加紫久利神社(かしくりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社で 薩摩国の二ノ宮とされる古社です 社名は元宮とされる「箭筈嶽〈加紫久利山〉」 薩摩國の建国と同時(702年)に肥後との国境にそびえる 加紫久利山からの由来と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
加紫久利神社(Kashikuri Shrine)
(かしくりじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
鹿児島県出水市下鯖渕1272
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照皇大神(Amaterasu sume okami)
《配》比賣大神〈宇佐神宮 比賣大神 湍津姫命〉
住吉大神〈表筒男命 中筒男命 底筒男命〉
八幡大神〈誉田別命 息長帯比売命〉
《合》伊弉那岐命・伊邪那美命〈摂社 伊勢神社を合祀〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載社
・ 薩摩国総社(Satsuma no kuni Soja)
・ 薩摩二の宮
【創 建 (Beginning of history)】
・社伝によれば遠く神代の創建〈箭筈嶽〈加紫久利山〉の信仰〉
・『式内社調査報告』では 大宝2年(702)隼人征討軍に参加した加志君和多利〈出身地 豊前上三毛郡 加自久也里〉が 薩摩國の建国と同時(702年)に肥後との国境にそびえる加紫久利山の山麓に その出身地の大富神社の祭神〈宗像の3女神とも宇佐神宮の3女神とも〉を分祀奉斎したのが始まり
薩摩二の宮 加紫久利神社(式内社)
一、祭神
主神 天照皇大神・・・主神は伊勢の内宮と同一神であり、日の神と尊び仰ぎ「光明」「仁愛」「生命」「救済」「倖せ」の大親神です
相殿 比賣大神(宗像大社の祭神)・・・交通安全の神
八幡大神(宇佐神宮の祭神)・・・安産・子育ての神
住吉大神(住吉大社の祭神)・・・航海・交通の神
伊邪那岐命・伊邪那美命・・・生命の祖神・延命長寿の神一、由緒
御鎮座年代は社伝によれば、遠く神代の創祀という。既に貞観2年(860)3月、薩摩国 従五位下 加紫久利神加 従五位上と三代実録に載せられている。
延喜式には、薩摩国 頴娃郡 枚聞神社(薩摩一の宮)薩摩国 出水郡 加紫久利神社と薩摩国では 二社記載されており、古来 薩摩二の宮として 代々朝廷の崇敬厚く信仰の中心であった。
島津氏の治世になってからも 特に薩摩の総社として尊ばれ、22代 島津吉貫公は 社殿を改築して 六十石を與えている。
社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等十余度に及び、明治6年県社として再興されたのちは 神域この上なく 深く官民の尊崇するところであったが 明治10年6月3日 西南の役の兵火にかかり 門守社以外の社殿、神山、神宝、古文書等灰燼に帰した。その後、明治13年 社殿は再興されたが、地租改正 又 農地改革によって境内地は縮小された。
そして戦後 社殿は老朽し、老樹は虫害を受けて神域はとみに荒廃するに至った。氏子一同真意気野荒廃を座視するに忍びず、社殿の改築を計り、昭和36年3月、現在の社殿が創建され、さらに平成元年一部改築される。(御本殿に立派な鶴と亀の彫刻があることから最近では鶴亀神社として信仰が深い。)●貞観2年3月20日 神階従五位上
●貞観8年4月 7日 神階正五位上(三代実録)
●明治6年 縣社列格
一、祭儀
大祭--春季例大祭(祈年祭)3月4日・5日
秋季例大祭(新嘗祭)11月22日・23日
中祭 歳旦祭・紀元祭・昭和祭
御田植祭・明治祭・天長祭
小祭 朔日祭・月次祭等 年30回境内案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社は出水市下鯖町に鎮座しており、(主神)天照皇大神、(相殿)多紀理毘賣命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・譽田別命(応神天皇)・息長帯比賣命(神功皇后)・伊邪那岐・伊邪那美命、(末社)神門神社・(南)豊磐窓神・(北)櫛磐窓神をお祀りしている。
御鎮座年代は詳らかではないが、遠く奈良朝の頃の創建といわれる。
既に貞観2年(860)3月、薩摩国従五位下加柴久利神加五位上と三代実録に載せられて居る。
延喜式には、薩摩国 穎娃郡 枚開神社(薩摩一の宮)薩摩国 出水郡 加柴久利神社と薩摩国では二社記載されて居り、古来 薩摩に二の宮として 代々朝廷の尊崇厚く信仰の中心であつた。島津氏の治世になってからも 特に薩摩の総社として尊ばれ、二十二代 島津吉貴公は社殿を改築して60石を與えている。
