実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

雲見浅間神社(松崎町雲見)

雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)は 伊豆半島の最西端の雲見海岸に聳える烏帽子山(162m)に鎮座します ・山麗には「拝殿」・中腹には「中之宮」・山頂付近には「本殿」があり 全国浅間信仰の神社約1,300社の中でも 祭神として「磐長姫命(いわながひめのみこと一柱のみを祀る 大変珍しい祭祀形態の神社です

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

雲見浅間神社Kumomi Sengen Shrine)
(くもみせんげんじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

静岡県賀茂郡松崎町雲見386-2

 [  (Google Map)]

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》磐長姫命Iwanagahime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳

【由  (history)】

不詳

伊豆半島ジオパーク IZU PENINSULA GEOPARK

雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)と神々の物語
Kumomi Sengen Jinja Shrine and Japanese myth

烏帽子山(えぼしやま)の頂(いただき)には、雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)が鎮座(ちんざ)しています。天気が良い日には、富士山や南アルプスも一望できる絶景(ぜっけい)のポイントです。

全国に数多くある浅間神社のほとんどが木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(富士山)を祀(まつ)っていますが、ここ松崎町の雲見(くもみ)、伊東市の大室山(おおむろやま)など、伊豆半島にはその姉の磐長姫命(いわながひめのみこと)のみを祭神とした浅間神社があります。

記紀神話(ききしんわ)で、姉妹の父である大山祇神(おおやまつみのかみ)は、天から降臨(こうりん)した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に姉妹を差し出します。しかし、妹より容姿の劣(おと)る磐長姫命(いわながひめのみこと)は返されてしまいました。磐長姫命(いわながひめのみこと)の「磐(いわ)(岩)」は、永遠の命の象徴(しょうちょう)。磐長姫命(いわながひめのみこと)を捨てた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とその子孫(しそん)は、限られた寿命(じゅみょう)を持つようになりました。

美しい妹を妬んだ磐長姫命(いわながひめのみこと)。地元には、烏帽子山(えぼしやま)で富士山をほめると怪我(けが)をするなどの言い伝えが残ります。

現地案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・拝殿の右に 祠 1基

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 伊波比咩命神社
[ふ り が な  ](いはひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Iwahime no mikoto no kaminoyashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)の論社について

三宅島は 活火山島のため 噴火による遷座が繰り返されています

伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
 伊波比咩命神社Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)の論社

・【当初】坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】

当初
坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)

坪田観音(つぼたかんのん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です 

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・【次に】二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)

当初
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)

二宮神社跡は 伊波乃比咩命神社の 旧鎮座地です 三宅島では 度重なる火山活動によって 多くの神社で遷座が繰り返されています 当神社も 当初の鎮座地「坪田観音(Tsubota kannon)」から 坪田村小倉山「当地〈二宮神社跡〉」に遷座して 現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています

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・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)

当初
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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・【論社】浅間神社(松崎町雲見)〈当社〉

当初
雲見浅間神社(松崎町雲見)

雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)は 伊豆半島の最西端の雲見海岸に聳える烏帽子山(162m)に鎮座します ・山麗には「拝殿」・中腹には「中之宮」・山頂付近には「本殿」があり 全国の浅間信仰の神社(約1,300社)の中でも 祭神として「磐長姫命(いわながひめのみこと)」一柱のみを祀る 大変珍しい祭祀形態の神社です

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

西伊豆をR136号を南下すると 松崎町の雲見海岸に聳える「烏帽子のような山」烏帽子山(162m)の山頂付近に鎮座します 急峻な岩山だとわかります

車道に面して駐車場があって 参道の鳥居が建っています 扁額は「浅間神社」
雲見浅間神社Kumomi Sengen Shrine)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります

現在地から
山麗「拝殿」 へ石段130段
中腹「中之宮」へ石段320段
山頂付近「本殿」へ山道10分 「烏帽子山 浅間神社 案内図」があります

二の鳥居が建ち 一礼をしてくぐり抜けると 拝殿迄の石段130段の始まりです

階段の横に石灯篭が並び 厳かな感がします 一番手前には 麓からお詣りをする方の賽銭箱も設置されています

古社であることは 参道の大木が物語っています

松の大木の先に「拝殿」が見えてきました

拝殿にすすみます 

扁額には「雲見神社」と書かれています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の右手から 山へと続く石段があります

