気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
氣多神社(Keta Shrine)
(けたじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
富山県高岡市伏木一宮1-10
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命 (Onamuchi no mikoto)
奴奈加波比売命(Nunakawa hime no mikoto)
《配》菊理姫命(Kukuri hime no mikoto)
事代主命(Kotoshironushi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・福徳円満 Get good fortune and virtue and live smoothly
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 越中國一之宮(Etchu no kuni ichinomiya)
【創 建 (Beginning of history)】
・養老2年(718)に僧の行基が創建とも 天平宝宇元年(757)に越中から能登国が分立した後 能登の羽咋にある氣多大社を 越中国府に近い現在地に勧請(かんじょう)したとも伝わります
越中一宮 気多神社(けたじんじゃ) 略史
天平(てんぴょう)4年(732年)
能登国一宮(のとのくに いちのみや)氣多大社(けたたいしゃ)より御分霊(こぶんれい)(大己貴命)を勧請し、気多大神(けたのおおかみ)として御鎮座(ごちんざ)たまわり越中国一宮(えっちゅうこくいちのみや)氣多神社(けたじんじゃ)となる。天平(てんぴょう)18年(746年)
従五位下(じゅうごいげ)大伴家持(おおとものやかもち)第2代 越中国守(えっちゅうこくこくし)着任(ちゃくにん)-751年まで天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)
能登四郡(のとよんぐん)が分立し、越中国は射水(いみず)・砺波(となみ)・婦負(ぬい)・新川(にいかわ)の四郡(よんぐん)となる。延長(えんちょう)5年(927年)
当社は、越中国34座の名神大(みょうじんだい)一座(いちざ)として神名帳(しんめいちょう)に登載(とうさい)される。文治(ぶんじ)3年(1187年)
源頼朝(みなもとのよりとも)が北陸道(ほくりくどう)及畿内(きない)に宣旨(せんじ)を下し源義経(みなもとのよしつね)を捕(とら)らえさせたが、義経(よしつね)は逃(のが)れ北陸道(ほくりくどう)に入り如意(にょい)の渡しを過ぎて行く。天文(てんちゅう)年中1550年
上杉謙信(うえすぎけんしん)の兵火(へいか)により当社は焼失(しょうしつ)する。天保(てんぽう)2年(1645年)
加越能大守(かえつのうおおもり)前田利常候(まえだとしつね こう)、当社を崇敬(すうけい)し、神殿(しんでん)・拝殿(はいでん)等を再建(さいけん)する。慶安(けいあん)3年(1650年)
前田利常候(まえだとしつね こう)が社領(しゃりょう)十万石を寄進(きしん)して子 綱紀(つなのり)の安全息災(んぜんそくさい)を祈願(きがん)する。明治(めいじ)2年(1869年)
廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の令(れい)により、当社(とうしゃ)本地仏(ほんちぶつ)が旧国分寺跡の薬師堂(やくしどう)へ遷(うつ)す。明治(めいじ)6年(1873年)
当社(とうしゃ)は縣社(けんしゃ)に列(れっ)す。昭和(しょうわ)6年(1931年)
文化財保護法(ぶんかざいほごほう)により、本殿(ほんでん)が国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定された。昭和(しょうわ)25年(1950年)
社殿修理(しゃでんしゅうり)のため、本殿の解体工事(かいたいこうじ)着手する。(工事費340万円)昭和(しょうわ)44年(1965年)
気多神社(けたじんじゃ)消防隊(しょうぼうたい)が結成された。昭和(しょうわ)51年(1970年)
本殿(ほんでん)の屋根柿葺(こけらふき)替工事(かえこうじ)完了。平成(へいせい)8年(1996年)
気多神社のにらみ獅子(しし)、高岡市指定無形民俗文化財に指定された。氣多神社(けたじんじゃ)
当社御由緒
当社は氣多大神宮(けただいじんぐう)とも称し奉り、延喜の時代には名神大社に列し、越中国34座のうち最上位として越中一宮の御社格を有せられた神社で、北陸道鎮護の大社であります。
境内案内板より
【由 緒 (History)】
重要文化財 氣多神社本殿
氣多神社は養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝宇元年(757)に、越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、越中国府に近い現在地に勧請(かんじょう)したともいわれている。
盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182)に木曾義仲、天文年間(1532~1554)には上杉謙信と二度の兵火で、ことごとく焼失したという。
現在の本殿は、永禄年間(1558~1569)に再建されたと伝えられる。
構造は三間社流造(さんげんしゃながれづく)り、柿板葺(こけらいたぶ)きで、正面に一間の向拝(ごはい)を付け、軒は二重 繁棰(しげたるき)である。斗栱(ときょう)は和様の三ツ斗で、軒下両側の面柱の上は舟肘木(ふなひじき)を用いる。
向拝の斗栱は同じ三ツ斗で、正面の虹梁(こうりょう)の上には彫刻した蟇股(かえるまた)があるが、これは後代につけ加えたものと思われる。
向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。正面の三面及び両側面の一面は吹通しとし、意匠は簡単であるが、木割(きわり)が大きく、全体に雄大な風格を備え、県内の本殿中もっとも優れた建築物である。
氣多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、昭和6年1月19日に国の重要文化財に指定された。
平成21年3月 高岡市教育委員会現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
第2代 越中国守〈746~751年〉として 現在の高岡市伏木の国府に赴任した大伴家持卿を祀ります
・大伴神社《主》大伴家持公
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
臨時祭式 名神祭 の条には 神名はありません
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)射水郡 13座(大1座・小12座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 氣多神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](けたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Keta no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について
氣多神(ケタノカミ)と その御子神〈苗裔神(ビョウエイシン)〉や 分祠とされる神社が 日本海の沿岸や河川流域に鎮座します
「氣多神(ケタノカミ)」の本宮 「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の元宮
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・気多大社(羽咋市)能登国一之宮
氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社
①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多御子神社(小松市)
気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です
気多御子神社(小松市)
・市之瀬神社(加賀市山代温泉)〈合祀先〉
市之瀬神社(旧村社)に合併されている神明宮に祀られていたという御子社(山代日子命)が氣多御子神社だという説
➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です
氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉
➂「越後國 頸城郡 居多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・居多神社(上越市)越後国一之宮
居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています
居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉
④「但馬國 氣多郡 氣多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多神社(豊岡市)但馬国総社
➄「飛騨国 気多若宮神」『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条
・気多若宮神社(飛騨市)国史見在社
越中国には 一之宮と称する 4つの神社の系統があります
天平宝宇元年(757)に越中国から 能登国が分立するまでは 能登の羽咋に鎮座する 氣多神社〈現 氣多大社〉が一之宮として機能していました
4系統には 各々に論社や分祀があります
①砺波郡 高瀬神社
・高瀬神社(南砺市高瀬)
高瀬神社(たかせじんじゃ)は 越中国一之宮として格式高く 御祭神は 大己貴命(大国主命)を祀ります 近くには 当社の鎮座地とも伝わる「高瀬遺跡」もあり 農耕文化の芽生える弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)の頃の鎮座と推測されています
高瀬神社(南砺市高瀬)
➁射水郡 射水神社
・射水神社(高岡市古城)
射水神社(いみずじんじゃ)は もともと霊山である二上山そのものを祀る社で 創祀は太古とされ 二上山の山麓に鎮座していました 明治4年(1871)に「国幣中社」に列格 その4年後 明治8年(1875)二上の地より高岡城跡の「高岡古城公園」へ遷座して現在に至ります 社伝によれば 創建は天武天皇の3年(675)正月奉幣に與られた伝承を以って 鎮座の年と定めたとある古社です
射水神社(高岡市古城)越中国一之宮
・二上射水神社(高岡市二上)
二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)は 二上山麓に鎮座しています 現在の射水神社〈明治8年(1875)高岡城跡「高岡古城公園」へ遷座〉の旧 鎮座地であり 元々は越中国一之宮でした 遷座後も氏子の信仰心と要請により この地には射水神社の分社として 二上射水神社が残され続けました 第二次大戦後 射水神社から独立して 現在では 正式名称を「越中総社 射水神社」と称しています
二上射水神社(高岡市二上)越中総社
➂射水郡 氣多神社
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です
氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉
④新川郡 雄山神社
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
雄山神社 峯本社〈立山大権現〉(立山頂上 雄山山頂)は 海抜一万尺(3003m)北アルプス立山の主峰雄山の岩頭に鎮座します 古来・富士山・白山と共に信仰される日本三霊山です 延喜式内社 越中國 新川郡 雄山神社(をやまの かみのやしろ)の峯本社です
雄山神社 峯本社〈立山大権現〉(立山頂上 雄山山頂)
・雄山神社 祈願殿(立山町芦峅寺)
雄山神社 中宮祈願殿(おやまじんじゃ ちゅうぐう きがんでん)は 社伝に 文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り 雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山と伝わります 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
雄山神社 前立社壇(おやまじんじゃ まえたてしゃだん)は 平安初期に開山造営され立山信仰の拠点となった霊山 立山寺(岩峅寺)で 立山に入山する者の身の穢れや罪を湯立ての神事にて祓い 道中の無事を祈願した神仏習合の地です 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています
雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
・熊野神社〈前立社壇の元鎮座地〉
熊野神社(くまのじんじゃ)は 立山三山を遙拝できる段丘゛神宮山゛に鎮座します 中世に勧請された社地の遺跡〈壮大な建築物の礎石が出土〉があり 東斜面には 磐境(いわさか)〈古代の祭祀遺跡〉があり 立山三山を遙拝する岩峅寺立山信仰を形成した可能性を示唆します 密教が立山に入り込む以前の遙拝信仰の拠点ともされ 雄山神社 前立社壇の旧鎮座地とも伝わります
熊野神社(立山町栃津)〈雄山神社 前立社壇の旧鎮座地〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高岡駅から 県道24号経由 氷見方面に約8.5km 車18分程度
二上山風致地区の伏木一宮に鎮座します
社頭には 長い石段があり 大きな社号標に「延喜式名名神大社 越中一宮 気多神社」と刻まれています
氣多神社(Keta Shrine)に参着
階段を上がると 鳥居が建ち そこからは平坦な参道が静かな鎮守の杜の中に続いていて 参道の脇には 奉納された神馬像があります
社殿の前面の石段下には 永禄年間(1558~1569)に再建されたと伝えられる本殿を守るために 火気禁止の立て看板があります
石段を上がり 拝殿にすすみます
殿内の扁額には「気多神社」とあり 拝所からは渡り廊下で本殿の正面へと通じています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
羽を広げたような拝殿の奥に本殿が建っています
社殿の向かって左手には 境内社の大伴家持卿を祀る大伴神社が鎮座しお詣りをします
ここからは 美しい境内〈越中国総社跡の伝承地〉を見渡すことが出来ます
大伴家持卿の顕彰碑が建っていて 脇石には説明書きが刻まれています 毎年10月に大伴家持卿を偲び 大伴家持卿顕彰祭が行われます
参道を戻り 鳥居を抜けて 振り返り一礼をして 社頭の階段を下ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
国府の一宮村にあると記しています
【意訳】
氣多(ケタノ)神社
〇今 在るのは 国府一宮村
諸社根元記云う 越中国 射水郡 氣多神社 名神大
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神を天活玉命として 当国「越中国」の一之宮と記しています
【意訳】
氣多神社
氣多は 仮字なり
〇祭神 天活玉命 頭注 〇神社帳云う 大己貴命
〇一宮村に在す
〇当国の一之宮なり 一宮記類社 能登国 能登郡 氣多神社の條を見合うべし
官幣 頭注云う 延喜8年8月16日乙卯 以 越中 氣多大神 預に官幣
雑事 朝野群載云う 永歴4年6月10日 卜部兼宗 秦 亀卜(キボク)御體御卜云々 坐に 越中国 氣多神云々
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/pid/991015/1/263
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
祭神は 現在と同じ 大己貴命 奴奈加波比売命と記しています
【意訳】
氣多神社
祭神 大己貴命(オホナムチノミコト)
奴奈加波比売命(ヌナカハヒメノノミコト)官幣 醍醐天皇 延喜8年8月16日乙卯 以 越中 氣多大神 預に官幣
祭日 5月2日 9月25日
社格 縣社
所在 一宮村 字 一宮山(射水郡伏木町大字一宮)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
祭神について異説があるのは 何故だろうかと疑問を記しています
【意訳】
富山県越中國射水郡伏木(フシキ)町大字一ノ宮
縣社 氣多(ケタノ)神社
祭神 大己貴(オホナムチノ)命 奴奈加波比賣(ヌナカハヒメノ)命
相殿 菊理姫(キクリヒメノ)命 事代主(コトシロヌシノ)命御神體は木像也、
一の宮記に氣多神社(大己貴命)越中國礪波郡にありと見ゆるは、即ち本社也、
創建は社記に據るに、元正天皇 養老二年越中の國を割き 能登國を置かれし時の鎮祭にして、勅して越中一の宮と定めらる、
神亀貮年 聖武天皇 勅願宸翰を賜ひ、近郷九ヶ村を神領に寄附し給ふ、
諸社根元記、延喜式、神社啓蒙等の書を按するに、氣多神社名神大、神名帳考証に今在 国府一宮村 大己貴命と、延喜三年三月丁亥、同八年八月十六日乙卯、又 朱雀天皇 天慶三年正月六日、白川天皇 承暦五年二月十日、崇徳天皇 永治元年七月十日、高倉天皇 治承四年十二月十三日等に各官幣に預からせ給ふ由見えて、有名なる神と知られたり、
又
越中舊事記 日本後紀に、「延暦三年三月三日丁亥叙従三位氣太神正三位」とあり、
朝野群載に「承暦四年六月十日、ト部兼宗、奏亀ト御體御ト云々、坐 越中國 氣多神云々」と見ゆ。されば、當社中古より上下の崇敬深かりし事を知る、
又
天平年中 大伴家持 越中の守護たりし時 尊敬格別なりし由也、従って其當時 社殿等の建築も宏壮を極めたれど、惜い哉嘉永の末、義仲の爲めに兵火に罹りて灰燼となりき、
後世 再建せしに 天文年中 再び上杉氏の兵火に逢ひ、社殿末社等悉く鳥有に帰せり、其の後 當社の別当 宥應 纔(わずか)に小祠を建てて祭祀を続け居たりしが、正和二年 國守 前田利常 殊に當社を崇敬し、神殿、拝殿等を再建せられ、慶安二年 社領 舊高拾石並に山林二十町歩を寄附し、宗家長久の祈願所と定めらる、
明治六年八月縣社に列す、
社殿は本殿、拝殿、神供所、廻廊等を有し、
境内2952坪あり、
當社は有明の岡にありて、富山湾に臨み、紅葉村澁谷夫婦光奈呉浦有磯海の勝地は、近傍拾敷町で出てずして散在し、四時の風景賞すべく、人常に絶える事なく、誠に當郡の名祠たり、
寶物には額面貮枚弘法大師筆跡、運慶作狛犬貮個、寄進状貮通等あり。但 祭神に就き異説 區々〈まちまち〉、
神名帳頭注、社記及神社啓蒙に、天活玉神也とあるは何の據(よりどころ)あるか、或は 大己貴命に奴奈加波姫命、菊理姫命、事代主命を合祀すとも云ふ、されど一宮記等に大己貴命とあれば、主神は此神に成る事確かなるが如し。
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
氣多神社(Keta Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
越中国 式内社 34座(大1座・小33座)について に戻る
越中国(えっちゅうのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越中国には 34座(大1座・小33座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越中國 式内社 34座(大1座・小33座)について