実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

清野井庭神社(きよのいばじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳』延暦23年(804)〉に載る豊受神宮(外宮)摂社 延喜式神名帳927 AD.には伊勢國 度會郡 清野井庭神社しのゐての かみのやしろ所載される古社です 中世に頽廃し社地不明となりました 現在の社地は 寛文三年(1663)大宮司・河邊精長により 再興されたものです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

清野井庭神社(Kiyonoiba shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市常磐1-1197

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》草野姫命(かやのひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
〈豊受神宮(外宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『訳註大日本史』六昭和17年〉に記される内容

【抜粋意訳】

卷之二百五十四  志第十神祇十一  神社六

伊勢 度會郡五十八座   大神宮以下十四座上に見ゆ

清野井庭神社(きよのゐでのかみのやしろ

〇神名秘書・神祇本源竝に云ふ、沼木郷山田村に在りと。然れども今詳かならず。按ずるに山田村下中郷町に清川あり、清森堤あり。蓋し竝に清野の遺構か。其の他に一祠あり、伊麻社と曰ふ。伊麻・井庭は音訓相近し、是れ或は本社ならん。附して以て考に備ふ。
屋船(やふねの)神を祀る。神祇本源、に引ける上代本紀。
即ち木神句句廼馳(きのかみ くくのち)なり。延喜式・日本書紀を参取す。

〇神名秘書に草神と為す。神祇本源、は草野姫と為す。

【原文参照】

徳川光圀 撰 ほか『訳註大日本史』六,建国記念事業協会・彰考舎,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920578

【由  (History)】

『伊勢参宮道中独案内』〈明治22年〉に記される内容

【抜粋意訳】

清野井庭神社(きよのじんじゃ)

常磐町(ときわちょう)となり草野姫(かやのひめの)命
外宮摂社十六社の内也

【原文参照】

大矢剣居 編『伊勢参宮道中独案内』,吉岡平助,明22.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765410

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

清野井庭神社は 豊受神宮(外宮)摂社

・豊受神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 清野井庭神社
[ふ り が な ]しのゐての かみのやしろ
[Old Shrine name]Shinoite no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

延喜式内社 伊勢國 度會郡 清野井庭神社(しのゐての かみのやしろ)の論社について

清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉は 寛文三年(1663)大宮司・河邊精長により 現在地に再興されたものですが 本来の旧鎮座地は 今社(伊勢市宮町)とする説が通説となっています

・清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

清野井庭神社(きよのいばじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に載る豊受大神宮(外宮)の摂社で 『延喜式神名帳〈927 AD.〉』には伊勢國 度會郡 清野井庭神社(しのゐての かみのやしろ)と所載される古社です 中世に頽廃し社地不明となりました 現在の社地は 寛文三年(1663)大宮司・河邊精長により 再興されたものです

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・今社(伊勢市宮町)
〈清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の古社地〉

一緒に読む
今社(伊勢市宮町)

今社(いまのやしろ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る「清野井庭神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉」の旧鎮座地とされる古社です 今社(いまのやしろ)と呼ぶのは 井庭の社(いばのやしろ)の訛とも伝わります

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)延暦23年(804)〉に載る 古社です

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 山田上口駅から東へ約350m 徒歩5分程度

野井公園に隣接して鎮座します

清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉に参着

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社頭入口は 境内の東南の位置に在り 東を向いています
社号標には゛清野井庭神社 社域゛と刻字されています

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一礼をして 東から境内に進みます

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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急に強い日差しが差し込んできました

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深々と一礼をして 境内を出ます

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 清野井庭神社について 所在は沼木郷大間社東野今俗云小間社に在す〈現 清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

祭神について 検証をしています

【抜粋意訳】

清野井庭神社

清野は幾與能と訓べし、井庭は為婆と読り、

○祭神 句々廼馳命

〇沼木郷大間社東野今俗云小間社に在神名略記

○式四、伊勢大神宮度會宮所十六座の第九に載す、
〇御鎮座本紀云、屋船命、草木霊、今號度曾郡坐清野井庭神社也、

神名略記に、祭草野姫草神と云り、
連胤 按るに、御鎮座本紀に、屋船命と云ひ、大殿祭祀詞に、汝屋船命爾天津奇護言乎以弖言鎮白久、云々、平〔氣久〕安久奉護留神御と乎白久、屋船久々能遅命、是木霊也〕とあれば、草野姫とは差定めがたし、故に今是を改む、略記は、神名秘書に草神とのみあるより混れたるベし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 清野井庭神社について 所在は沼木郷大間社東野今俗云小間社に在す〈現 清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉としているが この地は旧跡ではない 旧跡の所在は下中之郷町上之久保の北に今社と云あり〈現 今社(伊勢市宮町)〉である と記しています

【抜粋意訳】

清野井庭(キヨヌノヰニハノ)神社

今 沼木郷山田村 大間社の東にあり、神名秘書、神境紀談、神名帳考証

〇按 伊勢式内検録云、社記傍注に、大問社東野とあるに、今の地は大間の社内なれは舊址にあらず、下中之郷町上之久保の北に今社と云あり、今は井庭の轉にて、大間社東野と云に叶ひ、其社北に清川と稱する河あるもの清野の遺構なるを証と云り

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 清野井庭神社について 所在は宇治山田市大字常磐町〈現 清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉〉に寛文三年に再興されているが この地は旧跡ではない 旧跡の所在は上之久保の北にある今村社〈現 今社(伊勢市宮町)〉である と記しています
今社(いまのやしろ)と呼ぶのは 井庭の社(いばのやしろ)の訛と記しています

【抜粋意訳】

清野井庭神社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日
社格 外宮所攝十五所之一 (外宮攝社 ) 

所在 三重縣沼木郷山田大間廣北 (宇治山田市大字常磐町)

今按に 檢録にこの社以て寬文三年今の地に造立しつれど 舊社は其東方なる上之久保の北にある今村社とも今村殿とも云神社是なり いまの社と稱するは井庭の社の訛なりと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

清野井庭神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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