祠が1基 鎮座します

中腹「中之宮」へ石段320段 登りの直線ですから こちらに拝殿が立てられているのが良くわかります

かなり上がりましたが まだまだ続きます

石段を上がりきると 右手の断崖の上に 「中之宮」の建屋があります

扉を開けて 「中之宮」に御参拝をします

右にも 小さな祠が祀られています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

「中之宮」の目の前は断崖の上 しかし 絶景です

先程上がった階段を左手に見ながら 山道へと進みます

本殿へは 正しく山道を進みます

補助と保護のロープも張られています

更に ほとんどロッククライミングのような石段 革はアウトドア用が必要です

目の前に整備された石段と石垣があり その先に屋根が見えています

岩盤の上に「本殿」が鎮座しています

境内地には 古い手水鉢があり 鉄パイプで防護柵が設けられています

コンクリートで養生されていますが 鉄パイプ越しに下を覗くと断崖です

振り返り 扉を開き 本殿でお詣りをします

扁額には「御嶽浅間宮」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

「烏帽子山山頂からのながめ」との案内板があります

本殿の裏から 山頂の岩盤へ石段があり ここからの眺望は見事です
眼下に 千貫門もよく見えます

駿河湾越しには 富士山が見えますが ここでは富士山は褒めてはいけません

なぜなら すぐ下に鎮座する「雲見の浅間さん」御祭神の 機嫌をそこねます
詳しくは 次の章に書いています

階段を降りて 本殿の前に戻ります

一礼をして山を下ります

中乃宮に再度 お詣りをします

長い石段を下り 拝殿迄 戻ります

山麗の鳥居をくぐり 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『伊豆国神階帳(izunokuni shinkaicho)』に記される内容

石戸の明神と呼ばれたようです 「従四位上・石戸の明神」と神階が 記されています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『伊豆国神階帳』康永2年(1343年)「群書類従」刊本(跋刊)[旧蔵者]昌平坂学問所
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037297&ID=M1000000000000054071&TYPE=&NO=映像利用

『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承

浅間 御嶽 と記されています
伊波比咩命Iwahime no mikoto)磐姫Iwahime no mikoto)」と同一神と捉えて 磐長姫(イワナガヒメ)を祀る当神社を 式内社としていたようです

意訳

白山権現 雲見村
春日八幡を配祀す

浅間 御嶽

山の嶺に在り

式内社と伝わる
磐長姫(イワナガヒメ)を祀る故に この山にて 駿州浅間のことを云うことを忌む
その妹「開耶姫(サクヤヒメ)」〈木花咲耶姫〉と隙あるが故なりと云うによりて


6月1日より 斎戒め山へ登り拝す

2祠 伊豆納符 禰宜 高橋氏

上山の城主 丹波守の後孫なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=

南国伊豆の昔話』[社団法人 下田青年会議所発行]より

駿河湾の向こうに見える「富士山」と 当社「烏帽子山」に鎮座する
雲見浅間神社Kumomi Sengen Shrine)の由来が話されています

雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さん

この本の「姉妹富士(しまいふじ)」という話はなしを読(よ)んでくれましたか。

下田に、むかしから伝(つた)わるお話しです。その話とそっくりな話が、松崎町(まつざきまち)雲見(くもみ)にもあります。松崎(まつざき)と下田は二十キロも離(はな)れているのに、そこに住(す)む人々(ひとびと)の気持(きもち)は、似(に)かよっていたのでしょうか。それとも、どちらが先(さき)につくったものか、いずれにしても、むかしから今日(こんにち)まで、何百年(なんびゃくねん)も語(かた)りつがれているのですから、どちらも人々(ひとびと)の心にしみるよい話だとおもいます。

その雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さんのお話をしましょう。

雲見(くもみ)の浅間神社(せんげんじんじゃ)に、まつってある神様(かみさま)と駿河富士(するがふじ)の浅間神社(せんげんじんじゃ)にまつってある神様(かみさま)は姉妹(きょうだい)でした。雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さんは、お姉(ねえ)さんで、駿河(するが)の富士山(ふじさん)は、妹(いもうと)でした。いつもいつも、いっしょに暮(くら)していて仲(なか)のよい姉妹(きょうだい)でした。

いつの頃(ころ)からか、周(まわり)の神様(かみさま)たちが、妹(いもうと)の浅間(せんげん)さんを、可愛(かわい)がるようになってしまいました。

「ほんとうに、いい器量(きりょう)をしているなあ。」

「心こころが優やさしい娘(こ)だ。」

と、ほめたたえていました。あげくの果(は)てには、

「わたしの、お嫁(よめ)さんになってくれないかなあ。」と、まで言(い)われるようになりました。

このようすでは、お姉(ねえ)さんの浅間(せんげん)さんは、おもしろくありません。

そして、姉(ねえ)さんは、だんだんと目つきが、きつくなって、みけんに、しわを寄(よ)せることも少(すく)なくありませんでした。それにひきかえ、妹(いもうと)の浅間(せんげん)さんは、素直(すなお)に育(そだ)ち、背(せ)のたけも、お姉(ねえ)さんをぬいて、それはそれは、美(うつく)しい娘(むすめ)になりました。

日がたつにつれて、姉妹(きょうだい)の仲(なか)もだんだん悪(わる)くなり、もう一しょに歩(ある)いたり、一しょに遊(あそ)ぶ姿(すがた)は、見られなくなりました。そして、ついに、けんかまでするようになってしまいました。姉(ねえ)さんの浅間(せんげん)さんは、山を越(こ)え、海を渡(わた)り、谷(たに)をいくつか越(こ)えて、松崎(まつざき)の雲見(くもみ)にたどりつき、そこへ住(す)むことになりました。

姉(ねえ)さん思(おも)いの妹(いもうと)は、姉(ねえ)の姿(すがた)を見たさに、毎日毎日(まいにちまいにち)背伸(せの)びをして、前にあるあしたか山より高くなりました。その上、ますます美(うつく)しい姿(すがた)になっていきました。白い化粧(けしょう)をすると、それは、みごとな美(うつく)しさでした。朝夕(あさゆう)、はずかしいことでもあるのでしょうか、ほんのりと赤(あか)く、ほおを染(そ)めたりします。ある時(とき)は、綿(わた)ぼうしのような雲(くも)をのせて、その姿(すがた)を、海(うみ)に写(うつ)して、楽(たの)しんでるのです。

お姉(ねえ)さんは、その妹(いもうと)の姿(すがた)を毎日毎日(まいにちまいにち)眺(なが)めては、悲(かな)しんでいました。体(からだ)はやせ、背(せ)も低(ひく)くなり、ごつごつした骨(ほね)も見えるようになってしまいました。 しかし、かつての誇(ほこ)りを示(しめ)すかのように、背をぴんと伸(の)ばしています。

そのお姉(ねえ)さんの気持(きもち)をさっしてか、妹(いもうと)さんは、時々(ときどき)、雲(くも)で顔(かお)をかくして、見えなくなってしまうことがあります。きっと、いつまでも姉妹(しまい)でいたいのでしょう。

みなさんは、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さんへ登(のぼ)ったことがありますか。

今(いま)でも、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さんに登(のぼ)って、美(うつ)くしい駿河(するが)の富士山(ふじさん)を見て、

「美(うつく)しいなあ、すてきだなあ。」
「すばらしいながめだなあ」

と、いい気分(きぶん)になってほめたたえると、姉(ねえ)さんが、怒(おこ)り顔(がお)で、体(からだ)をふるわせて、みなさんを海(うみ)へふり落(おと)すかもしれません。

今(いま)でも、雲見(くもみ)の人々(ひとびと)は、この話を信(しん)じていますから、富士登山(ふじとざん)もえんりょして、ひかえているそうです。

『南国伊豆の昔話』( 昭和60年10月19日)企画 南国伊豆観光推進協議会/発行者 社団法人 下田青年会議所 P112~115抜粋より

南国伊豆の昔話』[社団法人 下田青年会議所発行]より

よく願(ねが)いをかなえてくださる「雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さま」として記されています

大挽(おおび)きの善六(ぜんろく) (松崎町)

むかし、岩村(いわむら)に、善六(ぜんろく)という木(こ)びきがいました。木(こ)びきは、幅(はば)の広(ひろ)い大(おお)きなのこぎりで、巨木(きょぼく)を切(き)りたおしたり、丸太(まるた)をひき割(わ)って柱(はしら)や板(いた)を作(つく)るのです。

