実践和學 Cultural Japan heritage

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軽野神社(伊豆市松ケ瀬)〈『延喜式』輕野神社〉

軽野神社(かるのじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』応神天皇 5年10月の条 伊豆国に造船を命じた 長さ十丈(約30m)試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた」とあり これが狩野(カルノ)郷の語源であると言われています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

軽野神社Karuno Shrine)
かるのじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

静岡県伊豆市松ケ瀬79

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》八重事代主命Yae kotoshironushi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代は不詳

軽野神社の文化財

市指定文化財(歴史資料)
「 狩野介(かののすけ)の棟札

御地頭狩野介  御大工福井七郎左衛門尉秀顕
敬白 大旦那飯田中務尉泰長 鍛冶三郎左衛門正信  謹書之
奉修造豆州狩野庄松瀬村笠離大明神御宝殿 天文廿一年子壬霜月十五日
御代官小泉意春
本願檀那祢祗飯田惣左衛門尉泰光
合本願大河十郎左衛門吉廣

延喜式内社である軽野神社に残されている最古の棟札である。
天文21年(1552)当時、伊豆の国は後北条氏の支配にあった。
永禄 2年(1559)の北条役高帳松山衆の項に狩野氏の二名の名があり、松ヶ瀬と小立野、日向を領していたことが記録されている。
この棟札の一行目に「狩野介」と記されているが、これは当神社南方の丘陵地に平安時代後期より本拠を構えてこの地を治めていた豪族、狩野氏に与えられている称号である。「介」の称号は、当時全国で八家しか与えられていなかったものであり、その点ではこの棟札は、狩野氏の勢力の強大さを物語る貴重な資料でもある。
平成元年5月9日 指定  伊豆市教育委員会

現地案内板より

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【由  (history)】

軽野(かるの)神社

鎮座地 天城湯ケ島町松ケ瀬79
御祭神 事代主命(ことしろぬしのみこと)
例祭日 10月19日

由緒
当社は
延喜7年(907)の延喜式神名帳に軽野明神。
伊豆国神階帳(1330頃)正四位 狩野明神とあり、
応神天皇5年(275)伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われる。
この神社は又 笠離明神・笠御明神とも称され 古代この前を通る人々は 神威を恐れて笠を卸し 敬意を表したためと云う。
延喜式神名帳 所載 伊豆国田方郡 二十四座の一社で、明治6年20ヶ村の郷社に列せられた。
境内案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

社殿向かって右側
・丸石が三段に重ねられた石搭
・石の祠が2基

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社殿向かって右側
・境内社が2社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 野神社
[ふ り が な ](かろのの かみのやしろ)
[How to read ]Karono no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社の論社について

伊豆国(izu no kuni) 田方郡(tagata no kori)野神社Karono no kamino yashiro)の論社

軽野神社(伊豆市)

一緒に読む
軽野神社(伊豆市松ケ瀬)〈『延喜式』輕野神社〉

軽野神社(かるのじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』応神天皇 5年10月の条 に「伊豆国に造船を命じた 長さ十丈(約30m)試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた」とあり これが狩野(カルノ)郷の語源であると言われています

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・子神社(伊豆市)

一緒に読む
子神社(伊豆市加殿)

子神社(ねのじんじゃ)は 大正初年(1912)境内より4世紀頃の神獣鏡(仿製鏡)が出土しています 古代からの祭祀場であったのかもしれません『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の所載「伊豆国 田方郡 輕野神社(かろのの かみのやしろ)」の論社でもあります 

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廣瀬神社(伊豆の国市)

論社
廣瀬神社(伊豆の国市)

広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります

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『枯野(カルノ)』と名付けた船について

『日本書紀(nihon shoki)』には
伊豆の山から切り出した巨木を船にした
長さ十丈(約30m) 試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた とあります

どのようなふねであったのか?
おそらく 巨木の丸太をくり抜くような船
もしくは 船の外板そのものが構造になる縫製船(Sewn boat) 今でいう外洋を航海できる「大型のカヌー」のイメージが湧くとされています

カヌーは英語で「Canoe」
世界各地にあり 地域により様々な名で呼ばれて「カヌー」「カノア」「カノ」「ワカ」「ワア」「ヴァカ」などです
「枯野(カルノ)」と呼ばれた船と音は とても近い
第15代応神天皇の時代には 多くの外来文化を取り入れていたとされています その時に現れた 高速船だったのかもしれないとの説もあります

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

修善寺駅から R136号を南下 約5.4km 15分程度
神社の入り口は 少しわかりづらいです 社殿は東側を流れる狩野川を向いていて 山を背にしてR136号に面しています 社号標「野神社」が目印となります

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軽野神社Karuno Shrine)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります
境内は 狩野川に面する高台にあり 社殿の背後に大きな一枚岩の石山があります

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二重の鳥居が建ち その左手に手水舎 石灯篭には天明6年(1786年)と刻まれています

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手水舎の先 というより社殿の正面が 狩野川が流れ 低地となっています
かつては ここに大池があったとも伝わり 造船とも関係するのかとも思ったりします

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の両脇に境内社があり お詣りをします
本殿の向かって右側 すぐ脇には

・丸石が三段に重ねられた石搭
・石の祠が2基

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本殿の向かって左側には
・境内社が2社

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背後の岩山(崩落の為コンクリート養生)が聳えます

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鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)』応神天皇 5年10月の条 に記される伝承

軽野神社(Karuno Shrine)は 第15代 応神天皇 5年10月の条 に 伊豆国に命じて船を造らせたという伝説の地とも 船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われています
その船は 楠(クス)の木で造られ 海上を軽く走ったので枯野(カルノ)船と名付けたと伝わります
平安時代には ここは狩野(カルノ)郷と呼ばれていて 伊豆の山から 狩野川を利用して船材 もしくは丸太船を運んだものとされています

意訳

応神天皇 5年 冬10月

伊豆国(イズノクニ)に 科(フレオホセニテ=命じて)船を造らせました

長さ十丈(約30m)です 船が完成しました
試(タメ)しに海に浮かべました
軽くて浮かび 疾(ハヤ)く行くので 馳(ハシ)るようでした
故に その船を名付けて 枯野(カラノ)といいます

船が軽く速いのに 枯野(カラノ)と名づけるのは 違う
もしかすると 軽野(カルノ)と言ったのを
後の人が訛ったのかもしれません

【原文参照】

『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(nihon shoki)』応神天皇31年8月の条 に記される伝承

伊豆國で造船された「官船(ミヤケノフネ)の枯野(カラノ)」は 老朽化して 燃やされて 神聖な塩を500籠も精製し諸国に分け与えると 諸国は500船を造船して献上した 船は武庫水門(ムコノミナト)に集結したと記しています

又 その時 新羅の調〈貢ぎ物〉の使者の不審火で 多くの船が焼けてしまい 新羅王が恐れ驚き 匠を献上した
又 以前 枯野船(カラノノフネ)を塩の薪にして焼いた日に 燃え残った余りから 琴を造り 良い音がして 天皇が歌を詠まれたことが記されています

【抜粋意訳】

即位31年秋8月

群卿(マヘツノキミタチ)に詔(ミコトノリ)して云われた

「官船(ミヤケノフネ)を枯野(カラノ)と名付けるのは伊豆国(イズノクニ)から献上された船です 今は朽ちて使用に耐えられない しかし久しく官用(オオヤケモノ)となっており その功績は忘れてはいけない どうにかして その船の名前を絶やさずに 後葉(ノチノヨ)に伝えらることはできないものであろうか?」

群卿(マヘツノキミタチ)は詔を受けて 有司(ツカサ)に命じて その船の材(キ)を取り 薪(マキ)として塩を焼かせた それで500籠(カゴ)を得られた それをあまねく諸国に与えました
そして 船を造ることとなり 諸国は一斉に500船を献上しました 全ての船が武庫水門(ムコノミナト)に集まりました

この時 新羅の調〈貢ぎ物〉の使者が武庫に泊まっていた その新羅の停泊していた所から出火して 集まった船に及び 多くの船が焼かれてしまいましたので 新羅人を責めました 新羅の王はそれを聞いて恐れ驚き すぐに良い匠者(タクミ)を献上しました これが猪名部(イナベ)たちの始祖です

以前に 枯野船(カラノノフネ)を塩の薪にして焼いた日に 燃え残った余りがあり その燃えなかった事を怪しく思って献上した
天皇は怪しく思われて(その燃え余りで)琴に造らせた その音は鏗鏘(サヤカ)〈大きく明瞭〉で遠くまで響いた このとき 天皇は歌を歌われた

訶羅怒烏 之褒珥椰枳 之餓阿摩離 虛等珥菟句離 訶枳譬句椰 由羅能斗能 斗那訶能異句離珥 敷例多菟 那豆能紀能 佐椰佐椰

カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリ、コトニツクリ、カキヒクヤ、ユラノトノ、卜ナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ

枯野(カラノ)を 塩に焼き
其(シ)が余(アマリ) 琴に作り
掻(カ)き弾(ヒ)くや 由良(ユラ)の門(ト)の
門中(トナカ)の海石(イクリ)に
振れ立つ なづの木の さやさや

〈歌の意訳〉

「枯野船」を材として塩を焼き その余りを琴に造って 弾いてみると 由良の港の海石に触れて 震えているナズノキのように大きな音がする

【原文参照】

『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

軽野神社Karuno Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊豆国(izu no kuni) 田方郡(tagata no kori)
野神社Karono no kamino yashiro)の論社

軽野神社(伊豆市)

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軽野神社(伊豆市松ケ瀬)〈『延喜式』輕野神社〉

軽野神社(かるのじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』応神天皇 5年10月の条 に「伊豆国に造船を命じた 長さ十丈(約30m)試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた」とあり これが狩野(カルノ)郷の語源であると言われています

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・子神社(伊豆市)

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子神社(伊豆市加殿)

子神社(ねのじんじゃ)は 大正初年(1912)境内より4世紀頃の神獣鏡(仿製鏡)が出土しています 古代からの祭祀場であったのかもしれません『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の所載「伊豆国 田方郡 輕野神社(かろのの かみのやしろ)」の論社でもあります 

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廣瀬神社(伊豆の国市)

論社
廣瀬神社(伊豆の国市)

広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る

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伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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