気多神社(きたじんじゃ)は 社記によれば 貞観元年(859)に当地に鎮座したと云い 祭神は意氣長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉とされます 二つの式内社〈阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)・井田神社(ゐたの かみのやしろ)〉の論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
気多神社(Kita shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県沼津市内浦三津112
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》意氣長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
気多神社ゆらい
神社記に貞観(八五九年)始めにご鎮座と記されています。
御祭神は、元八幡宮 誉田天皇(ほむらすめらみこと)の御親にて気多羅司姫之尊成と記されていますので、誉田天皇(第十五代応神天皇と同じ)の母親で第十四代仲哀天皇のお后 神功皇后様だと伝えられております。
社記によると御神形古代神書(仁和四年・八八八年)は腐失 永禄元年(一五五八年)九月十五日に菅原道實卿がこれを改めたとあり、末尾に菅家の御歌二首が乗せられております。
☆名久利幾天三津乃浦辺仁宿家利天波男間久良仁夢口見計利
(巡りきて みとのうらべに宿かりて 波を枕に夢ぞ見にけり)☆児廼家御濃女久見茂富加記三津成口千比呂乃浦丹波風毛奈志
(この神の恵も深きみとなれど ちひろの浦に波風もなし)社 名 気多神社(きたじんじゃ)
神社庁登録 五級社
御祭神 意気長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)
御鎮座 貞観始(八五九年)
社 表 犬飼毅元総理の筆で大正九年一月に建立例 祭 十月十八日
※附記
境内社 八坂神社
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
例 祭 七月第一土曜日と翌日現地案内板より
【由 緒 (History)】
気多神社(きたじんじゃ)
祭神は意気長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)で、延喜式内社の阿米都瀬気多知命(あめつせけたちのみこと)神社に比定されている。
社記によれば貞観(じょうがん)元年(859)に当地に鎮座したとされる。石鳥居の前に立つ社表(石柱)は犬義毅(いぬかいつよし)の筆によるものである。社殿の南側には、明治21年(1888)に区で購入した龍吐水(消防ポンプ)2基が保存・展示されている。
文化財まちあるきマップ 内浦編「内浦地区(重寺〜重須)の文化財をめぐる」
2023年4月発行 発行・編集:沼津市教育委員会事務局文化振興課(沼津市文化財センター)より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・〈境内社〉八坂神社《主》須佐之男命
・鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
気多神社(沼津市内浦三津)は 二つの式内社〈①阿米都瀬氣多知命神社②井田神社〉の論社となっています
①阿米都瀬氣多知命神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿米都瀬氣多知命神社
[ふ り が な ](あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ametsuse no ketachi no mikoto no kaminoyashiro)
②井田神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 22座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 井田神社
[ふ り が な ](ゐたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ita no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊豆國 田方郡 阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)の論社
・右内神社(三島市梅名)
右内神社(うないじんじゃ)は 下田街道の左右に「左内神社」とともに 三嶋大社の御門守護神として 鎮座していたと伝わります 源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています 『延喜式』伊波氐別命神社・阿米都瀬氣多知命神社の二つの式内社の論社となっています
右内神社(三島市梅名)〈『延喜式』伊波氐別命神社・阿米都瀬氣多知命神社〉
・左内神社(三島市中島)
左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は゛手無゛と云い 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも伝わり 更に通称名は「天地宮(あめつちみや)」と呼ばれ「式内社・阿米都瀬氣多知命神社」の論社との説もあります
左内神社(三島市中島)〈『延喜式』文梨神社・阿米都瀬氣多知命神社〉
・天地神社(函南町平井)
・気多神社(沼津市内浦三津)
気多神社(きたじんじゃ)は 社記によれば 貞観元年(859)に当地に鎮座したと云い 祭神は意氣長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉とされます 二つの式内社〈阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)・井田神社(ゐたの かみのやしろ)〉の論社となっています
気多神社(沼津市内浦三津)〈『延喜式』阿米都瀬氣多知命神社・井田神社の論社〉
『延喜式』に 「ゐたの かみのやしろ」の音を持つ 式内社の類社について
延喜式内社 伊賀國 伊賀郡 猪田神社(ゐたの かみのやしろ)
・猪田神社(伊賀市下郡)
・猪田神社(伊賀市猪田)
延喜式内社 伊豆國 那賀郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)
・井田神社(沼津市井田)
井田神社(いだじんじゃ)は その歴史は古く 慶長12年(1607)の上梁文には゛井田荘七箇村鎮守 井田明神゛とあり 『伊豆國神階帳(康永2年(1343)』には゛従四位上 ゐたの明神゛ さらに『延喜式927 AD.』には 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)と所載される由緒を持ちます
井田神社(沼津市井田)〈『延喜式』井田神社・『伊豆國神階帳』ゐたの明神〉
・気多神社(沼津市内浦三津)
気多神社(きたじんじゃ)は 社記によれば 貞観元年(859)に当地に鎮座したと云い 祭神は意氣長多羅司姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉とされます 二つの式内社〈阿米都瀬氣多知命神社(あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)・井田神社(ゐたの かみのやしろ)〉の論社となっています
気多神社(沼津市内浦三津)〈『延喜式』阿米都瀬氣多知命神社・井田神社の論社〉
延喜式内社 但馬国 気多郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)
・井田神社(豊岡市日高町鶴岡字城山)
井田神社(いだじんじゃ)は 創建は不祥ですが 元々は倉稲魂命を祀っており 嘉祥元年(848)悪疫流行の際 山城国 石清水八幡宮より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと伝わる 延喜式内社 但馬國 氣多郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)です 中世には下津谷伯耆守の居城〔伊福城〕があり 伊福部氏と関係があるのでしょうか
井田神社(豊岡市日高町鶴岡字城山)〈延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊豆箱根鉄道 伊豆長岡駅から県道130号経由で西へ約5.9km三津海水浴場を目指します 車で12分程度
内浦漁港のすぐ近くです
気多神社(沼津市内浦三津)に参着
社号標は゛氣多神社゛の刻字 第29代内閣総理大臣 犬義毅(いぬかいつよし)の筆です
一礼をして 鳥居をくぐり境内へ進みます
正面には拝殿 右手奥に境内社 八坂神社が祀られています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして参道を戻ります
鳥居の先は 内浦湾です
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 阿米都瀬氣多知命神社について 所在は゛君澤郡中嶋村に在す、今左内明神と称す、゛〈現 左内神社(三島市中島)〉と記しています
又 ゛國圖には、ミト村にありと云り、゛と記されている件について『式内社調査報告』には「鈴鹿連胤の『神社覈録』では阿米津瀬気多知命神社は左内明神であるとしながらも、「国図」なる資料に「ミト村ニアリ」とされている。ミト村とは現在の沼津市三津であり、そこの氣多明神をさすものと思われる。」と〈現 気多神社(沼津市内浦三津)〉との説を挙げています
【抜粋意訳】
阿米都瀬氣多知命神社
阿米都瀬氣多知は假字也
○祭神明か也
○君澤郡中嶋村に在す、今左内明神と称す、〔志〕例祭
伊豆志に、豊磐窓命にして、伊波氏別命と三島大社の御門左右ノ神也、
○國圖には、ミト村にありと云り、
【原文参照】
式内社 井田神社について 所在は゛君澤郡井田村に在す、今 池明神と称す゛〈現 井田神社(沼津市井田)〉と記しています
ここに呼ばれている 池明神とは〈現 池大明神(沼津市井田)〉のことでしょうか?
【抜粋意訳】
井田神社
井田は為太と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕井田、
〇祭神詳ならず
○君澤郡井田村に在す、今池明神と称す、例祭
類社
伊賀國伊賀郡猪田神社神位
國内神階記云、從四位上ゐたの明神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 阿米都瀬氣多知命神社について 所在は゛今 君澤郡中島村にあり、阿米都知明神 即是也、左内明神とも云ふ、゛〈現 左内神社(三島市中島)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿米都瀬氣多知命(アメツセケタチノミコト)神社
今 君澤郡中島村にあり、阿米都知明神 即是也、舊大社の御門神なるを以て、左内明神とも云ふ、〔豆州志〕
【原文参照】
式内社 井田神社について 所在は゛今 君澤郡井田村にあり、井田明神と云ふ、゛〈現 井田神社(沼津市井田)〉と記しています
【抜粋意訳】
井田(ヰタノ)神社
今 君澤郡井田村にあり、井田明神と云ふ、
凡 九月九日祭を行ふ〔足州志、足柄縣式社取調帳、〕〔〇永禄十三年の棟札に、井田庄七箇村 鎮守井田明神とある証とすべし、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 阿米都瀬氣多知命神社について 所在は゛梅名村〔今属 君澤郡〕(田方郡中ノ郷村大字梅名)゛〈現 右内神社(三島市梅名)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿米都瀬氣多知命(アメツセケタチノミコト)神社(明細帳に右内神社とあり)
祭神 阿米都瀬氣多知命
祭日
社格 村社所在 梅名村〔今属 君澤郡〕(田方郡中ノ郷村大字梅名)
今按 式社孜證に君澤郡梅名村 左内明神なるべし 其は此阿米都瀬氣多知の稱は地形より起りたると聞ゆるに就て 遍く求るに此村東方に副て梅名川の流あり 古昔は其流 必社地に衝當り左右に分れて流れ 社は中島に立しと想像るれば 當時 其實地のさまに因て 湘乃気立と云しが 後に水脉変り 社域の周囲は池の如く成たるを 宇米都の池と稱へ來れる由なるが 此宇米都直ちに阿米郷の訛轉と聞ゆ 梅名の村名も此 宇米都乃池より起れて 梅津野の省略なる由 古老の口碑に傳たるも正説と思はるる等を攷て知べしと云るによりて 縣の注進にも此地と定めたるに從ふ されど神名の瀬気多知は瀬乃氣立と云設なりと云るは信がたし
【原文参照】
式内社 井田神社について 所在は゛井田村〔今 田方郡戸田村大字井田〕゛〈現 井田神社(沼津市井田)〉と記しています
【抜粋意訳】
井田(ヰダノ)神社
祭神
祭日 九月九日
社格 村社所在 井田村〔今 田方郡戸田村大字井田〕
今按 豆州志に井田ノ神社 今 池明神と稱す
村老云 此處村の始にして此の祠 最古しと 又云 大古久明神
永祿十三年慶長十二年の上梁文に云 井田ノ庄七箇鎭守井田明神と 今は村の土神と爲と見えたり
式社致讃に云 池明神を式内と思はれたるは 村老の説を信じて謬りたる也 大古久明神は上梁文にも井田ノ明神と有るは更也 今に井田明神と唱來れば 井田神社なること論を俟ず 社傍に井立山妙田寺と云有は必古へ井田神社の別當寺なるべしと云る 實に由あり故今之に從ふ
【原文参照】
気多神社(沼津市内浦三津)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について