草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
草薙神社(Kusanagi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県静岡市清水区草薙349
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社は 式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されている。
御祭神は 景行天皇第二子皇子 日本武尊を御祀り申し上げて鎮座しております。
国史社伝によれば、尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。
その後景行天皇が日本尊命の勲功の地を尋ねようと、53年8月(西暦123年)に天皇は郡郷に詔して曰く「冀(こいねが)わくば、日本尊命の征定された国郡を巡視する。」そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向かはれ9月20日に当地に御着になり尊の奮斗の後を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。
景行天皇53年9月20日(昭和60年より1863年前)依って当月当日(9月20日を以て例祭日と定めて今日に及んでおります。
その後草薙の剣は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀しされました。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
式内延喜式 草薙神社 由緒
一、御祭神 日本武尊
一、御創建 景行天皇五十三年
一、例祭日 九月二十日景行天皇第二皇子の日本武尊が 東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国(あずまのくに)に行く途中、この地で逆賊が起り 尊を殺そうとして原野に火を放った。
尊は佩用(はんよう)の剣を抜いて
「遠かたや、しけきかもと、もやい鎌の」と鎌で打ち払うように唱え 剣を振り草を薙ぎ払ひ 火を逆賊の方へなびかせ 尊は無事に難を逃れた地を草薙という。その後佩用されていた天叢雲の剣(あまのむらくものつるぎ)を草薙の剣と名稱を変更になり 草薙神社に神剣として奉(たてまつ)られる。
今より一八六〇余年前である。
社頭の案内板より
沿革
当社は何時頃の草創か、之に関する文献はないが類聚国史清和天皇貞観元年正月二十六日に駿河国有渡郡草薙神社に従二位を授けられ、正拾四町の位田を下賜されました。
又歴代東夷御討征の折は必ず奉幣され尊の御冥護を祈られました。
この外、朱雀天皇天慶年中には、藤原秀郷が平将門御征伐の為の奉賛がありました。
その後今川、豊臣、徳川の諸公には社領を奉納され、尚今川範国公には建武年中に御社殿を再建されました近くは天正十七年徳川家康公の御社殿造営、統いて江戸時代文化七年に修理等が 行なはれ、明治元年十月勅使植松少将、神祇官帯同にて御官幣を奉納されました如く、昔より皇室を始め武将名士の崇敬が 厚く御 神 徳の高かったことを知ることが出来ます。
明治六年三月に郷社に同十二年七月に県社に昇格され明治、大正、昭和と尊の御神徳をしたって御国の為に数多くの崇敬者が神前にぬかずき武運長久を祈念した。
昭和三十五年十月に六級社に昭和四十二年四月、五級社に、昭和五十六年七月に四級社になり現在に至っております。境内の大楠は天然記念物に指定され、高さ六米、周囲二十五米、 但し樹心は朽ち、わずかに外皮を残すのみと雖も尚、枝葉は繁り境内の老杉桧と共に人心を静め四季爽快である。例祭日には氏子一同各部落より奉賛し、保存団体草薙神社龍勢 (流星)保存会による名物龍勢 (流星)煙火の打上げを奉納し初秋の夜空を空高く吊星の極彩色で彩りその技を競ふことを例とします。
神社パンフレットより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・社殿〈拝殿・幣殿・本殿〉
・拝殿
・社殿向かって右側〈北側〉に9社の境内社の覆屋
向かって右から順に
1.天皇社《主》景行天皇
〈8社合殿〉
向かって右から順に
2.天神社
3.荒神社
4.稲荷社
5.厳島社
6.白髭社
7.愛宕社
8.春日社
9.住吉社
・社殿向かって左側〈南側〉に7社の境内社の覆屋
向かって右から順に
〈6社合殿〉と〈1社〉
1.内宮2.賀茂社
3.天皇社4.子安社5.八幡社6.山神社
・浅間社
・舞殿
・龍勢(流星)煙火
無形民俗文化財 龍勢(流星)煙火について
無形民俗文化財
文化財保護法により昭和五十九年三月十六日付
静岡県選択 無形民俗文化財
保持団体 草薙神社龍勢保存会龍勢(流星)煙火の由来
戦国時代の天文十二年(西歴1543年)初めて火縄銃と黒色火薬が伝来したのち、城攻め用の「火矢」から転じて「のろし」が考案された。「昼のろし」(龍勢)は煙や布きれ又は旗などを漂よわせて「夜のろし」(流星)は、光で合図しあうものであった。駿府城と久能東照宮の守りとして、この技法が当地に口秘伝のまま受け継がれきて、更に工夫改良され、安政年間からは日本武尊を祭神とする草薙神社の秋季例大祭日(九月二十日)に打ち上げが行なわれ現代につたわつています。
龍勢(流星)煙火の仕組み
この龍勢(流星)は「のろし」に始まったと言われます。約十五メートルもある尾竹竿に、ロケット式火薬噴射竹筒を結びつけ、その上端部に各種の変化花火を仕込んである仕掛筒を固着した構造です。
発射ヤグラに掛けロケット式火薬噴射竹筒に点火、火薬の燃焼ガスの大音響とともに、自力により上昇展開する仕組みになつている。龍勢花火の制作・打上げは保存会員より実行される。
昭和六十年二月草薙神社龍勢保存会
有度まちづくり推進委員会
・昔の花火の打揚げ筒(木砲)
・社務所
・神門
・手水舎
・御神木
御神木
樹名 大楠
樹齢 一、〇〇〇余年
樹高 十五米余
周囲 二十米余この大楠は樹心は朽ちて外皮を残すのみと雖も
今尚枝葉は繁茂し御神木の威厳を保っている。昭和三十七年九月十七日清水市指定文化財の天然記念物に指定された。
立札より
・日本武尊像
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される 草那芸剣(クサナギノツルギ)の伝承
東征に向かう 倭建命(ヤマトタケルノミコト)が 伊勢神宮に立ち寄り 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から 火打石と草那芸剣(クサナギノツルギ)を給わります その後 国造に騙されて野に入ると 野火をつけられて火に囲まれてしまった その時 劔で草を薙ぎ祓い 火打石で迎え火を起こし 野焼きの火から守られたこと が記されています
この故事から 剣は 草那芸剣(クサナギノツルギ)と呼ばれています
草薙神社の古宮が この野であると伝わります
【抜粋意訳】
ここに景行天皇は 倭建命(ヤマトタケルノミコト)に詔り
東国の十二道の荒ぶる神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになられた
吉備臣(きびのおみ)等の祖先の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副えてお遣わしになられ 比比羅木之八尋矛〈ヒイラギの木の八尋矛(ヤヒロホコ)〉を賜わりまし
よって命を受けられた時 伊勢神宮に參拜し神の朝廷を拝み その處においでになる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に申された「天皇はわたくしに死ねと思つていやるのでしようか どうして悪しき人等を撃ち還つてまいりましたのに まだ間も無いのに 軍衆(イクサビトラ)も下さらない 更に東の方十二道の悪しき人等を征伐せよとお遣わしになる これを思えば やはりわたくしに死ねと思つておいでになる」と申して憂く思つて泣いておられる時に 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)は 草那芸剣(クサナギノツルギ)をお授け また御嚢(ミフクロ)をお授けになられ「もし急の事があつたなら この嚢の口をおあけなさい」と仰せられた
かくて尾張の國に到り 尾張國造の祖 美夜受比売(ミヤズヒメ)の家へ入った すぐに結婚されようとお思いましたが また還つて來た時にしようとお思い 約束をされて東の國においでになられた 山河の荒ぶる神たち また從わない人たちを平定された
ここに 相武國(サガムノクニ)に到り その國造(クニノミヤツコ)が詐(いつわつて)言うには「この野の中に大沼があります その沼に住んでいる神は とても乱暴な神です」と言った
それで その神を見るために その野に入られた
すると國造が野に火をつけました 欺かれたと知られて 叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に給わった御嚢(ミフクロ)の口を解いてあけて見ると その中に火打(ヒウチ)がありました そこで御刀〈草那芸剣(クサナギノツルギ)〉で草を苅り撥(はらい) 火打で火をつけ 向火(ムカイビ)で 燒き火を退けられた
還つておいでになる時 國造(クニノミヤツコ)どもを皆切り滅し 火をつけて焼きはらった そこで今でも燒津(ヤイズ)と云う
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河國 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)有度郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 草薙神社
[ふ り が な ](くさなきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kusanaki no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
有度地域に伝わるヤマトタケル伝説
地域内には20余の伝説が伝えられている。他地域に比較して極めて多く存在し、かつ、草薙地内に集中している。
発祥の時期は不詳であるが、草薙神社の信仰が広まるとともに創作されたものと推察される。有度ふるさと研究会 有度まちづくり推進委員会
境内案内板より
伝説の内容と発祥地
①御犬ヶ森 字御犬ヶ谷
尊が狩りの時、犬を放った場所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
〈境内の弓道場辺り〉
②手水ヶ谷 字手水ヶ谷970
尊が狩りで汗をかいた折り、ここの清水で手を洗われた所という。
③鞍下ヶ谷(鞍卸ヶ谷) 字鐙ヶ谷986
尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
〈この辺りか?〉
④御座の松
尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山祇尊を祀る。
〈この辺りか?〉
⑤柳ヶ沢
尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
〈この辺りか?〉
⑥首塚稲荷 字東山1124
尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(宇迦之魂)を勧請した。昔はこの地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
〈この辺りか?〉
⑦東護の森(社) 字東護1154
尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。景行天皇40年の創建と伝えられる。
〈この辺りか?〉
⑧駒ヶ原 大字馬走字駒ヶ原
尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売渡された土地といわれる。
〈この辺りか?〉
⑨天皇社 字天皇原61番地
景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
〈この辺りか?〉
⑩古宮 字天皇原56番地
草薙神社が最初に創建された所。
古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。現在、小社が存在する。
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
延喜式内社 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)の類社について
伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)
・草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)は 豊受⼤神宮(外宮)の第一摂社であり その祭神は・神名祕書に草薙劔・類聚神祇本源所引の社記に標劔杖(ミシルシノツルギ)とあります 中世に頽廃しましたが 正保二年(1645)に現在地に再興されています 延喜式内社 伊勢国 度會郡 草奈伎神社(くさなきの かみのやしろ)です
草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
駿河國 有度郡 草薙神社(くさなきの かみのやしろ)
・古宮(静岡市清水区草薙)
〈草薙神社 創建の地〉
古宮(ふるみや)は 第12代 景行天皇が 日本武尊を偲び 草を薙ぎ払った゛天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)゛を御霊代として草薙剣(くさなぎのつるぎ)呼び この地に社を建てた草薙神社 創建の地です 故にこの辺りを天皇原(てんのうばら)と云い その後現座地に遷座したと伝わります
古宮(静岡市清水区草薙)〈草薙神社 創建の地〉
・草薙神社(静岡市清水区草薙)
草薙神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が天叢雲の剣で草を薙ぎ払い野火を止めた草薙剣(くさなぎのつるぎ)〈三種の神器〉故事ゆかりの地です 社伝によれば 景行天皇が天皇53年(123)当地に日本武尊の霊を奉斎〈御神体として草薙剣を奉納〉したのが創建と云う この草薙剣は 朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとも伝えています
草薙神社(静岡市清水区草薙)
駿河國 蘆原郡 久佐奈岐神社(くさなきの かみのやしろ)
・久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
久佐奈岐神社(くさなぎじんじゃ)は 日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けた旧蹟の地と云い 功績のあった副将軍の吉備武彦命が 後に廬原の国を賜った時に この地に尊を祀り社殿を造営 創祀した 又 日本武尊の東征に随伴の九万八千の諸神を祭祀奉る所として゛九萬八千社゛とも云い 古くは九万八千の幣帛を奉り 昭和までは九十八本の幣帛を奉っていたと社傳に云う
久佐奈岐神社(静岡市清水区山切)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
静岡鉄道 草薙駅から草薙通り経由で南東へ約1.4km 車5分程度
草薙神社(静岡市清水区草薙)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がります
日本武尊の石像
参道の左手にクスの御神木があります
右手に神門があり 一礼をしてくぐり 境内に
向かって左手には 舞殿があり その先には 弓道場があります
砂利の敷き詰められた境内は広く 参拝者も後を絶ちません
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 絵馬があり 日本武尊が野火に立ち向かい 草薙剣を振るっています
拝殿の奥には 幣殿 本殿が続いて祀られます
本殿は銅板葺の三間社流造(さんけんしゃ ながれづくり)
社殿の向かつて左手の奥には7社の境内社が祀られています
社殿の向かつて右手には9社の境内社が祀られています
社殿に一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 草薙神社について 所在は草薙村に在す〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
三種の神器゛草薙劔(くさなぎのつるぎ)゛の由来について 素戔鳴尊が 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して その尾を割り 出てきた神劔゛天叢雲劔(あまのむらくものつるぎ)゛別名を゛草薙劔(くさなぎのつるぎ)゛であると記しています
【抜粋意訳】
草薙神社
草薙は久佐奈岐と訓べし、
○祭神 日本武尊、参考
○草薙村に在す、参考 例祭月日、
〇当国蘆原郡久佐奈岐神社あり惚国風土記五十三残欠云、駿河國有度郡草薙神社、
香具山日記曰、天照太神以に天孫瓊々杵尊、欲爲に豊葦原中津國神君、既欲に天機之時、左御手持に携八坂瓊之曲玉、右御手携に天叢雲劔、叢雲或稱に草薙劔、號に叢雲者、素戔鳴尊欲下に根國吟に出雲國之時、出雲與に伯耆國之境有に簸川、其川上常在有に大蛇横行、松栢生背、其径八尋(阿里弖)蔓に延於八丘八谷之間、其眼如に赤酸醤、頭尾各有に八岐、因之史家謂に八岐大蛇、不云に大蛇可謂に於呂地、取に於土魯於十櫓志機之義也、其大蛇之常住之傍有に奇雲氣、云々、依之戔尊誅之寸々而至尾劒刃少欠、故割に裂其尾観之、尾中有に一奇神劒、尊取之名に草薙亦別名也、草者生に無主之地、此葦原自に天孫降臨無に草叢之神、専其國輝然焉、繁草逢に利劒如払に其草葉、故天孫降臨之後有に草薙之號、
又齋部記云、取に焼鎌乃敏鎌之義、又善哉、胸與腹之間中、八咫鏡神祝曰、天孫視吾如視此三種之宝器、
又同床共に大殿(弖麻志止)、自此天嗣不絶、以に此三種之靈被奉持之、云々、依之見之則草薙者叢雲之別名也、
一書曰、日本武尊越に東夷難、至に駿河國浮島原與に阿部市、東夷欺尊、託に狩猟令遊に御廣野、日中縦火、于時十月之旬衆草枯死而宜添火、恰如塗に油姻、巳進而尊之軍危、所帯之叢雲劔自脱払に此野火、依此有に草薙名、此事大謬也、唯自神代同名而、此神社者所祭天照太神之地也、
(以上の文信用し難しといへども、博覧の為に載す)類社
伊勢國渡會郡 草名伎神社の條見合すべし神位
國内神名帳云、正五位下 草奈岐天神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 草薙神社について 所在は草薙村草薙山にあり〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
日本武尊が 東国へ向かう時゛御刀以て草を薙拂ひ、向火を着て 其国の賊等を斬滅し゛と記しています
【抜粋意訳】
草薙(クサナキノ)神社
今 草薙村草薙山にあり、駿河國志、吾嬬道記、駿河新風土記、駿河國圖、
蓋 日本武尊を祭る、
始 皇子 東国を制給ふとき茲に幸し、其の御刀以て草を薙拂ひ、向火を着て 其国の賊等を斬滅し給ひき、即是也、参取日本記、古事記、凡 正月七日六月十五日九月廿日祭を行ふ、駿河式社畧記
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 草薙神社について 所在は草薙村草薙山〈現 草薙神社(静岡市清水区草薙)〉と記しています
【抜粋意訳】
草薙(クサナギノ)神社
祭神 日本武尊
祭日 九月二十日社格 郷社(明細帳縣社とあり)
所在 草薙村草薙山(安倍郡有度村大字草薙 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
草薙神社(静岡市清水区草薙)について 『日本書紀』に記される御祭神 日本武尊について詳細に 記されています
【抜粋意訳】
〇靜岡縣 駿河國安倍郡有度村大字草薙字芳澤
縣社 草薙(クサナギノ)神社
祭神 日本武(ヤマトタケルノ)尊 譽田別(ホムタワケノ)尊
傳へ云ふ、景行天皇五十三年、天皇東國巡幸、同九月二十日、鑾輅(らんろ)を是地に駐められ、尊の神霊を鎮め給ふ、故に其の處を天皇原といふ、初め社地は、現地より稍西方に在りしが、天正十八年台命に依りて、今の地に奉遷すと、日本書紀景行天皇四十年の條に、
「冬十月、日本武尊、初至駿河國、其処賊陽從之、欺曰、是野也簾鹿甚多、氣如に朝霧、足如茂林、臨而応狩、日本武尊、信に其言、入に野中而覚獣、賊有に殺王之情、放火焼に其野、王知被欺、則以燧出火之、向焼而得免、(一云王処佩剣叢雲自補之、薙払王之傍草、因是得免、其剣曰草薙也、叢雲、此云茂羅玖毛)
と見えたるは是地にして、
又當社の起源たり、廷喜式に有度郡草薙神社と見え、小社に列せらる、實に当國二十二社の一たり、神位は諸郡神階帳に、正五位上有度郡草奈岐天神と見ゆ、古來武将の崇敬厚く、往昔は社領千五百石を有せり、
永正以来当社神職たりし森家に、當社に関する古文書数通を蔵す。曰く、天正八年九月二十七日山林之制條、江尻城主武田信君朱印、曰く同十年六月十九日本多作左衛門制條、曰く同十七年豊臣太閤家三ヶ條制禁朱印、曰く同十八年社領朱印(明細帳云高十八石)曰く同戌四月二十四日中村家長横田内膳正制條、
次いで慶長七年十二月八日徳川氏、社領として郷内朱印五十石を寄す、
諸社御朱印写に云く、「草薙大明神、社領、駿河國有度郡草薙郷内五十石事、並小林竹木諸役等免除、任に慶長七年十二月八日、元和三年二月四日、寛永十三年十一月九日、朱判之旨、永不可有相違者也、
寛文五年七月十一日」
と、是より先、天正十八年、家康当社を再興す、棟札に云く、
「奉に造立草薙大明神一宇、駿州有度郡入江庄草薙村(天正十八年五月吉日)」
大檀那徳川家康、神主森彦三郎たり、然るに同社殿 寶永六年の地震に大破し、七年勤化御免ありて再興す、後ち天保二年、嘉永二年又勧化御免ありしと、明治元年御東幸の砌、同年十月五日、勅便 植松少將参向、官幣を奉らる、六年郷社に列せられ、十二年七月二十四日縣社に昇格し、四十一年八月八幡神社を合併す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他神樂殿、神饌所、神庫、番所等を備へ、境内二千五百七十坪(官有地第一種)あり、
社頭に神木と称する樟樹あり、駿府内外社寺記抄に「周廻り十三間、高一丈八尺余、此上枝葉有り云々」伴氏考証に「其脇にうつろあり、内方一丈四方計あり、内へ入りて見るに、屋室の如し、其根の方は石に化したる處あり、又朽ちたる處あり、其上より尋常の大木云ふべきほどの楠を生じ、枝葉しげれり、実に稀有の古木たり」と見えたり、林羅山
欲 爲黎民解 倒懸、東征到處幾山川、腰間一自 蛇龍動、雲氣吸消草草烟境内神社
浅間神社 山神社 八幡神社 子安神社
天王社 加茂神社 住吉神社 春日神社
愛宕神社 白髭神社 嚴島神社 稻荷神社
荒神社 天神社 楠社例 祭 日 九月二十日
會計法適用 明治四十一年九月二十五日
指定年月日 告示第四百三十四號
【原文参照】
草薙神社(静岡市清水区草薙)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
駿河国 式内社 22座(大1座・小21座)について に戻る
駿河国(するかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 駿河国には 22座(大1座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
駿河國 式内社 22座(大1座・小21座)について