嚴島神社(いつくしまじんじゃ)の境内・境外の要所 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を記載しています
〈本社〉嚴島神社
・嚴島神社(廿日市市)安芸国一之宮
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は 推古天皇元年(593)佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって創建された 延喜式内名神大社(927)安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(いつきしまの かみのやしろ)です 平成八年(1996)世界文化遺産に登録された社殿群〈国宝及び重要文化財に指定〉は 仁安三年(1168)太政大臣 平清盛公によって造営された寝殿造りの様式が礎となっています
嚴島神社(廿日市市宮島町)〈安芸国一之宮〉
〈参拝順路〉
・参道入口
・御笠浜(みかさはま)の石鳥居
・大鳥居
・神馬舎
・〈入口〉注連石
〈境内案内図〉
・社殿入口
・東廻廊入口
・祓所(はらところ)
・〈摂社〉客神社 (まろうどじんじゃ)
客(まろうど)神社
御祭神
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
天穂日命(あめのほひのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野櫲樟日命(くまのんすびのみこと)由緒
御創建は御本社と同時で 往古より嚴島両宮と稱へ 祭祀等総て御本社と同様にして当社を先祭する現地案内板より
・朝座屋〈写真左〉・客神社 本殿〈写真右〉
朝座屋は 昔 社家(しゃけ)供僧(ぐそう)・内侍(ないし)が祭典・会合の時に集まった処
・廻廊
・鏡の池 (かがみのいけ)
・揚水橋(あげみずばし)・卒塔婆石(そとばいし)
揚水橋は「桟の間」という中央に出っ張りがあり ここから潮を汲み上げる儀式があったと云う
・祓殿(はらいでん)
・御本社(ごほんしゃ)・拝殿 (はいでん)
・高舞台(たかぶたい)
・平舞台(ひらぶたい)・狛犬(こまいぬ)
高舞台に対し平らなところを平舞台
・〈摂社〉左門 客神社(ひだりかどまろうどじんじゃ)《主》豊磐窓神
・〈摂社〉右門 客神社(みぎかどまろうどじんじゃ) 《主》櫛磐窓神
・右楽房(うがくぼう)・左楽房(さがくぼう)
左舞(さまい)〈インド・唐から伝わった舞〉を舞うときは左楽房で奏す
右舞(うまい)〈満州・朝鮮から伝わった舞〉を舞うときは右楽房で奏す
・〈摂社〉大国神社(おおくにじんじゃ)
重要文化財 大国(おおくに)神社
御祭神 大国主神(おおくにぬしのみこと)
相殿神 保食神(うけもちのかみ)例祭日 十二月初子日(はつねのひ)
御由緒 御鎮座の年月不祥
天文六年(1537)
「房顕覚書」に大黒と記述があるのが、現在の大国神社と考えられる
かつてはお供え物をここに仮に安置し御本社に運ばれていた現地案内板より
・〈摂社〉天神社(てんじんしゃ)
重要文化財 天神社(てんじんしゃ)
御祭神 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
例祭日 二月二十五日
御由緒 弘治二年(1556)
毛利隆元によって「天満宮」として建立された
かつては連歌堂とも呼ばれ連歌興行が行われていた現地案内板より
・長橋(ながばし)
ご本社裏の御供所(ごくしょ)から神饌が運ばれるときに使われていた
・反橋(そりばし)〈勅使橋(ちょくしばし)・たいこばし〉
勅使橋とも云い 勅使〈天皇からの使者〉のみ この橋を渡ることができた
・奉献酒(ほうけんしゅ)
・能舞台(のうぶたい)
永禄11年(1568)毛利氏が 観世太夫を招き 仮の能舞台を海中に設け 能を奉納したのが始め
・西廻廊出口
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・嚴島神社〈本社〉・御山神社(みやまじんじゃ)〈弥山の奥宮〉・地御前神社〈外宮〉は南北の直線状に位置している
〈外宮〉
・地御前神社 (じごぜんじんじゃ)
《主》市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命,天照大御神,国常立尊,素盞嗚尊
《配》天穂日命,活津彦根命,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命,天津彦根命,熊野櫲樟日命
・地御前神社(廿日市市地御前)
地御前神社(じごぜんじんじゃ)は 飛烏時代(593年)佐伯鞍職によって宮島を遥拝する対岸に創建されたと傳 地御前は「本土の地にある神の御前」「ヂノゴゼン」と云い〈神の島として崇められ かつて人があがる事は許されなかった〉厳島を沖の御前「オキノゴゼン」と云った 延喜式内社 安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(名神大)(いつきしまの かみのやしろ)の祭祀が行われた処とも傳
地御前神社(廿日市市地御前)
〈奥宮〉
・御山神社 (みやまじんじゃ)〈神体とする弥山の山頂〉
《主》市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命
《配》速玉男命,伊弉冊命,菊理姫命
御山神社は、厳島神社の奥宮で、本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が夫々一柱ずつ祀られています。
いずれも一間社流造て屋根は柿葺、丹生の御社殿で、昔から「さんきさん」として崇敬の篤いお社です現地案内板より
〈境外・摂社・末社など〉
・〈境外摂社〉大元神社 (おおもとじんじゃ)〈本社よりも古くから鎮座する地主神〉
重要文化財 大元(おおもと)神社
御祭神 国常立尊(くにとこたちのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
相殿神 佐伯鞍職(さえきのくらもと)例祭日 一月二十日(百手祭)
御由緒 御鎮座の年月不祥
仁安三年(1168)
「伊都岐島神社 神主 佐伯景弘解」に大伴社と記述があるのが 現在の大元神社と考えられる 現在の本殿は大永三年(1523)に再建されたものである現地立札より
※次の神々が合祀
《合》大国主神,蛭子神,応神天皇,猿田彦神,興津彦神,興津姫神
・牛石(うしいし)
古来より宮島の名石の一つに数えられる。形が牛に似るところからこう称される。
立札より
毛利元就ゆかりの地 厳島合戦跡 大元浦
1554年(天文二十三年)、厳島合戦の前哨戦ともいえる「折敷畑の戦い』(廿日市市)に敗れた陶晴賢は、毛利元就と厳島で雌雄を決するため、翌年(弘治元年)九月二日、岩国から二万余の大軍を率い、この大元浦に上陸した。
晴賢は、多宝塔付近から五重塔のある塔の岡に本陣を移し、宮尾城を攻撃するなどして元 就を迎え討とうとした。
しかし、十月一日早朝、元就の奇襲を受けた陶軍は壊滅状態に陥り、再び大元浦へ戻り敗走した。
晴賢も三浦房清らわずかな手勢とともに大元浦に逃れ、本拠地の山口で再起を図ろうと島からの脱出を試みるが、乗る船もなくさらに西方へ逃れ、もはやこれまでと山中で自刃した。
現地看板より
・〈境外摂社〉長濱神社(ながはまじんじや)
長濱神社
嚴島神社摂社
御祭神 興津彦神 興津姫神
相 殿 所翁(ところのおきな)由 緒
御鎮座の年月は不祥です 御本社 管絃祭の時 この神社の前で雅楽が演奏されます 漁業者の信仰が篤い神社です例 祭 十一月二十日
現地案内板より
・〈境外末社〉荒胡子神社(あらえびすじんじゃ)
重要文化財 荒胡子(あらえびす)神社
御祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
事代主神(ことしろぬしのかみ)例祭日 十一月二十日
御由緒 御鎮座の年月不祥 現在の本殿は喜吉元年(1441)に造営されたものである
現地立札より
・〈境外摂社〉三翁神社(さんのうじんじゃ)
三翁(さんのう)神社
御祭神
中央
佐伯鞍職(さえきのくらもと)安徳天皇(あんとくてんのう)
所翁(ところのおきな)二位尼(にいのあま)
岩木翁(いわきのおきな)大綿津見命(おおわたつみのみこと)左殿(向って右)
大己貴神(おおなむちのかみ)猿田彦神(さるたひこのかみ)
右殿(向かって左)
御子内侍(みこないし)竹林内侍(たけはやしないし)
徳寿内侍(とくじゅないし)各祖神(かくそしん)例祭日 十月二十三日
御由緒 御鎮座の年月不祥 治承元年(1176)「伊都岐島神社 千僧供養日記」に比叡御社壇と考えられる 明治以前は山王社と称されていた
現地案内板より
・〈境外末社〉祖霊社(それいしゃ)
《主》信徒祖神
・五重塔(ごじゅうのとう)
応永14年(1407)建立 本尊の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩は 明治の神仏分離で大願寺へ移された
・〈境外末社〉豊國神社(ほうこくじんじゃ)〈千畳閣(せんじょうかく)〉
《主》豊臣秀吉公,加藤清正公
千畳閣
此の建物は天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉公が 安国寺恵瓊に命じて建立したもので 俗に千畳閣といいます 桃山時代の豪放なもので 重要文化財であります 秀吉公の気風をよく現した建物ですが 途中で秀吉公が逝去した為未完成のものです この千畳閣は元来大経堂(読経所)として建てられたもので 仏像を安置してありました 明治初年神仏分離の際 仏像は大願寺に移し豊臣秀吉公を祀って豊国神社と称し 毎年九月十八日に例祭がおこなわれます
現地案内板より
・塔の岡(とうのおか)
塔(とう)の岡
五重の塔があるのでこの丘を塔の岡という。毛利元就(もうりもとなり)が陶晴賢(すえはるかた)を襲撃した厳島合戦の古戦場である。
弘治元年(1555)9月21日晴賢は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、毛利方の宮尾城(みやおじょう)を攻撃した。
元就は主力をもって、同30日夜暴風雨をついて包ヶ浦に上陸し、翌朝未明 博奕尾(ばくちお)を越えて襲い掛かり陶軍は不意をつかれて大敗した。この合戦で内海地域の制海権は毛利の手に移った。現地立札より
・宮地奉行所跡
・〈境外末社〉金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)
金刀比羅(ことひら)神社
御祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)
佐伯鞍職(さえきのくらもと)例祭日 十一月十日
御由緒 御鎮座の年月不祥 大正四年に留守口恵比須神社を昭和三十八年に大願寺鎮守住吉神社をそれぞれ合祀した
現地立札より
・嚴島寶物殿
〈拝観時間 午前8時から午後5時〉
・大願寺(だいがんじ)
大願寺(だいがんじ)
真言宗に属し、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の構造や復旧に当たった。また、鍛冶・番匠(大工)・檜皮師などの職人団を率い、筑前筥崎八幡宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時厳島は内海の要港で、ここに集まる京、堺などの貿易商人らとの接触も深い。尊海が大蔵経を求めて朝鮮に渡った時の見聞を、記した紙本墨書尊海渡海日記(国指定重要文化財)、銅製朝鮮鐘(重要美術品)、木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像(以上国指定重要文化財)、その他多数の中世古文書を所蔵する。
現地立札より
・厳島 龍神
・〈境外末社〉清盛神社(きよもりじんじゃ)
清盛(きよもり)神社
御祭神 平清盛公(たいらのきよもりこう)
例祭日 三月二十日
御由緒 平清盛公没後七七〇年を期にその功績を顕彰し 昭和二十九年 三翁神社から御祭神を遷座創建された
現地立札より
・〈境外末社〉瀧宮神社(たきのみやじんじゃ)
瀧宮(たきのみや)神社
御祭神 湍津姫命(たきつひめのみこと)
相殿神 大歳神(おおとしのかみ)素盞嗚尊(すさのおのみこと)例祭日 二月一日
御由緒 御鎮座の年月不祥 治承四年(1180)高倉上皇が平清盛らと嚴島参詣でした折 三月二十七日夕刻に この瀧宮神社を参詣したと「高倉院嚴島御幸記」に記されている 平成十七年九月六日台風十四号の土石流により本殿が流出し 現在の本殿は平成二十四年四月に再建されたものである
現地立札より
・〈境外末社〉粟島神社(あわしまじんじゃ)
粟島神社
祭 神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
例祭日 五月三日
少彦名命は大国主命(大黒さま)に協力して国土開発、拓殖興業、社会福祉等に大きな功績を遺された神様です。
商業、産業、醸造、医薬等の守護神として篤い崇敬を受けておられます。
殊に病気平癒、安産、家内安全、福徳開運の霊験あらたかな神様として女性の方々の信仰を受けておられます。現地案内板より
・〈厳島神社の神職家〉林家住宅(上卿(しょうけい)屋敷)
林家住宅(上卿(しょうけい)屋敷)
林家は古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差遣される奉幣使(ほうへいし)の代参をつとめて上卿と呼ばれていた。
現在の建物は元禄時代の建築で、全国的にも数少ない社家の遣例の一つで、国の重要文化財に指定されている。
表門は小さな薬医門(やくいもん)で、主屋正面の妻には豕叉首(いのこさす)に梅鉢懸魚(うめばちけぎょ)をつけ、南側正面の千鳥破風のついた玄関には式台をもうけ、木連格子(きつれごうし)、かぶら懸魚を備えて社家らしい風格がある。
屋敷や石垣・庭園などもよく保存されている。
現地立札より
・棚守屋敷跡(たなもりやしきあと)
江戸時代、厳島神社は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の社として信仰を集め、その管理・運営は棚守(たなもり)・座主(ざす)・大願寺(だいがんじ)によって行われていた。棚守は、神職を代表して神事を行い、自らも舞楽を舞っていた。戦国時代の棚守房顕(ふさあき)は、大内義孝や毛利元就の御師(おし)を務め、厳島神社の再興に尽力し、厳島神社 高舞台(たかぶたい)の擬宝珠(ぎぼし)には「棚守左近将監房顕 天文15年(1546年)」の銘文かある。
この屋敷は、広島藩主などの来島時の宿泊所となり、邸内には能舞台もあったといわれる。
また、ここから大聖院にかけての石垣の上には、祝師(ものもうし)・上卿(しょうけい)などの神職や、仏事を行った社僧・東和泉坊・執行坊・修善院・多聞坊などの寺院が並んでいた。現地立札より
・宝蔵
宝蔵
- 重要文化財
一、室町時代中期建立 校倉造(あぜくらづくり) 五角形に工作した材(校子あぜこ)を せいろう組(木を横に組み合す)にした構造です現地立札より
・紅葉橋
・〈境外末社〉四宮神社(しのみやじんじゃ)
《主》祭神未詳
《合》加具土神〈大正4年南町の境外末社秋葉神社を合祀〉
・〈境外末社〉道祖神社〈幸神社(さいわいじんじゃ)〉
道祖神社〈通称 幸神社〉
嚴島神社 末社
御祭神 猿田彦神
例 祭 旧暦八月十五日(中秋)御利益 旅の安全 夫婦和合 火難・水難避除け
社殿の背後に 陰陽石があり、道祖の御神体といわれ 例祭日には陰陽石に参拝ができます
神社の前の道は、東町から嚴島神社に参詣する道筋だったので、この辺りは島内でも屈指の賑わいを見せていました現地立札より
・誓真釣井(十ヶ所のうち)
・名所 金鳥居の辻(かなとりいのつじ)
名所 金鳥居の辻(かなとりいのつじ)
ここ塔の岡の下を云う。幸町(さいわいまち)附近を総称せる地名ともなれり。
長寛年中(1163年~1165年)建立と云ふ、鐵鳥居一基高さ五丈(約15m)
鉄にて廻八尺(約2.4m)余、神前より三町(約327m)余
御王前(ごおうまえ)と云うふ所にあり、則ち鉄(かな)鳥居の町とも云ふなり。
往昔 辻君(つじぎみ)の住み居たる處(ところ)、明治初年までは柱のみ幾分か遺(のこ)れり。
また一説に足利尊氏の建つる所にして、未だ功を竣(あ)えずして去りぬと伝えらる。何れか其の證(あかし)を得ず。
鉄鳥居に参れば護王御社(ごおうおんしゃ)(幸神社)左の方にあり
此の下の町を護(午)王のまへ町とも云ふ。
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を祀り奉りて道祖神(どうそしん)とも申すなり。
伊勢の地主神(じすいしん)であり、交通の安全、邪霊を祓う導きの神 金精(こんせい)様にして縁結び、子宝にも霊験ありとされる。現地立札より
・〈境外末社〉北之神社《主》猿田彦神
北之神社
嚴島神社の御末社
御祭神 猿田彦神
由 緒 御鎮座の年月不祥
例 祭 五月二十三日現地立札より
・〈境外末社〉今伊勢神社(いまいせじんじゃ)
〈要害山の頂上付近に鎮座〉
今伊勢神社
祭神
天照皇大神 八幡大神 春日大神
素盞嗚尊 猿田彦神
興津彦命 興津姫命
相殿
大職冠藤原鎌足霊神例祭 十一月一日
由緒
昔は石段下の存光寺で例祭の十一月一日に湯立神楽が勇壮に舞われていましたが 現在は祭典のみおこなっています現地立札より
〈七浦神社と御島廻式〉゛安芸の宮島まはれば七里 浦は七浦七恵比須゛
七浦七恵比須及び島の浦々にお祀りしている神社が七浦神社
嚴島は 神聖な島 嚴島大神が御鎮座になられる時 島を一周されて宮地を求められた事に由来
嚴島神社の参拝者は それに神習い 厳重な潔斎をする必要があったので 七浦神社を廻る神事が御島廻式と云う
①〈杉之浦 すぎのうら〉・杉之浦神社《主》底津少童命
②〈包ケ浦 つつみがうら〉神社(つつみがうらじんじゃ)
《主》塩土翁
③〈鷹巣浦 たかのすうら〉・鷹之巣浦神社《主》底筒男命
④〈腰細浦 こしぼそうら〉・腰少浦神社《主》中津少童命
⑤〈青海苔浦 あおのりうら〉・青海苔浦神社《主》中筒男命
⑥〈養父崎 やぶさき〉養父崎神社(やぶさきじんじゃ)
《主》霊鴉神〈御烏〉
⑦〈山白浜 やましろはま〉・山白浜神社《主》表津少童命
⑧〈須屋浦 すやうら〉・須屋浦神社《主》表筒男命
㊈〈御床 みとこ〉・御床神社《主》市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命
嚴島神社(宮島)・摂社・末社に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・嚴島神社(廿日市市)安芸国一之宮
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は 推古天皇元年(593)佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって創建された 延喜式内名神大社(927)安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(いつきしまの かみのやしろ)です 平成八年(1996)世界文化遺産に登録された社殿群〈国宝及び重要文化財に指定〉は 仁安三年(1168)太政大臣 平清盛公によって造営された寝殿造りの様式が礎となっています
嚴島神社(廿日市市宮島町)〈安芸国一之宮〉