実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

霧島岑神社(小林市細野)

霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は 社伝に 往古 高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(セタオ)に鎮座と伝わり 延喜式内社 日向國  霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です その後 韓国岳 大幡山 御鉢 新燃岳の噴火で相次いで神殿を焼失しては造営を繰り返し 明治6年(1872)夷守神社を霧島岑神社に合祀した上で 現在地〈夷守神社の社地〉に霧島岑神社が遷座されました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

霧島岑神社(Kirishima mine shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

宮崎県小林市細野4937

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

〈御本殿〉十一柱の神

《主祭神》

・天照大御神(あまてらすおほみかみ)〈皇祖神〉
・正勝吾勝勝速日天忍穗耳命
(まさかつあかつかちはやひ
 あめのおしほみみのみこと)〈太子〉

・天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命
(あめにぎしく
 ににぎしあまつひこ ひこほの ににぎのみこと)
・木花之佐久夜昆賣命(このはなさくやめのみこと)〈瓊々杵尊の配偶神〉

・火照命(ほでりのみこと)〈海幸彦〉
・火須勢理命(ほすせりのみこと)
・天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ ひこほほでみのみこと)〈山幸彦〉
・豊玉昆賣命(とよたまめのみこと)〈彦火々出見尊の配偶神〉

・天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
(あまつひこ
 ひこなぎさたけ うがやふきあえず の みこと)
・玉依昆賣命(たまよりめのみこと)〈鵜葺草葺不合尊の配偶神〉

・神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

内の神様が霧島岑神社に御鎮座されている神様です
〈拝殿に掲げられた案内板より〉

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明治七年(1874年)合祀 夷守権現社

《合》夷守神社〈雛森神社〉(ひなもりじんじゃ御祭神 夷守権現〈雛守権現〉

本殿前の雲龍御柱うんりゅうのみはしら)〉
《主》五帝龍神ごていりゅうじん(雨乞い
   罔象女神みつはのめのかみ(水の神

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霧島神社雲龍巻柱(きりしまみねじんじゃ うんりゅうまきばしら)

霧島岑神社の雲龍巻柱は、文献や神社に保管されている棟札から文久2年(1862)に社殿が再建された際に共に造られたものと考えられます。その様相は向拝柱(こうはいばしら)下から30センチメートル程を八角柱にし、そこから上の柱に巻き付く龍の体及び瑞雲は高浮彫りの技法が用いられ、向かって右側は口を開いた阿形(あぎょう)、左側は口を閉じた吽形(うんぎょう)となっています。他の地域の雲龍巻柱には色彩が施されているものが多いですが、本神社は白木造りであり、そのことが全体を奥ゆかしく端麗な印象を与えています。

 また旧島津藩内にある他の地域の雲龍巻柱とその造りや姿などで類似するところも多く同様の建築様式のもと造立されたと考えられます。保存状態においても全体的に良好な状態を保っています。このことから霧島岑神社雲龍巻柱は、江戸時代における薩摩文化を今に伝え、当時の交流の様子や建築美術の素晴らしさを表す小林市の貴重な文化財です

小林市役所HPより
https://www.city.kobayashi.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikubushakaikyoikuka/rekishi_bunkazai/1/1/1390.html

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・家内安全・子孫繁栄・縁結び・子宝・子育てにご利益

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由緒

 高千穂峰は 日本最初の峯と称せられ、高天原より天孫が降臨されたとの伝承にかかわる霊峰として秀麗幽浄の天下にかくれもなき霊場として遍く崇敬されていた。
 社記によると、往古・高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(瀬多尾とも言う)に鎮座されていた。
文暦元年(1234年)十二月二十八日、火常峰の大噴火に罹り、この時も御神体は恙無しと言えども、以前は宮殿の傍に霊泉有りて「天之井」と唱えてきたが、この天之井が涸れ、人も住めなくなり己む無く脊戸尾より「乾方・十八町餘」山下・霧島王子と唱える。未社の辺・瀬多尾越の地に遷座された。この地は古より坊頭小屋と言い・盛時には支院が三十六坊あったといわれている。此、第二瀬門尾坊頭ヶ原の地に鎮座する事、凡四百七十八年許、享保元年(1716年)九月二十六日甲甲、新燃岳又巨大噴火、数日息まず(此時灰砂・地を埋む事、六・七尺・四方二里余り、木竹盡く枯しとぞ)神社・寺院すべて焼亡す。当時この社の別当。吉松内小野寺の修験憎恵宝法印隆盛という山伏を始め、小林社家六名・衆人五十認余りの徒を組み奮起して守護に向かった。其の処の灰砂を掘ること六・七尺余奇しくも御神体一基が如然と露出していたので、皆大きに喜び灰砂の中におわしますを御神体前体の見当がついて発掘・守護することが出来た。

