実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)

神前神社(こうざきじんじゃ)〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)・荒前神社(あらさきじんじゃ)〉は 3社ともに『皇太神宮儀式帳(804年)』所載の古社 中世頽廃し廃絶の後 寬文三年(1663)松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」再興儀式帳所載の舊地ではない其の後 高浪により山上に移転 さらに明治40年(1907)に現在地に移轉され2社が御同座したものです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神前神社(Kouzaki shrine

〈御同座 許母利神社(Komori shrine)〉
〈御同座 荒前神社(Arasaki shrine)〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市二見町松下字尾谷1407-5

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

神前神社(こうざきじんじゃ)
《主》荒前比賣命(あらさきひめのみこと)

〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)〉
《主》粟嶋神御魂(あわしまのかみのみたま)

〈御同座 荒前神社(あらさきじんじゃ)〉
《主》荒前比賣命(あらさきひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社神前神社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉(神前神社
・〈皇大神宮(内宮)末社〉(御同座 許母利神社・荒前神社

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される内容

【抜粋意訳】

神前神社

鎭座地 三重縣度會郡二見町大字松下

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

神前(カウザキ)神社も亦、延喜大神宮式及び神名式に見ゆ。倭姫命 皇大神を奉じて五十鈴河江に入りまし江の社を定め給ひて後、更に荒前姫の参り相    へるに國の名は何ぞど問ひ給ひし時、答へて皇大神御前荒前と申しゝかば、恐しと詔りて神前社を定め給へること太神宮本記に見えたり。
儀式帳には祭神 荒前比賣(アラサキヒメ)命に作り、國生(クナリ)神の御子と爲せり。
中世衰頽して社地明かならざりしを、寬文三年松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」に本社を造立せること、攝社再興記に見ゆ。
然るに高浪 社域を侵しゝかば、享和中 之を其の山上に奉遷せしが  安全を保し難きを以て、明治四十年再び現地に移轉せり。但し儀式帳所載の舊地にあらず。一説松下の天王祠を以て本社に擬せり。

許母利神社

鎭座地 攝社神前神社 御同座

許母利(コモリ)神社も亦、倭姫命の祝ひ定め給ふ所にして、粟島(アハシマ)神の御玉を奉祀せること儀式帳に見ゆ。
度會郡二見町大字松下の北東、舊神前神社址の上方 山上に叢林あり。ー説之を以て本社の舊地となせり。

荒前神社

鎭座地 攝社神前神社 御同座

荒前(アラサキ)神社も亦、倭姫命の祝ひ定め給ふ所にして、國生神の御子 荒前比賣(アラサキヒメ)命を奉祀せること儀式帳に見えたり。
倭姫命 五十鈴川後よりいでまし江社を定め給ひて後、荒崎日女命の参り會ひて神前社を定め給ひしこと、太神宮本記に見えたり。〔〇神前神社條参照〕
本社の鎭座も恐く此の時にあらん。中世 社地湮晦して再興に至らず。明治四年以後、神前神社に御同座奉祀す。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『大神宮叢書』第2 前篇〈昭和10-15年〉に記される内容

【抜粋意訳】

大神宮儀式解卷第十五 荒木田神主經雅

神社(カンザキノヤシロ)一(ヒトトコロ)

神前は加牟(カン)〔音便にて加宇(カウ)の如く唱ふべし。〕邪伎(ザキ)とよむべし。神(カン)は神(カミ)の知ります意もていへり。前(サキ)は崎(サキ)の借字(カリモジ)なり。〔崎(サキ)の訓は先(サキ)の意にて、刃(ヤシバ)に鋒(サキ)といふも義通へり。海に突出て國の眞先(マサキ)なるよりいふ。継體紀二十三年、嶋曲、註謂、海中嶋曲碕角也、俗云 美佐祁(ミサキ)と見え、利名抄、岬汀共に三左木(ミサキ)と見えたり。〕
右神崎は阿波良伎乃崎(アハラキノサキ)なり。神の字を加(クハ)へて阿波良木乃神崎ともいふ。當社は宇治郷〔上古は伊介の郷ならむ歟。可考。〕松下村に属(ツキ)て、二見の立石崎(タテイシザキ)より東の海邊 阿波羅依(アハラギ)の神崎にあり。仍神崎社と號(ナヅケ)しなるべし。倭比賣命世記、皇女大御神を載せり、二見より五十鈴ノ川後(カハジリ)に幸行したまふ時、荒前比女参り相へり。國の名問ひ給ふ時、皇大神御前荒前と申せり、其處(ソコ)に神前社定たまふと注(シル)せり。
大神宮式、所攝二十四座云々、神前社云々、右ノ諸社竝に預に祈年神嘗祭に。
年中行事〔六月十五日、〕贄海神事云々、爲レ奉に仕荒蠣御贄等を、参に阿原木神崎(アハラキノカンサキニ)云々、海路之間、於に小朝熊前に、乍乘船在に神拜、到に著 阿原木神崎に、先祭に崎々神々を云々、鹽の干(ヒル)を相待、禰宜等於に字は神崎に、種々の御饌物を取、と見ゆ。〔此神崎は御饌嶋(ミケシマ)ともいひて、當社の西の方に大なる岩数箇あり。嶋のごとし。御坐(ゴザ)の岩(イハ)といふも相竝びたり。阿波良木嶋〔飛嶋ともいふ。〕とは別なり。〕
當社昔は國郡司作れり。下瀧原神社の下、右ノ社随に破壞之時、國郡司以に正税修造、といへり。いつの比より此式廃(スタ)れ、社地のみにて絶(タエ)たるを、寬文年中 大司精長ノ朝臣 古への式の如く再興の後、宮司より造り替(カヘ)らる。

稱に國生神兒(クナリノカミノミコ)荒前比賣命(アラサキビメノミコト)。形石坐(ミカタイシニマシマス)

稱は上の例と同く、下の命(ミコト)よりかへりて訓べし。
〇國生神は上〔大土社の處〕に見ゆると同神なるべし。
〇荒前比賣命は阿羅佐吉毘賣乃美許等(アラサキビメノミコト)と訓べし。荒(アラ)は此の神崎あらき海邊(ウミベタ)なるよりいふ。前(サキ)は崎(サキ)の借字(カナ)なり。卽その荒崎を御名(ミナ)とせしならん。此ノ神昔より此地をうしはきたまひし歟。又他(ホカ)に功(イサヲシ)ありて祝奉(イハヒマツ)りしにや。

同内親王(オナジヒメミコ)定祝(イハイマツル)。

右神前ノ社も倭比賣内親王定め祝ひたまふとなり。

正殿(ショウデン)一區(イチク)。 長さ四尺。弘さ五尺。高さ六尺。

正殿は荒前姫命の形(ミカタ)を鎭(イズメ)奉る社なり。千木竪魚木已下宮殿の制、古も今ノ世のごとく造り奉しならん。こゝにいはぬは文の略なるべし。今ノ世正殿一宇、長五尺、弘三尺五寸、高九尺七寸、板葺、千木四枚、堅魚木四枚あり。

玉垣一重(タマガキヒトヘ)。長さ四丈。高さ八尺。

此の玉垣今も造(ツクリ)奉れり。又今此ノ垣に属(ツキ)たる御門一間、鳥居一基を造り進れり。〇當社御裝束神實、今ノ世御樋代一合、御床一具、御幌一條、奉遷ノ絹垣一條、御鉢二竿、御矢四斐、御弓二張、御櫛筥ー合、御鏡一面を宮司より作り進れり。

坐地(オハシマストコロ)二町二百步。四至(シシ)。東北大海(ヒガシキタハオホウミ)。南西山(ミナミニシハヤマ)。

一本海を溝に作るは誤なるべし。當社四至今も大凡これに同じ。近世高波の時、社地崩(クヅ)れ、樹木も多く倒(タヲレ)たり。元祿勘文、當社敷地廻一町半、としるせり。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

【抜粋意訳】

大神宮儀式解卷第十五 荒木田神主經雅

未官帳入(イマダクワンノチョウニイラメ)田社事(デンシャノコト)

許母利神社(コモリノヤシロ)。

許母利(コモリ)は小森(コモリ)歟。また木森(コモリ)の借字(カナ)にて此ノ邊の地名なるべし。當社は松下村天王ノ森〔江村の前の江を隔(ヘダ)てゝ東の岸にあり。今の世俗蘇民森ともいふ。氏經卿神事記には松下社とあり。〕より。神前社に至る道のかたへなる山の嶺(イタダキ)に在り。今社は絶て僅(ワズカ)に森あり。これ許母利社の社地といへり。件の社地、元祿勘文、廻四十間餘、と見たり。

粟嶋神御玉(アハシマノカミノミタマ)。形無(ミカタナシ)。

粟嶋神御玉は 阿波之萬乃加美乃美多麻(アハシマノカミノミタマ)とよむべし。〔粟は借字、淡の義なり。〕
栗嶋神は神名式、志摩國答志郡栗嶋坐 伊射波(イサハノ)神社二座にや。又別に粟嶋神あるにや。いづれにまれ此(ココ)にはその粟嶋の神の御蔭(ミカゲ)を祭るなり。直(タダ)に粟嶋神にあらねば御玉といへり。御玉の事は上往々いふがごとし。
〇或人、神名式、志摩國粟嶋坐伊射波神礼二座は伊雜宮の事ならず、下に見ゆる荒前神社にて、志摩國安樂嶋(アラシマ)〔訓に阿良志麻〕の崎なる加夫良古(カブラコノ)明神なり、延喜式奏上の時、伊雜宮は大神宮司注進して大神宮式の申に收め、安樂嶋なる神社は國司注進して志摩國粟嶋坐伊射波神社二座とし、神名帳に收むるなり、今の世まで志摩國一宮といふは加夫良古明神なり。これを併考へ、且は許母利神社と加夫良古明神と相遠からず、浦つヾきなれば、安樂嶋の加夫良古明神の御玉を許母利神社と祭りもしつらんといヘり。粟嶋(アハシマ)、阿樂嶋(アラシマ)語相近く、その地勢も合(カナ)へば然(サ)も有なん歟と思へど、徴とすべき事なく、又加夫良古明神は荒前比賣神なれば、此神につきて疑有りつれど、ことの序に注しつ。次荒前神社の下にいふと照し見るべし。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

【抜粋意訳】

大神宮儀式解卷第十五 荒木田神主經雅

未官帳入(イマダクワンノチョウニイラメ)田社事(デンシャノコト)

荒前神社(アラサキノヤシロ)。

荒前は阿良佐岐(アラサキ)とよむべし。當社は志摩國 答志郡(タフシノコホリ)安樂嶋(アラシマ)の崎なる加夫良古(カブラコノ)明神なるべし。こゝに注(シル)せしは皆 度會郡の神社なり。當社は志摩國なれば、加夫良古にはあらじといへど、伊勢志摩地を接(マジ)へ、ことに當社の邊アタリの事はことの序ツイデにまかせて、いづれとも記しつべき國界の處なり。殊に上世志摩伊勢同國なるをも思べし。前(サキ)は上〔神崎神社の所〕にいふごとく崎の借字(カナ)なり。當社坐す村を安樂嶋(アラシマ)といふも、もとは荒前(アラサキ)村なるべし。好字を用(モ)て荒(アラ)を安樂(アラ)とし、崎を嶋と轉ぜしと見ゆれば、荒崎は地名なり。それを社の號とす。年中行事、〔六月十五日、〕贅海神事云々、惡志(アクシ)赤崎(アカサキ)加布良古(カブラコノ)明神幷に浦々崎々神達に申くと云也、とあり。往年己經雅二見ノ浦より船を泛(ウカメ)て烏羽ノ城邊の嶋々を見めぐり、飽石(アクシ)に至り、又赤崎(アカサキノ)神社等を拜み、それより麻生(ヲフノ)浦に至る。その中間に安樂嶋村(アラシマムラ)あり。そこの海邊(ウミベ)の山岸(ヤマギシ)に加夫良古(カブラコノ)明神坐す。村人造り進るよしにて小社一宇あり。さて上神〔許母利神社の所〕にあげし或説のごとく、此の加夫良古明神は、神名式、志摩國 粟嶋坐伊射波神社の事ならば、彼ノ許母利神社に坐す神は當社の御霊(ミタマ)なるべし。但當社に祭る神、神崎神社と同神なれば、當社に祭る神の御霊(ミタマ)といはんより、許母利神社に近き神前神社に坐神の御玉なりとあるべきに、官帳にも入て重く、且相近き神前神社の神の御玉は祭らずして、田社といひ、程遠き當社に祭る神の御玉を許母利神社に祭る事、その子細あるべく覚ゆ。

國生神兒(クナリノカミノミコ)荒前比賣命(アラサキヒメノミコト)。形石坐(ミカタイシニマシマス)。

國生神兒荒前比賣命は上〔鴨前神社の所〕にいへり。此ノ神浦々にて有功神(イサヲシアルカミ)なる歟。又古代此あたりをうしはき給ひし神なる歟。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/123969

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

゛贄海神事の祭場゛・寬文三年(1663)攝社再興の地か?

二見町松下の北方海岸〈神前海岸〉の山麓に鎮座する祠

゛松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」に本社を造立せること、攝社再興記にあり
然るに高浪 社域を侵しゝかば、享和中 之を其の山上に奉遷せしが 猶 安全を保し難きを以て、明治四十年再び現地に移轉せり゛
神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15.

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

神前神社は 皇大神宮(内宮)摂社
御同座 許母利神社・荒前神社は 皇大神宮(内宮)の末社

・皇大神宮(内宮)

一緒に読む
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 神前神社
[ふ り が な ]かむさきの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kamusaki no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)は
『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に記載される 古社です

神社(カンザキノヤシロ ヒトトコロ)
國生神兒(クナリノカミノミコ)荒前比賣命(アラサキビメノミコト)。形石坐(ミカタイシニマシマス)

許母利神社(コモリノカミヤシロ)
粟嶋神御玉(アハシマノカミノミタマ)。形無(ミカタナシ)。

荒前神(アラサキノカミ)
國生神兒(クナリノカミノミコ)荒前比賣命(アラサキビメノミコト)。形石坐(ミカタイシニマシマス)

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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神前神社゛は延喜式神名帳927 AD.には 五か所の所載があります

延喜式神名帳927 AD.には 神前神社゛と所載される神社が 5か所〈和泉國1か所・伊勢國に2か所・近江國1か所・〉あります 各々の論社について紹介します

和泉國 日根郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)

・脇浜戎大社(貝塚市脇浜)
〈高靇神社に合祀されている神前神社〉

伊勢國 度會郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)

・神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)

神前神社(こうざきじんじゃ)〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)・荒前神社(あらさきじんじゃ)〉は 3社ともに『皇太神宮儀式帳(804年)』に所載の古社 中世頽廃し廃絶の後 寬文三年(1663)松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」再興〈儀式帳所載の舊地ではない〉其の後 高浪により山上に移転 さらに明治40年(1907)に現在地に移轉され2社が御同座したものです

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・松下社(伊勢市二見町松下)
〈神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉の旧鎮座地〉

一緒に読む
松下社(伊勢市二見町松下)

松下社(まつしたやしろ)は 倭姫命御一行が二見を訪れ 船を泊められたことから 御船社とも云うとの伝承を持つ古社 現在の神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉の旧地とも伝わる為 延喜式内社 伊勢國 度會郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)の旧鎮座地とされます

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伊勢國 三重郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)

・神前神社(四日市市高角町)

近江國 伊香郡 神前神社(かさきの かみのやしろ)

・神前神社(長浜市木之本町石道)

一緒に読む
神前神社(長浜市木之本町石道)

神前神社(かみさきじんじゃ)は 白鳳三年(663)役小角が神前大神を崇敬し 神亀元年(724)行基が ゛高尾寺゛を一宇建立するも焼失 延暦15年(796)最澄が行基の聖蹟をたどり 祠(神前神社の旧跡)の御前で゛杉の枝゛を玉串として地面に挿した この゛神前杉゛は「逆さの杉」と呼ばれる大木に成長し 現在も毎年4月29日 神前神社の氏子は参拝し 神前杉に御幣を捧げます

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讃岐國 寒川郡 神前神社(かさきの かみのやしろ)

・神前神社(さぬき市寒川町神前山崎)

・春日神社(さぬき市寒川町神前石井)

・男山神社(さぬき市寒川町神前寺尾)

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 二見浦駅からR42号経由で東へ約2.4km 車10分程度で山の麓に至ります

神前海岸に出ます

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神前(こうざき)海岸と潜島(くぐりじま)

Kozaki  Coast   Kugurijima

 神前海岸は海水や磯波の激しい侵食によってできた岩石海岸で、各所に急峻な海食崖が発達しています。
崖面にみられる断層や節理と呼ばれる天然の割れ目などの弱帯には、立石崎の天の岩屋を始めとする海食洞が形成されており、特に神前岬の潜島は唯一の海食洞門を成しています。

 この潜島は神格化されており、旧暦6月1日頃になると村民総出で注連縄(しめなわ)を作って洞門へ懸け替え、家内安全を祈願しています。

 潜島はこの先800mですが大潮の干潮時でないと行くことができませんので潮時にご注意ください。

堤防の案内板より

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神前神社の当初の鎮座地は 潜島の傍であったとも伝わっています

この堤防沿いの道の行き止まりから 徒歩で森の中に入ると
参道のような場所があります

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神明鳥居が建ち 玉垣に囲まれて 小祠が一宇祀られていました
どう見ても ただの民間の祀事ではありません

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殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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実は この時は ここが神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉だと思っていました
しかし 余りにも小祠なので違うのかと想い 考えてみると現在は 山の上に鎮座している事を思い出しました

ここは おそらく
中世衰頽して社地明かならざりしを、寬文三年松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」に本社を造立せること、攝社再興記に見ゆ。
然るに高浪 社域を侵しゝかば、享和中 之を其の山上に奉遷せしが 猶 安全を保し難きを以て、明治四十年再び現地に移轉せり゛

とある 寛文三年の再興の地なのではないか゛松下村の北方海岸の山麓゛という 地理的にも一致し 海岸のすぐ傍で贄海神事の祭場゛高浪 社域を侵され゛も納得のいく場所です

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改めて神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に向かいます

R42号の゛日の出橋東゛の交差点を左折〈東へ〉進み突き当りまで進みます

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山へと上がる参道を進みます

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ここからは 山道のような石段を数えきれないほど登る

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)に参着

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社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 長い石段参道を下ります

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 神前神社について 所在は 宇治郷松下村神崎に〈現 神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

式外社 許母利神社について 所在は 松下村神前社西南高山上に在す

式外社 荒前神社について 所在は 旧地が廃亡して不明であると記しています

【抜粋意訳】

神前神社

神前は加牟佐岐と訓べし

〇祭神 荒前比賣命

〇宇治郷松下村神崎に、神名略記、

〇式四、伊勢大神宮 大神宮所攝 二十四座の第十五に載す、
〇倭姫世紀云、又荒崎姫参相、國名問給、白久 ,皇太神御前荒崎止白支、恐 志止 詔、神前社定給、』
儀式帳云、稱に國生神 兒 荒前比賣命、形石坐、倭姫内親王定祝、

類社
和泉國日根郡 神前神社の條見合すべし

〇附録 式外社 大神宮別宮攝社 許母利神社

祭神 栗烏神御玉

〇宇治郷松下村神前社西南高山上に在す、神名略記、

〇儀式帳云、粟島神御玉、形無

連胤云、粟鳥神とあるは、疑ふちくは伊佐波神なるべし、紀伊國加太神には非ざるべき、

〇附録 式外社 大神宮別宮攝社 荒前神社

祭神 荒前比賣命

〇今廉亡す、ならず、神名略記、

〇儀式帳云 ,國生、荒前比賣命・形石坐、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 神前神社について 所在は宇治郷松下村神崎に〈現 神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉だが 現在地は旧跡ではない と記しています

【抜粋意訳】

神前〈カムサキノ〉神社

今 宇治郷松下村阿波良伎の神崎にあり、神名秘書、神名帳考証、延暦儀式帳、
〇按 伊勢式社検録云、本村 産神 天王祠 儀式帳に四至に符へれば、遺存と云へし、今の地は 神崎の名に泥みれるにて、舊址にあらず、

生神の兒 荒前此賣命を祭る ,形石に坐す、倭姫命定祝奉る、延暦儀式帳、

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

毎年六月十五日、祝部神崎に至て、太神の御贄荒蠣を執て供奉る、之を御贄神事と云、伊勢年中行事

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 神前神社について 所在は度會郷二見町大字松下〈現 神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
寛文三年に再興された地は 贄海神事(にえうみのしんじ)の斎場であり 旧跡ではない 旧鎮座地は 松下村の産神〈現 松下社(伊勢市二見町松下)〉である と記しています

【抜粋意訳】

神前神社

祭神 荒前比賣命 (國生神 兒)

祭日 同上
社格 内宮所攝廿四所之一 (内宮攝社 )

所在 三重縣宇治郷村下村神前(度會郷二見町大字松下)

今按に 檢錄に寛文三年 今の地に造立す 其地は贄海神事の祭場にて 舊地には非ず 松下村の産神その舊社ならむ四至 儀式帳に合へりと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

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