加茂神社跡(かもじんじゃあと)は 『延喜式神名帳』に『河内国 高安郡 鴨神社』とある式内社ですが 明治40年(1907)「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました その後 大正12年 大竹地区の氏子が 旧社地に小祠を建て 御分神を奉祀して 現在にいたっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
加茂神社跡(kamo jinja ato)
(かもじんじゃあと)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
大阪府八尾市上尾町6丁目21
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
不詳
鎮座地は 旧住所は「三野郷上之島」で 古代には「美努村」と云われます
美努村は
『古事記』の崇神天皇の条に「そこで急使を四方に出して意富多々泥古(オホタタネコ)という人を求めた時に 河内の國の美努村(ミノノムラ)で その人を探し出して奉りました」に記されます
太田田根子命が 発見された地とされています 鴨神社の御祭神を太田田根子命とする説もあります
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
【由 緒 (history)】
不詳
江戸時代には「鴨森大明神」と称していた
【境内社 (Other deities within the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)
・小90座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高安郡 10座(大4座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 鴨神社
[ふ り が な ](かもの かみのやしろ)
[How to read ](kamo no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国高安郡 鴨神社』とある式内社ですが 明治40年「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました
「玉祖大明神縁起」によると
玉祖神社は 三所大明神と呼ばれた神仏習合の神は 次の通りです
・第一 玉祖大明神 十一面観音(男神)当社の御祭神(神立)
・第二 香森大明神 釈迦如来 (女神)都夫久美神社の神(水越)
・第三 鴨森大明神 地蔵菩薩 (男神)鴨神社の神(大竹)
玉祖神社は 水越・大竹など近傍の集落の氏神を包括していたようです
その中の一つ「鴨森大明神」は 大竹の「鴨森」に鎭座する当社「鴨神社」のことです
近世までは 鴨森明神として大竹に鎮座する神社でしたか
江戸時代には 大竹地区の氏神は「三所大明神(玉祖神社)」となっていました
明治5年には 延喜式「鴨神社」として村社に列せらます
大竹地区の氏神でないこともあってからか 明治40年に 高安11カ村の神々と同様に 総氏神の玉祖神社に合祀されました
旧大竹集落からも 西へ離れたこの地ですが 縄文時代晩期~近世に至る複合遺跡「大竹西遺跡」「太田川遺跡」が広がる地域です
遺跡の調査書によれば「縄文時代晩期から 弥生時代前期では 大勢としては水稲耕作の深化に伴う集落の拡大傾向に符合して 平野部を中心とした集落の成立が顕在化している」とあります
御祭神は不詳ですが 縄文の香りのする御祭神なのかもしれません
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
河内山本駅から 約2.6km 車8分程度
賀茂神社跡は 非常にわかりにくい場所にあります
畑の中に鎮守の守のように 木々の生えているところに境内があります
わかりにくい理由には 一般に神社は小高い地にあり見つけやすいのですが こちらは一段低くなった窪地のような境内地になっていました
加茂神社跡(kamo jinja ato)に到着
周囲の地形より2mほど低く 入口は南より一か所 木々の脇に草に覆われた下りの石段があります 下り参道の様であり 異彩を放っています
境内には ここを下りていきます
湿地帯なのか コンクリート製の参道は 浮橋のように境内地より かなり高く敷かれています
その先に 小島のように高く盛られた 社殿の跡らしき檀があります
注連柱が立つ 拝所(旧鎮座地)にすすみます
社殿の跡の石壇の上には 石碑が建ち『式内 賀茂神社趾 大竹氏子中』とあります
社殿の跡の石壇のすぐ左脇に 小さな祠が建ちます お詣りをします
東向きの覆屋が建ち その中に流造の小祠があります
祠の屋根の上に「鴨神社」と書かれた板が置かれていました
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
再度 社殿の跡の石壇に一礼して 境内を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観二年(860)11月に記される伝承
「子宮神(コミヤノカミ)」として「御祖神(ミオヤノカミ)」と一緒に神階従五位下を授かっています
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』の御祖神・子宮神の記載順が『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の御祖神社・鴨神社の順と同じと見て「子宮神」を「鴨神社」とする見方があります
要約
「 11月丁朔旦 冬至 河内の国「豊稲賣神」「御祖神(ミオヤノカミ)」「子宮神(コミヤノカミ)」共に神階 従五位下を授ける 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国高安郡 鴨神社』とある式内社 加茂神社跡(kamo jinja ato)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
合祀先の玉祖神社(八尾市)の記事もご覧ください
玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 和銅3年(710)周防国一之宮「玉祖神社」から分霊を勧請したもので 御祭神は櫛明玉命です 通称「高安明神」とも呼ばれていて 高安11ヶ村の氏神です 鎮座地は 生駒・信貴連山の中腹の高台にあり 社頭にある「大楠」から一望する 河内平野は絶景です
玉祖神社(八尾市神立)
河内国 式内社 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)について に戻る
河内国(かは〈わ〉ちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 河内国の 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)の神社のことです
河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)