霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は ゛天之逆鉾゛〈高千穂峰の山頂の天孫降臨伝説の地〉を社宝とし 第10代崇神天皇の御代 霧島山を信仰する社として創建と伝わり 山頂は飛地境内となっています 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社で 天暦年間(947~957)には 性空上人が別当寺 錫杖院を建立し 霧島六社権現のひとつとなりました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
霧島東神社(Kirishimahigashi shrine)
【通称名(Common name)】
・お東さん(おひがしさん)
【鎮座地 (Location) 】
宮崎県西諸県郡高原町祓川
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
相殿
《配》天照大神(あまてらすおほかみ)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)
伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)を主祭神として祀り、第十代崇神(すじん)天皇の代に霧島山を信仰の対象とする社として創建されたと伝わる。天暦年間(947~957)に天台宗の僧、性空上人(しょうくうしょうにん)が神社のかたわらに別当寺である錫杖院(しゃくじょういん)を建立し、霧島六社権現(きりしまろくしょごんげん)のひとつとして霧島山で神意仏心(しんいぶっしん)を崇(あが)める修行を行う修験者(しゅげんじゃ)たちの拠点となった。当時は霧島山大権現東御在所之宮(きりしまやまだいごんげん ひがしございしょのみや)と呼ばれ、霧島修験の興隆(こうりゅう)に伴い社寺ともに栄えた。
度重なる霧島山の噴火により、復興造営を重ねており、現在の社殿は享保十二年(1722)の造営により、幾度かの改修を経て今に至る。殿内奥には雌雄一対の龍柱が祀られ、正面には寛文六年(1666)薩摩藩主 島津光久公 寄進の「東霧島坐(霧島の東に坐(いま)す)」の扁額が納められている。例大祭 十一月八日・九
天之逆鉾(あまのさかほこ)
高千穂峰(たかちほのみね)(1574m)の山頂にあり、霧島東神社の社宝(しゃほう)として祀られている。伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那美尊(いざなみのみこと)が高天原(たかまがはら)から鉾を差しおろし、かき混ぜて作った国土に、逆さに突き立てたものと伝えられる。また、天孫降臨(てんそんこうりん)の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大御神(あまてらすおほみかみ)から授かった鉾ともいう。実際に祀られた時期は明確ではないが、霧島山の修験者たちが神話にならって祀ったものとされ、少なくとも江戸時代にはその存在は広く知られていた。霧島山に対する信仰の対象であるとともに戦前までは雨乞(あまご)いの神ともされ、鉾の前で祭儀を行っていたという。
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
霧島東神社
宮崎県西諸県郡字原町祓川。旧県社。
伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・天忍穂耳尊・瓊々杵尊を祀る。
かっては、東御在所六社権現と称され、別当寺として真言宗錫杖院があった。当社も性空上人の創建と伝えられている。また当社に於ては、当社社家の年中行事として、祓川(はらいかわ)の神舞という神楽が有名である。昭和四九年、記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択されている。もとは、氏子宅を神楽宿として、旧暦十一月十六日に行われていたが、現在は、十二月の第二土曜日、公民館を御講屋として、夕刻から夜を徹して、三三番の神楽が舞われる。出雲流神楽の系統とされ、古い能の様式を残すものとみられている。『神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿 幣殿 本殿〉
〈本殿 両脇の境内社〉
・脇社〈狗人両社〉(左殿)《主》火酢芹尊
・脇社〈狗人両社〉(右殿)《主》火明尊
〈本殿奥 高千穂峯への修験道口〉
〈参道に祀られる境内社〉
・門守社(左殿)《主》豊岩間戸尊
・門守社(右殿)《主》櫛岩間戸尊
・猿田彦神社《主》猿田彦尊
・授与所
・神門
・神門前の御神木〈二本の杉〉
・神門にある神紋゛大日輪宝゛
霧島東神社の社紋は 神仏習合の色濃く゛大日輪宝゛仏教の車輪 これは 神社が現在は廃院となった寺 錫杖院と敷地を共有していたことの名残
・開山 性空上人の石碑
・結界が張られている奉祀地があり 祓處だろうか
・天狗堂《主》大津坊
・神龍の泉゛忍穂井゛
神龍の泉「忍穂井」
鹿児島藩 名勝考 巻ノ七
(鹿児島大学図書館蔵)この池は龍神の安息池にして太古より霊泉として効験あらたかなり
されど東方よりこの池に女人の影が映ずれば 忽ち異変ありと伝へらる
(一名 鏡井ともいう)現地立て札より
・朱色の両部鳥居
・神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡
・境内から見下ろす御池(みいけ)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・天之逆鉾(あまのさかほこ)〈高千穂峰山頂〉〈天孫降臨伝説の地〉
高千穂峰の山頂は霧島東神社の飛び地境内〈天孫降臨伝説の地〉
山頂に立つ゛天之逆鉾゛は霧島東神社のご神宝とされます
一説には 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が 国家安寧を願い 矛が振るわれることのないよう逆さに突き立てた〈逆鉾〉と云う
現在は 噴火で大部分が失われ レプリカが置かれています 地中にはその柄が残されていると伝
・御池(みいけ)
約4600年前のマグマ水蒸気噴火で火口に地下水が溜まって形成されました
その噴火は 知られている霧島火山群の噴火中では最大のもので 直径が約1キロのほぼ円形の火口湖で 周りを囲む火口壁は 高さ約30mの急崖を形成しています 霧島火山群最大・最深の湖です
様々な伝説があり その昔 霧島六所権現を整備した性空上人が この池のほとりで修業をしている時 九頭の神龍〈九頭龍〉が現れ宝珠を渡したと云う伝説 他にも神武天皇が幼少時に水辺で遊んだ所が 皇子港だという伝説 等
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
日向國の神・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社が 官社に預かる と記されています
【抜粋意訳】
承和四年(八三七)八月壬辰朔
○八月壬辰朔
日向國
子湯郡 子都濃神 妻神
宮埼郡 江田神
諸縣郡(ひろあかたの)霧嶋岑神(きりしまのみねのかみ)を 並に預官社に
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
日向國の・高千穂神社・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神に 神階の奉授 が記されています
【抜粋意訳】
巻一 天安二年(八五八)十月廿二日〈己酉〉
○廿二日己酉
授くに
日向國
從五位上 高智保神(たかちほのかみ)都農神(つののかみ)等從四位上
從五位上 都萬神(つまのかみ)江田神(えたのかみ)霧嶋神(きりしまのかみ)に 並に從四位下伊豫國 正六位上 布都神(ふとのかみ)從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)日向國 4座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)諸縣郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 霧嶋神社(貞)
[ふ り が な ](きりしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kirishima no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)について
天孫降臨の地とされる゛霧島の高千穂峰゛を取り囲むように その登山口に建立された六社の神社の事です
霧島山そのものを御神体とした「霧島御山信仰」で
第62代 村上天皇の御代〈在位: 天慶9年4月20日(946年5月23日)~ 康保4年5月25日(967年7月5日)〉天慶天暦(十世紀)の頃
性空上人が 霧島山を霊場として修業し 山中の様々な場所に分散していた信仰を 天台修験の体系としてまとめ 霧島山と山麓に霧島六社権現を整備したものとされます
元々は 霧島山そのものを信仰対象とする山岳信仰から始まり やがて 霧島山を修験道の霊場とする修験者の道場拠点となりました
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)の六社
①西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉=霧島東神社(高原町祓川)
③霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉=
④雛守権現社〈別當・宝光院〉=現 霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤狭野大権現社〈別當・神徳院〉=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥東霧島権現社〈別當・勅詔院〉=東霧島神社(都城市高崎町)
其の他の説に
・白鳥権現社〈別當・満足寺〉=白鳥神社(えびの市末永)
・霞権現〈別當・神徳院〉=霞神社(高原町後川内)
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される゛霧島六社権現゛の図
①〈三国名勝圖會 巻之三十四 大隅國囎唹郡 曾於郡之二 神社〉西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉
現=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉御池 霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉
現=霧島東神社(高原町祓川)
③〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の旧鎮座地
④〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉雛守権現社〈別當・宝光院〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉狭野大権現社〈別當・神徳院〉
現=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉東霧島権現社〈別當・勅詔院〉
現=東霧島神社(都城市高崎町)
その他
『三国名勝圖會』では 霧島六社権現として 他にも挙げています
・華舞六所権現=現 華舞神社〈山田神社〉(都城市山田町山田)
・安原霧島大権現(中霧島権現)=現 安原神社(都城市山田町中霧島)
・霧島山不動明観寺=現 荒武神社(都城市吉之元町)
現在の 霧島六社権現5社について
※元々は 名前〈六社権現〉の通りの六社でしたが 明治6年(1873)霧島岑神社と夷守(ひなもり)神社が合祀されたので 現在は5社となっています
・霧島(きりしま)神宮(霧島市霧島田口)
・霧島東(きりしまひがし)神社(高原町祓川)
・狭野(さの)神社(高原町蒲牟田)
・東霧島(つまきりしま)神社(都城市高崎町)
・霧島岑(きりしまみね)神社(小林市細野)
延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社について
・霧島岑神社(小林市細野)
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は 社伝に 往古 高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(セタオ)に鎮座と伝わり 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です その後 韓国岳 大幡山 御鉢 新燃岳の噴火で相次いで神殿を焼失しては造営を繰り返し 明治6年(1872)夷守神社を霧島岑神社に合祀した上で 現在地〈夷守神社の社地〉に霧島岑神社が遷座されました
霧島岑神社(小林市細野)
・東霧島神社(都城市高崎町)
東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)は 第5代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝わり その後 霧島山の噴火などにより神殿などは焼失・埋没し荒廃したが 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です 963年 天台宗の僧 性空上人が再興した ゛東霧島大権現宮゛と称される霧島六所権現の一つです
東霧島神社(都城市高崎町)
・霧島東神社(高原町祓川)
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は ゛天之逆鉾゛〈高千穂峰の山頂の天孫降臨伝説の地〉を社宝とし 第10代崇神天皇の御代 霧島山を信仰する社として創建と伝わり 山頂は飛地境内となっています 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社で 天暦年間(947~957)には 性空上人が別当寺 錫杖院を建立し 霧島六社権現のひとつとなりました
霧島東神社(高原町祓川)
・霧島神宮(霧島市霧島田口)
霧島神宮(きりしまじんぐう)は 旧記に 欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間 脊門丘(セタヲ)に奉斎され 後 御山の噴火の為 悉く炎上し 天暦年間(950)性空上人が高千穂河原に再興奉遷した 後 文暦元年(1234)の大噴火で 社殿 僧坊寺が災禍に遭い 今から500年程前に現在地に鎮座しました 式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です
霧島神宮(霧島市霧島田口)
・霧島神宮 古宮祭祀跡(霧島市霧島田口)
古宮址天孫降臨神籬斎場(ふるみやあと てんそんこうりんひもろぎさいじょう)は 昔の霧島神宮の跡で 神宮は 始め高千穂ノ峯と御鉢(噴火口)との中間゛脊門丘(セタオ)゛に奉斎後〈約1400年前〉噴火で悉く炎上の為 この地に再建されましたが ここも〈約1000年前〉噴火で燃えてしまい 霧島町の゛待世゛に遷され 凡そ480年前〈現在の霧島神宮〉に建て替えられています
古宮址天孫降臨神籬斎場(霧島市霧島田口)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR 高原駅からR223号経由で南下 約9.2km 車20分程度
R223号の゛御池の展望台゛からの展望
御池の展望台の辺りから 奥霧島御池キャンプ村へ向かう道をすすみ 神社へ向かいます
道の行き止まりが駐車場になっています
霧島東神社(高原町祓川)に参着
ここから見える゛御池゛
右手の建物の入口には゛神習館 霧島山大権現東道場 錫杖院門跡゛と書かれています
建物の玄関には゛しめ縄 御幣゛゛霧島東神社゛と記される扁額と その上に白鷹の彫り物があります
更に 黒曜石(こくようせき)が置かれていて 縄文文化さえ漂います
一礼をして 朱色の両部鳥居をくぐります
木漏れ日の差す参道を進みます
神龍の泉゛忍穂井゛があり
「古来、神龍安息の池にして、霧島四十八池中、御池と陰陽の対をなす霊泉とされる。
再拝の念を以って汲み出したる神水は、些かも不敬の扱いあるべらず。」と張り紙があります
手水舎があり 清めます
結界が張られている奉祀地があり 祓處だろうか
しかし なんと神々しい處
石段を上がると 南東方向〈辰巳(たつみ)〉を向いて 神門があり その前に 一対の杉の大木が注連縄柱となっています
一礼をして 神門をくぐり抜けます
静穏の参道を歩み
拝殿にすすみます
拝殿には 寛文六年(1666)薩摩藩主 島津光久公 寄進の扁額゛東霧島坐(霧島の東に坐(います)゛が納められています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
木漏れ日の差す境内の奥には 高千穂の峯への修験の登山道の入り口があります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 霧島神社は 所在について 霧島山は峯二つあり 山下には東霧島村 西霧島村が二つ 麓に霧島明神社という大きな神社がある との説を記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
「續日本後紀」承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
〇天安二年十月廿二日己酉、授 從五位上 霧島神 授從四位下「応神紀」日向諸縣君 牛諸井
〇信友云 或書に 高原郷 今云に東霧島宮
(古事記傳)に霧島山は日向国の南の極にて 大隅国の堺にあり
(神代紀)に 二上とあるごとく 東西と分れて峯二つあり 山下に東霧島 西霧島と云ふ村もあり 西なる峯は 大隅国囎唹郡に属し 東なるは日向国諸縣郡に属けて 霧島明神社は麓にあり大きなる社之とぞ云々とあり 霧島山 霧山とも云ふ
(古事記)竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき
(神代紀)(日南風土記)可引 とある処の山 之この委き考は傳の十五の七十丁にあり
【原文参照】
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承
御池 霧島東御在所権現社について 詳細に記されています
【抜粋意訳】
三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社 御池 霧島東御在所権現社
御池
地頭館より巳牛方、一里三十町餘、
蒲牟田村にて、霧島矛嶽の東南麓にあり、周廻三里、池の半面は都城邑に属す、碧水湛然として、深さ測るべからず、四方の池岸、蒼崖壁立して、七港あり、松港、躯瀬港、皇子港、創崎港、刈茅港、柳港、護摩壇港、是なり、
護摩壇港に、護摩壇の蹟あり、護摩壇は、池の西岸、高さ五六間の絶崖上に、二筵許の平處あり、其上に嶽あり、覆ひ出て屋の状をなす、
是性空上人、護摩を焼し處なりといふ、上人、此石窟に座して、護摩供を修せし時に、九頭の神龍、忽然として現し、一顆の寶珠を捧け来て是を献ず、
上人曰、此は是方便随類の身にして、本地の眞身に非ずと、修練彌確し、既にして千手大悲の妙相を現す、
上人叉手禮拝して澆季末世の衆生を救んことを請ふ、因て池畔の港ごとに、大悲の像を安置す、神龍の捧し寶珠は、銅器に盛り、石函に貯へて、護摩壇の石窟に安置せしに、其後霧島嶽発火の時、池中に飛入しとて、今はなしとぞ、
夏天大旱の時、土人此池に来て雨を禱るに、應験、神の如しとかや、
此池、霧島四十八池の第一なり、又此池を距ること半里許、西方に一池あり、都城に属す、小池といふ、是霧島四十八池の一なり、往古は此池を陰池と呼ひ、都城の池を陽池と唱へしに、今は御池小池といふ、
蓋霧島山東南北の麓は、高城及び當邑等にて、伊弉諾冊二神の聖蹟なれば、此両池陰陽の稱あるも、此両神の縁故なるべし、此御池は、霧島東御在所両所権現社より辰巳八町許にあり、両神聖蹟の事は、此社及び高城東霧島権現社等を参考して可なり、○性空上人石像
御池の畔、石窟の護摩壇にあり、高さ二尺五寸、石像の側に、神龍の捧し玉を蔵めし石函あり、周囲七尺、長二尺あり、護摩壇の石窟に、護摩灰存じ、今化して鉄石の如し、是を砕けば、五穀の状ありとぞ、此灰、鎮符となるといふ、参詣の徒、拝請して帰るとかや、
【原文参照】
【抜粋意訳】
三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社 御池 霧島東御在所権現社
霧島東御在所両所権現社
地頭館より巳牛方、二里、
蒲牟田村にあり、祭神二座、伊弉諾尊、伊弉冊尊、是なり、同殿六座、天照大神、忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、神武天皇、是なり、土俗に、高城邑東霧島神社の奥之宮と號す、霧島権現六社の一とす、
一舊記に、續日本後紀、承和四年八月壬子、日向國諸縣郡霧島岑神、預官社と見えたるは、即當社ならん、
当社は、霧島嶽の東腰にあり、霧島岑とは、今霧島山の矛峯をさす、是當社の境内なり、當社は、平地より、石磴三百六十餘級を経て登る、是より矛峯に登路ありて、亦遠からず。續後紀、岑とあるは、蓋此故なりと、
又両所権現といふは、宗祀諾冊二尊なるを以てなり、東とは、西霧島に対し、御在所とは、御座所にて、此地諾冊二尊行在の舊墟なる故に、蓋この遺稱あり、かく二尊の聖蹤なるに因り、二尊を勧請ありしとぞ、
當社、古来霊蹟甚多しといへども、山上火災起りし時、多く其傳を失へり、
祭祀正月八日、九月九日、十一月初酉日、社頭に東霧島山の額を掲く、寛陽公の親筆にて、御名と、御印章あり、社司押領司氏、別当を錫杖院といふ、
○西掖宮 本社の左右にあり、右は白山権現、左は性空上人侍者乙若の両童なり、
○狗人両社 本社の前、左右にあり、右は火闌降命、左は火明命、
○本地堂 本社の西南、八間許にあり、本尊千手観音大士、此本尊は、圓室公、安置し玉へり、
○祓川 本社の卯方、八町許にあり、水源蒲牟田村の内に涌出し、錫杖院門前を過ぎ、松八重川に合す、當社傳記に曰、此川は、太古伊弉諾伊弉冊両尊、御矛を指留玉ひし時、衆神会集して、身滌(ミソギ)をなし、御禊(ハライ)ありし處なる故に、祓川と名く、今に至り、両所宮に詣る者は、此川にて水を灌き浄めするを故事とす云々、
或云、書紀一書に、所謂伊弉冊尊、火神軻遇突智の為に焦れて化去玉ひ、伊弉諾尊、冊尊を追ふて黄泉に入り、遂に冊尊と絶妻の誓に建り、既にして還るや、其汚穢の処に到るを悔ひ、檍原に於て御禊をなされし時の方域に係るを以て、此名ある歟、
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉と記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
霧島は 岐里志麻と訓べし
〇祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、相殿 地神五代、神武天皇、社傳 〇考証、多紀理比賣といふ、今従はず、
〇高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す、神社考
神位 官社
續日本後紀、承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
三代實録、 天安二年十月己酉、從五位上 霧島神 授從四位下、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉であるが 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉との説も紹介しています
天孫降臨の高千穂峰について 現 宮崎県と大分県の県境にある高千穂の二上山と 宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂二上峯のどちらも 霧島山としての可能性があり 古から決めかねていることも記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
今 細野村夷守にあり、昔高千穂二上南峯の間 瀬戸尾にあり、仍て瀬戸尾神社入霧島中央権現と云、後 今の地に遷す、宮崎縣神社調 〇按 鳥羽天皇天永三年山上大に火あり、六條天皇の仁安二年 社殿災に罹り、四条天皇文暦元年又災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後數遷座ありて終に今地に遷し奉ると云り、
又 往古より霧島神社は六社ありて 其五社は共に同國同郡に鎮座す 唯一社のみ大隅國 囎唹(ソヲノ)郡にあり されば何れ式社ならん詳ならずといひ 又 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱すともあり附て後考を俟つ、
蓋 天孫 天津彦々火瓊々杵尊を祀る、参酌日本書紀、古事記、
霧島山は日向大隅二國に蟠り東西二峯あり 東峯殊に高く峻しく 西峯稍卑く常に火燃揚り、時によりては、黒烟天を蔽ひ、石砂飛散を以て、世人畏て神火と云ふ、二峯を合せて霧島山と名く、此の山遽に霧起り大風吹出、地とどろき闇の夜の如く暗がりて霧にれぼぼれ 風に吹放たれて、身を失ふ者あり、故山に登る者、神代の故事の随に、稲穂を持て拂ひつつゆけば、天明りて、事故なし、其の神威霊應、今に至りて甚だ厳速しと云、高子観遊記、日本紀通證、古事記傳、
〇按 日向國圖、霧島山は諸縣郡にて大隅に界ひし 高千穂嶽は臼杵郡にて、豊後の界にあり、かかれは南北と甚く隔りてはあれど、いづれも二峯ありて二上と云へき状なるに、高千穂嶽は今も二上山と云ひ、風土記にも稲穂の故事をは臼杵郡なる方に記せれば、是ぞ神代の高千穂二上峯ならむと思ふに、書記に襲之高千穂峯とある襲は、大隅の地名なるが上に稲穂を拂ふ事は、今の現に霧島山にのこり、穂々出見尊の御陵 高千穂山西にありと云るも、霧島山と聞ゆれば古へは此二山を推通して、共に高千穂二上峯と云しなるべし、姑附て考に備ふ、
桓武天皇 延暦七年三月壬辰 霧島峯神、官社に預り、續日本後紀
清和天皇 天安二年十月巳酉、従五位上 霧島神に従四位下を授く、三大實録
凡其祭三月十一月十八日を用ふ、宮崎縣神社調
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉とし 元々は゛山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり゛と噴火による火災で度々 遷座してい現在地となっていると記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
祭神 瓊々杵尊
神位 仁明天皇 承和四年八月壬辰 日向國諸縣郡霧島神預官社
文徳天皇 天安二年十月廿二日 巳酉授日向國従五位上霧島神従四位下祭日 三月十一月十八日
社格 (明細帳に霧島神宮摂社 兼 縣社霧島岑神社とあり)(縣社)所在 細野村 夷守(西諸縣郡小林村大字細野)
今按〈今考えるに〉
宮崎縣神社調帳に當社は 往古 高千穂二上山 今の霧島なり 両峯の間 瀬戸尾と云地に鎮座ありしに依て 俗に瀬戸尾神社また霧島中央権現とも稱せり
傳云 鳥羽天皇 天永三年二月三日山上大に炎し 六條天皇 仁安二年亦炎す再度共に神社火災に罹るといへども故の如く造営ありしが 四條天皇 文暦元年十二月震火大に発し社殿併當寺焼亡す故に山内を出て岡原に假殿を建て 十四年 二上山の東なる筑地に社殿を造営して遷座ありしを 明治七年四月一日夷守の舊社へ遷座ありと云るが如く もと山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり
【原文参照】
霧島東神社(高原町祓川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日向国(ひむかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 日向国 4座(並小)の神社です
日向国 式内社 4座(並小)について