善六(ぜんろく)は、体(からだ)だけは大(おお)きかったが、不器用(ぶきよう)な上(うえ)に ずつなし (なまけもの) だったので、仕事(しごと)は半人前(はんにんまえ)でした。だからなかまからばかにされていました。

「善六(ぜんろく)かよ、あれは木(こ)びきじゃあない。小(こ)びきだ。アハハハ。」

こんなうわさは善六(ぜんろく)の耳(みみ)にも入り、くやしく思(おも)いましたが、しかし仕事(しごと)にはげむわけでもありません。

「木(こ)びきじゃあない。小(こ)びきだと。からばか (おおばか)!ウーン、小(こ)びきじゃあなく、大(おお)びきになりたいなあ。」

善六(ぜんろく)のなげきを聞(き)いて、親方(おやかた)は言(い)いました。

「善六(ぜんろく)よ、われの ずつなし は困(こま)ったもんだ。ほんきになって、仕事(しごと)に精(せい)を出(だ)すこんだ。」

やがて善六(ぜんろく)が考(かんが)えついたのは、よく願(ねが)いをかなえてくださるという、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さまに三十七日(さんじゅうしちにち)の願(がん)をかけてみようということでした。

雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)の社前(しゃぜん)には、寝(ね)そべり牛(うし)のような大石(おおいし)が横(よこ)たわっています。

「南無(なむ)、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さま、どうか、この寝(ね)そべり牛(うし)のような大石(おおいし)が、らくらくとひける力(ちから)をおあたえくださいまし。」

三十七日(さんじゅうしちにち)の日(ひ)がやっと過(す)ぎて満願(まんがん)の朝(あさ)、善六(ぜんろく)の心(こころ)はおどっていました。おこもり堂(どう)の外(そと)へ出(で)てながめる、山(やま)の緑(みどり)も海(うみ)の青(あお)さも、生(い)き生(い)きと すばらしく見(み)えました。

お社(やしろ)の前(まえ)まで登(のぼ)ると、寝(ね)そべり牛(うし)のような大石(おおいし)も、朝(あさ)の光(ひかり)を浴(あ)びていました。善六(ぜんろく)は自分(じぶん)の力(ちから)をためしてみたくなりました。がっちりとのこぎりを、牛(うし)の石(いし)のまん中(なか)に当(あ)てました。

ずいこ ずいこ ずいこ

とうとう、まっ二(ぷた)つに切(き)ってしまいました。

「おう、おう、でかした。 おれは、大(おお)びきの善六(ぜんろく)だあ!もう今日(きょう)から小(こ)びきではないぞ。」

善六(ぜんろく)は、山(やま)で働(はたら)いているなかまや親方(おやかた)の所(ところ)へ行(い)きました。

「善六(ぜんろく)、しばらくぶりだな。」
「どうしただ。」

というなかまの声(こえ)も聞(き)こえぬように、善六(ぜんろく)は親方(おやかた)の前へ行(い)きました。

「親方(おやかた)、わしゃ今日(きょう)からは、どんな木(き)でもひけるよ。」
「善六(ぜんろく)、わりゃあ病気(びょうき)でもしてえたか。無理(むり)をしなさんなよ。」

親方(おやかた)はそう言(い)って、一本(いっぽん)の立木(たちき)をあごでさしました。

善六(ぜんろく)は、こんなものはすぐだとばかりのこぎりを当(あ)てました。

しかし、のこぎりは、
かりかりかりかり かりかりかりかり
とすべるばかりです。

ようすがおかしいので、親方(おやかた)がききました。

「どうした、善六(ぜんろく)!」

「おっ親方(おやかた)、わしゃあ さっき、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さまのお社(やしろ)で、たしかに大石(おおいし)をまっ二(ぷた)つにひいた。

だが、この木(き)どうしてもひけぬ・・・・ひけぬ・・・・。」

善六(ぜんろく)は、つと、かたわらの石(いし)にのこぎりを当(あ)てました。

すると、ひけるわ、ひけるわ・・・・・・またたくまです。

親方(おやかた)は、静(しず)かに言(い)いました。

「善六(ぜんろく)よ、お前(まえ)の願(がん)かけは まちがっていたなあ。木(こ)びきは、石(いし)がひけてもしょうがない。木(き)がひけなくちゃあなあ。」

善六(ぜんろく)は、へたへたと地面(じめん)にすわりこんでしまいました。

この話(はなし)は人々(ひとびと)に伝つたわり、善六(ぜんろく)は、子供達(こどもたち)にまではやしたてられました。

天城(あまぎ)の善六(ぜんろく)、よほほい、ほい、
木(こ)びきびきも小(こ)びきも、よたこびき、
石(いし)はひけても、木(き)はひけぬ・・・

善六(ぜんろく)はとほうにくれ、どうしたらよいか考(かんが)えました。

「おれが、まちがってた・・・・・おれがまちがってた。南無(なむ)、雲見(くもみ)の浅間(せんげん)さま、お許(ゆる)しくださいまし。わしゃ初(はじめ)っから・・・・・ちっこい丸太(まるた)をひくことから やりなおしてみますべえよ。どうかまっとうな木(こ)びきになれますよう、お守(まも)りくださいまし。」

さとるところがあった善六(ぜんろく)は、小(ちい)さな丸太(まるた)に向(む)かって、一心(いっしん)にのこぎりを当(あ)て続(つづ)けました。全身(ぜんしん)ぐっしょりと汗(あせ)にぬれながら・・・・・。

善六(ぜんろく)は、自分(じぶん)の仕事しごとに初(はじ)めてしんけんになりました。考(かんが)えることは、どうしたらのこぎりを木(き)にかませることができるか、ということだけでした。

やがて汗(あせ)のしたたり落(お)ちたところから のこぎりの歯(は)が立(た)ち始(はじ)め、一晩中(ひとばんじゅう)かかって丸太(まるた)をひきおえました。

善六(ぜんろく)は、人(ひと)が変(か)わったように仕事(しごと)にはげみました。そして、一人前(いちにんまえ)の仕事(しごと)がでえきるようになり、なおはげむにつれて、そのうでのたしかさは、天城(あまぎ)の善六(ぜんろく)の名(な)を広(ひろ)めました。

あるとき、江戸(えど)深川(ふかがわ)の木場(きば)へたすけに行(い)ったところ、大(おお)のこぎりをしょってのっそりあらわれた善六(ぜんろく)を見(み)て主人(しゅじん)は、いなか者(もの)のことだ、たいしたことはあるまいと見(み)くびり、

「おい若(わか)い衆(しゅう)、ためしにすみをひいてやるからな。すみの通(とお)りにひくんだぜ。」
と言(い)って材木(ざいもく)を渡(わた)しました。

善六(ぜんろく)は、やおら片足(かたあし)を材木(ざいもく)にかけてひき始(はじ)めました。しばらくすると、波(なみ)のような美(うつく)しい曲線模様(きょくせんもよう)をえがいて、みごとにひきおえました。

善六(ぜんろく)は、にっこりして言(い)いました。

「旦那(だんな)、できましたよ。」

主人(しゅじん)は、見(み)てびっくりしました。尺余(しゃくよ)の大(おお)のこぎりで、どうして こんなにひいたものだろうか・・・・名人(めいじん)だということがわかった主人(しゅじん)は、頭(あたま)をかきながら言いいました。

「りっぱなうでまえを見(み)せていただきました。見(み)そこなって失礼(しつれい)したが、どうか落(お)ち着(つ)いて働(はたら)いてください。」

こうして、江戸(えど)でも天城(あまぎ)の善六(ぜんろく)の名(な)は知(し)られていきました。

「天城(あまぎ)の善六(ぜんろく)かよ。ありゃ木(こ)びきじゃあない。大(おお)びきだ。あんなひき手(て)は江戸(えど)にはいない。」と。

今(いま)も雲見浅間(くもみせんげん)の境内(けいだい)に、のこぎりでひいたような、二つの大(おお)きな大石(おおいし)が、善六(ぜんろく)のひきわり石(いし)として残(のこ)っております。

『南国伊豆の昔話』( 昭和60年10月19日)企画 南国伊豆観光推進協議会/発行者 社団法人 下田青年会議所 P97~104抜粋より

雲見浅間神社Kumomi Sengen Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

一緒に読む
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています