久度神社(くどじんじゃ)は 『六国史』には 第56代清和天皇 貞観6年(864)従五位下 第57代陽成天皇 元慶8年(884)従五位上に神階を進む記録があり 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 淡路國 三原郡 久度神社(くとの かみのやしろ)とされます 戦国時代に廃絶し その由蹟も不詳となり 元禄(1688~1703)中頃 僧の碧湛が探り得て 此処に宮居を再建したと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久度神社(Kudo shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県南あわじ市神代國衙1417
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
※祭神には 諸説あり
『神社明細帳』齋火武須毘神〈伊邪那岐命・伊邪那美命の御子 火神 火皇産霊神〉⇒〈久度神・竈神〉
『特選神名牒』久度神
『淡路常盤草』平家の氏神として 仲哀天皇〈久度神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
国衙村社 久度神社 由来
当神社は、淡路十三社の一にして、日本武尊の第二皇子 仲哀天皇を奉祀し、往昔新年国幣に預かる。 第五十六代清和天皇、貞観六年神階従五位下となり、 第五十七代陽成天皇 元慶八年従五位上に進む。
戦国の時代破境して 其の旧蹟不詳なりしを 元禄中頃 僧碧堪探り得て此処に宮居を再興せり。 延喜式の制小社に列し、 江戸時代天和三年、宝永五年社殿を再建し領主より社領を供進せられ、同六年二月村社に列せられ同十五年本殿を再建せり。
旧鳥居は享保十三年に建立されたものなりしが、 破損のため国衙部落の崇敬者の浄財を募り大鳥居を建立し其の事蹟を記し永く後世に伝う。
昭和四十八年十月十六日 国衙崇敬者一同現地石碑文より
【由 緒 (History)】
由 緒
淡路十三社の一つにして、日本武尊の第二皇子仲哀天皇を奉祀し、往昔祈年国幣に預る。
第56代清和天皇、貞観6年(864)神階従五位下となり、第57代陽成天皇、元慶8年(884)従五位上に進む。
戦国の時代破境して其の由蹟不詳。
それを元禄(1688~1703)中頃、僧碧湛探り得て此処に宮居を再建せり。延喜式の制小社に列し、江戸時代天和3年(1683)、宝永5年(1708)社殿を再建し、領主より社領を供進せられる。
明治6年(1873)、村社に列せられる。
明治15年(1882)本殿を再建。旧鳥居は、享保13年(1728)に建立されたものであるが、破損のため国衙部落の崇敬者の浄財を募り、大鳥居を建立し、其の事蹟を記し永く後世に伝える。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・拝殿の向かって左に 石祠等 数宇あり
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
久度神(クドノカミ)に 神階 従五位下
【抜粋意訳】
卷八貞觀六年(八六四)二月五日〈壬戌〉
○五日壬戌
授に
出羽國正四位上勳六等月山神從三位正四位下勳五等大物忌神正四位上
伊豆國從四位上三嶋神正四位下備中國正六位上宮原神
淡路國正六位上久度神(クドノカミ)に 並に從五位下を攝津國 武庫郡節婦早部連氏成賣。年十六。適右京人文室眞人武庫麻呂。歴廿七年。武庫麻呂死。氏成賣居喪有禮。事死如生。日不再食。遂不改醮(しょう)。詔叙位二階。免戸内田租。終身勿事。即表門閭。以旌貞操
【原文参照】
久度神に 神階 従五位上
【抜粋意訳】
卷四十六 元慶八年(八八四)九月廿一日〈戊寅〉
○廿一日戊寅
授に
相模國 從四位上 寒河神 正四位下
淡路國 從五位下 湊口神・久度神に 並に從五位上を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)淡路國 13座(大2座・小11座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三原郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久度神社(貞)
[ふ り が な ](くとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuto no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
淡路國 三原郡 久度神社(貞)(くとの かみのやしろ)に関連する式内社
現在の御祭神は 仲哀天皇とされています
しかし 奈良の久度神社や京都の平野神社に祀られている゛久度神゛と同一とする説もあります
式内社 大和國 平群郡 久度神社 について
奈良の平城京から平安への遷都〈延暦十三年(794)〉の際 創建されたとされる 平野神社(京都市北区平野宮本町)〈旧官幣大社〉の第二座には 久度神社(王寺町久度)から遷されて゛久度神゛が祀られています
・久度神社(王寺町久度)
久度神社(くどじんじゃ)は 『續日本紀』延暦二年(783)には゛官社に列す゛『延喜式神名帳』には゛大和國 平群郡 久度神社(くとの かみのやしろ)゛と所載される由緒ある古社です 尚〈延暦十三年(794)〉奈良〔平城京〕から平安遷都に際し創建された平野神社の第二座には 当社から遷された゛久度神゛が祀られています
久度神社(王寺町久度)〈延喜式内社 久度神社の論社〉
式内社 山城國 葛野郡 平野祭神四座 並名神大 について
現在の祭神は次の4柱
第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ、今木神) - 主神
第二殿:久度大神(くどのおおかみ、久度神)
第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ、古開神)
第四殿:比売大神(ひめのおおかみ、比売神/比咩神)
※一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られます 第二殿が゛久度神゛
・平野神社(京都市北区平野宮本町)
平野神社(ひらのじんじゃ)は 延暦13年(794)平安京遷都の際 第50代・桓武天皇の命により 平城宮〈奈良〉で祀られていた今木神 久度神 古開神をこの地に遷座し 後に相殿に比賣神が祀られて四座となり『延喜式神名帳』には゛山城國 葛野郡 平野祭神四座(ひらのの まつりのかみ よやしろ)並名神大゛と所載されます
平野神社(京都市北区平野宮本町)〈全国唯一の「皇太子御親祭」が定められた神社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神戸淡路鳴戸自動車 西淡三原ICから 約8.4km南下 車12分程度
境内の北側に車道が通じていて社殿のすぐ脇に出ます
久度神社(南あわじ市神代國衙)に参着
社頭は西側にあり 一度正面の鳥居へと向かいます
鳥居をくぐり 一旦 外に出ます
一歩 鎮守の杜の外に出ると日差しは強く 東南方向には牛内ダムのある山間が続いています
改めて 一礼をして鳥居をくぐります
境内には玉垣が廻されていて 内側には石灯籠 その手前には由緒書きの石碑があります
拝殿にすすみます
どうやら 社殿は氏子の方々の御寄進により 昭和五十九年に竣工しているようです
狛犬は古く威厳があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって左手には 石祠が祀られています
拝殿の奥には 漆喰の御塀に囲まれて 本殿が祀られています
一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 久度神社について 所在は゛國衙の支邑久度村に在す゛〈現 久度神社(南あわじ市神代國衙)〉と記し
祭神は不明だとしながら 類社として〈久度大神(くどのおおかみ)を祀る〉山城國 葛野郡 平野祭神四座を挙げています
【抜粋意訳】
久度神社
久度は 假字也
〇祭神 詳ならず、〔山城國平野社の條下考へ合すべし、〕
〇國衙の支邑久度村に在す、今 社地僅に二十歩許 小祠あり、〔常盤草〕
類社
山城國 葛野郡 平野祭神四座の條見合すべし神位
三代實錄、貞観六年二月五日壬戌、授ニ淡路國正六位上 久度神 從五位下、元慶八年九月廿ー日戊寅、授ニ淡路國 從五位下 久度神 從五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 久度神社について 所在は゛今 國衙村の久度にあり゛〈現 久度神社(南あわじ市神代國衙)〉と記しています
【抜粋意訳】
久度神社、
今 國衙村の久度にあり、〔神名帳考証、淡路常盤草、神名帳打聞〕
清和天皇 貞観六年二月壬戌、正六位上 久度神に從五位下を授け、陽成天皇元慶八年九月戊寅、從五位上を加ふ、〔三代実録〕
凡二月九月十六日祭を行ふ、〔明細帳、淡路式社考証、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 久度神社について 所在は゛國衙村(三原郡神代村大字國衙)゛〈現 久度神社(南あわじ市神代國衙)〉と記しています
祭神について 考証していて
明細帳では 祭神 齊火武須毘神〈伊邪那岐命・伊邪那美命の御子 火神 火皇産霊神〉⇒〈久度神・竈神〉
淡路常盤草では 平家の氏神として 仲哀天皇〈久度神〉
【抜粋意訳】
久度神社
祭神
今按 明細帳 祭神 齊火武須毘神とあれと 常磐草に平家の氏神 仲哀天皇と云説を引り 何れも信かたし 齊火武須毘神と云るは 近き頃 久度は和名抄に窯和名久度窯後穿也とあるによりて 久度神は竈神なり 竈神は文德實録に大炊寮大八島竈神齋火武主比命とある神なりと云説あるによりて云るなれは取かたし 平野神の御名定まりて後に 此祭神をも定むへき事なり神位
清和天皇
貞観六年二月五日壬戌 授淡路國正六位上 久度神 從五位下
元慶八年九月廿一日戊寅 授淡路國 從五位下 久度神 從五位上祭日 二月九月十六日
社格 村社所在 國衙村(三原郡神代村大字國衙)
【原文参照】
久度神社(南あわじ市神代國衙)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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淡路国(あわじのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 淡路国 13座(大2座・小11座)の神社です 『古事記』『日本書紀』の記紀神話”国産み神話”によれば 日本列島で最初に生まれた島とされます
淡路国 式内社 13座(大2座・小11座)について