実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

國玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)

国玉稲荷神社くにたまいなりじんじゃ 大同2年(807)約1200年前に遷座した 垣田神社(小野市小田町)旧鎮座地〈元宮〉とされ 神ノ木の宮跡と呼ばれます 神社の創建は弥生時代初期か あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

國玉稲荷神社(Kunitama inari shrine

通称名(Common name)

國玉大明神(くにたまだいみょうじん)
・神ノ木の宮跡(かみのきのみやあと)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県小野市小田町字神ノ木

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》國玉大明神(くにたまだいみょうじん)
  〈神ノ木の垣田の神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

垣田神社(小野市小田町)由 緒

 往昔、小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られた。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわす。

 平城天皇の大同2年(807)、今の地に遷座。

 当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は、平安時代末期の頃であろう。
 昌泰2年(899)に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれている。
 播磨国の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃である。
明治6年(1873)郷社に列せられる。
大正12年(1923)、県社に昇格。

兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6311068.html

【由  (History)】

垣田神社(小野市小田町)由緒

当社は、往昔、現在の小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られていました。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわしています。
もちろん、この地方、つまり東条川流域に人々が住みついたのも、この神ノ木の垣田の神を齋きまつる氏子の人々が最初で、当然に、この東条の町や村はここから別れていった氏子らが開拓したものなのです。そのことを裏付けるかのように、氏子区域内から弥生時代遺跡が三箇所発掘されています。したがって神ノ木は東条地方の発祥の地といってもよいでしょう。然も神ノ木の山麓は古古墳群が続き、南の小野市中谷町の愛宕山古墳、東の東条町松沢の横山古墳、西の小野市船木町芝打野一帯から北山を経て中番町東野に展開する船木古墳群の、ちょうど要の位置にあります。
その上、この神ノ木は四方を眺望する高台で高地性遺跡的性格をもそなえているため、神社の創建は弥生時代初期か、あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています。
また、垣田神社の祭祀圏内に住吉神と密接な関係をもつ船木族の住みついた船木村や金属技術集団の菅田族の氏神である式内菅田神社をもつことも歴史の古さを物語っています。
そして、現在の小野市小田町字住社に奉遷されたのが平城天皇の大同2年9月で、おそらく、東条川の水流の固定化により、小田という地名がしめすように、湿地帯が沢山の水田にかわり農業の発展を促したため、氏子の人々の住居も高台の神ノ木から沢や谷の附近に移転したからではないでしょうか。

当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は平安時代末期の頃でしょう。
その平安の初期の醍醐天皇の昌泰2年に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれています。
つまり延喜元年に神功皇后を配祀したため、垣田住吉大神ととなえられていたのを勅号の垣田大神と称するようになったのです。
播磨國の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃です。
また当地方(加東郡、加西郡、美嚢郡と多紀郡、多可郡、加古郡、印南郡、神崎郡、明石郡の一部)が、大阪の住吉大社の神領に組み込まれた際、東条地方の管理を依託されたためでしょうか、一時期、東条別宮と称えていたといわれています。
今でも別宮さんという呼び名が残っています。字の住社もこの住吉神を祀り、住吉大社との深いかかわりをしめすものでしょう。
戦国時代の天正7年、三木城合戦の際、その支城の小田城の兵乱により社殿ならびに古文書、宝物を悉く焼失、このため羽柴秀吉は託状文を書き神田2段余を奉納しています。
江戸時代は小田の地が姫路藩の領地になったため城主の酒井家は、姫路藩内の名社として定紋付高張提灯一双を奉献し、加古川の渡場に垣田神社の社名を刻した標柱を建て、藩主交替のたびに名代を差遣して代拝させました。
明治6年11月郷社に列し、大正12年5月県社に昇格しました。
当社は昔から交通安全の神、清祓の神、安産の神として氏子はもとより遠近の信者の尊崇をうけていますが、最近では、神功皇后の御神徳にあやかり必勝の神として受験生やスポーツマンの信仰をもあつめています。
なお、当社の祭祀を司どる社家の垣田家は神社の草創の古代から今日まで、その運命を共にし、当地方はもとより広く加古川流域で最古の家系を伝えています。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

大同2年(807) 現 垣田神社の鎮座地に遷座(約1200年前)

・垣田神社(小野市小田町)

一緒に読む
垣田神社(小野市小田町)

垣田神社(かきたじんじゃ)は 大同2年(807)に垣田神社の元宮〈國玉稲荷神社〉から遷座しました 昌泰2年(899)勅使 藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれて 垣田大神の勅号を贈られたと云われます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 垣田神社
[ふ り が な ]かきたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kakita no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社について

