加都良神社(かつらじんじゃ)は 加都良神社(多可町中区間子)が創建の時 大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり ゛その時 御駐泊ありし所なり゛とし 往古 祭日には 加都良神社(多可町中区間子)から この所まで神幸があり 御旅所として年々御遷幸の祭事を執行していた所と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
加都良神社(Katsura shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県多可郡多可町中区岸上430
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》加都良命(かつらのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の御旅所
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
間子の加都良神社が、天平元年(729)大和国より御勧請の時御休止になった由緒から、御旅所として年々御遷幸の祭事を執行していた所、正保4年(1647)に席論から天田の加都良神社の創立あり。
明治7年(1874)、村社に列せられる。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312067.html
【由 緒 (History)】
『多可郡誌』〈大正12年(1923)〉に記される内容
【抜粋意訳】
中村岸上字南垣内に鎮座の加郡良神社は
當社〈加都良神社(多可町中区間子)〉奉齊の時 暫時御駐泊ありし所なり 從って 往古は本社〈加都良神社(多可町中区間子)〉より この處〈加都良神社(多可郡多可町中区岸上)〉まで祭日には 神幸ありしなり 現今 宮の馬場と稱して立派なる道路残れり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・加都良神社 本殿の覆屋 幣殿 拝殿
・加都良神社 拝殿
・〈拝殿向かって右手 境内社〉金比羅神社《主》大巳貴命
・〈拝殿向かって右手 石碑〉神明神社・祇園神社 遥拝所
〈本殿向かって左手 境内社2宇 稲荷社・皇大神宮社〉
・〈向かって右の境内社〉・皇大神宮社《主》皇大神
・〈向かって左の境内社〉・稲荷社《主》稲荷神
・〈稲荷鳥居の手前の境内社〉・神明社《主》天照大神
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)は 加都良神社(多可町中区間子)を本社として ゛御旅所゛であったとされます
・加都良神社(多可町中区間子)
加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建は聖武天皇 天平元年(729)大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり 江戸時代には「勝手大明神」と呼ばれました 延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)は 所在不明でしたが 明治以降 式内論社となっています
加都良神社(多可郡多可町中区間子)〈延喜式内社 論社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 加都良乃命神社
[ふ り が な ](かつらのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Katsura no mikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)の論社
・加都良神社(多可町中区間子)
加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建は聖武天皇 天平元年(729)大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり 江戸時代には「勝手大明神」と呼ばれました 延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)は 所在不明でしたが 明治以降 式内論社となっています
加都良神社(多可郡多可町中区間子)〈延喜式内社 論社〉
・加都良神社(多可町中区岸上)〈御旅所〉
加都良神社(かつらじんじゃ)は 加都良神社(多可町中区間子)が創建の時 大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり ゛その時 御駐泊ありし所なり゛とし 往古 祭日には 加都良神社(多可町中区間子)から この所まで神幸があり 御旅所として年々御遷幸の祭事を執行していた所と伝わります
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)〈御遷幸の祭事を執行した御旅所〉
・加都良神社(多可町中区天田)
加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建年代は明らかではなく 隣接する高寺山量光寺は 推古天皇(593〜628)の御願所として創建されたと伝えます 又 一説に天保4年(1833)間子の加都良神社の祭礼の席次順のことより 不和を生じて 氏子が分離し 霊代を隣接する高寺山量光寺 本堂に鎮座し 仮殿上棟と遷座が行われたとも伝わります
加都良神社(多可郡多可町中区天田)〈延喜式内社の参考論社〉
類社として 大阪府八尾市に鎮座の式内社「加津良神社」について
「縵氏」が祖神を祀ったと云われます
「縵氏」には 百済の渡来系の「縵連」と 物部系の「縵連」の二つがあります
当地付近は 物部氏の拠点であったとされています
詳しくは別記事を参照ください
延喜式内社 河内國 若江郡 加津良神社(かつらの かみのやしろ)
・加津良神社(八尾市萱振町)
加津良神社(かつらじんじゃ)は 延喜式内社 河内國 若江郡 加津良神社(かつらの かみのやしろ)で 古よりこの地に鎮座しており〈明治期に旧 栗栖神社に合祀されたが 戦後 旧地に復活〉鎮座地名の萱振(かやふり)の名について゛祭事に神前にて松明(たいまつ)を振て神をいさむるなり 故に萱振の名あり゛と云う
加津良神社(八尾市萱振町)〈『日本三代実録』加津良神・『延喜式』加津良神社〉
類社として 式内社で「かつらのかみのやしろ」の音を持つ神社について
延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)の論社
・勝占神社(勝占町中山)
勝占神社(かつらじんじゃ)は 古代この附近一帯は海で 出雲系海人の豪族が支配し その祖神 大己貴命を海に突き出た中山の東端の景勝地に祀ったのが発祥とされます 播磨風土記 宍禾郡 御方里の條 葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)の伝承にも関連があるとも云う 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)です
勝占神社(徳島市勝占町中山)〈延喜式内社・旧 郷社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR加古川線 本黒田駅から西へ約9.5km
加都良神社(多可町中区間子)からは 東へ550m程 徒歩8分程度
神社の隣にグラウンド ? ゲートボール場? があり駐車場があります
子供書いた絵があったりするので 小学校の跡地かもしれません
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると参道には 石燈籠が並んでいます
玉垣で囲まれた境内の手前に手水舎があります
境内の向かって左手には 砂の土俵が作られています
その奥には 稲荷鳥居が見えています
社殿は 正面です
拝殿にすすみます
左右には 境内社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にお参りをしてから 社殿に一礼をして 参道を戻ります
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)は 加都良神社(多可町中区間子)を本社として ゛御旅所゛であったとされます
社殿・境内共に 加都良神社(多可町中区間子)を背にしています 参道は ちょうど西北西の方向を向いて延びています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 加都良命神社について 所在は゛在所分明ならず゛〈不明である〉としるしています
ただし、式社記の説として゛式社記云 ,間子村勝手大明神也、゛〈現 加都良神社(多可郡多可町中区間子)〉ではないかとの説も挙げています
【抜粋意訳】
加都良命神社
加都良は假字也、和名鈔、〔郷名部 蔓郷、〕
〇祭神明か也
〇在所分明ならず
式社記云 ,間子村勝手大明神也、』
古跡便覽、播磨鑑、共に其所しれずと云り、定めがたし、猶考ふべじ、
類社
河内國 若江郡 加津良神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 加都良命神社について 所在は゛今 間子村にあり、之を高田郷六村の氏神とす、゛〈現 加都良神社(多可郡多可町中区間子)〉と記しています
祭神について 加都良乃命と葦原志許乎命〈大己貴神〉と同神と推測しています
【抜粋意訳】
加都良命(カツラノミコトノ)神社
今 間子村にあり、之を高田郷六村の氏神とす、〔飾磨縣神社調、神社明細帳、〕
加都良乃命を祀る、〔延喜式〕
盖 葦原志許乎命也 初此の神 天日槍命と國を占る時に、黑葛三條を足に着て投給ひき、〔幡磨風土記〕〔〇按 加都良乃命は蓋 黑葛を投て國土を占るを稱へたる御名なる事著し、附て考に備ふ、〕
凡 九月九日祭を行ふ、〔飾磨縣神社調、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 加都良命神社について 所在は゛間子村 (多可郡中村大字間子)゛〈現 加都良神社(多可郡多可町中区間子)〉と記しています
゛岸上村にも加都良社を建たれど 其地もと本社の旅所゛と記し〈現 加都良神社(多可町中区岸上)〉は 御旅所であると記しています
祭神について 加都良乃命と葦原志許乎命〈大己貴神〉と同神と推測しています
【抜粋意訳】
加都良命神社
祭神 加都良乃命
今按 和名抄 本郡に葛郷あるは 播磨風土記に 穴栗郡御方里〔上下上〕所以號 御形者 葦原志許乎命 與天日槍命 到故墨志爾嵩各以 黑葛三條着足投爾時 葦原志許乎命之黑葛一條落但馬 氣多郡一條落夜夫郡一條落 此村故日三條 天日槍命之黑葛皆落 於但馬國 故占但馬伊都志地而在之とみえたるを合せ考ふるに 此時の故事によりて葛郷と云もあるなるへし かゝれば加都良乃命は大巳貴命の黑葛を投玉へる事を稱へ奉れる名にて 祭神 大巳貴命なるへし
祭日 九月九日
社格 郷社所在 間子村 (多可郡中村大字間子)
今按 本社往昔は 高田郷六村の氏神なりしか 各村別に祠を設け 氏神とするに及んで 氏子村々引分れたるより 岸上村にも加都良社を建たれど 其地もと本社の旅所なれは式社には非るなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
加都良神社(多可郡多可町中区間子)について 郷社 として記されています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 多可郡中町大字間子
郷社 加都良(カツラノ)神社
祭神 加都良乃(カツラノ)命
相殿 高皇産霊(タカミムスビノ)命
天忍穂耳(アメノオシホミミノ)命創建は聖武天皇天平元年にして、〔〇明細帳〕
延喜の制小社に列せらる、播席鑑に「社地破壊而•共後知人無之乎」と見ゆ、明治七年二月郷社に列す、社殿は本殿・拜殿・幣殿を備へ、境内地は千百五十七坪(官有地第一種)を有し、三十八年中 内務省指令甲第一一四號を以て、更に上地林反別五反三畝十七步境内に編入せらる。境内神社
大國主(オホクニヌシノ)神社
天目一(アメノマヒトツノ)神社
八柱(ヤハシラノ)神社
天神宮社(テンジングウノヤシロ)
八幡(ヤハタノ)神社
【原文参照】
加都良神社(多可郡多可町中区岸上)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について