実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

上社(伊勢市辻久留)

上社かみのやしろは むかし この社地 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

上社Kami no yashiro

通称名(Common name)

牛頭(ごず)さん

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市辻久留 1-13-6

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》久久能智之神(くくのちのかみ)
   大山祇神(おほやまつみのかみ)
   埴安神(はにやすのかみ)
   稲荷神(いなりのかみ)

《合》宇迦之御魂神,天忍漁人命,誉田別尊,菅原道真,打懸明神 


本社 上社は〈志等美神社・大河内神社の旧跡とも
合祀 並社〔元八王子社〕は〈打懸神社の旧跡とも〉
合祀 境内社 山神社は〈大河内神社の旧跡とも

Please do not reproduce without prior permission.

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

上社延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧跡
上社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(志等美神社・大河内神社)の旧跡
上社〈豊受大神宮(外宮)末社〉(打懸神社)の旧跡

【創  (Beginning of history)】

上社かみのやしろ

所 在 伊勢市辻久留一丁目十三番六号

主祭神 久々能智神(くくのちのかみ)・大山祇神(おおやまつみのかみ)
    ほかに宇迦之御魂神・菅原道真公らを合祀
    山田産土神八社の一つ

例  祭 七月十五日
特殊神事 一月十五日御頭神事
宝  物 獅子頭一個 太刀一口

 むかし、当社地は、外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています。
 しかし、戦国時代、久しく殿舎の造替もされず荒れはてていたのを、このあたりの住民がこの地の神(産土神 うぶすなかみ)としてまつって今日に至りました。

 その故か主祭神は右神社のご祭神と同じです。しかし当社は、古く八王子または牛頭社と称され、現に牛頭(ごず)さんと呼ばれています。
 宮川堤防を守護している神も当社のご祭神です。

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

由緒

 当社地は住古 豊受大神宮の摂社 志等美(しとみ)神社、大河内(おおかうち)神社、末社 打懸(うちかけ)神社が鎮座していた所であるが、戦国時代に久しく殿社の造営もなく、廃退ていた所を、後世に至って付近の住民が、その跡にの産土神として崇めたものらしい久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神を奉祀せりと伝えられています。
 古記に、境内社 並社は打懸神社の旧地で、同明神を奉祀し、山神社は大河内神社の旧地で大山祗神を奉祀したとあるから、恐らく当社地は往古の志等美神社の旧跡であろうと思われている。
尚、現在、外宮摂社志等美神社以下3社は当社に隣接して鎮座している。

 社号に関しては、永正16年(1519)9月の畠券には「二俣社」、大永6年(1526)12月の田券には「二俣八王子社」、天文6年(1537)11月の畠券には「牛頭社」と称している。そして、明治3年10月に「上ノ社」と改称し、今日に至っている。
また、合祀に関しては、明治42年3月7日に、浦口町字堤世古鎮座の稲荷社(宇迦之御魂神)、同町字堤世古五軒家鎮座の土井稲荷社(同)、同町字山名鎮座の大杉稲荷(同)、二俣町字田原鎮座の田村社(神名不詳)、同町字会所世古鎮座の二俣菅原社(菅原道真)を、同八日には、境内社稲荷社(宇迦之御魂神)、同山神社(大山祗神)、中島町字小川町鎮座の浅間社(神名不詳)、同町字京町鎮座の八幡社(譽田別尊)、同町字中島鎮座の掃守社(天忍漁人命)、同町字風呂屋ノ世古鎮座の小川社(神名不詳)をそれぞれ境内社並社に合祀し、さらに同12日並社を本社に合祀している。
また、戦後は、昭和54年7月11日に徳川山鎮座の山神(神名不詳)を合祀し、昭和59年2月に上天神を、同9月に櫛玉宮を境内に奉祀している。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・上社稲荷大明神《主》宇迦之御魂神

Please do not reproduce without prior permission.

・上天神《主》菅原道真公

Please do not reproduce without prior permission.

・山ノ神

Please do not reproduce without prior permission.

・両宮遥拝所

Please do not reproduce without prior permission.

・牛頭夫婦楠

Please do not reproduce without prior permission.

