久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けた旧蹟の地と云い 功績のあった副将軍の吉備武彦命が 後に廬原の国を賜った時に この地に尊を祀り社殿を造営 創祀した 又 日本武尊の東征に随伴の九万八千の諸神を祭祀奉る所として゛九萬八千社゛とも云い 古くは九万八千の幣帛を奉り 昭和までは九十八本の幣帛を奉っていたと社傳に云う
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久佐奈岐神社(Kusanagi shrine)
【通称名(Common name)】
江戸時代までは 草薙神社(静岡市清水区草薙)と区別して・東久佐奈岐神社と称した
【鎮座地 (Location) 】
静岡県静岡市清水区山切101
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
《配》弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)
吉備武彦命(きびたけひこのみこと)
大伴武日連命(おほともたけひのむらじ)
膳夫七掬脛命(かしわでななつかはぎのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内 久佐奈岐神社
鎮座地 清水市山切字宮平一〇一番地
御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
合祀 弟橘媛(おとたちばなひめ)命
吉備武彦(きびたけひこ)命
大伴武日連(おおともたけひのむらじ)命
膳夫七掬胸脛(かしわでななつかはぎ)命由緒
庵原川流域は古代には廬原(いほはら)の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により 皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が 後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し 日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
文献上の記録では風土記に第十三代雅足彦(成務天皇)の元年(西暦一三三年、約一八六一年前)に官幣を奉るとあり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦八五九年、一一三五年前)久佐奈岐神社従二位を授くとある。
延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記載されており、式内社であります。昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、或いは東久佐奈岐大明神等と称えられたこともありましたが、明治六年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
御神体
本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜った貴重なもので開披してはならないとの言伝があります。境内社
稲荷社 宇迦之御魂命
白髭社 武内宿弥
天満宮 菅原道真
雨之宮 天之水分神 国之水分神
津島社 須佐之男命 稲田比女命
金刀比羅社 金山彦命 大国主命
今宮社 素嗚命 稲田比女命
九万八千霊社 東征軍の御供の諸神
事比羅社 金山彦命 大物主命 少彦名命
雨之宮社 志那都比古命 志那都比賣命平成六年十一月吉日
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
『駿河志料』第4編〈昭和5年(1930)〉に記される内容
【抜粋意訳】
駿河志料 巻之四十八 廬原郡 八 草ヶ谷
【久佐奈岐神社】
東草薙社、又九萬八千社とも云、除地二石五斗ニ升
祭神 日本武尊、祠官、朝比奈舎人
御供神 吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬脛、弟橘媛命
當社は、景行天皇の大御世、此地に鎮座ましまし、延喜式神名帳 所載二十二社のーなり、社傳に日本武尊及御供に侍し、諸神等を祭祀奉る所なれば、九万八千社と云、九月廿九 Hの祭に、古へは九万八千の幣帛を奉りしとて、今に九十八本の幣帛を奉るとぞ
書紀云 第七 景行御巻
天皇則命 吉備武彦與大伴武日連、令從日本武尊、亦以七掬脛、爲膳夫、云々、有從王之妾弟橘媛、穂植氏忍山宿禰之女也、と見ゆ、皇子命に從ひ奉りし人々、此四柱の外は御名も傳はらねど、多かりし故に九萬八千とは統て移けるならん風土記云、稚足彦 御謚 景行 天皇元年辛未、始祭之、
又國造本紀云、志賀高穴穂朝代 景行天皇 吉備彦命、兒意加部彦命、定賜國造、とあれば、此御代に國造に定め賜ひしに依て、此神社を祭られ、御供に從ひ奉りし神等をも、配祭せられしならん、但此地は東征の御時、行宮作らせ賜ひし奮蹟なるべし、
堯孝富士紀行 永亨四年 云、たかはし、なはてなとすぎて、廣き野山、こゝや彼 草薙の神劔、霊瑞をあらはし侍しあたりならむ、いとかしこくぞおぼえ侍る、此所に草薙の御社、九萬八千の御社などゝ申て むかし神々、進発の御陣のあとに、社あまたおはしますと、云々、など記したれば、當時も皇子命の行宮の跡なりしと云ふ、古傅説の有けんからに、九萬八千の御社とも、御進発の御陣の跡とも云へるならん
高平云、此郷を廬原と稱するは、既に云へる如く、日本武尊 行宮(イホリ)し給へるに因て、稱しけるならん、古は行宮をもイホリと云へり、萬葉集に、長皇子の御歌に、廬爲(イホリセリ)、計武中皇女命の御歌に借廬作良須(カノホヲクラス)、又 雷丘行宮爲鴨(イカツチノヲカニイホリセルカモ)など、例多かり
[神 像]
四軀(古作、殊勝云んかたなし、御長ー尺六七寸許、各ー木を以て刻む、立像なり)
神殿の内、正座の左右二軀づゝ四座あり、從ひ奉りし四柱なり、
三軀は男躰(吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬脛)淨衣袴(衣文し朽て、さだかならず)
烏帽子(形は前平らかに後高し)
一軀(弟橘媛命)女躰なり、長き衣を着し、髪を垂たる御像なり(髮は束ねず後に垂る)
衣冠著用神像二軀(長一尺許、後の物なり座像彩色少し残れり)
木鉾(堅木を以て劍柄と共に作れり、古作なり)
随神二軀(立像、朽ちて形樣さだかならず古作なり、神殿の左右にあり)神階
駿河國諸郡神階帳に、廬原郡草奈岐明神正四位下、又 異本類聚國史に、清和天皇貞観元年己卯正月廿六日、駿河國伊穂原郡久佐奈岐神社授從二位[攝 社]
祈雨社(同社内にあり、延喜式に所載の八十五座の神を祭ると云)
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・境内社
〈境内の西側 覆屋内に9社〉の右隣に祠一宇〈金刀比羅社〉
※覆屋は 中央と左右の三つ 右隣に祠一宇〈金刀比羅社〉
中央の覆屋に4社〈今宮社・白髭社・金毘羅社・稲荷社〉
向かって右の覆屋3社〈雨之宮社・津島社・事比羅社雨之宮社〉
向かって左の覆屋2社〈天満宮・九萬八千霊社〉
・境内の二の鳥居
・社頭の一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)廬原郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久佐奈岐神社
[ふ り が な ](くさなきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kusanaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)の類社について
伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)
・草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)は 豊受⼤神宮(外宮)の第一摂社であり その祭神は・神名祕書に草薙劔・類聚神祇本源所引の社記に標劔杖(ミシルシノツルギ)とあります 中世に頽廃しましたが 正保二年(1645)に現在地に再興されています 延喜式内社 伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)です
草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
駿河國 有度郡 草薙神社(くさなきの かみのやしろ)
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
・草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
草薙神社(静岡市清水区草薙)
駿河國 蘆原郡 久佐奈岐神社(くさなきの かみのやしろ)
・久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けた旧蹟の地と云い 功績のあった副将軍の吉備武彦命が 後に廬原の国を賜った時に この地に尊を祀り社殿を造営 創祀した 又 日本武尊の東征に随伴の九万八千の諸神を祭祀奉る所として゛九萬八千社゛とも云い 古くは九万八千の幣帛を奉り 昭和までは九十八本の幣帛を奉っていたと社傳に云う
久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
静岡市清水区の山切川沿いの 山の手の住宅街にあります
東名高速と第二東名高速を繋いでいる゛新東名高速 清水連絡路゛にある清水いはらIC゛から山切川沿いに南下して約3km 車5~10分程度
鳥居の扁額には゛東久佐奈岐神社゛とあり かつて江戸時代までは有度の草薙神社と区別して・東久佐奈岐神社と称した名残でしょうか
久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)に参着
一礼をして一の鳥居をくぐり 参道を進みます
二の鳥居の扁額も゛東久佐奈岐神社゛とあります
境内の向かって左手には 覆い屋の中に境内社が祀られています
拝殿にすすみます
拝殿は舞殿を兼ねているのだろうか 壁はなく 舞台のようにもなっています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 石段があり 本殿へと続いています
本殿は 石段の上 一段高い壇に祀られています
本殿の石段下から振り返ると 拝殿を通して 二の鳥居から参道が通じています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 久佐奈岐神社について 所在は 草谷村に在す〈現 久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)〉と記しています
【抜粋意訳】
久佐奈岐神社
久佐奈岐は假字也
○祭神 日本武尊歟
〇草谷村に在す、参考 例祭、月日、
○惣國風土記五十四残欠云、薦河伊穂原郡草奈岐神社、稚足彦天皇元年辛未□月始祭之、奉に官幣
○当國有度郡 草薙神社あり、類社
伊勢国 度曾郡 草名伎神社の條見合すべし神位
国内神名帳云、正四位下 草奈岐明神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 久佐奈岐神社について 所在は 草萱村にあり〈現 久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)〉と記し
神像四軀について゛正殿の左右に二座つつ並坐り゛三柱は男体・一座は女体であり 大変に古いものであると記しています
【抜粋意訳】
久佐奈岐(クサナキノ)神社
今 草萱村にあり、巡拝舊祠記、駿河新風土記、
蓋 日本武尊を祭る、参酌日本書紀、延喜式、
〇今按 本社に神像四軀ありて、正殿の左右に二座つつ並坐り、三柱は男体にて、吉備武彦命、大伴武日連、七掬脛、一座は女体にて、弟橘媛に坐す、いといと古きものなりといへり、凡 正月五日 九月廿九日祭を行ふ、駿河式社略記
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 久佐奈岐神社について 所在は 草谷村 山切村 字宮平〈現 久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)〉と記しています
【抜粋意訳】
久佐奈岐(クサナギノ)神社
祭神 日本武尊
祭日 九月二十九日
社格 郷社
所在 草谷村 山切村 字宮平
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇靜岡縣 駿河國 庵原郡庵原村大字山切字宮平
郷社 久佐奈岐(クサナギノ)神社
祭神 日本武(ヤマトタケルノ)尊 或云 九万八干神
相殿 弟橘媛命 吉備武彦命 大伴武日連命
膳夫七掬脛命別殿 雨之宮 祭神 天之水分神 國之水分神 志那都比古命 志那都比賣命
舊と東久佐奈岐社とも稱す、創立年代詳ならずといへども、延喜の制小社に列せられたり、
森宗芳云く、「今奉稱に九萬八千神、尊東征時、供奉神奉斎社也、昔時、九月二十九日、供九萬八千本之和幣祭之、今略奉に九十八本之和幣、
社傳云、当社者、吉備武彦命勤請之由、惟、九萬八千之供奉神者、後配祀之者歟、云々」
と、舊除地高二石五斗二升あり、明治六年三月郷社に列す。社殿は本殿雨覆、拝殿等を具有し、境内は七百四十四坪 (官有地第一種 )あり。
境内神社
津島神社 天満宮 白髭神社 稻荷神社 事比羅神社
【原文参照】
久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
駿河国 式内社 22座(大1座・小21座)について に戻る
駿河国(するかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 駿河国には 22座(大1座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
駿河國 式内社 22座(大1座・小21座)について