社殿は歴代藩主の修理、改造、再建等10余度に及び、明治6年県社として再興されたのちは神域広大にして神厳この上なく深く官民の尊崇するところであったが明治10年6月3日西南の役の兵火にかかり門守社以外の社殿、山神、神宝、古文書等灰燼に歸した。
其の後、明治13年社殿は再興されたが 地租改正又農地改革に依って 境内地は縮小された。そして戦後社殿は老朽し、老樹は虫害をうけて神域はとみに荒廃するに至つた。氏子一同神域の荒廃を座視するに忍びず、社殿の改築を計り、昭和36年3月、現在の社殿が創建されたのである。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
鳥居の両脇に鎮座
・神門神社・(南)《主》豊磐窓神・(北)《主》櫛磐窓神
・稲荷神社《主》稲荷大神
・開運桜 大蛇(おろち)しだれ
・子神と安産の神
安産と子供の病気回復祈願の折 石を一つただき お礼参りの時 二つ納めます 加紫久利神社
現地立札より
・西南戦争で焼失した御社殿の鬼瓦
明治10年(1877)6月3日 西南の役の兵火にかかり 門守社以外の社殿 神山 神宝 古文書等が灰燼に帰したと伝わります
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)薩摩国 2座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)出水郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 加紫久利神社
[ふ り が な ](かしくりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashikuri no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
郷土力士 出水川貞右エ門〈明和・安永年間(1760・70年代)〉について
江戸期の名力士です 最高位関脇
四股名は次のように改名
出水川貞右エ門 → 出水川貞右衞門 → 出水川貞右エ門 → 出水川定右エ門 → 出水川貞右エ門 → 出水川定右エ門 → 出水川貞右エ門 → 天津風定右エ門 → 天津風貞右エ門 → 天津風定右エ門 → 天津風雲右エ門(初代)
出水川石燈ろう
出水川定右衛門は 宝暦のはじめ 米ノ津元町の旅籠絵島に生まれる。幼時から怪童のほまれ高く 米俵を片手に一俵づつ下げ 高下駄で歩き、はては お手玉に取ったり 孟宗竹を手で引き裂いて相撲の褌(まわし)にしたとの逸話もある。
はじめ大阪相撲に入り醜名(しこな)を郷里の米ノ津川の旧名から『出水川』と名乗ったがほどなく江戸相撲に移る。
出水川は小結・関脇で大活躍、最高位の大関(当時は横網はない)にはなっていないがその頃のカ士は大名のお抱(かか)えで大関は姿や形のよきを重視した形式的装飾的なものだったので、出水川は有数のカ士だったことがわかる。
しかし花形力士出水川の前に立ちはだかったのは身の丈ニメートル 体重一五〇キロの巨漢 達ケ関であった。1.77メートル135キロの出水川はどうしても勝てず、故郷に帰り 加紫久利神社に 断食祈願、神のお告げどうり立ち上がるや相手の前褌(まえみつ)をとって倒し話は有名である。
この石燈ろうはそのおれいに寄進したものである。境内案内板より
薩摩国の式内社について
薩摩国の式内社は 枚聞(ヒラキキ)神社と加紫久利(カシクリ)神社の2社です
薩摩一之宮は 枚聞神社
薩摩二之宮は 加紫久利神社 とされています
薩摩一之宮は 枚聞神社の記事をご覧ください
枚聞神社(ひらききじんじゃ)は 薩摩一之宮とされています 特に交通・航海の安全や 漁業守護の神として 人々から厚い信仰を寄せられる古社です 歴代の島津藩主からの崇敬も厚く 修理・改造・再建等は幾多に及んでいますので 優雅な朱塗りの社殿は見事な造りです 特に中央の勅使殿の向拝に彫られた彫刻は必見です 又 宝物殿には通称「玉手箱」が収蔵されています 正式名を「松梅蒔絵櫛笥一合」(国の重要文化財に指定)といいます
枚聞神社(薩摩国一之宮)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
井水駅から 薩摩おれんじ鉄道に沿って北上 約4km 車7分程度
最寄り駅は 米ノ津駅から東へ850m 徒歩10分程度
少しわかりにくいですが 踏切の手前 左右に 仁王像が座しています
道を進むと 朱色の鳥居が見えてきます
朱色の鳥居の扁額に「加紫久利神社」とあり 白い鶴の像が2羽向き合って 鳥居の上で羽ばたいています