・垣田神社(小野市小田町)

一緒に読む
垣田神社(小野市小田町)

垣田神社(かきたじんじゃ)は 大同2年(807)に垣田神社の元宮〈國玉稲荷神社〉から遷座しました 昌泰2年(899)勅使 藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれて 垣田大神の勅号を贈られたと云われます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

・国玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)〈垣田神社の旧鎮座地〉

一緒に読む
國玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)

国玉稲荷神社(くにたまいなりじんじゃ)は 大同2年(807)〈約1200年前〉に遷座した 現 垣田神社(小野市小田町)の旧鎮座地〈元宮〉とされ 神ノ木の宮跡と呼ばれます 神社の創建は弥生時代初期か あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています

続きを見る

・住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)

一緒に読む
住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 神功皇后の勅願社の伝承が残り 摂津 住吉大社の別宮であったと考えられ 創始は古墳時代後期とされています 奈良時代後期に現在の鎮座地・秋津字清水に遷座し 水田に由来して恒田明神と称され今日に至るので 二つの式内社〈住吉神社・垣田神社〉の論社となっています

続きを見る

・八雲社の境内社 垣田社(三木市久留美)

一緒に読む
八雲社(三木市久留美)〈延喜式内社の論社・旧 郷社〉

八雲社(やくものやしろ)は 創立年月は詳らかではありませんが 今から約千五百年前 億計王(後の仁賢天皇)弘計王(後の顕宗天皇)が この地にお忍びの際 久留美皇子ヶ谷の当神社に祈られたと伝えられています 境内社の垣田大神(住吉社)は 式内社 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

垣田神社北方へ県道経由 約1.4km 車5分程度

県道85号国玉稲荷神社の道標があり 細い路地北上すると 右手に朱色の連鳥居向かう畑道があり 害獣避けの柵を開けてお参りなります

Please do not reproduce without prior permission.

社地は南面のなだらかな丘陵で 朱色の稲荷鳥居が連なります

Please do not reproduce without prior permission.

大同2年(807)垣田神社の鎮座地に遷座と伝わりますが その跡地が 約1200年前から今に到るまで”国玉”〈國魂〉として祀られていることに驚愕します 更に神ノ木という地名を持つことは 如何に重要な神を祀る地であったかを物語っているようです

Please do not reproduce without prior permission.

國玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉(小野市小田町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は 拝殿と 本殿の覆屋を兼ねた造りですが 境内き綺麗に清掃されていて 未だに信仰が続いている事がわかります

Please do not reproduce without prior permission.

神宮の遥拝所だろうか 垣田神社遥拝所だろうか

Please do not reproduce without prior permission.

とても落ち着く空間に 一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

垣田神社

垣田は 加支多と訓べし
〇祭神 詳ならず
〇賀東郡東條小田村に在す
例祭 九月九日

式社記は、加東郡常田村にあり、古跡便覧、其の所しれずと云り、尚考ふべし

類社 和泉國 日根郡 加支田神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

神祇志料 巻十八 播磨國 賀茂郡八座 並小

垣田神社

今、加東郡 東條小田村にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています

【抜粋意訳】

垣田神社

祭神
底筒男
中筒男
表筒男
神功皇后

祭日 九月九日
社格 郷社
所在 東條郡上小田村(加東郡下東條村大字小田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇兵庫縣 播磨國 加東郡下東條村大字小田

郷社 垣田神社

祭神
表筒男(ウハツツノヲノ)命
中筒男(ナカツツノヲノ)命
底筒男(ソコツツノヲノ)命
神功皇后(ジングウコウゴウ)

創立年代詳ならず、延喜の制、小社に列せられ、播磨鑑に、正一位垣田神社と見ゆ、
神祇志料に云く「垣田神社、今 加東部東條小田村にあり、と
神社覈録に「〇賀東郡東條小田村に在す 播磨式社記は、加東郡常田村にあり、古跡便覧、其の所しれずと云り、尚考ふべし」とあり、又同書に祭神詳ならずと見ゆ、
明治七年二月郷社に列す、社殿は本殿、幣殿、拝殿を備へ、境内は826坪の官有地第一種と三十四年中編入の五十一坪の民有地より成る、・・・・・

境内神社 表津神社 中津神社 底津神社 金刀比羅神社 八幡神社 辨天神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

國玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉(小野市小田町) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る

一緒に読む
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について

播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています