氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氣多大社(Keta taisha)
(けたたいしゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
石川県羽咋市寺家町ク1-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命 (Onamuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 能登國一之宮(Noto no kuni ichinomiya)
・ 現在は神社本庁に属さない単立神社
【創 建 (Beginning of history)】
①社伝(『気多神社縁起』)によれば
第8代 孝元天皇の御代 祭神「大己貴命」が 出雲から300余神を率いて来降 化鳥・大蛇を退治して海路を開いたと伝える
➁『気多社島廻縁起』によれば
気多大菩薩が 第8代 孝元天皇の御代 従者を率いて渡来した異国の王子とし能登半島一帯を巡行して 鬼神を追放したと記される
➂『気多社祭儀録』によれば
祭神「大己貴命」は 第10代 崇神天皇の御代の勧請とし 神代からの鎮座とする説もあると記される
④一説として
第8代 孝元天皇の御代には 七尾市に鎮座(現・気多本宮)していた 第10代 崇神天皇の御代に 当地に遷座と伝える
氣多大社
当大社は 氣多大神宮とも称え奉り 能登国一ノ宮として世に知られ
北陸道総鎮護の御社であります
御祭神は 大国主命で世に大国さまと申します
若宮神社の御祭神は えびすさまと申します
御社殿背後の森は「いらずの森」と称し 千古の歴史を伝える北陸随一の原始林であります境内案内板より
【由 緒 (History)】
気多大社(けたたいしゃ)
当大社の御祭神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)(またの御名を大巳貴命 おおなむちのみこと)と申し、能登の地を開いた大神(おおかみ)と仰がれています。
創立年代は、第10代 崇神天皇(すじんてんのう)の御代と伝えられ、延喜の制(えんぎのせい)では、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列しています。本殿背後 約1万坪の社叢林(入らずの森)中央の奥宮には素盞鳴命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)が祀られています。
伝統的な特殊神事としては、新年の門出式(かどでしき)(1月11日未明)をはじめ、平国祭(へいこくさい)(3月18日~23日)、蛇の目神事(じゃのめしんじ)(4月3日)、鵜祭(うまつり)(12月16日未明)等が有名です。神木の杜(しんぼくのもり)
当大社の社叢林(しゃそうりん)は、通称「入らずの森(もり)」といわれ、古来、斧を入れることなく、この地域の自然林の様相をよく伝えており、学術的価値の高いところから昭和42年に国の天然記念物に指定されました。
この自然林を保護し、後世に伝えてゆくため、当大社では”神木の杜(しんぼくのもり)造成事業”を進めています。その一環として日本海側に鎮座する神社の神木で、国の天然記念物に指定された神木の種子や苗木を譲り受け、当地で養成し、石川県巨樹の会の指導により、社叢林の周辺に植え育てているところです。社頭の案内板
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・奥宮(オクミヤ)《主》素盞鳴尊 奇稲田姫命
※「入らずの森」内に鎮座 一般の参拝はできない
境内に遙拝所あり
・白山神社(ハクサンジンジャ)《主》菊理姫命
本殿向かって右手
社殿は〈本殿と同じ〉江戸時代の天明7年(1787年)の造営 三間社流造檜皮葺〈国の重要文化財に指定〉
・若宮神社(ワカミヤジンジャ)《主》事代主命
本殿向かって左手
社殿は 戦国時代の永禄12年(1569年)の造営 一間社流造檜皮葺〈国の重要文化財に指定〉
・楊田神社(ヨウダジンジャ)《主》荒御魂神(または迦具土命)
社殿はなし
・菅原神社(スガワラジンジャ)《主》菅原道真
・太玉神社(フトダマジンジャ)《主》天太玉神
・養老の大黒像(ヨウロウノダイコクゾウ)《主》大国天
・奥津島神社(オキツシマジンジャ)《主》奥津島姫命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
摂社
・大穴持像石神社(オオナモチカタイシジンジャ)(羽咋市寺家町ケ)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」
古来より 気多大社の摂社と伝わる
・大穴持像石神社(羽咋市)
大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています
大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります
摂社
・宿那彦神像石神社(スクナヒコノカミノカタイシジンジャ)(中能登町)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」
・宿那彦神像石神社(中能登町)
宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します
宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う
末社
・印鑰神社(いんやくじんじゃ)
・大多毘神社(おおたびじんじゃ)
寺家町集落の東端部にあるタブの木に囲まれた社殿を持たない神社
タブの老巨樹を神体とし 気多神社社叢「入らずの杜」の奥宮で 毎年大晦日の深夜に行われる奥宮例祭で 取り外された注連縄類をこの老巨樹の前で焼却する「火神事」と呼ばれる神事が行われます
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える氣多神社(ケタノカミノヤシロ) 一座 能登国(ノトノクニ)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」の末尾
宮司(グウジ)禰宜(ネギ)に季禄者(キロクシャ)の官位を授けています
主要な神社として 伊勢の内宮・外宮の他には
〈香取神宮〉〈鹿島神宮〉〈気比神宮〉〈氣多大社〉の4社です
凡諸神(ボンショノカミ)宮司(グウジ)禰宜(ネギ)季禄者(キロクシャ)
伊勢太神宮〈内宮〉の禰宜は 准従7位の官に
渡会の宮〈外宮〉の禰宜は 准従8位の官に
並び以って 神郡の神統給う之下総国 香取神〈香取神宮〉の宮司
常陸国 鹿嶋神〈鹿島神宮〉の宮司
越前国 氣比神〈気比神宮〉の宮司
並びに 准従8位の官
並び以って 封戸物旡之
能登国 氣多神〈氣多大社〉の宮司 准初位の官に
持って神封 給え之延喜式 巻第三
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 氣多神社
[ふ り が な ](けたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Keta no kamino yashiro)
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【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について
氣多神(ケタノカミ)と その御子神〈苗裔神(ビョウエイシン)〉 や 分祠とされる神社が 日本海の沿岸や河川流域に鎮座します
「氣多神(ケタノカミ)」の本宮 「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の元宮
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・気多大社(羽咋市)能登国一之宮
氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社
①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多御子神社(小松市)
気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です
気多御子神社(小松市)
・市之瀬神社(加賀市山代温泉)〈合祀先〉
市之瀬神社(旧村社)に合併されている神明宮に祀られていたという御子社(山代日子命)が氣多御子神社だという説
➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です
氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉
➂「越後國 頸城郡 居多神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・居多神社(上越市)越後国一之宮
居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています
居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉
④「但馬國 氣多郡 氣多神社」
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多神社(豊岡市)但馬国総社
➄「飛騨国 気多若宮神」
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条
・気多若宮神社(飛騨市)国史見在社
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
羽咋駅からR249号を北上 約4.5km 車10分程度
お勧めの経路は「柳田新保」の交差点を左折して 県道293号を海岸沿いにすすみます 羽咋一の宮海岸に気多大社の一の鳥居が見えてきます
R249号の氣多大社前交差点には社号標「能登一ノ宮 氣多大社」の社号標が立ち 参道が社頭の二の鳥居へと続いています
社頭には両部鳥居が建ち 社号標「國幣大社 氣多大社」
氣多大社(Keta taisha)に参着
石垣に囲まれた境内地へと 一礼をして 大きな両部鳥居をくぐり 進みます
玉砂利が敷かれ 縁石で仕切られた参道の 右手には社務所
参道は 僅かに左に折れて 正中を進まないように配慮がされていて 正面には石段が築かれ その上に神門 手前には 狛犬と石灯篭 その左脇には手水舎が置かれています
透かし塀の御垣に囲まれた神域には 四脚門という形式の神門があり 天正12年(1584)に建立といわれ 国の重要文化財 昭和36年6月7日指定
神門をくぐると 正面直ぐに「拝殿」が建っています
参拝順路として 左手の「幸せむすび所」へと矢印があり そちらへと進みます
拝殿向かって左手の若宮神社(ワカミヤジンジャ)《主》事代主命にお詣りをして 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
続いて 拝殿向かって右手の・白山神社(ハクサンジンジャ)《主》菊理姫命にお詣りをします
境内には 昭和天皇が昭和58年(1983)5月に行幸され 人が立ち入らずに残されてきた森に感銘を受けれ 御製を詠まれます その碑があります
昭和天皇御製碑
「斧入らぬ みやしろの森 めづらかに からたちばなの 生ふるを見たり」
この「入らずの森」の中に「奥宮(オクミヤ)《主》素盞鳴尊 奇稲田姫命」が鎮座 一般の参拝はできませんので 遙拝所があり
「入らずの森」の入口に「神庫」〈天明7年(1787)建立〉と
境内社の楊田神社(ヨウダジンジャ)《主》荒御魂神(または迦具土命)の鳥居が建ちます
境内社へお詣りを済ませ 境内に戻り 社殿に一礼をして神門から参道へと戻ります
参道の横には 社務所と齋館が並んで建てられています 授与を受けてから鳥居をくぐります
境内の左隣には かつての神宮寺であった「正覚院」があり 立ち寄りお祈りをします 案内図を参照
「正覚院」について現地案内板より
正覚院(しょうがくいん)
当山(とうざん)は、気多神社(けたじんじゃ)の神宮寺(じんぐうじ)(別当寺)として創建(そうけん)され、元正天皇御代(げんしょうてんのうのみよ)養老2年(718)に越前(えちぜん)の大徳泰澄大師(だいとこたいちょうたいし)が、夢想(むそう)のお告げから一堂(いちどう)を建立(こんりゅう)したと伝えられている。
その後、文徳天皇(もんとくてんのう)斉衡2年(855)に亀鶴蓬莱山(きかくほうらいさん)気多太神宮寺(けたじんぐうじ)の勅号(ちょくごう)を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数3人を認めるから永久に絶やすことのないように」との指令が出される。(文徳実録 もんとくじつろく)以来、一千有余年(いっせんゆうよねん)神社に奉仕してきたが、明治維新の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により、直接の関係を絶つ。
しかし今でも神仏混淆(しんぶつこんごう)当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫の神鏡(やたのしんきょう)」を初め、開かずの宮(みや)といわれる護摩堂本尊(ごまどうほんぞん)「不動明王(ふどうみょうおう)」、重文「阿弥陀如来(あみだにょらい)」など多くの寺宝(じほう)を秘蔵する。山主敬白
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『万葉集(Manyo shu)』7世紀前半~759年頃 に詠まれる歌
大伴家持(オオトモノヤカモチ)卿〈718~785年〉が 越中国守として赴任時 諸郡を巡行した時の歌です
任地は 越中4郡(射水・砺波・婦負・新川) 能登4郡(珠洲・鳳至・能登・羽咋)で 石川県の気多大社にお詣りの時 途中の千里浜にて
巻 第17巻
歌番号 4025番
作者 大伴家持
題詞 赴参<氣>太神宮行海邊之時作歌一首
訓読 志雄路から直越え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも
かな しをちから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふなかぢもがも
【意訳】 志雄(しを)街道からまっすぐ越えてくると 羽咋(はくひ)の海は朝なぎ時だった こんな時に 舟の梶でもあればよいものを
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『続日本紀(Shoku Nihongi)』延暦16年(797年)に記される伝承
奉納と奉幣を 氣多神(ケタノカミ)に
神階の奉授が 気太神(ケタノカミ)にと 記されています
【意訳】
神護景雲2年(768年)10月24日 甲子の条
能登国 氣多神(ケタノカミ)に 20戸 田2町
【意訳】
寶亀元年(770)8月辛卯の条
遣 神祇員 外少史 正7位 中臣葛野連 飯麻呂
奉(タテマツリ) 奉幣(ホウヘイ) 於いて
越前四氣比神
能登国 氣多神(ケタノカミ)
・・・・・・・
【意訳】
延暦3年(784年)3月16日 丁亥の条
叙(ジョ)する 従3位の 氣太神(ケタノカミ)に 正3位
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『日本後紀(Nihon koki)』承和7年(840年)完成 に記される伝承
【意訳】
延暦23年(804年)6月13日 丙辰の条
制(オサムニ)
常陸国 鹿嶋神社
越前国 氣比神社
能登国 氣多神社(ケタノカミノヤシロ)
豊前国 八幡神社等 宮司 人懐 競望 各称すに譜第 自今以降 神祇官検 旧記 常簡 氏中堪え事者 擬補申官
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本後紀』承和7年(840)選者:藤原冬嗣 刊本 塙氏温古堂[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047657&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『続日本後紀(Shoku nihon koki)』貞観11年(869)完成 に記される伝承
律令制の下 高級官僚の間で 奈良時代から始まったとされるのが 把笏(ハシャク)です
奈良時代後期 天平神護年間(765~767)頃に 神宮禰宜への把笏(ハシャク)が許され始めたようですが 伊勢大神宮の大神宮司などの特別な位置づけの神社にとどまっていました
平安時代になると 神職が公職の要素が濃くなり 官吏としての役割が増したようです 神職が笏を使用するにあたって「笏法」〈「持笏」「懐笏」「置笏」「把笏」「正笏」の五法〉が定められていったようです
しかし 斉衡3年(856)にこの基準が明確化されたようで そこまでに 把笏(ハシャク)が許されたのは 記録上では 15神社にとどまります
【意訳】
承和元年(834)9月癸酉の条
坐 能登国 正3位勲1等 氣多大神宮(ケタノオオカミノミヤ)の 禰宜(ネギ)祝(ホウリ)2人に 初めて令に 把笏(ハシャク)せし
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』元慶3年(879年)完成 に記される伝承
神階の奉授が 氣多大神(ケタノオオカミ)にと 封戸が 記されています
特に 位田(イデン)は 一般には 位を授けられた人が 位階に応じた位田を授けるのが通例で 神階を授けられた神が 位田を授けられた珍しい例です
【意訳】
嘉承3年(850年)6月2日 戊申 の条
能登国 氣多大神(ケタノオオカミ)に 授くに 従2位
【意訳】
仁寿3年(853年)8月15日 癸酉の条
加えるに 正2位勲一等
氣多大神(ケタノオオカミ)に 封戸10烟 位田(イデン)2町
【意訳】
斉衡2年(855)5月 辛亥の条
詔(ミコトノリ)
能登国 氣多大神宮(ケタノオオカミノミヤ) 寺に常住の僧を置き 出家の定数3人を認めるから永久に絶やすことのないように
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
全国の神々とともに 神階の奉授を氣多神(ケタノカミ) と記されています
【意訳】
貞観元年(859年)正月27日の条
・・・
能登国 正2位勲1等 氣多神(ケタノカミ)に 従1位
・・・
【意訳】
貞観元年(859年)7月14日 丁卯の条
遣使を 諸社に奉り 神宝 幣帛(ミテグラ)を奉る
・・・・・・
・・・・・・
神祇大祐 正6位上 大中臣朝臣豊雄を
氣比(ケヒ)氣多(ケタ)両社の使いとした
・・・・
・・・・
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
祭神を大己貴命としつつ 天活目命(アメノイクタマノミコト)の説もあると記しています
【意訳】
氣多(ケタノ)神社
神祇祭式 名神大この3字 通本に無きは誤りなり
続日本後紀 承和元年(834)9月癸酉の条 正3位勲1等 氣多大神宮(ケタノオオカミノミヤ)の禰宜(ネギ)祝(ホウリ)2人に 初めて令に 把笏(ハシャク)せし
日本文徳天皇実録 嘉承3年(850年)6月2日 従二位
日本三代実録 貞観元年(859年)正月27日 従一位一宮記 大己貴命なり
続記 天平15年・・・
源頼家集 天元3年・・
日本文徳天皇実録
斉衡2年(855)5月 辛亥の条 詔(ミコトノリ)能登国 氣多大神宮(ケタノオオカミノミヤ) 寺に置く常住の僧 聴度3人を永々不絶元享釈書便家 或る記に云う---社の所在は 羽咋郡 祭神はある説に或いは曰く 大己貴命或いは 天活目命
諸社根源紀 崇神天皇御代に勧請云々 大己貴命等り 三輪明神御真なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
祭神を天活目命(アメノイクタマノミコト)とし 大己貴命の説もあると記しています
【意訳】
氣多神社 名神大
気多は仮字なり
〇祭神 天活玉命 兼燕卿説 〇一宮記頭注 神社帳ともに 大己貴命といえり
〇一宮村に在す
〇式三巻 臨時祭 名神祭285座 能登国 氣多神社一座
〇当国一之宮なり 一宮記類社
越中国 射水郡 気多神社
但馬国 気多郡 気多神社神位
続日本紀 延暦3年(784年)3月16日 従三位から正三位
文徳実録 嘉承3年(850年)6月2日 従二位
三大実録 貞観元年(859年)正月27日 従一位官幣 神寶
続日本紀 寶亀元年(770)8月辛卯の条 奉幣を奉る
三大実録 貞観元年(859年)7月14日 丁卯の条 遣使を 諸社に奉り 神宝 幣帛(ミテグラ)封戸 位田
続日本紀 神護景雲2年(768年)10月24日 甲子の条 能登国 氣多神(ケタノカミ)に 20戸 田2町
文徳実録 仁寿3年(853年)8月15日 癸酉の条 加えるに 正2位勲一等 氣多大神(ケタノオオカミ)に 封戸10烟位 田2町社職 把笏
類聚国史 延暦23年(804年)6月13日 丙辰の条
續日本後記 承和元年(834)9月癸酉の条 坐 能登国 正3位勲1等 氣多大神宮(ケタノオオカミノミヤ)の禰宜(ネギ)祝(ホウリ)2人に 初めて令に 把笏(ハシャク)せし
式三 臨時祭 凡諸神(ボンショノカミ)宮司(グウジ)禰宜(ネギ)季禄者(キロクシャ)難事
朝野群載言う
康和5年6月10日 秦 亀卜 御體御卜 云々 坐 能登国 氣多神
また
永歴4年6月10日 秦 亀卜 御體御卜 云々 坐 能登国 氣多神
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)完成 に記される内容
祭神を大己貴命と記しています
【意訳】
氣多神社 名神大
祭神 大己貴命
神位
桓武天皇 延暦3年(784年)3月16日 従三位から正三位
文徳天皇 嘉承3年(850年)6月2日、従二位
清和天皇 貞観元年(859年)正月27日 従一位官幣
光仁天皇 寶亀元年(770)8月辛卯の条
遣 神祇員 外少史 正7位 中臣葛野連 飯麻呂
奉(タテマツリ) 奉幣(ホウヘイ) 於いて
越前四氣比神
能登国 氣多神社格 國幣中社(官幣大社)
所在 一宮村(羽咋郡一ノ宮村大字一宮寺家)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
氣多大社(Keta taisha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
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能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について