・櫛玉宮《主》伊勢津彦命,伊勢津姫命〈平成28年10月 本殿に合祀〉

同じ境内地に祀られる 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

続きを見る

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

・豊受神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川内社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

上社(伊勢市辻久留)は 二つの式内社〈①志等美神社②大河内神社〉の旧跡です

志等美神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 志等美神社
[ふ り が な ]しとみの かみのやしろ
[Old Shrine name]Shitomi no kaminoyashiro

②大河内神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大川内神社
[ふ り が な ](おほきはちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokahachi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

『宇治山田市史』下巻〈昭和4年〉に記される内容

上社(かみのやしろ)は 往古に 外宮攝社 志等美(しとみ)神社・大河内(おうがうち)神社・末社 打懸(うちかけ)神社が 鎮座していた所であると記し
現在 外宮攝社 志等美神社外二社が 現在の上社 入口の右方に鎭座しているのは 明治以後 種々の考証の結果 明治十六年(1883)に 當社の域内を舊地と定めて再興されたものであると記しています

【抜粋意訳】

第十一節 村社 上社

上社(かみのやしろ)

所在 辻久留町字辻久留

祭神  久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神
   以上古來奉祀する所

宇迦之御魂神四座、菅原道眞、天忍漁人(あめのおしあま)命、譽田別尊、不詳二座、以上明治四十二年三月七八日合祀 

 當社地は往古、外宮攝社 志等美(しとみ)神社、大河内(おうがうち)神社、末社 打懸(うちかけ)神社の鎭坐ありし所であるが、戰國時代久しく殿舎の造営もなくして廃退となって居た所を、後世に至りて附近の住民が産土神と崇めたものらしい。古記に境内社 並社は打懸神社の舊地で同明神を奉祀し、同神社は大河内神社の舊地で大山祇神を奉祀したとあるから恐らく當社地は昔の志等美神社の舊跡であらうと思はるる。

社名は永正十六年〔二一七九〕九月の畠券には二俣社と稱し、大永六年〔二一八六〕十二月の田券には二俣八王子社とあり、天文六年〔二一九七〕十一月の畠券には牛頭社としてある。

 然るに明治三年十月、神佛混淆之儀を止め佛号の神社名は改むべき由の布令によって、同月上ノ社と改稱し、同四年十一月二日郷社に列せられたが同五年十月村社格に更められ、同三十九年十二月神饌幣帛料供進社に指定せられた。又同四十一年四月二十一日許可を得て、同四十二年三月七日には浦口町無格社稻荷社・同土井稻荷社・同大杉稻荷社、二俣町無格社二俣菅原社・同田村社を、同八日には、境内社稻荷社・同山神社、中島町無格社小川社・同稻荷社・同掃守社・同八幡社・同浅間社を並社に合祀し、同月十日、再び並社を本社に合祀する許可を受け、同月十二日に合祀した、

前述の外宮攝社 志等美神社外二社は、現時の上社の入口の右方に鎭座あるが、これは明治十六年の遷移に係る。その以前三社荒廃の後、寬文三年 再興の際には舊社地不明の故を以て假に岩戸山に建立せられ、元祿五年には辻久留町の南方山上に新地を選んで移轉せられたが、明治以後、種々考証の結果、同十六年に至り當社域内を以て舊地と定められ、爰に復古せられたのである
・・・・
・・・・

【原文参照】

宇治山田市 編『宇治山田市史』下巻,宇治山田市,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1266086

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

続きを見る

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道37号経由で西へ約2.7km 車7分程度

境内の東南に入り口があります

上社(伊勢市辻久留)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして一の鳥居をくぐると 社号標があり゛上社゛と刻字

Please do not reproduce without prior permission.

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
向かって 右には

豊受大神宮(外宮)の攝社・末社が祀られ

手前から

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

続きを見る

その奥に同じ玉垣内に攝社2社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

続きを見る

左の参道には 狛犬が座し 鳥居が建てられています

こちらが上社(伊勢市辻久留)への参道です 一礼をして鳥居をくぐり参道を進みます

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は 南向き 拝殿の前に鳥居か建ちます

Please do not reproduce without prior permission.

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿内には 昭和時代の絵葉書の写真や絵が飾られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 志等美神社について 所在は 舊廃亡して 神宮西宮川邊に在す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

志等美神社

志等美は假字也

○祭神 木神神名秘書

趾廃亡す、今神宮西宮川邊に在す、神名略記

〇式四、伊勢大神宮〕度會宮所十六座の第七に載す、
神祇本源云、在沼木郷山幡村、東大河内、中志等美、西打懸、志等美、打懸同玉垣、」
神名略記云、山幡村今則亡、故寛文以社地難知、假建之宮山中、
神宮雑例集云、外宮遠四至、西限山幡淵、以之考則知、山幡村神宮西宮川内、且處に畠券有山幡者、而元禄遷此社于神宮西宮川邊山幡畠上山、然趾猶未著、同略記に、祭鹿葦津姫命木神  志等美葦津女之略語、〕と云へり、

