下のことをすかり知ているです」と記されます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

目組神社(Megumi shrine)

 [通称名(Common name)]

目久美神社(Megumi shrine)

【鎮座地 (Location) 

鳥取県米子市目久美町152

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞鳴尊(すさのをのみこと)
   久延毘古命(くえびこのみこと)

〈明治元年合祀 摂社 天満宮〉
《合》菅原道真公(すがわらのみちざねこう)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・足の守護神・健脚祈願

【格  (Rules of dignity)

・古事記神話に登場する神社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

由緒

創立年月不詳、往古より妙剱大明神と称へ崇敬せしを、明治元年神社改正の際、目組神社と改称せらる合祭 天満宮は摂社なりしを此の時 合祀せらる
昭和644日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
『鳥取県神社誌』より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈社殿向かって右に祀られる境内社〉

船上神社
須賀神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

目久美遺跡(めぐみいせき)目久美神社(めぐみじんじゃ)について

目久美遺跡は 昭和8年発見された 縄文・弥生時代の複合遺跡で 足尾山(あしおさん)目久美神社の鎮座地の山裾一帯の水田の地下1~4mに埋蔵された 縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代前期(約2300年前)の村跡や水田跡です

まさしく 日本神話の時代に実際に栄えていた 水田の遺跡となります

この目久美遺跡の中心には 水田の見守り神〈山田の案山子(やまだのかかし)〉「久延毘古命(くえびこのみこと)」を祀る目久美神社が鎮座しています

御祭神 久延毘古命(くえびこのみこと)について

〈山田の案山子(やまだのかかし)〉「久延毘古命(くえびこのみこと)」は 『古事記』神話では  出雲の御大御埼(みほのみさき)〈美保岬〉寄り来る神小名毘古那神(すくなひこなのかみ)〉を知るものとして次のように記されます

この 小名毘古那神(すくなひこなのかみのことを申し上げた 久延毘古(くえびこ案山子というのは  山田の曽富騰(そほど山田の案山子〉といいます この神は では歩あるきませんが 天下のことをすかり知ているです

鎮座するのは 米子の足尾山(あしおさん) ここは美保岬からも近く これは事実に限りなく近い神話なのだろうとの想いを馳せます

現在 目組神社めぐみじんじゃ)では その御神威を・足の守護神「健脚祈願」の社とするのも 一本足の山田の案山子の健脚に由来するのだろうと想われます

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

目久美遺跡(めぐみいせき)について

目久美遺跡は 縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代後期(約1900年前)にいたる継続的な人々の営(いとな)みがうかがえる遺跡としては 山陰地方ではめずらしい存在とされます

水田跡は 小さな区画ですが畔や水路整備され現在の水田の姿とあまり変わりません」とあり 高度の稲作技術を持つ集団が永住していたことが伺えます〈天下のことをすかり知ている神 山田の曽富騰(そほど山田の案山子〉の一族だろうか?

この遺跡は その後
弥生時代の後期には、この大きな水路が一時に埋まる大洪水を受けて、目久美遺跡で弥生人の生活は途絶えてしまいます」とあります

市指定史跡 目久美遺跡(めぐみいせき)

目久美遺跡(めぐみいせき)は、昭和8年(1933)の加茂川放水路(現加茂川)を開削する際に地元の清水安蔵氏によって発見されました。
その後の次にわたる発掘調査によって、山陰でも代表的な低湿地の遺跡であることが分かりました。遺跡は、この指定地一帯の地下1~4mに埋れています。縄文時代(じゅうもんじだい)前期(約6000年前)から晩期(約2300年前)までの土器や石器などの遺物や貯蔵穴などの遺構も多く、さらに、弥生時代(やよいじだい)前期(約2300年前)から後記(約1900年前)にかけての水田跡や大規模な水路も発見されています。

 縄文時代の遺跡は、このあたりまで海が入り込んでいたことを示し、当時の海辺に住んだ人たちが使用した土器のほかに、斧(おの)ややじりなどの石器と食べ残しの鹿の骨ツルやコウノトリなどのの骨クジラの骨、タイやマグロなどの魚の骨が大量に出土しました。また、ドングリを貯(たくわ)えていた穴も見つかり、植物の採取と狩りや漁を行なっていた縄文人の暮らしぶりがわかりました。

