鹿島神社 (かしまじんじゃ)は 創建は天慶年代(938~947)とされます 渋沢栄一翁にも所縁の古社で 今は枯木となっていますが かつては神木とされた幹周りが10m余りもある大欅があり その大木の根元には 神水が湧いていたとのこと この井戸では共同風呂が設けられ 渋沢栄一の母「栄」は これを汲み らい患者の背を流したと伝わります 拝殿には渋沢栄一揮毫の扁額が掲げられ 境内には栄一翁の師である尾高蘭香の偉業を称える頌徳碑が建立されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
鹿島神社(kashima shrine)
(かしまじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
埼玉県深谷市下手計1145
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌尊(takemikazuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
・武門の守護
【格 式 (Rules of dignity) 】
【創 建 (Beginning of history)】
創建は天慶年代(938~947)
鹿島神社
創立年代は不詳だが
天慶年代(10世紀)平将門追討の際 六孫王源経基(ろくそんおうみなもとのつねもと)の臣 竹幌太郎(たけほろのたろう)がこの地に陣し 当社を祀ったと伝えられる
以降 武門の守りとされ 源平時代に竹幌(たけほろ)合戦に神の助けがあったという。亨徳年代(15世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など7000騎が当地周辺から手計河原 瀧瀬牧西などに陣をとり 当社に祈願した。
祭神は 武甕槌命(たけみがづちのみこと)で
本殿は 文化7年(1810)に建てられ 千鳥破風向拝付(ちどりはふうこうはいつき)であり
拝殿は 明治14年で軒唐破風向拝付(のきがらはふうこうはいつき)でともに入母屋造りである。境内の欅(けやき)は 空洞で底に井戸があり 天然記念物に指定されていたが 現在 枯凋(こちょう)した。
尾高淳忠の偉業をたたえた頌徳碑(しょうとくひ)が明治41年境内に建立された。昭和60年3月 深谷上杉顕彰会(第22号)
境内案内板より
【由 緒 (history)】
下手計の鎮守社で境内には、渋沢栄一の師である尾高蘭香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。この碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号、中洲)の撰文によるものである。
今では朽木となったが、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がっている。
根元に湧いた神水で共同風呂が設けられ、栄一の母、栄は、これを汲み、らい患者の背を流した。埼玉県神社庁HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿向かって右に並列
・八坂神社(yasaka shrine)
《主》素盞嗚尊(susanowonomikoto)
八坂神社の奥
・手計不動尊(tebaka fudoson)
《主》不動明王(fudo myoo)
本殿裏
・香取神社(katori shrine)
《主》経津主命(futsunushinomikoto)
・三峰神社(mitsumine shrine)
《主》伊弉諾神(izanagi no kami)
伊弉冉神(izanami no kami)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
下手計地区に鎮座する鹿島神社は中瀬神社の南西方向にあり、下手計の鎮守の社である。
当社の創建については。二つの経緯が考えられる。
まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かって鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろから航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮の鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。第二は、かって隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森・内ヶ島・田中(伊勢方の小字)などの村々などには「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞治二年(1363年)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えるとあるところから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
『埼玉の神社』埼玉県神社庁HPより
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
渋沢栄一翁の師である尾高蘭香の偉業を称える頌徳碑について
尾高 惇忠(おだか あつただ(じゅんちゅう)
(1830年9月13日~ 明治34年(1901年)1月2日)
日本の実業家
富岡製糸場の初代場長 第一国立銀行仙台支店支配人などを務め
通称は新五郎 号は藍香
武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれた 惇忠は幼少時から学問に秀で 自宅に私塾の尾高塾を開き17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた
幕末に尊皇攘夷思想の機運が高まる中 文久3年(1863年)に栄一らと共に高崎城を襲撃して武器を奪い(高崎城乗っ取りの謀議) 横浜外人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てる
惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一で 惇忠の母・やへが 栄一の父・渋沢元助の姉で 惇忠と栄一は従兄弟でした のちに惇忠の妹・千代は 栄一の最初の妻となります
藍香尾高翁頌徳碑について
尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治42年(1909)4月18日に挙行されました。
おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。碑の高さは約4.5メートル、幅は約1.9メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。 平成17年10月境内案内板より
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
深谷駅から県道14号経由 北へ約6.2km 車 20分程度
「血洗島」の明治の企業家「渋沢栄一」翁の生家 直ぐ東です
地名の「下手計」は 珍しい読みで「しもてばか」と読みます
言い伝えでは 昔武将が手を切られその血を洗った所が血洗島(渋沢栄一翁の生地)その手を葬った墓を「手墓」と呼んだが転訛して「手計」と伝わります
下手計交差点を左折(西に曲がる)約500mで右側に鹿島神社の社号標と石灯篭のたつ参道があります
鹿島神社(kashima shrine)に到着
一礼して 鳥居をくぐり抜けると広々とした境内に出ます 振り返ると良くわかりますが 参道は 社殿から真っ直ぐに南方向に延びています
右手には かつて神水の湧いた「樟の大木の切り株」が 金網に囲われて屋根付きで保護されています
参道の正面には拝殿が建ちます
拝殿にすすみます 拝殿には渋沢栄一翁の揮毫の扁額が掲げられ
「鹿島神社 従三位 勲一等男爵 澁澤榮一謹書」とあります
尾高 惇忠氏の子息で 渋沢栄一の庶子「文子」の夫である尾高次郎(漢学者・銀行家)の揮毫の扁額には「克己復禮」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は覆屋の中にあります
この神社の境内には 本殿向かって右側に「神楽殿」続いて鳥居が建つ「八坂神社」境内左が「鹿島神社」となっています
神楽殿は大きく立派です
境内の中央に鳥居が建ち 神楽殿のすぐ隣に八坂神社(yasaka shrine)が建つので 八坂神社の境内のような錯覚をしてしまいます
境内社を順にお詣りをします
八坂神社(yasaka shrine)
《主》素盞嗚尊(susanowonomikoto)
拝殿にすすみます
八坂神社の拝殿の中には 神輿が納められていて 八坂祭の時には出されるようです
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
すぐ左手に鹿島神社の社殿が建ちます
西日が境内に差し込み 美しいシルエットです
参道を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼します
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
渋沢栄一 翁の母「栄(ei)」が 神水を汲み らい患者の背を流したと伝わる 欅の大木の空洞から湧いていたとされる井戸について
境内には 参道の右手に「欅の大木の切り株」があります
かつて幹周りが10m余りもある巨木で古くから御神木として崇められていました
現在でも 周りの大木や手水舎と比較すると切り株の太さが良くわかります 明らかに太いです
神社縁起には この欅の大木について
平安時代(794~1192)の末期 源氏が平家追討祈願の折 鹿島神宮の社人により植えられたゆかりある神木と伝わり 鹿島の神の依り代とした神木は 巨木となり空洞があって その根元からは 湧き水があり井戸のようになっていた 御利益のある神水とされていました
(天然記念物に指定されていた)
神社の伝承によれば
寛政年間(1789-1801)この神木が鳴動し 調べると神木の洞に塵芥蛇蛻(蛇の抜け殻)で埋まった井戸があった これは神慮によるものとして 井戸を清めて神井とした
この頃 近隣の里人の間で この神井の水は神の加護がある神水で 病に悩める者は これを受け あるいはその神水で身を清め 神に祈願すると霊験があるという信仰が起こりました
このため この神水を薬湯とし 境内に浴湯舎を設けて参詣者を招き 神水で湯浴すれば「人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず」と説いたと云われます
渋沢栄一翁の母「栄(えい)」は この神水を汲み らい病患者の背を流したと伝えられています
明治40年に樹木の一部が枯損し 幹半ばから伐採されました
鹿島神社
下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫(きごう)になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
境内には栄一の師である尾高藍香(らんこう)の偉業を称える頌徳碑(しょうとくひ)が建立されている。
この碑のてん額は徳川慶喜(よしのぶ)公の揮毫(きごう)、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
今では朽木(くちき)となったが、大欅(けやき)の根元に沸(わ)いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄(えい)はこれを汲(く)み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
栄一手植えの月桂樹と長女 穂積歌子が植えた橘(たちばな)があり、その由来を記した碑がある。 深谷市教育委員会境内案内板より
江戸期に庶人に配布した「武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図」が 明治20年4月に再版されています
現在の切り株跡の位置 社殿の前方に 欅の巨木の威容が描かれています
鹿島神社(kashima shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)