加紫久利神社(Kashikuri Shrine)に参着
長い参道には 燈籠が整備されています 参道の左手には駐車場が整備されています 二ノ鳥居も朱色です
藤の花も名物のようです
朱色の玉垣と朱色の鳥居の脇には やはり朱色の祠が両脇に2座〈・神門神社・(南)《主》豊磐窓神・(北)《主》櫛磐窓神〉鎮座しています
一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には浮彫で「奉納 加紫久利神社」とあります 目の前には 茅の輪があり 8の字を描くように通り抜けます
右手には手水舎があり 清めます この水は ご神水で「加紫久利山の湧水」自由に御飲みくださいと書かれています 手水の後で頂くと甘くておいしい
拝殿にすすみます 拝殿の彫刻も色鮮やかです
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿 幣殿 本殿と奥に続いています
境内社にお詣りをします
参道を戻り 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』〈元慶3年(879年)完成〉に記される伝承
官社に預く と記されています
【意訳】
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条
以って 薩摩国(サツマノクニ)
賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観2年(860)3月20日の条
・・・・
・・・・
薩摩国(サツマノクニ)
従5位上 開聞神(ヒラキキノカミ)に 加え 従4位下を
従5位下 志奈毛神 白羽火雷神 智賀尾神 賀紫久利神(カシクリノカミ) 鹿児島神に 並びに 授くに 従5位上を
【意訳】
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条
大に捜しむ 京邑を
授くに
薩摩国(サツマノクニ)
従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
・・・
【意訳】
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条
授くに
薩摩国(サツマノクニ)
従4位下 開聞神(カイモンノカミ)に 従4位上
正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上
正6位上 紫美神に 従5位下を
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
六国史の神階の奉授を中心に記しています
【意訳】
加紫久利(カシクリノ)神社
三代実録
貞観2年(860)3月20日の条 薩摩国(サツマノクニ)従5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)授くに 従5位上を
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上文徳実録
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条 以って 薩摩国(サツマノクニ)賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる〇按〈考えるに〉 加紫は恐れなり 久利は闇御津羽神 郡名の出水有る由に於いて水神
〇信友云う (和抄)貸家あり 家は栗の誤り歟 栗家
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『三国名勝図会(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承
絵図からは当時の様子を伺い知れ 元宮とされる「箭筈嶽〈加紫久利山〉」も描かれています この「箭筈嶽〈加紫久利山〉」から社号を取っている事
六国史に神階の奉授が記されている由緒ある古社である事
霊験があり 島津藩主にも崇敬されている大社だと記されています
【意訳】
加紫久利大明神社 地頭館より子方一里十二町余り
鯖淵村 下鯖淵にあり
祭神5座 宋祀 応神天皇 神功皇后 配享 天照大神 宇佐明神 湍津姫命(天照大神の娘にて姫明神ともいふ)住吉大神(底筒男命 中筒男命 表筒男命)これなり加紫久利とは この地の「箭筈嶽」を加紫久利山といふ 又 加紫久利ともあり
故に山名を取って社号とす(空に向いて射る筈に 加世久留といへる 箭筈嶽と言える名に縁あり)勧請の年月詳らかならず
文徳実録
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条 以って 薩摩国(サツマノクニ)賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる三代実録
貞観2年(860)3月20日の条 薩摩国(サツマノクニ)従5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)授くに 従5位上を
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上延喜式神名帳
薩摩国 出水郡 1座(小) 加紫久利神社
と見ゆるは 即ち当社なり社司の記に 往古66州始めて別れし時 住吉大神を一州に一祠づつ建てられ 当社を薩摩国の一祠として 肥後国境 出水郡に建てられしと見る 然れば 当初は 住吉一座なりしを 後世に至って 今の祭神5座の順次に改めて 付会せしなるべし
松齢公 新塞の功にて 出水郡の封を復せられいうや 神領30石を寄附せらる 又 茲眼公 神領30石を増し附らる
其の此までは 芋屋りしに 寛永元年 蛇あり 神体を三重纏いて死す 当時の地頭 樺山美濃守 久高 これを麑府〈鹿児島〉に啓す 時に 茲眼公 田布施に猟して 咽喉の病を患へいふ この事を聞き 廼(スナワチ)祈願の旨ありに その病 御平癒あり
ここに於いて 翌2年命あり 祠殿を改造れ 神戸なども加封ありて 大社とはなれり当社は 一国宗廟の故 元和年中 寺社領減少の時も 本領60石 旧の如くにて改めず 又 始めは薩摩宗廟とも唱えしを 浄国公の時 享保5年に命ありて 改めて 惣社と称ぜしむ
享保6年 浄国公 社殿を造営し 更に宏麗を加え 側に幸善寺を建て別當し 社司 黒木氏と共に 祭祀を管せしめらる
享保9年 宥邦公 神領100石を寄附しいひ 神領総160石に及べり例 祭 3度 2月3日 8月朔日 11月3日
【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
所在は平松村と記しています
【意訳】
加紫久利神社
加紫久利は 仮字なり
〇祭神 天照大神 三女神 三筒男神 神社考
〇出水郷 平松村に在す 神社考
神位 官社
文徳実録
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条 以って 薩摩国(サツマノクニ)賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる三代実録
貞観2年(860)3月20日の条 薩摩国(サツマノクニ)従5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)授くに 従5位上を
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
祭神について 天照大御神とされているが 再考の余地があると記しています
【意訳】
加紫久利神社
祭神
今按〈今考えるに〉
鹿児島縣神名帳に 祭神 天照大御神とあれど 如何あらん 正しき証しなし尚よく考べし神位
文徳実録
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条 以って 薩摩国(サツマノクニ)賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる三代実録
貞観2年(860)3月20日の条 薩摩国(サツマノクニ)従5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)授くに 従5位上を
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上祭日 2月4日 6月11日 11月4日 12月11日
社格 縣社
所在 出水郷下鯖村 加紫久利山(出水郡 中出水村 大字 下鯖淵)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
六国史に記載される神社であり 由緒ある古社であることが 詳細に記されています
【意訳】
鹿児島縣 薩摩國 出水郡 下鯖淵町 大字 米津
縣社 加紫久利(カシクリノ)神社
祭神 天照大御神(アマテラスオホミカミ)
延喜式神名帳に 「薩摩国 出水郡 1座(小) 加紫久利神社」
文徳実録に
仁寿元年(851)6月17日(戊午)の条 以って 薩摩国(サツマノクニ)賀紫久利神(カシクリノカミ) を官社に預くる三代実録
貞観2年(860)3月20日の条 薩摩国(サツマノクニ)従5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)授くに 従5位上を
貞観7年(865)5月25日(乙巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)従5位上 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位下
貞観8年(866)4月7日(辛巳)の条 授くに薩摩国(サツマノクニ)正5位下 賀紫久利神(カシクリノカミ)に 正5位上
とある古社にして神祇志料に「今 米津に在り 加紫久利大明神と云う 一宮巡詣記 大隅薩摩国園 〇按 神社伝記 神社覈録 並び 出水郷平松村に作る」と云へり
今
三国名勝図会に就き これを尋ねるに 米津は鯖淵村の小字と化せり 平松も 亦 然らんのみ
三国神社伝記に「本社 応神天皇 神功皇后 一説玉依姫 第一殿 天照大御神〈イ日輪大神宮〉 第二殿 姫明神〈三女神 イ宇佐明神 湍津姫命なり〉第三殿 住吉三殿 右数神を合わせて 加紫久利大明神と云う 薩州の二ノ宮なり」と見え
麑蕃名勝考に「奉祀 住吉大神 合祭 天照太神 三女神 神功皇后以上 神社帳による 一説に云う 三女神の内 湍津姫命 亦 宇佐明神と称するを以って 応神の廟諱に誤りて 天皇を以って この廟の主となすは古伝と差へり 加紫久利は蓋地名 櫧栗(カシクリ)」とあり 」
又 三国神社伝記に 今按〈今考えるに〉 神功皇后 九州を征し 三韓を伐つや 住吉大神の陵威を仮て以って行き 遂に熊襲をたいらげ 進んで山門縣に至りて 土蜘蛛 田油津姫を誅鋤せられし由 本紀に見えたり 即ち この時に 当社を創建し その恩頼に報答したまいしにや 凡 延喜式に 某一座と云うものは 後世に及んで 二三神位を付会するもの鮮からず 云々
或る説に云う 当社 古き鰐口に加世久利と書けり 或いは云う この山の名を加世久利山と云うと云々当社は 往古 小社にて候(ソウロウ) 寛永元年 明神の神体を蛇三重奉り巻きつき死んで候(ソウロウ)
時の地頭 樺山美濃守 久高 これを麑府〈鹿児島〉に啓す 時に 茲眼公 田布施に猟して 咽喉の病を患へいふ この事を聞き 廼(スナワチ)祈願の旨ありに その病 御平癒あり
明くる寛永2年 御造営 御再興有り 奉行 吉利下徳 桃山采女勤め
享保6年 吉貴公 御再興
同7年 遷宮有り 吉貴公以来 御家督渥 には 当番頭御代参にて 白銀進納め有り候(ソウロウ)例 祭 2月3日 8月朔日 11月3日 右三度の儀 御代参 地頭代相勤める 郷士先供30人鎚挟箱相持する
祭りの次第
2月3日 庭にて牛舞にて 田作の仕形有り 但牛の形の面 百姓かぶり袴にて舞う 社人白男取麻 上下着用
11月3日前夜 2日晩 7番神楽有り 一番舞士烏帽子素襖 一神師・一内侍・一シンカ舞白支度上下の様なる物面カブリ一人前 一幣舞又 加紫久利を薩州の総廟と唱え来る候(ソウロウ) 向後は 薩州の惣社と唱えるようになった
享保5年子正月 別當寺は加紫久利山 総持院幸善寺 云々」とあり又
三国名勝図会によれば 加紫久利とは この地の「箭筈嶽」を加紫久利山といふ 又 加紫久利ともあり
故に山名を取って社号とす(空に向いて射る筈に 加世久留といへる 箭筈嶽と言える名に縁あり)
文徳実録以下の記録に見えたるは 即ち当社なり社司の記に「社司の記に 往古66州始めて別れし時 住吉大神を一州に一祠づつ建てられ 当社を薩摩国の一祠として 肥後国境 出水郡に建てられしと見る 然れば 当初は 住吉一座なりしを 後世に至って 今の祭神5座の順次に改めて 付会せしなるべし
松齢公 新塞の功にて 出水郡の封を復せられいうや 神領30石を寄附せらる 又 茲眼公 神領30石を増し附らる
其の此までは 芋屋りしに 寛永元年 蛇あり 神体を三重纏いて死す 当時の地頭 樺山美濃守 久高 これを麑府〈鹿児島〉に啓す 時に 茲眼公 田布施に猟して 咽喉の病を患へいふ この事を聞き 廼(スナワチ)祈願の旨ありに その病 御平癒あり
ここに於いて 翌2年命あり 祠殿を改造れ 神戸なども加封ありて 大社とはなれり当社は 一国宗廟の故 元和年中 寺社領減少の時も 本領60石 旧の如くにて改めず 又 始めは薩摩宗廟とも唱えしを 浄国公の時 享保5年に命ありて 改めて 惣社と称ぜしむ
享保6年 浄国公 社殿を造営し 更に宏麗を加え 側に幸善寺を建て別當し 社司 黒木氏と共に 祭祀を管せしめらる
享保9年 宥邦公 神領100石を寄附しいひ 神領総160石に及べり」明治6年5月 縣社に列す
社殿は 本殿 拝殿 神饌所を具へ
境内地 6912坪あり 古樹蒼々として風致静潔なり
例祭日 3月4日
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
加紫久利神社(Kashikuri Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)