熊野神社(くまのじんじゃ)は 鯨伏郷の産土神で 神社考には「立石村の海辺に温泉あり 昔の代には 地名を「アタミ」と言えり 今は湯ノ本と言う 温泉に近い熊野権現を湯屋権現とも言えり」とあり この「アタミ」から式内社 阿多彌神社(あたみの かみのやしろ)とされます 傳では 橘貞兼が神功皇后の新羅出兵の際に祈った紀伊国 熊野神を 帰国後 ここに祀ったとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
熊野神社(Kumano shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐郡勝本町立石南触583-4
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉册尊(いざなみのみこと)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
事解男神(ことさかおのみこと)
速玉男神(はやたまおのみこと)
相殿
《配》天照大神 国常立尊 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天津彦々火瓊々杵尊
彦火々出見尊 軻遇突知命 埴山姫命 罔象女神 稚産霊神
合祀
《合》大山祇神〈無格社 大山祇神社を大正5年(1916)5月1日に合祀〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神社考に
立石村の海辺に温泉あり 昔の代には 地名を「アタミ」と言えり 今は湯ノ本と言う 温泉に近い熊野権現を湯屋権現とも言えり
傳では
紀州の熊野神社と同体であり 本宮泉守橘貞兼が熊野より迎え 鯨伏郷の産土神である
又 橘貞兼が 神功皇后の新羅出兵の際に熊野大神に祈り 帰国後 紀伊国の熊野大神を ここ熊野神社に祀ったともされます
【由 緒 (History)】
熊野神社(旧号熊野大権現)由緒沿革
祭神 伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男神、速玉男神
相殿 天照大神、国常立尊、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天津彦々火瓊々杵尊、彦火々出見尊 軻遇突知命、埴山姫命、罔象女神、稚産霊神、大山祇神
例祭日 十月二十九日 神幸祭、大神楽奉奏
浜殿ニ於テ餅ヲ撒ク、漁船パレード、假装行列宮司 吉野六男
由緒沿革
一、壱岐風土記ニ言ウ、当社ハ紀伊熊野大神ト同体ナリ、往昔 本宮和泉守橘貞兼熊野ヨリ迎ヘ奉リ勧請セリ 立石村ノ産土神ナリ一、昔熊野大神、足海(タルミ)ニ着給ヒシヲ、本宮和泉守橘貞兼 迎ヘテ斎キ奉ル、刈田院新田ノ東ニ腰掛ケ給フ石アリ 呼ンデ権現石ト言エリ
一、神社考ニ言ウ、立石村ノ海辺ニ温泉アリ昔ノ代ニハ地名ヲ「アタミ」ト言エリ、今ハ湯ノ本ト言ウ、温泉ニ近イ熊野権現ヲ 湯屋権現トモ言エリ
一、橘貞兼 高麗征伐ノ勅命ヲ承リシガ 熊野大神ンイ祈リテ 帰朝ノ後、熊野ヨリ迎ヘ奉ル
一、布代城主勧請シ奉ルトモ 上川ノ居立石氏勧請ストモ言エリ
一、聖武天皇七年(一二六〇年前)遣唐使多治氏廣成官命ニヨリ 御鎮座ナシ奉ルトモ言エリ
一、左右矢大臣ノ銘ニ 文明九年(五二〇年前)願主同作者橘頼兼トアリ、頼兼ハ貞兼、忠兼、正兼等ノ裔ニシテ当社ノ社務ニ関係セシカ
延宝四年(三二〇年前)国主ノ命ヲ奉ジテ 壱岐国式内社ノ査定ヲナセル橘三喜ハ 熊野神社、神主、立石刑部橘廣貞ノ次男ニシテ 平戸ニ住シ 神道国学者トシテ有名ナリ、境内ニ立花社アリ、 橘廣貞ノ近親六柱ノ霊璽ヲ祀ル
一、後光明天皇 正保四年(三五〇年前)御殿造営、願主、松浦肥前守源朝臣鎮信、神主、立石刑部橘廣貞
一、寛文二年(三三〇年前)御宝殿造営、松浦肥前守源朝臣鎮信、社司、堤主馬(刑部卿ノ弟)
一、元禄二年大鳥居建設、祠官、神坂(堤)主水
一、天保十五年鳥居献納、長谷川栄左ヱ門一、当社ニ霊剱(銅鉾)一口アリ彌生時代又ハソレ以前ノ遺品ナリ 外箱ノ銘ニ言ウ 寛文十一年松浦肥前守源朝臣鎮信
一、蛇神、コレハ蛇ノ剱ニカラメル石像アリ 昔 王子五郎家ニ鶏ヲ飼ウ 時ニ蛇来リテ之ヲ呑ム 家人木ノ卵ヲツクリ之ヲアザムキシニ 蛇 木ノ卵ヲ呑ンデ苦シミタオル 之ヨリ祟リアリ、故ニ 蛇神ヲマツル 後祟リ止ムト
一、又、神鏡一面アリ徑五寸、コレヲ御神体ト伝フル旨社記ノ一飾ニ記セリ一、当社ハ藩主ノ崇敬社ニシテ 祭日ニハ度々参向アリ御造営ゴトニ 白銀五枚ヲ献ゼラル
一、明治九年 村社ニ列セラル
一、明治十年 石燈籠一対献納願主、氏子中、祠官、松永魚沖
一、明治四十年七月 神饌幣帛供進神社ニ指定サラレル
一、大正八年 石垣改修、氏子中、社掌、殿川真彦
一、昭和四年 御殿拝殿新築、氏子中、社掌、殿川真彦、大工豊田八百四郎、大工武田力三郎
一、昭和三十七年 御手洗所建設、湯ノ本中、宮司、松永常彦
一、平成一年 拝殿修理、氏子中、宮司、吉野六男平成二年十一月 御大典記念寄進 立石西触 殿川熊多、九十歳
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・祠一宇
・石祠複数
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿多彌神社
[ふ り が な ](あたみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atami no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 壱岐郡 阿多弥神社(あたみの かみのやしろ)の論社について
・阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)
阿多彌神社(あたみじんじゃ)は 『神社考』に 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが 延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり この音より 式内社として比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉したとあります
阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)
・熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 鯨伏郷の産土神で 神社考には「立石村の海辺に温泉あり 昔の代には 地名を「アタミ」と言えり 今は湯ノ本と言う 温泉に近い熊野権現を湯屋権現とも言えり」とあり この「アタミ」から式内社 阿多彌神社(あたみの かみのやしろ)とされます 傳では 橘貞兼が神功皇后の新羅出兵の際に祈った紀伊国 熊野神を 帰国後 ここに祀ったとされます
熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
湯ノ本港から 約1.5km 車5分程度
参道は 東南と北東にあり 北東には 道路沿いに鳥居が建ちます
熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)に参着
北東の鳥居をくぐり 参道を進むと 東南を向いて建つ社殿の前に 真横から進む形になります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥に 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 振り向くと 東南へ伸びる表参道には 注連縄竹に石燈籠があり その先に長い石段がありました
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻20 立石村 併 湯本浦 之部に 熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)は 紀州の熊野神社と同体であり 本宮泉守橘貞兼が熊野より迎え 鯨伏郷の産土神である 又 橘貞兼が 神功皇后の新羅出兵の際に熊野大神に祈り 帰国後 紀伊国の熊野大神を ここ熊野神社に祀ったともされる と記しています
【抜粋意訳】
巻20 立石村 併 湯本浦 之部 熊野神宮 在 熊野山 村中の産神なり
祭神 伊弉册尊 事解男神 速玉男神
・・・・
・・・・壱岐国続風土記云 当社は 紀州熊野神社と同体にして 天神七代の神なり
古老説云 むかし熊野大神 垂水御着船の時 濱石に御腰をかけ給い 其の所より 今の地に到るなり・・・・・
〇又云 熊野権現 紀伊国熊野山より 当国 鯨伏郷の海に着になりし時 本宮和泉守橘貞兼 奉る又云 橘貞兼 征伐の時〈神功皇后の三韓征伐〉 熊野にいのり 帰朝のおり 熊野より迎来りし事 当村の宗社とを兼 会布城の主勧請とも 上川の居主石氏の勧請ともいふ
・・・・・
・・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 阿多彌神社の所在として 立石村〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿多彌神社
阿多彌は 假字なり
〇祭神 詳ならず
〇立石村に在す 土俗 天神と称す
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 阿多彌神社の所在として 立石村〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿多彌神社
祭神 大己貴命 少彦名命
祭日 九月十九日
社格 (無社格)
所在 立石村(壱岐郡鯨伏村大字立石)
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
鯨伏村ノ部 村社 熊野神社(旧称 熊野大権現)
鎭座地 鯨伏村大字立石南触
祭 神 伊弉冊尊、素盞鳴尊、事解男命、速玉男命、天照大神、國常立尊、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、天津彦々火瓊々杵尊、彦火々出見尊、軻遇突智命、埴山姫命、罔象女命、稚産霊命、大山砥命
例祭日 十月二十九日 神幸式、大神樂奉奏、濱殿ニ於テ餅撒ヲ行フ。
境内地 1596坪〔由緒沿革〕
一、壱破國続風土記ニ云、往昔 本宮 和泉守橘貞兼依誓願 自 紀州熊野迎來勧請 此所自余以降 奉齋当村爲産土神。
一、又云、建立年暦不詳、当社者紀州熊野大神宮同躰分神也、往昔 本宮和泉守橘貞兼依誓願自熊野迎來勧請 此所自余以降 奉齋常所鎮護宗社々云。一、又云、熊野大権現、所祭伊弊冊尊、事解男命、速玉男命也。
当社ハ 紀州熊野大神御同躰、
古老云、昔 熊野大神 足海御着船ノ時 浜石ニ御腰ヲ掛ケ給ヒ 其レヨリ今ノ社地ニ至リ給ヒテ 瑞御舎太敷立鎭マリ座シマス、刈田度新田ノ封彊ヨリ東ニ石アリ 俗ニ呼ンデ 権現石ト云フ。一、又云、熊野権現ハ 紀伊國熊野山ヨリ 当國鯨伏郷足海ニ着キ給ヒシ時 本宮和泉守橘貞兼奉斎。
一、後光明天皇 正保四年丁亥八月 御殿造営アリ 其上棟ノ文云、奉再建一岐郡 熊野十二所権現宮 御寳殿一字之事、伏願者專祈大旦那松浦肥前守源朝臣鎭信押字
一、又 寛文二年ノ棟札ニ曰、奉再建立熊野大権現 御寳殿一字、大檀那 松浦肥前守源朝臣鎮信花押
一、当社宝物ニ霊劔一口アリ、劔身二尺五寸幅二寸二分、外函ノ銘ニ曰「壱岐國壱岐郡立石村熊野神社霊劔者依爲上古伝来之宝物修覈之畢、神官等慎而勿怠矣、寛文十一年十一月十五日、從五位下松浦肥前守源鎮信」
又其内箱ノ蓋ノ裏ニ金泥ノ文字アリ
一、社領ノ事、松浦肥前守源任押花一通。
一、松浦肥前守源任花押一通。
一、当社ハ藩主ノ崇敬社ニシテ 祭日ニハ 代参馬廻衆参向アリ 又 新御造営ノ節ハ白銀五枚ヲ献ゼラル。
一、明治九年 村社ニ列セラル。
一、明治四十年七月神饌幣帛吊料供進神社ニ指定セラル。
備考、無格社大山祇神社及同今官神社ハ 大正五年五月一日附願済ノ上当熊野神社ニ合祀サル。
【原文参照】
熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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