その後噴火も静まったので、其の第二瀬門尾に復しようとしたが、方二里許一面焼石原となりはて一木一草も生えていないので、到底人の移住はできぬ有様であったから、夷守岳東懐に新しく地を引いて社殿を新築し遷座申した。
享保十四年(1729年)八月二十七日のことで、この地を築地という。築地の本社は小林の人里よりはなはだしく遠く、参拝や管理上も不便であり、且つ社殿も多れに腐朽していたので、夷守権現社と合併すべしとの与論が起こり、明治七年(1874年)合祀した。

霧島岑神社公式HPより
https://kirishimaminejinjya.web.fc2.com/index.html

【由  (History)】

由緒

 往古 霧島岑神社は 高千穂峰の中腹瀬戸尾の高地に鎮座され、祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊、豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊、玉依姫命の六柱の神々である。
承和四年(八三七)日向国諸県郡霧島岑神は官社に預かり、のち従五位上を授けられる(続日本後記)
天安二年(八五八)従四位下に叙せられ(三代実録)とあり、
延喜式神名帳には日向国式内四座の一つであると記されている。
 天慶天暦(十世紀)の頃 性空上人が霧島岑神社に参篭の折、山麓四方に夷守神社外四社を創建し、本社である霧島岑神社(別名霧島中央権現)を合わせて霧島六社権現と称した。
天永三年(一一一二)韓国岳噴火、仁安二年(一一六七)大幡山噴火し相次いで神殿を焼失したが、その都度元の地に再建された。
文暦元年(一二三四)には至近の火常峯(御鉢)が噴火し社殿は焼失、この地に湧いていた「天の井」も涸れたので末社の霧辺王子神社の辺に遷座され、その地を新瀬戸尾と称した。その地に座すこと四八〇余年、享保元年(一七一六)新燃岳の噴火により社殿は焼失、御神体は今坊権現に奉遷、次いで細野村岡原に遷座されたが、新瀬戸尾の地は全く荒廃したので、享保十四年(一七二九)夷守岳中腹に社殿を再建し、明治初頭まで鎮座された。その地を今だに築地という。
明治五年(一八七二)県社に列せられ、翌六年細野村に合祀の世論起こり夷守神社を先ず本社の岑神社に合祀した上で、改めて旧夷守神社跡地(現在地)に霧島岑神社を奉造して今日に至る。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈社殿向かって右 大山祇神社やまつみじんじゃ)〉

》大山祇神やまつみのかみ
   磐長姫命いわながひめのみこと
   木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと

〈社殿向かって左 豊受神社(とようけじんじゃ)

第二鳥居向かって左右に 門社かどしゃ)〉

右に 豊磐窓尊とよいわまどのみこと
左に 櫛磐窓尊くしいわまどのみこと

その他 境内社について 公式HPに詳細あり

https://kirishimaminejinjya.web.fc2.com/blog1.html

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

式内社 霧島神社の当初の鎮座地とされる゛脊門尾(セタヲ)

社伝によれば〈往古・高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(瀬多尾とも言う)に鎮座

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〈現在は ゛霧島神宮元宮゛となっています〉

霧島神宮ダウンロードサイトより Please do not reproduce without prior permission.

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

日向國の神・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社が 官社に預かる と記されています

【抜粋意訳】

承和四年(八三七)八月壬辰朔

○八月壬辰朔
日向國

子湯郡 子都濃神 妻神
宮埼郡 江田神
諸縣郡(ひろあかたの)霧嶋岑神(きりしまのみねのかみ)を 預官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

日向國の・高千穂神社・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神に 神階の奉授 が記されています

【抜粋意訳】

 天安二年(八五八)十月廿二日己酉

○廿二日己酉

くに
日向國

從五位上 高智保神(たかちほのかみ)都農神(つののかみ)等從四位上
從五位上 都萬神(つまのかみ)江田神(えたのかみ)霧嶋神(きりしまのかみ)に 從四位下

伊豫國 正六位上 布都神(ふとのかみ)從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)日向 4座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 霧神社(貞)
[ふ り が な ]きりしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kirishima no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)について

天孫降臨の地とされる゛霧島の高千穂峰゛を取り囲むように その登山口に建立された六社の神社の事です

霧島山そのものを御神体とした「霧島御山信仰」で
第62代 村上天皇の御代〈在位: 天慶9年4月20日(946年5月23日)~ 康保4年5月25日(967年7月5日)〉天慶天暦(十世紀)の頃
性空上人が 霧島山を霊場として修業し 山中の様々な場所に分散していた信仰を 天台修験の体系としてまとめ 霧島山と山麓に霧島六社権現を整備したものとされます

