満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
満宮神社(Mangu Shrine)
(まんぐうじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
静岡県田方郡函南町塚本413
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉田別命(Homutawakenomikoto)
《配》王子大神(Oji no okami)〈不詳「ひた王子」か?〉
少名彦命(Sukunahikona no mikoto)
大山祇命(Oyamatsumi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
【由 緒 (history)】
不詳
一.神社名 満宮神社
一.鎮座地 田方郡函南町塚本413
一.御祭神 誉田別尊
一.例祭日 10月15日一.由緒
創建年月日不詳、古来満宮神社と称す。
明治3年より八幡神社と改むも 同18年10月復 満宮神社と称す。明治初年頃の神苑は 老松が何本も生え、神社は茅葺でした。老松は落雷、松くい虫で枯れ、昭和51年南西の一本が最後に枯れた。
大正10年氏子の寄付により社殿が瓦葺きに改築され 昭和48年には屋根瓦の葺き替え工事を致し、是も氏子が瓦数枚ずつを寄付修復 現在に至って居ります。又、宵祭は毎年当番町で盛大に行われています。境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・王子之森稲荷神社(Oji no mori inari Shrine)
・森山稲荷神社(Moriyama inari Shrine)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
2つの式内社の論社となっています
①
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社[旧 神社名 ] 文梨神社
[ふ り が な ](ふむなしの かみのやしろ)
[How to read ](Fumunashi no kamino yashiro)
➁
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社[旧 神社名 ] 廣瀬神社
[ふ り が な ](ひろせの かみのやしろ)
[How to read ](Hirose no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載社の論社について
伊豆国(izu no kuni) 田方郡(tagata no kori)文梨神社(Fumunashi no kamino yashiro)の論社
・左内神社(三島市)
左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は手無という地名です 『延喜式神名帳』の論社とされいて 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも云われます 更に通称名として「天地(ame tsuchi)宮」とも呼ばれていて「式内社・阿米都知(ame tsuchi)命神社」の論社とも云われています
左内神社(三島市中島)
・満宮神社(函南町)
満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
満宮神社(田方郡函南町)
・神明神社(西浦江梨)
神明神社は 『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉には 神社名を「文梨神社(Fumunashi no kamino yashiro)」「八幡(ハチマン)神明(シンメイ)あわせ祀る」と記されています
神明神社(沼津市西浦江梨)
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載の゛廣瀬神社゛について
社号の゛廣瀬(ひろせ)゛は「川の合流点で 瀬の広き所」の意とのこと
式内社に゛廣瀬神社(ひろせのかみのやしろ)゛を号する社は 三ヶ所あります
①大和國廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大
②伊豆國田方郡 廣瀬神社
③武蔵國入間郡 廣瀬神社
中でも 廣瀬神社(狭山市広瀬)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大 月次 新嘗)(ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)の論社
・廣瀬大社(河合町川合)
廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉
②伊豆國 田方郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(伊豆の国市)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります
廣瀬神社(伊豆の国市)
・廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
廣瀬神社(楽寿園内)(ひろせじんじゃ)(らくじゅえんない)は 三嶋大社が 現在地(三島にあったとされる伊豆国の国府の傍)に遷座した時に 伊豆国府から国守が 廣瀨瀬神社を遥拝するために設けた遥拝所との説もあります 三嶋大社の元摂社で「伊豆国四之宮」とされています 一時は 隣接地の浅間神社(伊豆国二之宮)境内に遷座しましたが 昭和27年(1952)に楽寿園が公営公園となった際に園内に再建されました
廣瀬神社(伊豆国四之宮)〈楽寿園 内〉
・満宮神社(函南町)
満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
満宮神社(田方郡函南町)
③武蔵國 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)の論社
・廣瀬神社(狭山市広瀬)
広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 社記によると景行天皇の御代 日本武尊東征の折 当地を流れる入間川が大和国 広瀬河合の地によく似ていることから大和國 廣瀬坐和加宇加乃賣命神社より 若宇迦能賣命を移し祀ったと伝えています 『文徳実録』嘉祥3年(850)6月条に官社に列したと記される 延喜式(927年12月編纂)所載 武蔵国 入間郡 廣瀬神社(ひろせの かみのやしろ)です
廣瀬神社(狭山市広瀬)
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊豆箱根鉄道 駿豆線 伊豆仁田駅から県道138号を西へ1.1km 徒歩15分程度
鎮座地は 現在の河川の流れでは 狩野川と大場川の合流点 狩野川と柿沢川の合流点に挟まれるように 海抜36mの森山に鎮座しています
度重なる河川の氾濫時にも 鎮守の杜は 洪水からも守られてきたとわかります
グーグルアース参照
路面に大木が並びます
満宮神社(Mangu Shrine)に参着
社号標には「塚本鎮座 滿宮神社」
鳥居の扁額には「満宮神社」とあり 一礼をして くぐり境内に進みます
境内の右手には境内社 お詣りをします
王子之森稲荷神社(Oji no mori inari Shrine)
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の右手前には 4扉の境内社
本殿の裏手の森山には森山稲荷神社(Moriyama inari Shrine)が鎮座します
お詣りをします
境内の案内によれば「明治初年頃の神苑は 老松が何本も生え」とあります 今でも古木が残る境内をあとにします
鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
当社の鎮座する森山は「田方の杜(tagata no mori)」と称されたとする伝承
第84代 順徳天皇〈鎌倉時代〉の著した歌論書『八雲御抄(yakumo misho)』には
「夕されは 千町の稲穂うちなびき 田方の杜に 秋風ぞ吹く」
と詠われていて 当神社の鎮座する この森山であるとされています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『八雲御抄』著者:順徳天皇 [旧蔵者]紅葉山文庫 ,写本 ,江戸初
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045160&ID=M2014052322083260914&TYPE=&NO=画像利用
かつて森山は「王子の杜(Oji no mori)」と呼ばれていたと伝わります
今でも その名残を留めるように
境内には「王子之森 稲荷神社(Oji no mori inari Shrine)」が祀られています
本殿の裏手の森山には森山稲荷神社(Moriyama inari Shrine)が鎮座しています
となると 本殿に祀られている不詳の神「王子大神(Oji no okami)」がますます気になります
仮に この神が「肥田王子(ひた王子)」であったと仮定すると
伊豆の守護神「三島大明神(Mishima daimyojin)」と本后「阿波命(Awa no mikoto)」の御子神となります
「田方の杜(tagata no mori)」とは 「伊豆国(Izu no kuni)田方郡(Tagata no kori)」にある鎮守の杜を指す言葉ですから
鎌倉時代には 田方郡でも重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます
これが 八幡信仰が高まった鎌倉時代であったので 八幡神を祀っていたからなのか それ以前からの伊豆の三島信仰に根源とするものなのか 興味あるところです
満宮神社(Mangu Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について