 海が退(しりぞ)き、湿地がひろがった弥生時代には、山裾(やますそ)前に広がる水田跡が発見されています。水田跡は小さな区画ですが畔や水路整備され現在の水田の姿とあまり変わりません。
また水田にはたくさんの弥生人の足跡が残されていました。生活の土器、石器のほかに鍬(くわ)鋤(すき)、田下駄(たげた)などの農具出土し、当時の農耕文化を具体的に物語っています。
さらに幅約5m、深さ約3mもの大きな水路も確認されています。水路のそばからモミの木を用いて製作した盾(たて)が出土しています。
弥生時代の後期には、この大きな水路が一時に埋まる大洪水を受けて、目久美遺跡で弥生人の生活は途絶えてしまいます。その後、中世以降、また水田が開かれ、現在にいたっています。

 目久美遺跡は、縄文時代前期から弥生時代後期にいたる継続的な人々の営(いとな)みがうかがえる遺跡としては、山陰地方ではめずらしい存在で貴重です。
 平成20年(2008年3月)現在の市指定地は、この緑地約300㎡となっています。

米子市教育委員会

現地案内板より

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詳しく調べたい方は
(財)米子市教育文化事業団文化財調查報告書 25 『目久美遺跡V.VI』

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 米子駅の南東200m程の地点 目久美町 足尾山(あしおさん)に鎮座します
小高い丘が 足尾山

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目久美神社(米子市目久美町)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には「目久美神社」と刻字

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階段を上がると 玉垣に囲まれた境内となり 拝殿が建っています

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拝殿にすすみます 拝殿の扁額には「村社 目久美神社」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本殿の奥には 透かし塀に囲われて 本殿が鎮座します

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

小名毘古那神(すくなひこなのかみ)と久延毘古(くえびこ)の段

そこで 大国主神(おおくにぬしのかみ 出雲の御大御埼(みほのみさき)においでになつた時に 立つに 天羅摩船(あまのかがみのふね)〈ガガイモの船 or 蛇蛇の船〉に乗って (ひむし)の皮を剥いで作ったを着て 寄り来る神がいました

その名を聞きましたけれども答えません
また 者の神たちに お尋ねになられましたが 皆知りませんでした
ところが 多邇具久(たにぐくヒキガエルが言には「これは 久延毘古(くえびこ案山子がきと知つているでしよう」と申しました

その久延毘古(くえびこ案山子を呼んでお尋ねになると「これは神産巣日神かみむすひのかみ)の御子(みこ)小名毘古那神(すくなひこなのかみです」と申しました

 神産巣日神かみむすひのかみ)に申し上げたところ「正〈まさ〉に わたしの子だ 子どもの中でも わたしの手の股またからこぼれて落ちた御子だ あなたは 葦原色許男命(あしはらしこおのみことと兄弟となてこの國を作り堅めなさい」と仰せられました

それで それから 大穴牟遅(おほなむち)と小名毘古那(すくなひこな)の二柱の神は 並んでこのを作り堅めました

その その 小名毘古那神(すくなひこなのかみ 常世国(とこよのくに)へと渡られました

この 小名毘古那神(すくなひこなのかみのことを申し上げた 久延毘古(くえびこ案山子というのは  山田の曽富騰(そほど山田の案山子〉といいます この神は では歩あるきませんが 天下のことをすかり知ているです

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

村社 目組神社

米子市大字美吉字向山鎮座

祭神 素盞鳴尊、道真、久延毘古

由緒
創立年月不詳、往古より妙剱大明神と称へ崇敬せしを、明治元年神社改正の際、目組神社と改称せらる合祭 天満宮は摂社なりしを此の時 合祀せらる
昭和644日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

例祭日 十月十六日
建築物 本殿、拝殿、透塀、中門
境内坪数 二百八十七坪
氏子戸数 五十八戸

【原文参照】

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

目久美神社(米子市目久美町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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