連胤按るに、鹿葦津姫命とも差定めがたくや、神名秘書に、蔀野社木神、清野社草神とあれど、御鎮座本紀、清野社、屋船命、草木霊、とみるを見れば混らはしけれど、は木神なる事明か也、然れば蔀野社こそ草神にて、草野姫命なるべけれ、猶考ふべし、

神位
神祇本源云、大治日、奉授從四位下、爲防河堤守護也

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式内社 大川内神社について 所在は 志等美社地内に在す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています

【抜粋意訳】

大川内神社

大川内は 於保加布知と訓べし

〇祭神 大山祇神、神名秘書

○志等美社地内に在す、神名略記

○式四、伊勢大神宮、度會宮所十六座の第八に載す、

神位
神祇本源云、大治 奉授從四位下、為防河堤守護也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式外社 打懸神社について 所在は沼木郷 志等美社西に在す〈現 打懸神社〈豊受⼤神宮(外宮)末社〉〉と記しています

 【抜粋意訳】

式外社 大神宮別宮摂社 打懸神社

或 撫縣社と稱す、〔神祇本源〕

〇祭神 詳ならず

〇沼木郷 志等美社西に在す、神名略記

神位
神祇本源云、大治 正五位下 打懸名神、奉授從四位下、為防河堤守護云々

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 志等美神社について 所在は 昔 沼木郷山幡村にあり舊は不明 近世に神宮宮川の邊 山幡畠上山に遷す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

式内社 内神社について 所在は 志等美社の東にあり〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています

【抜粋意訳】

志等美(シトミノ)神社

又 蔀野井庭神社と云、〔延暦儀式帳、〕
昔 沼木郷山幡村にあり〔神祇本源、神名秘書、〕
後 舊址詳ならず、近世 之を神宮宮川の邊 山幡畠上山に遷す、〔神境紀談、神名略記、〕

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、〔延喜式〕
崇徳天皇 大治三年六月癸亥、正五位下 志等美明神に従四位下を授く、河堤守護の為也、〔神祇本源、〕
凡己上四座、及 山末、大河内、並 度會宮所攝十六座の神也、〔延喜式〕

(オホカハチノ)神社

舊地詳ならず、今 志等美社の東にあり、〔神境紀談、神名帳考証、神名略記、〕

大山祇神を祭る、〔神名秘書、〕

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、〔延喜式〕
崇徳天皇 大治三年六月癸亥、正五位下 名神に従四位下を授く、〔神祇本源、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 志等美神社について 所在は宇治山田市大字辻久留町〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉 『神社覈録』に舊は不明との説もあるが 度會縣注進狀には 旧跡は度會郡山田辻久留町上社〈現 上社(伊勢市辻久留)〉と記されている と記しています

式内社 大川内神社について 所在は 志等美社東〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています
旧跡については 志等美神社の項を参照すべし と記しています

【抜粋意訳】

志等美神社

祭神
 今按 儀式帳に蔀野井庭社とある是なり

祭日 六月九月十二月並十八日
社格 外宮所攝十五所之ー(外宮攝社 )

所在 三重縣沼木郷山田上三郷領也婆古山(宇治山田市大字辻久留町)

今按 覈録に寬文三年宮山岩戸坂に造立し 元祿五年今の地に遷せるなれど 舊地は上郷の産神社也と云り 度會縣注進狀に度會郡山田辻久留町上社あり 元牛頭社と云 こは志等美神社 大河内神社 打懸神社 以上三社の舊地と云傳ふ 何頃よりか社號を牛頭社と稱す俚言にがふづと唱ふ 即かふちの訛言にして大河内社なる證とすべし 此三社ヲ神名秘書 神祇本源に在に沼木郷山幡村とのす 山幡村は今亡と雖 牛頭社邊より南へかけ 山上山下廣き土地を云か 雑例集延長四年神祇官符に西限に栗尾岡  山幡淵とあり 此栗尾岡は 今久留山と唱ふ 山幡の淵は上社の北に掘の如き川筋の跡存せりと云る者 即檢錄に云る地と同處也姑附て考に備ふ

大川内神社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日
社格 外宮所攝十五所之ー(外宮攝社 )

所在 三重縣沼木郷山田上三郷領也婆古山 志等美社東(宇治山田市大字辻久留町 志等美神社域内) 

今按 覈録に寬文三年宮山岩戸坂に造立し 元祿五年今の地に遷す 舊地は上郷の産神なり 其社をガウヅ社と呼ぶはの略轉なるべしと云り なほ上の志等美神社の條に云るを合せ考ふべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

上社(伊勢市辻久留) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

続きを見る

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています