実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

豆塚神社(伊豆の国市北江間)

豆塚神社(まめづかじんじゃ)は かつて石徳高命が降られたという雄徳山式内社「石徳高神社」が祀られていました その後 狩野川が流路を西に変え 郷(依馬郷)が 江間と北條に二分されたので 鎮守二社(当社と守山八幡宮分祀されたものと伝わります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

豆塚神社(Mamezuka Shrine)
まめづかじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

静岡県伊豆の国市北江間3

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》石徳高命Ihatokunotaka no mikoto

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳だが 昔は雄徳山の嶺に鎮座

【由  (History)】

豆塚(まめづか)神社
(郷社)

鎮座地 伊豆長岡町北江間小字町屋

御祭神 石徳高命(いわとこたけのみこと)

例祭日 四月三日

由 緒
創建の年代は詳でないが明細帳に依れば大明神と書いた古額あり、
又 文明四年(1472)と記した神器あり。昔は雄徳山大男山に鎮座せしを幾度か遷祀し江間小四郎平義時は崇敬厚く 現地 豆塚に遷し大明神と稱せり。
明治六年九月 郷社に定められ大祭には 県よりの奉幣便により神事を行う。
往時は 江間郷北條郷は一郷にて 狩野川の流れが中間を流れる様になり、總鎮守を江間郷に 北條郷は守山の地に遷し祀った。

境内案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

・石祠あり

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 石徳神社
[ふ り が な ]いはとくのたか かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ihatokuno taka no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
式内社「石徳神社いはとくのたか かみのやしろ)」の論社

・守山八幡宮(伊豆の国市寺家)

一緒に読む
守山八幡宮(伊豆の国市寺家)

守山八幡宮(もりやまはちまんぐう)は 1180年(治承4年)源頼朝公が 源氏再興を祈願して挙兵した時に本陣を張った北條郷の地で 辺りには北条氏の屋敷があり 源頼朝公は 襲い討った山木判官平兼隆の屋敷から火の手が上がるのをこの辺りから見たとされます

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・豆塚神社(伊豆の国市北江間)

一緒に読む
豆塚神社(伊豆の国市北江間)

豆塚神社(まめづかじんじゃ)は かつて石徳高命が降られたという雄徳山に式内社「石徳高神社」が祀られていました その後 狩野川が流路を西に変え 郷(依馬郷)が 江間と北條に二分されたので 鎮守も二社(当社と守山八幡宮)に分祀されたものと伝わります

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・多賀神社(三島市谷田)

一緒に読む
多賀神社(三島市谷田)

多賀神社(たがじんじゃ)は もと三嶋大社 摂社の一つで 田川神社とも田河とも称された 2つの式内社「① 石徳髙神社(いはとくのたかの かみのやしろ)➁ 劔刀乎夜尓命神社(けむとをやにのみことの かみのやしろ)」の論社です

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・岩徳高神社(伊豆市徳永)

一緒に読む
岩徳高神社(伊豆市徳永)

岩徳高神社(いわとくたかじんじゃ)は 境内に昭和50年頃まで樹齢約500年の年輪を数えたスギの大木があったという 昔から八軒の世襲の鍵取が決まっていて 当番の鍵取はその年一年は 毎月1日15日に献饌などの奉仕をし 氏子は蒜(ヒル)を栽培すると災いがおきるとの禁忌があり 今もその伝えは守られている

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊豆箱根鉄道駿豆線 韮山駅から西へ狩野川を越えて約1.7km 車5分程度
県道134号を進むと県道129号との交差点東を向いて鎮座しています

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玉垣が廻された社頭には 社号標「延喜式内 郷社 石徳高神社」とあります
豆塚神社(Mamezuka Shrine)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります 鳥居扁額には「豆塚神社」とあります

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拝殿にすすみます 

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拝殿の扁額は「大明神」

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内から鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承

江間村に鎮座していると 記しています

【意訳】

豆塚明神  北江間村

丸山に座す 頗る大祠なり 豆塚は 今の祠地 昔 畠なりし時の名なり
額に大明神と署するこの州人 単に大明神と称するは 多くは大山祇命等 貴き神なり
金鼓に云 文明4年
〇稲荷〇第六天二〇山ノ神

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『豆州志稿』選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=

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『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

雄徳山の山嶺に御寶殿と称する巌石があって 山麓に式内社 石徳高神社が祀られていたが 狩野川の流れが変わり 江間と北條の2つの郷に分かれてしまった 江間が当社 豆塚神社であり 北條が守山八幡宮として祀られていると 記しています 

【意訳】

静岡縣 伊豆田方郡 江間村 大字江間町屋

郷社 豆塚(マメヅカ)神社

祭神 石徳高(イハトコノ)

豆州志稿 当社を以って 式内社 石徳高神社なりとして云く
「往昔 西江間村 雄徳山に鎮座せりと云 雄徳は石徳の伝訛ならむ 山嶺に御寶殿と称する巌石あり 神の鎮座の域と伝う 山麗に神戸 神田 神伝田 忌馬場 鳥居前 鳥居内等の呼称存す」

初めは 雄徳山に鎮座あらせられ 江間の郷の総鎮守たりしが 後ち分祀して二社とす 一社は当社 他は寺家村八幡神社となりしと 蓋二社に分祀せるは 江間 北條の地 往古は一郷にして 共に和名抄 所載の依馬郷内たりしが 狩野川 その中間を流るるに及びて 自ら分かれたるなり 依りて総鎮守たりし 雄徳山鎮座の石徳高神社を 江間にてはチム郷に奉遷し 北條にては寺家村に奉遷せるなりと
近世 二三の異説なきにしもあらずといえども その説最も有力なるが如し 国中有数の大祠にして 大明神と記せし古額を有し 文明4年の銘ある金鼓を蔵せり 明治6年9月 郷社に列せられる

社殿は 本殿 拝殿 その他 應屋等を具備し 境内300坪あり 因みに云う 社名 豆塚は地名に依りしものなり

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

式内社「石徳神社いはとくのたか かみのやしろ)」の伝承

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

石徳高(イハトコ)神社として 記されています

【意訳】

石徳高(イハトコ)神社

〇按 徳高言 泉觱佛 今 熱海温泉 艮隅 湯前権現 これ乎 釈書垣舜博曰 舜甚宴浪遊豆州説法 温泉神祠云々 下に劔刀石床別命神社あり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

石徳髙は 伊波登古(いはとこ)訓じると記しています

【意訳】

石徳神社

石徳髙は 伊波登古と訓ずべし
〇祭神 詳らかならず
〇徳永村に在す 今 那賀郡に属す 
考証に 徳高言 泉觱佛 今 熱海温泉 艮隅 湯前権現 これ乎と云う
〇元享釈書云 垣舜博 舜甚宴浪遊豆州説法 温泉神祠

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

雄徳山の山頂に祀られていた神であったが 諸説ある中でも その後 村里の区分の時に豆塚に遷した〈現 豆塚神社(伊豆の国市北江間)〉と寺家村の守山に遷した〈現 守山八幡宮(伊豆の国市寺家)〉の2所が 後継であろうと記しています

【意訳】

石徳(いはとくのたかの)神社

祭神
祭日
社格
所在
今按〈今考えるに〉
足柄縣 注進状に 石徳神社は 君澤江間村 雄徳山神社なるべし それは石徳は石床の意高は タケと訓て嵩の意と聞こえるを この山の岩壁よく石床の称にかない 山頂の旧祠の址に 宝殿平前殿殿平神楽など云称の遺るのみに非ず 山名の雄徳は石徳の訛転と聞こえるなど 証とすべし 

斯のて後に 社を西麓 チム野に遷し 亦 丸山に豆塚に移せり豆志に記せる如く 寺家村八幡も この雄徳山より遷してもと 此山上に石特高神社の鎮座地なりし確証と云いしも 強言に非じさるは この江間郷北條郷はもと一郷なるを 村里の区分せるより 総鎮守とある雄徳山の神を江間の郷にては チン野に遷し 北條の郷にては 寺家村の守山に遷したるより 山上の本社遂に廃絶に及び 雄徳山の称号のみ遺れる事となりしなり この他 諸説あれど この2所にて定ぬるべき事なるべし                                                                  

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承

地理の変更によって 二社に分祀されている
一社は〈現 豆塚神社(伊豆の国市北江間)
一社は〈現 守山八幡宮(伊豆の国市寺家)〉であると記しています

【意訳】

石徳(いはとこたけの)神社 

今は 分祀して二社となり

その一は 君澤郡江間(えま)村鎮座の いのい明神 神階帳 今称する豆塚神社 考証注進特選

その二は 田方郡寺家村 八幡神社 社伝豆志考證の一説續攷 なりにて 

蓋地理の変更に因りて分祀せる例 少なからず等しく この同神なり 何ぞ囂(かまびす)しく その本末を諍う事を為べき

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『伊豆国式社攷略』萩原正平 著 出版年月日 明15.6  編 出版者 栄樹堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815090 『伊豆国式社攷略』1 『伊豆国式社攷略』2

豆塚神社(Mamezuka Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

一緒に読む
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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