元々は 霧島山そのものを信仰対象とする山岳信仰から始まり やがて 霧島山を修験道の霊場とする修験者の道場拠点となりました

霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)の六社

①西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉=霧島東神社(高原町祓川)
③霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉=
④雛守権現社〈別當・宝光院〉=現 霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤狭野大権現社〈別當・神徳院〉=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥東霧島権現社〈別當・勅詔院〉=東霧島神社(都城市高崎町)

其の他の説に
・白鳥権現社〈別當・満足寺〉=白鳥神社(えびの市末永)
霞権現〈別當・神徳院〉=霞神社(高原町後川内)

『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される霧島六社権現゛の図

①〈三国名勝圖會 巻之三十四 大隅國囎唹郡 曾於郡之二 神社〉西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉

現=霧島神宮(霧島市霧島田口)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

②〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉御池 霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉

現=霧島東神社(高原町祓川)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

③〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉

霧島岑神社(小林市細野)の旧鎮座地

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

④〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社雛守権現社〈別當・宝光院〉

 霧島岑神社(小林市細野)の社地

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

⑤〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉狭野大権現社〈別當・神徳院〉

現=狭野神社(高原町蒲牟田)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

⑥〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉東霧島権現社〈別當・勅詔院〉

現=東霧島神社(都城市高崎町)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

その他

『三国名勝圖會』では 霧島六社権現として 他にも挙げています

・華舞六所権現=現 華舞神社〈山田神社〉(都城市山田町山田)
・安原霧島大権現(中霧島権現)=現 安原神社(都城市山田町中霧島)
・霧島山不動明観寺=現 荒武神社(都城市吉之元町)

現在の 霧島六社権現5社について

※元々は 名前〈六社権現〉の通りの六社でしたが 明治6年(1873)霧島岑神社と夷守(ひなもり)神社が合祀されたので 現在は5社となっています

・霧島(きりしま)神宮(霧島市霧島田口)
・霧島東(きりしまひがし)神社(高原町祓川)
・狭野(さの)神社(高原町蒲牟田)
・東霧島(つまきりしま)神社(都城市高崎町)
・霧島岑(きりしまみね)神社(小林市細野)

延喜式内社 日向國  霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社について

・霧島岑神社(小林市細野)

一緒に読む
霧島岑神社(小林市細野)

霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は 社伝に 往古 高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(セタオ)に鎮座と伝わり 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です その後 韓国岳 大幡山 御鉢 新燃岳の噴火で相次いで神殿を焼失しては造営を繰り返し 明治6年(1872)夷守神社を霧島岑神社に合祀した上で 現在地〈夷守神社の社地〉に霧島岑神社が遷座されました

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・東霧島神社(都城市高崎町)

一緒に読む
東霧島神社(都城市高崎町)

東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)は 第5代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝わり その後 霧島山の噴火などにより神殿などは焼失・埋没し荒廃したが 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です 963年 天台宗の僧 性空上人が再興した ゛東霧島大権現宮゛と称される霧島六所権現の一つです 

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・霧島東神社(高原町祓川)

一緒に読む
霧島東神社(高原町祓川)

霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は ゛天之逆鉾゛〈高千穂峰の山頂の天孫降臨伝説の地〉を社宝とし 第10代崇神天皇の御代 霧島山を信仰する社として創建と伝わり 山頂は飛地境内となっています 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社で 天暦年間(947~957)には 性空上人が別当寺 錫杖院を建立し 霧島六社権現のひとつとなりました

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・霧島神宮(霧島市霧島田口)

一緒に読む
霧島神宮(霧島市霧島田口)

霧島神宮(きりしまじんぐう)は 旧記に 欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間 脊門丘(セタヲ)に奉斎され 後 御山の噴火の為 悉く炎上し 天暦年間(950)性空上人が高千穂河原に再興奉遷した 後 文暦元年(1234)の大噴火で 社殿 僧坊寺が災禍に遭い 今から500年程前に現在地に鎮座しました 式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です

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・霧島神宮 古宮祭祀跡(霧島市霧島田口)

一緒に読む
古宮址天孫降臨神籬斎場(霧島市霧島田口)

古宮址天孫降臨神籬斎場(ふるみやあと てんそんこうりんひもろぎさいじょう)は 昔の霧島神宮の跡で 神宮は 始め高千穂ノ峯と御鉢(噴火口)との中間゛脊門丘(セタオ)゛に奉斎後〈約1400年前〉噴火で悉く炎上の為 この地に再建されましたが ここも〈約1000年前〉噴火で燃えてしまい 霧島町の゛待世゛に遷され 凡そ480年前〈現在の霧島神宮〉に建て替えられています

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR九州 吉都線 小林駅から県道104号経由で南下 約4.1km 車10分程度

宮崎自動車道との立体交差の手前に朱色の両部鳥居か建ちます

霧島岑神社(小林市細野)に参着

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霧島岑神社 年間の祭儀が案内板に記されています

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鳥居をくぐり参道を進みます

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木立のトンネルのような参道の石段下には 狛犬ではなく゛仁王像゛が構えます

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仁王さま

 本来、仁王は二天に同じで仏語であり、四天王の中の「持国天と増長天」・「多聞天と持国天」・「日天と月天」・「梵天と帝釈天」と仁王門を造り仏法の守護神である。

 伽藍守護の神で、寺門又は須弥壇(しゅみだん)(仏像を安置する壇)の両脇に安置した一対の半裸形の金剛力士像をいいます。
 一般に、口を開けた阿形(あぎょう)、口を閉じた吽形(んぎょう)ともに勇猛・威嚇の相をとる。

 霧島岑神社の仁王は雛守大権現時代に奉納された像で、江戸時代の中期、享保元年(一七一六年)二月、新燃岳の巨大噴火で、ここ西諸県の郷は甚大な被害を受けており
一、御山の怒りの鎮魂
一、災害からの復興
一、五穀豊穣祈願
などの祈りとして奉納されたものです。

 向かって左側の背面には「雛守大権現仁王」と記され、右側には願出人「黒木丹後守以下三名の名」と石工「勝岡石切七右衛門 享保元年丙申十月吉祥日」 刻まれています。勝岡は都城盆地三股町の勝岡、地名は残っており、石切工の地域でも毛利七右衛門は享保の石像ブームの代表的な人といわれています。

 小林・西諸県地方の宗である雛守大権現社は全国的に誉名ある霧島信仰の象徴の役割を担いつつ、霧島山北の台地を守護し続けるやしろであります。
社務所

現地案内板より

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仁王像の脇には゛水道通水の碑゛
霧島岑神社の下の集落が 水不足の為 神社近くからの水道通水をつくった時の碑のようです

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表参道の石段を上がります

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木立のトンネルのような参道の石段に差し込む木漏れ日を追うと 10月でしたが強い日差し

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参道の正中には 石畳みが敷かれていますが ここは神の通り道で 参拝者は両脇の階段を進みます

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石段上の二の鳥居をくぐります

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木立のトンネルのような参道を抜けようとする時
柞(イスノキ)と梛(ナギ)が注連縄柱のように生えています

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 霧島神社は 所在について 霧島山は峯二つあり 山下には東霧島村 西霧島村が二つ 麓に霧島明神社という大きな神社がある との説を記しています

【抜粋意訳】

霧島(キリシマノ)神社

日本後紀承和月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
天安廿二日己酉、授 從五位上 霧島神 授從四位下

「応神紀」日向諸縣君 牛諸井
〇信友云 或書に 高原郷 今云に東霧島宮
(古事記傳)に霧島山は日向国の南の極にて 大隅国の堺にあり
(神代紀)に 二上とあるごとく 東西と分れて峯二つあり 山下に東霧島 西霧島と云ふ村もあり 西なる峯は 大隅国囎唹郡に属し 東なるは日向国諸縣郡に属けて 霧島明神社は麓にあり大きなる社之とぞ云々とあり 霧島山 霧山とも云ふ
(古事記)竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき
(神代紀)(日南風土記)可引 とある処の山 之この委き考は傳の十五の七十丁にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承

゛雛守六所権現社゛゛霧島山中央六所権現宮゛について記しています

 霧島岑神社(小林市細野)は 江戸時代には゛霧島山中央六所権現宮゛でした

霧島岑神社(小林市細野)の現在の社地は 江戸時代には゛雛守六所権現社゛の社地だった所です 明治時代になって ゛雛守六所権現社゛を合祀して遷座したので 現在は霧島岑神社(小林市細野)の社地となっています

【抜粋意訳】

三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社

 雛守六所権現社

地頭館より未方、一里餘

眞方村にあり。 雛守嶽の麓なり、
祭神六座、瓊々杵尊、木花開耶姫、彦火火出見尊、豊玉姫、鸕鷀草葺不合尊、玉依姫、是なり 神体各木像、霧島権現六社の一とす、
按するに、当社の由緒は、村上天皇の御宇、性空上人霧島山に来て霊跡を探り、六座の神を雛守嶽に勧請す、因て雛守権現と號す、
古来雛守嶽の八分にありて、数百の星霜を経たりしに、享保元年、霧島山燃えし時、此處に遷宮す、
松齢公、当社を御崇敬ありて、屡参詣し玉へり、
社内に天承六年、松齢公、神殿造営、貞享二年、寛陽公新建の棟札を蔵む、
祭祀九月十九日、十一月十五日、闔郷の総鎮守にて、毎に詣人多し、往古は今の細野村宝光院、当社の別当にて、天正十六年の梁文にも、其事見えたり、其後燃らす、宝光院に詳なり、社司黒木氏、
〇鐘一口・・・・・
〇寄進品・・・・・

霧島山中央六所権現宮

地頭館より牛未方、二里餘

細野村雛守嶽の東面五分にあり、山下より二十五六町登て至る、又瀬多尾六所権現と号す、
祭神六座、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫、各木座像、長一尺五寸、性空上人作、是なり、霧島権現六社の一なり、
社記を按ずるに、昔し性空上人、霧島山中に来り、草廬を結んて行道し、乙若の二神童 と共に、霧島山の五方に、霧島神社並に梵刹を建て、當社を以て、霧島山中央権現といふ、其梵刹は、即今の別當寺なり、
上古当社は、霧島山絶頂矛峯と、火常峯との中間の地、東西三町、南北二町許は地形凹(ナカクボ)にして、平處あり、此を背門丘(セタヲ)と呼ぶ、又此處を天河原とも稱ず、太古瓊々杵尊天降りありし所なりといへり、其地形の詳は、曽於郡邑の巻、二上峯詳説の段に記すか如し、
因て又當社を瀬多尾権現と号せるなり、瀬多尾と、背門丘とは同音なり、或は迫門尾に作る、或は瀬戸尾に作る、
其中央権現とは、霧島山五方の神社寺院の内、四方門といひ、當社は絶頂中央にありし故、四方門に対して名を得たり、當時別當寺も其所にありて、瀬多尾寺と號し、又奥院とも唱へしとなり、奥院と唱ふも、亦四方門神社の別當寺に対しいへるとぞ、
天永三年壬辰二月三日、霧島山上に火発し、神社寺院焼亡す、此時は即其地に舊の如く神社寺院重建あり、文暦元年甲午十二月二十八日、火常峰に火大に発して、神社等又焼亡し、砂石降埋む、先是矛峰の邊、水泉湧出せしに、是に至て水泉甚乏しく、山上の居住を得ず、故に半里許山下に隔れる、矛峯と虚国嶽との間なる、瀬多尾越に当社を移す、
山上背門丘に鎮座の時は、瀬多尾越へ支院三十六坊あり、因て其地に遷宮なりしとぞ、其後山上背門丘社跡は、舊瀬多尾と名く、旧瀬多尾とは、瀬多尾越の新地に対してなりも、當社は瀬多尾越にあること久して、多くの星霜を歴たり、
享保元年甲申九月、復霧島山上金剛胎蔵両池の邊より火大に発し、寺社悉く焼亡し、此處砂石の為に六尺許埋没す、時に神体は細野村今坊権現側へ假殿を建て安置す、既にして小林邑治岡原といふ所に假殿を建て、鎮座あり、
其後山上火斂しかば、衆人議し、当社は古来深山に鎮座ありし故、其地に遷宮當然なるべしとて、瀬多尾越に登り、舊跡を視るに、地方二里許、土石焼焦れ、一草木のなく、遷宮せべきの形勢ならず。 今の地を相するに、泉水も出て、吉地なるを以て、地を削り、社を建て、享保十四年己酉八月二十七日、岡原より遷宮なり、其後当社又火災に逢ひしかば、造営して舊に復す、今の地、遷宮の時、深夜社殿へ神楽の音甚高く響き、社僧以下衆人に至り、聞かざる者なかりとぞ。 今にも時々夜中神楽の音あること往々ありとかや、

續日本紀曰、承和四年八月壬子、日向国、諸県郡、霧島岑ノ神官社ニ預ル、是当社ならん歟、承和の時、當社は霧島山の絶頂にあるを以て、岑の字を用ひしなるべし、舊説に、此霧島岑神とは、高原東御在所両所権現なりとす、然れども、彼社は、山上に非ず、是を以て見れば、當らざるが如し、故に續後紀の文、彼に載すといへども、又此に載せて参考に備ふ、
續後紀又曰、承和十年九月甲辰、日向国無位高智保皇神奉授従五位下、
又三代實録曰、天安二年十月二十二日、授日向国従五位上高智保神従四位上、是亦当社ならん歟、蓋當社当時は霧島岑神社といひ、霧島岑は即ち高千穂峯なれば、承和の中ごろに至り、改て高千穂神社といひしなるべし、又曽於郡西御在所霧島権現社も、上古背門丘にありしを、今の地に遷祀の傳へあり、因て或は續後紀、三代實録の高智保神を以て彼社に充つ、今両書の文を各社に記して、識者の明裁あらんことを欲す、

霧島山五方神社梵刹の名、當社別當瀬戸尾寺の舊記に見えて、下に出す、五方の神社を、性空所建といふは、多く再建にして、其梵刹は多く創建なり、性空は元亨釋書、本朝高僧傳を併せ考ふるに、霧島に来るは、天慶頃より、康保頃迄の間に在るへし、嚮に所謂 續後紀等の文、果して當社の事なるに於ては、天慶は、彼承和に後るゝこと百餘年なれば、當社の如きも、性空以前より在りて、性空再建せるなり、

松齢公飯野御在城の時、特に當社を敬仰し、度々参詣し玉ふ、昔時は霧島中央権現の名高くして、参詣の徒、四方より雲集せしに、雛守嶽へ遷宮の後、漸々少なくなりしとぞ、
祭祀九月二十九日、十一月二十八日、昔時は邦君等寄附の宝品若干傳はりしに、享保の山火に厄せられて、悉烏有となる、

○本地大日堂 當社の庭にあり、性空上人、大日如来を中央権現宮の本地として、山上背門丘へ安置せりとぞ、毎年六月二十三日には、高原小林二邑の土民、此堂前にて土俗の棒舞をなす、

○峯水天社 當社の庭にあり、往古性空上人、山上背門丘の天之井に勧請せりとぞ、因て峯水天と唱ふ、

○熊野権現社 當社の庭にあり、往古山上背門丘にありて、性空創建といへり、

○霧島王子社所在并に開基、前に同し、

○瀬戸尾寺 前文に見ゆ、当社の下一町許にあり、天台派修験宗にして、當社の別當寺なり、開基性空上人にして、天台宗・・・・・・

○霧辺山四方門中央社寺の説  此説瀬戸尾寺舊記に見ゆ、曰、
東門、高原東御在所権現、別当東光坊、
南門、都城荒嶽権現、別当明観寺、
西門、曽於郡西御在所権現、別当華林寺、
北門、小林雛守六所権現、別当宝光院、
中央、霧島中央瀬多尾六所権現、別当瀬多尾寺、

神社合祀
八王子権現社 ・・・・・
△山神社・・・・
△宇賀大明神社・・・・・
△稲富権現社・・・
△天満社・・・・・
△今宮八幡社・・・・・
△濱妙見社・・・

【原文参照】

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 霧島神社について 所在については 高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉と記しています

【抜粋意訳】

霧島神社

霧島は 岐里志麻と訓べし

〇祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、相殿 地神五代、神武天皇、社傳 〇考証、多紀理比賣といふ、今従はず、

〇高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す、神社考

神位 官社
日本後紀承和月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
三代實録、 天安月己酉從五位上 霧島神 授從四位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉であるが 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉との説も紹介しています

天孫降臨の高千穂峰について 現 宮崎県と大分県の県境にある高千穂の二上山と 宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂二上峯のどちらも 霧島山としての可能性があり 古から決めかねていることも記しています

【抜粋意訳】

霧島(キリシマノ)神社

 細野村夷守にあり、昔高千穂二上南峯の間 瀬戸尾にあり、仍て瀬戸尾神社入霧島中央権現と云、後 今の地に遷す、宮崎縣神社調 〇按 鳥羽天皇天永三年山上大に火あり、六條天皇の仁安 社殿災に罹り、四条天皇文暦元年又災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後數遷座ありて終に今地に遷し奉ると云り、
 往古より霧島神社は六社ありて 其五社は共に同國同郡に鎮座す 唯一社のみ大隅國 囎唹(ソヲノ)郡にあり されば何れ式社ならん詳ならずといひ 又 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱すともあり附て後考を俟つ、
蓋 天孫 天津彦瓊々杵尊を祀る、参酌日本書紀、古事記、

