久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)は 日本中でも長い名前の神社の部類になると思います 地元では「おくまかぶと」と称されて お熊甲祭りでも有名です 御祭神は 久麻加夫都阿良加志比古神(くまかぶとあらかしひこのかみ)と都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の2柱の神を祀っています この神々は 韓国(カラクニ)の王族だと伝わり 阿良加志比古神については 地神とも言われたり 3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅国の王族とも言われています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久麻加夫都阿良加志比古神社(Kumakabuto arakashihiko Shrine)
(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)
[通称名(Common name)]
お熊甲(おくまかぶと)
【鎮座地 (Location) 】
石川県七尾市中島町宮前ホ部68-1-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》阿良加志比古神(Kumakabuto arakashihiko no kami)
《配》都努加阿羅斯止神(Tsunugaarashito no kami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建時期不詳
【由 緒 (History)】
由緒
当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、
一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。
御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。この神々は 韓国の王族で
阿良加志比古神については 地神とも、3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」2年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、4~6世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。
毎年9月20日に行われます例祭は1名を『20日祭り』とも言い、昭和56年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
祭りは20日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする6日の「しらい」から始まり、19日夕刻からの「奉幣迎え」、翌20日早朝から氏子19の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻10時30分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平安を祈念する「祭典」を始めます。高さ20m余りの真紅の大枠旗30数基と金色に輝く20基の神輿。華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。摂社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており 神仏混淆の名残をとどめています。
境内にある校倉造りの『宝物殿』には 弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・薬師社(クスシノヤシロ)《主》少彦名命(スクナヒコナノミコト)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・加茂社(カモノヤシロ)
・末社19社
下記に記載の「各集落(19末社)について」を参照ください
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久麻加夫都阿良加志比古神社
[ふ り が な ](くまかぶと あらかしひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](kumakabuto arakashihiko no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
例大祭のお熊甲祭(おくまかぶとまつり)〈9月20日〉について
数多い能登の祭りの中で奇祭として知られる勇壮な祭りです
国指定重要無形民俗文化財(年中行事等に関する風俗習慣)
熊甲二十日祭(くまかぶとはつかまつり)の枠旗行事(わくばたぎょうじ)
Kumakabuto Hatsuka Matsuri Wakubata Gyoji指定年月日 昭和56年1月21日(指定番号 第193号)
所在地 七尾市中島町宮前
保存団体 お熊甲祭奉賛会
古代、中世以来熊来郷(荘)の総社として近郷の人々から尊崇され、一般的には「おくまかぶと」の称で親しまれてきた式内社である。
祭神の一柱は 意富加羅国(おおからこく)の王子で万葉集に集録されている当地の民謡「新羅斧(しらぎおの)の歌」と共に、古代朝鮮半島との深い交流をしのばせる座像で、昭和25年国の重要文化財に指定されている。
この神社の秋の大祭「お熊申祭』は 数多い能登の奇祭の中でもきわだっており、毎年9月20日に行われることから「二十日祭(はつかまつり)」と呼ばれ、各集落(19末社)からくり出した鉦(かね)・太鼓・猿田彦を従えた祭礼の行列が本社へ集合して祭典が行われる。高さ20mもある深紅の枠旗20数基と金色に輝く20基の神與を若衆が喚声をあげ勢いよく担ぎ、差し上げを繰り返す。見せ場は、各集落が本社に参入する時や、猿田彦が乱舞する「奉幣式(ほうへいしき)」、加茂原での練り回りなどである。熊甲二十日祭の枠旗行事は、昭和56年国の重要無形民俗文化財に指定されている。
平成21年9月 七尾市教育委員会
お祭りの御寄進もあり 地元の方々の信仰と支えを感じます
各集落(19末社)について
お熊甲祭りでは 町内の各集落に鎮座する19末社の神輿が本社に参集して祭典が行われます
末社から繰り出す神輿は 天狗面の猿田彦命役の先導で 高20mほどの真紅の大枠旗や奉幣持ち従えて「イヤサカサー」の掛け声や鉦・太鼓の音も賑やかに本社をめざします
19の末社が揃いくじ引きで決めた順に加茂原に向かって繰り出します
因みに
令和元年 お熊甲祭 渡御順位
一番 田岸・菅原神社
二番 中島・愛宕社
三番 小牧・白山社
四番 横見・八幡社
五番 中島・菅原神社
六番 中島・熊野社
七番 横田・八幡社
八番 外原・神明社
九番 瀬嵐・人麿社
十番 別所・白山社
十一番 宮前・加茂社
十二番 中島・白山社
十三番 上町・市姫社
十四番 浜田・八幡社
十五番 外 ・加茂社
十六番 谷内・白山社
十七番 長浦・加茂社
十八番 深浦・白山社
十九番 山戸田・本宮社
久麻加夫都阿良加志比古神社の指定文化財一覧
指定文化財は 熊甲二十日祭(くまかぶとはつかまつり)の枠旗行事の他にも 県指定 市指定と多数あります
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古」の論社は 2神社あります
・阿良加志比古神社(七尾市)
阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります
阿良加志比古神社(七尾市)
・身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました
身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
御祭神「阿良加志比古神(アラカシコノカミ)」を祀る式内社について
「能登國 能登郡 阿良加志比古神社」
・阿良加志比古神社(七尾市)
阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります
阿良加志比古神社(七尾市)
「能登國 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古」
・久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)
久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)は 日本中でも長い名前の神社の部類になると思います 地元では「おくまかぶと」と称されて お熊甲祭りでも有名です 御祭神は 久麻加夫都阿良加志比古神(くまかぶとあらかしひこのかみ)と都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の2柱の神を祀っています この神々は 韓国(カラクニ)の王族だと伝わり 阿良加志比古神については 地神とも言われたり 3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅国の王族とも言われています
久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)お熊甲祭(おくまかぶとまつり)の社
御祭神「都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)」を祀る式内社について
氣比神宮摂社・〈式内社〉角鹿神社(つぬがじんじゃ)
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
能登中島駅から 県道23号経由 約3.5km 車5分程度
県道23号に面して 南向きに境内が接しています
久麻加夫都阿良加志比古神社(Kumakabuto arakashihiko Shrine)に参着
石の両部鳥居〈笠木の上に屋根を冠せたような両部鳥居の形式〉と社号標は南向きに建ち 長い社号「久麻加夫都阿良加志比古神社」と刻んでいます
鳥居と社殿の間には 9月20日のお熊甲祭で 猿田彦が乱舞し 神輿が練り歩く 広い境内の空間があります
参道の左手には手水舎 右手には御神木の老木「大杉」があります
拝殿にすすみます 扁額には「久麻加夫都阿良加志比古神社」と長い社名が記されていて よくぞ納まったといった感
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 本殿 幣殿 拝殿と連なっていて立派です
拝殿の向かって右側には 校倉造の「宝物殿」 その右に境内社となっている『薬師社』が建っていて 『薬師社』には平安時代の作とされる県の有形文化財「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており 神仏混淆の名残をとどめています
宝物殿の左奥へと参道が延びていて 鳥居が建ち その奥に木立に囲まれて加茂社が鎮座しています
お詣りの後 加茂社の参道を戻ると右に社殿 左に宝物殿 その先に境内が広がります
広い境内に出て 振り返り一礼をして参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第11代 垂仁天皇(スイニンテンノウ)〈即位 BC29~AD70年頃〉の条に 配祀神とされる渡来の人「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」について 詳しく記されています
【意訳】
垂仁天皇 2年春2月 一云の条
また一説によると
御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の御世に 額に角の生えた人が ひとつの船に乗って 越国の笥飯浦(ケヒノウラ)に停泊しましたそれで そこを名づけて「角鹿(ツヌガ)」(敦賀)という
「何処の国の人か」と尋ねると
「意富加羅国(オオカラノクニ)の王(コキシ)の子で 名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト) またの名は于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と言います 人づてに日本国に聖皇(ヒジリノキミ)がいると聞いて、帰化(マウオモブク)しようと思いました
穴門(アナト)〈長門国の古称〉に着いたとき人がいました 名を伊都々比古(イツツヒコ)と言いました その伊都々比古が私の臣(ヤツカレ=部下)に言いました
『私はこの国の王である 私おいて 二人の王はいない 他の所に勝手に行ってはならぬ』
しかし 臣が その人の為人(ヒトトナリ)を見るに 絶対に王ではないと分かりましたので すぐに引き返しました しかし 道が分からずに嶋浦(シマジマウラウラ)をあちこちへ行って 北の海を回り 出雲国を経て ここに来ました」と言いました
このとき、天皇の崩御がありました
そこで 日本にとどまって 活目天皇(イクメノスメラミコト=垂仁天皇)に仕えて三年になりました
天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に尋ねられ
「自分の国に帰りたいか」
「大変帰りたいです」と答えました天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に命じました
「お前が道に迷わず速くやってきていたら 先皇にも会えたことだろう そこで お前の本国の名を改めて 御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の御名をとって お前の国の名にせよ」と言われましたそして 赤織(アカオリ)の絹を阿羅斯等(アラシト)に与えて 本土に返しました それで その国を名付けて「彌摩那国(ミマナノクニ)」というのは この縁によるものです
阿羅斯等(アラシト)は 賜った赤絹(アカキヌ)を自分の国の郡府(クラ)に納めました
新羅(シラギ)の人が それを聞いて兵を伴いやってきて その絹を皆 奪った これから両国の争いが始まったというまた別の説によると
はじめ 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が 国(任那のこと)に居たときに黄牛(アメウジ=アメ色の牛)に農具を負わせて 田舎を行っていましたところが 黄牛あめうしが急にいなくなりました
跡を追って行くと
足跡が ある郡家(ムチ=役所)の中に留まっていました一人の老人が言った
「お前の探している牛は この郡家の中に入った 郡公(ムラツカサ=役人)たちが言うのに『牛が背負っていた物から考えると きっと殺して食べてしまってもいいだろう もしも、牛の持ち主が返せといってきたら 物で償いをしよう』と言って 殺して食べてしまった
もし『牛の代価に何を望むか』と言われたら 財物を望まず 『村にお祀りしてある神を欲しい』と言いなさい」しばらくして 郡公(ムラツカサ=役人)が来て言った
「牛の代価は何を望むか」
老人に言われたように回答したその祀る神は「白い石」であった それで 白い石を牛の代り としました
それを持ち帰って 寝屋の中に置いたところ
すると 石は美しい童女(オトメ)になった阿羅斯等(アラシト)は 大変喜んで交合しようとした
しかし 阿羅斯等が近寄ると童女は消えてしまいました
阿羅斯等は驚き 童女に問いました答えて
「東の方に行きました」と言う
すぐに阿羅斯等は追いかけて ついには海を越えて 日本国に入りました
求めた童女は 難波(ナニワ)に居て 比賣語曾社(ヒメゴソノヤシロ)の神となりました
または 豊国々前郡(トヨクニノミチノクチノクニ)で 比賣語曾社(ヒメゴソノヤシロ)の神となりました
二箇所で祀られたといいいます
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
式内社として 熊来村を比定しています
【意訳】
久麻加夫都(クマカフツ)阿良加志比古(アラカシヒコノ)神社
和抄 能家
書紀額有角人名 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)
〇熊来村に在り
〇能登郡に 荒石(アライシ)比古神社あり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社として 熊来村〈現 七尾市中島町宮前〉を比定しています
【意訳】
久麻加夫都阿良加志比古神社
久麻加夫都は 枕詞なり
阿良加志比古は 仮字なり和名抄 荒木 阿夏岐
〇祭神 明らかなり
〇熊木庄宮前村に在す 神社帳 今 鹿島郡に属す
〇当国 能登郡 阿良加志比古神社もあり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社として 鹿島郡熊木村大字宮前〈現 七尾市中島町宮前〉を比定しています
【意訳】
久麻加夫都阿良加志比古神社
祭神 阿良加志比古神 称 熊甲宮
祭日 3月8月25日
社格 郷社
所在 宮前村 〇鹿島郡(鹿島郡熊木村大字宮前)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
式内社として 鹿島郡熊木村大字宮前〈現 七尾市中島町宮前〉を比定しています
【意訳】
石川県 能登国 鹿島郡 熊木村 大字 宮前
久麻加夫都阿良加志比古神社(クマカフツアラカシヒコノカミノヤシロ)
祭神 都努加阿良斯止神(ツヌカラシトノカミ)
本社は延喜式所載の神社にして 神名帳考証に曰く「久麻加府津 阿良加志比古神社 在 熊来村、倭名抄に能登郡熊来、加夫都冑なりと、又 日本紀に垂仁天皇額有角人名都怒我阿羅斯等、按有、角者謂う冑有なり、阿良加志阿羅斯等り」とあり
然るに社伝には 神亀3年 社頭棟札には 正一位 熊甲大明神 本地 薬師如来とあり 且つ貞應元年 立券状詰衆10人8乙女 神人鹽釜浦 一口長前言未書に官使国使公文代等の姓に判形ありと雖(イエド)も 宇形蟲喰い判然せず今 熊甲阿良加志比古神社と唱えるは 何時の頃よりか 年代不詳と云えり
神祇志料に 延喜式 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社
今在る 鹿島郡熊木庄宮前 熊甲宮と云う 一郷の総社なり尚 当神社を熊甲宮と云うに就いては 同書を按ずるに この地は熊木郷なれば 羽咋と混同すべからず 熊甲宮のこれにあること疑うべし
熊甲社は 任那彦 児彦 荒石彦などの諸社と同じく漢人の祖廟なりき
書紀通證に 垂仁天皇 世 任那人名 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト) 泊干越国筍飯浦 此所祭恐 此人なり
古語拾遺に秦韓百済内附之民 此有 此祠 と記せり 事熟れにするも 当社の熊木村に在るは 往古より巌然たる事なりとす明治6年旧七尾県に於いて郷社に列す
建物は 本殿 拝殿 寶庫あり
境内2106坪を有し 社内に神木と称して大杉あり 秋季には 当社に於いて相撲を行う 康治年間よりの旧例によるなりと云う境内神社 薬師社(クスシノヤシロ) 加茂社(カモノヤシロ)
例祭日 9月20日
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
久麻加夫都阿良加志比古神社(Kumakabuto arakashihiko Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について