霧島山は日向大隅二國に蟠り東西二峯あり 東峯殊に高く峻しく 西峯稍卑く常に火燃揚り、時によりては、黒烟天を蔽ひ、石砂飛散を以て、世人畏て神火と云ふ、二峯を合せて霧島山と名く、此の山遽に霧起り大風吹出、地とどろき闇の夜の如く暗がりて霧にれぼぼれ 風に吹放たれて、身を失ふ者あり、故山に登る者、神代の故事の随に、稲穂を持て拂ひつつゆけば、天明りて、事故なし、其の神威霊應、今に至りて甚だ厳速しと云、高子観遊記、日本紀通證、古事記傳、

〇按 日向國圖、霧島山は諸縣郡にて大隅に界ひし 高千穂嶽は臼杵郡にて、豊後の界にあり、かかれは南北と甚く隔りてはあれど、いづれも二峯ありて二上と云へき状なるに、高千穂嶽は今も二上山と云ひ、風土記にも稲穂の故事をは臼杵郡なる方に記せれば、是ぞ神代の高千穂二上峯ならむと思ふに、書記に襲之高千穂峯とある襲は、大隅の地名なるが上に稲穂を拂ふ事は、今の現に霧島山にのこり、穂出見尊の御陵 高千穂山西にありと云るも、霧島山と聞ゆれば古へは此二山を推通して、共に高千穂二上峯と云しなるべし、姑附て考に備ふ、

桓武天皇 延暦七年三月壬辰 霧島峯神、官社に預り、續日本後紀
清和天皇 天安二年十月巳酉、従五位上 霧島神に従四位下を授く、三大實録
凡其祭三月十一月十八日を用ふ、宮崎縣神社調

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉とし 元々は゛山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり゛と噴火による火災で度々 遷座してい現在地となっていると記しています

【抜粋意訳】

霧島神社

祭神 瓊々杵尊

神位 仁明天皇 承和月壬辰 日向國諸縣郡霧島神預官社
   文徳天皇 天安二年十月廿二日 巳酉授日向國従五位上霧島神従四位下

祭日 三月十一月十八日
社格 (明細帳に霧島神宮摂社 兼 縣社霧島岑神社とあり)(縣社)

所在 細野村 夷守(西諸縣郡小林村大字細野)

今按〈今考えるに〉
宮崎縣神社調帳に當社は 往古 高千穂二上山 今の霧島なり 両峯の間 瀬戸尾と云地に鎮座ありしに依て 俗に瀬戸尾神社また霧島中央権現とも稱せり
傳云 鳥羽天皇 天永三年二月三日山上大に炎し 六條天皇 仁安二年亦炎す再度共に神社火災に罹るといへども故の如く造営ありしが 四條天皇 文暦元年十二月震火大に発し社殿併當寺焼亡す故に山内を出て岡原に假殿を建て 十四年 二上山の東なる筑地に社殿を造営して遷座ありしを 明治七年四月一日夷守の舊社へ遷座ありと云るが如く もと山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

霧島岑神社(小林市細野)ついて 上古は霧島山上瀬戸尾に鎮座したが 度重なる噴火により 遷座を繰り返し 明治 小林郷々社 夷守神社を霧島岑神社へ合祀し 明治月更に霧島岑神社を夷守神社の跡〈現在地〉に遷座したと 記しています

【抜粋意訳】

〇宮崎縣 日向國 西諸縣郡 小林村 大字細野字夷守

縣社 霧島岑(キリシマミネノ)神社

神祇志料には祭神「瓊々杵命」とし、神名帳考証には、「多紀理比命」とせり、
然るに神社覈録には「祭神 伊弊諾、伊弊冉尊、相殿 地神五代、神武天皇 傳〇考証 多紀理比といふ今従ず」と見ゆ、
創建年代詳なら、延喜の制 式内小社に列す、当四座の一たり、上古は霧島山上瀬戸尾に鎮座あり、仍て瀬戸尾権現、又霧島中央権現とせり、名勝圖會、神祇志料

太宰管内志に曰く、
「名義は山名に依て負せたるべし、山名の義は未だ詳ならす、鮫島氏云、諸縣郡霜島神社は正殿に祭神 第一瓊々杵尊、第二彦火々出見尊、第三鵜草葺不合尊、第四神日本磐生彦尊この四柱なり、又東ノ社 日ノ少宮は 國常立尊、西ノ社 山王ノ社は國狭槌尊を祭る、四柱を合せて六所権現といふ、
古老に欽明天皇の時 慶胤仙人始て此山を開く、其後 震火にかかりて亡びたるを村上天皇の時 性空上人神殿  僧坊を作る、又 文暦元年12月震火に羅りて焼亡たるを、文明十六年島陸奥守忠昌朝臣兼慶法師に命じて社を中興せさせ給ふ、又百石の社頭を寄附し給ふ、云々」

鳥羽天皇の天永 六條天皇の仁安 山上大に火あり、社殿その災に罹り、四条天皇の文暦元年又災あり、加ふるに社傍の霊泉天之井とせし用水 涸れしを以て、瀬戸尾より乾十八町の地に遷座あり、
中御門天皇の享保元年 山上また火を発して社殿焼亡せり、仍て小林郷の麓 岡原といふ地の假宮に遷し、
十四年今の地に宮殿を造営して遷座ありしといふ(神祇志料 三国名勝圖會  地理纂考)
日本後紀に「仁明天皇承和月壬辰霧島岑神預官社」と見え、
三代實録に「清和天皇天安月己酉從五位上霧島神授從四位下」と見えたり、御神は各 木座像 長一尺五寸、性空上人作と三國名勝圖會に見ゆ、

地理纂考に曰く、
「夷守嶽の東一里許 霧島山瀬戸尾ニ登ル事山下ヨリ二十五六町ニアリ 俗ニ瀬戸尾権現 或ハ霧島中央権現トモイヘリ 其ハ上古霧島山上瀬戸尾ニ鎮座アリツレバナリ 神名帳諸縣郡一座ニ霧島神社トアリ 社伝ニ曰ク 上古高千穂山ノ絶頂ナル東嶽 俗にいふ予峯なり 火常嶽トノ間ノ瀬戸尾ニ鎮座アリシヲ 鳥羽天皇天永年壬辰  六條天皇仁安年丁亥 山上大ニ燃テ 神社其災ニ罹ルト雖モ 神像恙ナク 宮殿造営アリテ 猶山上ニ鎮座アリシヲ ソレヨリ百二十三年ヲ経テ四條天皇ノ文暦元年十二月二十八日ノ燃ニ  神社焼亡ス 此時モ神橡恙ナシト雖モ 用水涸レシニヨリ 瀬戸尾ヨリ乾方十八町山下 霧島王子ト称フル末社ノ邊ニ遷座アリ 四百七十八年許ヲ歴テ 享保元年二十六日山上復火ヲ発シテ数日息マズ 神社寺院スベテ焼亡ス然レドモ 此度モ神体恙ナク坐マシシヲ守護シテ 小林郷ノ麓ナル岡原トイフ所ノ假宮ニ遷奉リ十四年今ノ地ニ宮殿造営シテ 同年二十七日遷座アリシトイフ 享保元年神社焼亡し時 を探索るに同じ厨子の中にをはしつる五柱の神像一柱灰沙の中にをはしますを見当り 皆大に喜び其所砂礫を掘事七尺余にして四柱の神体をも得奉れりとぞ」

明治年縣社に列す、同年小林郷々社 夷守神社を霧島岑神社へ合祀し、同年月更に霧島岑神社を夷守神社の跡に遷座し、縣社にして郷社を兼たり、同二十一 官幣大社 霧島神宮(鹿児島縣大隅國西曽於郡東襲山村田口霧島宮の原鎮座)の摂社と定めらる。

社殿は本殿、舞殿、拝殿等を具備し、増内地は六千六百四十五坪(官有地第一種)あり、往時は物若干をへしも、享保の山火に厄せられて悉く烏有に帰せりといふ(三國名勝圖會)。
因に記す、官幣大社霧島神宮(鹿児島県大隅国に祀曽於郡東襲山村鎮座)の明細書に依るに「欽明天皇の御宇慶胤と云ふ人社殿を造営し、其後山嶺噴火の延焼に羅り爾来村上天皇の御代天暦年中再建、時の神廟は家瀬戸尾と云ふ所なりしよし、其後文暦元年山頂噴火漸く神輿を供奉して待世に至り此所に暇りに鎮座、爾来二百五十年を経て文明十六 現今の宮地(官幣大社霧島神宮社地に宮殿造営、其後二百二十二年を経て寛永年総て炎上、其後年を経て正徳月再建、社領五百四十四斗余を有せり、云々」とありて、且式内霧島神社とせり、

然るに神祇志料に云く、
「宮崎縣神社調○按 鳥羽天皇 天永年山上大に火あり、六條天皇仁安年神社災に罹り、四條天皇文暦元年  災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後遷座ありて終に今地(細野村夷守)に遷し奉ると云り、云々」
と、本社即ち官幣大社 霧島神宮は此の社より八里二十町の距離にあり。

境内神社 山神神社 荒神神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

霧島岑神社(小林市細野) (hai)」(90度のお辞儀)

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日向国 式内社 4座(並小)について に戻る 

一緒に読む
日向国 式内社 4座(並小)について

日向国(ひむかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 日向国 4座(並小)の神社です

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています